Re:Tour2000



4.15~6.13
 勤めていた会社を退職し3月末でフリー(独立ではなく単なる失業者)となった。3月中旬には有給を消化しながら念願の屋久島、縄文杉を見ることが出来た。未到達の日本最南端「波照間島」(はてるまじま)、最西端「与那国島」(よなぐにじま)に行くにはこの時しかない・・・。
 これをさかのぼること9年前、日本の最北端「宗谷岬」と、最東端根室「納沙布岬」をコンプリート。旅人として南を目指すのは当然だが、北海道との大きな違いはやはり海。津軽海峡を一度だけ渡ればよかった北海道に比べ、波照間と与那国へは何度もフェリーに乗る必要がある。もちろん飛行機を使えば短時間で行く事は可能だが、その選択肢は微塵もなかった。
「バイクで行ってこそ意味がある。」

Preparation 4.14 Fri
出発前日マシン整備
 前日、整備を開始。マシンは'92 RMX250S。中古で購入してから6年が経過していたがまだまだ元気。フロント・リヤのブレーキパッド交換。ブレーキフールド交換。フロントのブレーキ ランプスイッチ交換。ミッションオイル交換。リアキャリア装着。作業中あろうことか左手薬指をハンマーで強打し、近所の整形外科へ。レントゲン撮影の結果、骨には異常なし。洒落にならん。
 何度も地図を見た。与那国島には特別な思い入れがあった。小学生の頃の地図帳。沖縄本島に戻るより台湾のほうが近いという最果て感は宗谷岬よりも強かった。
「いつか行ってみたい!」ついにこの時がきたのだ。
 気がかりな事が一つ。少し前の健康診断で右肺に小さな影があり、3ヵ月後に再度CTを撮るということになっていた。この猶予期間はもちろん急を要するものではなく、念のための検査だという事は理解できたが、3ヵ月後に大きくなっている可能性もゼロではないという事か?
「命がけの最後の旅?」
 少し大げさだが決して小さくはない不安を抱えながら、眠れない遠足の前夜は過ぎていった。


Day1 4.15 Sat
出発〜佐賀市内

 朝から雨が降っていて、様子を見ているうちにお昼になってしまう。何とか雨が止み走り出したのは13:00。今にも降りそうな空模様だったが、以後レインウェアを着ることはなかった。
 防府と直方での給油を除きノンストップで佐賀市内に到着したのが20:00。テントサイト探索を諦め佐賀ロイヤルホテルにチェックインした。このホテルを今現在検索してみたところヒットしない。確か佐賀駅北口にあり、南口まで出てラーメンを食べたはず。
 移動のみだったこの日一番の記憶は冷水峠での凍える寒さだった。もちろんクネクネの旧道での話で、この道は07年の島旅でも厳寒の深夜行で通過している。その名前込みでとにかく寒いという強烈な思い出。


Day2 4.16 Sun
佐賀〜長崎

 ホテルをチェックアウトし一気に長崎へ向かう。
 15:00、長崎ビッグNスタジアムそばの公衆電話から浦上ヶ丘ユースホステルに電話し即チェックイン。このYHを選んだのには訳がある。当時端島への渡航を手配してもらう事ができたからだ。
 別名「軍艦島」と呼ばれるこの島は、かつて石炭の採掘で栄え、最盛期の住人は5,000人を越えた。しかし、国内でも最古を誇るコンクリートの摩天楼は、閉山と同時に無人の廃墟となった。この島の事をはじめて知ったのは古い公共広告機構のコマーシャル。公共広告機構「軍艦島」コマーシャル
 朽ち果てた体育館で転がるボール…、いつか必ず訪ねると身震いした。
 旧浦上ヶ丘ユースホステルはその後大橋より移転。長崎ゑびすゆーすほすてる
 荷物を整理し、平和公園でゆったりとした時間を過ごす。原爆資料館に寄ろうと思ったが、閉館時間に間に合わず明日へ持ち越し。
 この夜は一つイベントがあった。以前からネット上で交流のあったLynneさんと会う事だ。関東在住のLynneさんは学生時代を過ごした長崎へ旅行中。端島をはじめ、いくつかの産業遺構の写真をサイトに掲載されていた。
 実はネット上で知り合った方と会うのはこれが初めて。お互いの掲示板など、バーチャルな世界では交流ができていたが、面と向かって話をするのは いままでにない不思議な感覚だった。端島だけでなく、橋でつながっている崎戸炭鉱の情報や写真談義で盛りあがった。名物皿うどんとちゃんぽんをごちそうになった上、居酒屋でお酒までいただく。本当にごちそう様でした。
 この日の宿泊者は小さな赤ちゃんを連れたご夫婦。こちらのペアレントさん(ユースのオーナーor管理人)とお知り合いらしく、この旅が終わると愛媛に向かい、宇和島YHでペアレントさんになるという。ただならぬ縁を感じた。YHを利用するのは2回目だが、92年11月、初めてYHを利用したのが宇和島YHだったからだ。いつか訪ねたい。
 八人部屋に一人貸し切り。快適!


Day3 4.17 Mon
長崎観光

 今日は長崎市内観光。ペアレントさんのすすめによりユースのある大橋からすべて歩いてまわる。バイクの旅ではこれ以上進めないという所までバイクを使う事が多い。普段なら見過ごしていたものが見えてくる。旅に持ち出したカメラとフィルムは…、
EOS5:モノクローム専用 100TMX 400TMY 3200TMZ ACROS100  PRESTO400/1600
ペンタックス・コンパクトカメラ:押さえのカラー Fuji 100/400
予備:使い捨てカメラ
 三脚は最後まで悩んだ末携行しなかった。そのため遺構暗所での手持ち撮影が難しく、やむなく高感度フィルムを使ってしまった。何度でも通える場所での意図した素粒子撮影ならともかく、端島や、すでに取り壊されてしまった崎戸でも使ってしまったのには今でも後悔が残る。
 当時すでにデジタルカメラを持っていたが、購入した98年はまだ発展途上にあり、150万画素という今の携帯にも劣る粗末なもの。この旅の日程は2-3ヶ月を考えていたため、メディア、電池、その後の保存すべてにおいてとても持ち歩けるものではなかった。
平和公園〜原爆資料館
 小学校の時の修学旅行で来て以来。長崎ではどうか知らないが、広島では原爆と戦争について学ぶ平和学習の時間があった。同じ被爆地として見るべきものは多く、2時間をかけてゆっくりと回る。
浦上天主堂
 首のない天使像に引きつけられた。
坂本国際墓地
 たくさんの観光客で賑わうグラバーの墓がある。やはり墓場だけあって、グラバー邸の華やかさとは対照的だが、むしろこちらの方が好きだ。ここに はグラバー以外にもたくさんの外国人の墓があり、とてもノスタルジックな気持ちになる。異国で果てた人々。その子孫はいまどこに住んでいるのだろう?
一本足鳥居
 神は人の中に存在する。戦争や自然災害で破壊されたり、人がいなくなって朽ち果てた鳥居を見るたび、人工の単なる建造物だという事を再認識する。
 鳥居と聞いてすぐ思い出すのは、まず宮島の大鳥居、この片足鳥居、桜島の埋没鳥居、そして端島神社の鳥居。
松翁軒カステラ
 ペアレントさんのおすすめで立ち寄ったが、やっぱり福砂屋の方が好き。
26聖人殉教地
 広島市内でキリシタン迫害を感じられる場所は少ない。その後の天主堂巡りにもつながる。
眼鏡橋〜第2眼鏡橋
 第2眼鏡橋のオチには全身から力が抜けた。。。
思案橋周辺〜観光通りアーケード街
 ツーリング先でこんなに歩いたのは初めて。さすがに疲れて帰りは市内電車。全線100円(現在は120円)。
稲佐山・長崎夜景
 ユースに帰ると、今夜泊まる川崎のKE君(ライダー)と横浜のKSさん(バックパッカー)が食事中。この後、稲佐山からの夜景を見に行くという ことでお誘いを受ける。連泊の夫婦と赤ちゃん、KE君、KSさん計6人出かけた。神戸、函館と並び夜景で有名なだけの事はある。必見。
 肝心の端島だが渡船の関係で最低5人集める必要があった。ここでKE君とKSさんをそそのかして3人。(笑)もちろん軍艦島を知らない人でも 一見の価値はあると同意の上。
 渡船と交渉の末、3人でも渡してもらえることとなった。ついに長年の夢、軍艦島へ上陸する!交換条件ではないが、KSさんの希望で 浦上天主堂の早朝ミサにも行くことになった。5:30起床。どんな一日になるのだろう。


Day4 4.18 Tue
浦上天主堂早朝ミサ〜端島(軍艦島)〜長崎観光

 予定どおり5:30起床、ユースのお母さんに車で送ってもらう。このミサは観光目的ではなく地元のクリスチャンの方々のもので、朝早いにもかか わらずたくさんの人が来ていた。女性はベールをかぶっている。お母さんからの注意事項として、パンとワインを勧められても断るようにと言われた。
 聖書という世界一のベストセラーに触れる現実が目の前にある。普通の人々による賛美歌のライブ。ここで宗教を語るのはやめておくが、もともとバッハをはじめとする教会音楽は好きで、それとは対照的にサタニックなヘヴィメタルも大好きだ。うちは浄土真宗で日々の生活ではほぼ無宗教。客観的に考える宗教にはとても興味があり、とくに音楽・絵画との関連も深い。この時の体験は、その後の天主堂巡りにもつながった。
 朝食後、いよいよ軍艦島へ。移動手段は路線バス。昨日の路面電車と同じく、旅先で公共交通機関を利用する事は少ない。海岸線を走る車窓から、遠くの海に軍艦島が見え始めた。
「すごい!すごすぎる!!」
 こんなにワクワクするのは久しぶり。白波を立て航行する姿はまさに軍艦。しばらくすると小さな漁港に到着した。3人で渡し船に乗り込み、外海へ とすべりだす。港から見る島はかなりの距離を感じるが、向かい始めると意外に近い。みるみるうちに摩天楼のディテールがはっきりしてくる。防波堤の階段が ある場所に着いたが…。
 けっこう揺れる船の細い先端から飛び移れという。
「かなりスリリング!」
 バランスを崩せば確実に海にドボンだが、みな無事上陸。この時点では目の前を頑丈な扉で遮られ何も見えない。脇にあるステンレスのハシゴに手をかけた…。
 記憶を動画で持っている人はいるだろうか?少なくとも自分は静止画しか持っていない。さらに時間の経過の概念はなく、古いものほど断片化し曖昧になる。
 ところが、強い記憶はこれに当てはまらない。もちろん静止画である事に変わりないが、圧倒的にフレーム数が多く、あたかもコマ送りの映画のようにつながっている。それがまさにこの時。
(ハシゴを登っていく〜防波堤の上に出る〜立ち上がり、そして振り向く…)
「…。」
 目に飛び込んできたその光景。一生忘れる事はないだろう。
 純粋なグレーではなく黄みを帯びてくすんだ躯体。ここに5,000人の日常があった。色々な感情が同時にあふれ出る。上陸した感動に反し、大部分を占めるのは無常感や寂寥感だった。映画「猿の惑星」のエンディングが浮かぶ。砂浜を歩くチャールトン・ヘストンが、自由の女神の残骸を見つけたときのような…。
(いつか人類が滅亡した時の光景。)
 正気に戻り写真を撮りはじめた。迎えは15:30なので時間はあまりない。最初に端島病院。レントゲン室には写真がそのまま残っている。床に散 乱している一枚を手にとって透かしてみた。エッジはぼやけているが名前はしっかりと読める。鉱員は危険をともなう仕事なので、怪我の治療や日々の健康診断など重要な場所だったはずだ。
 手術室。たくさんのサイトで見てきた無影灯だが、この時はまだ天井に残っていた。ただ、派手なピンクのペンキでサイケデリックにペイントされている。(次に訪れた際には人為的か自然にか、床に落下していた。)
 病院を出て二人と合流。KSさんと並んで歩きはじめるといきなりコンクリートの塊が落下してきた。足元には開口部もありかなり危険。
 この通りはものすごい。崩落したコンクリートや木材が山となり背の高さを軽く超える。空爆されたテルアビブのようだ。壁にあまりにも有名な一節を見つけた。

あれから幾十年!
この端島は荒れるにまかせ
朽ち果てヽくち果てヽいた
この島はもう再びよみがえることはない

 アパートを散策して、そのまま屋上の幼稚園で昼食。考えて見れば、昨日初めて会った人たちと廃墟で食事をしている不思議。教室には朽ち果てた鉄琴やオルガン、上履きなども散乱している。
 再び撮影。二人はすぐ先に行ってしまう。ずっとコの字型をしたアパートで撮っていると、遠く端島神社に姿が見えた。鉱員住宅や職員住宅を通って先端のプールへ。途中にはコンクリートで出来た建物の外部階段が丸ごと落下している場所もあった。居住区域から炭坑施設に入った所で時間がどのくらい経っ たのか気になり始める。時計は持っていない。そこに運良く二人が現れた。
「あと1時間くらい。もっと撮らないと。自分にしか撮れない写真を…。」
 しかし…。
 あまりにも強大な存在感に、撮っても撮ってもどこかで見たような絵。島は何も言わず、すべてを受け入れているが、まるで風車に立ち向かうドンキホーテか、釈迦の掌の孫悟空のような気持ち…。撮らされる!
「時間切れ!」
 あっという間に迎えがきた。心残りはあったが今回はこのくらいで。必ずまた来る!
(この後、01年・05年2回・06年の計5回訪ねたが、写真を撮る枚数はどんどん減っていった。島全体を見渡せる大好きな場所は職員住宅屋上。島の空気を感じるだけで幸せだった。もう生涯あそこに立つことは出来ないだろう。)
 帰りは二人に付き合い再び長崎市内観光。つい昨日回ったばかりで、ある意味腕利きガイド。最近リニューアル(00年)した出島。崇福寺、めがね橋をまわりユースへ。
 端島初上陸。これまでの人生を振り返っても、トップランクの出来事である事は間違いない。コマ送りの記憶と共に。。。
※現在軍艦島へはツアーで渡ることが出来る。ただ、南側プール周辺に出来た遊歩道内のみ。見るべきものの多い北側には立ち入る事は出来ない。


Day5 4.19 Wed
洗濯〜野球観戦

 朝から雨。晴れなら発つ予定でいたが洗濯に変更。家庭用乾燥機で厚手の衣類を乾かしていたら15:30までかかってしまった。終わってから電車でフィルムの買出しに。
 大橋に帰ってくると、近くの長崎ビッグNスタジアムでヤクルト対横浜の公式戦をやっている。ユースに戻ると横浜のKSさんが見に行きたいと言い出した。外野でも2,000円。そのうえ試合は7回…。もったいないと思いつつ勢いで入ってしまい、当然試合はすぐ終わってしまった。(笑)でもプロ野球 なんて10年近く行ってなかったのでこれもまたよし。カープという地元球団を持ちながら、旅先でひいきでもないチームの試合を見るというのはある意味皮肉。
 21:00を過ぎ、ペアレントさんの知り合いで福岡出身・稚内在住というぽっぽさんがチェックインしてきた。こんなに遅いのは珍しい。
 彼女は稚内で地元ローカルFM局のパーソナリティーをしているという。番組の中で方言のコーナーがあり、広島弁について聞かれた。方言というものは普段何気なく話していながら、教えてといわれるとすぐ出てこない。


Day6 4.20 Thu
大島探索〜蛤診療所〜百合岳〜西海橋〜白浜キャンプ場

 晴れ。ユースのみんなと別れ、Lynneさんに聞いた大島の遺構へ向かう。情報ではそこが炭鉱跡なのか、学校跡なのかさえわからなかった。高い通行料の大島大橋を渡り、最初に廃校を見つけた。しかしここは閉校になってまだそれほど月日が経過してない様子。違う。
 そのすぐ先で病院のような廃屋を見つけた。病院の廃虚は恐い。感染性の何かが残っている可能性を否定出来ないうえ、海外では放射性物質が残っていて被爆したという話も聞いた事がある。近くに人の気配のある寮のような建物もあり、ざっと見て回り早々に立ち去った。のちにこれが、結核隔離病棟「蛤診療所」だと知る。
 島の最高峰「百合岳」に登った。展望台は360度のパノラマ。水も使えるしキャンプに最適だが、テントを張るにはまだ日が高い。展望台から見下ろすさっきの廃校はまだきれいで日曜の学校という感じ。
 その後も走り回ったが、少ない情報で闇雲に探しても見つからないと判断し、今日の探索をあきらめて西海橋へ。大村湾唯一の水の出入り口で、満潮干潮で発生する渦は見ていると飽きない。
 佐世保を抜けたあたりで再ルーティングし、今日のテントサイトを白浜キャンプ場に決定。到着する頃には暗くなっていた。ロープが張ってあり誰もいない。この旅初めてのテント泊。
 赤ちゃんを連れたご家族とはこの8年後、宇和島ユースホステルで再会。残念ながらこちらの事は忘れていたが、稲佐山から見た夜景は覚えていた。何よりあの時の赤ちゃんは立派な小学生になり、弟も増員。前にも書いたように、ここ宇和島YHは、92年にはじめて利用したユースであり実に16 年振りの再訪。
 迷わずにはたどり着けない小高い丘の森の宿。ツリーハウス(木の上の小屋)が目印。もしかしたらハックルベリー・フィンに会えるかも。森の宿「宇和島ユースホステル」


Day7 4.21 Fri
佐世保

 今にも雨が降りそう。だらだら出る準備をしていると、誰もいないはずなのに話しかけてくる声。聞くと、すでにオープンしていたこのキャンプ場の管理人で、料金を請求される。その額なんと1,300円。テント持ち込みのフリーサイトでは高すぎる。こちらはプロフェッショナルの旅人でありいつ帰宅するともわからない放浪の身。500円でも躊躇するところだ。テンションダウンし、さらにだらだら準備をしていると、ついに雨が振り出した。最悪。
 Lynneさんよりメールが入る。目的の廃墟は昨日探した所とは違う所だった。雨の中出発するが佐世保で早めにきりあげ物資調達。今日は広島から来たパートナーと合流し、チューリップホテルに宿泊した。
 このチューリップホテル。ハウステンボスの宿舎として利用されたあと休業してしまった。時効なので告白すると、この時持ち帰ったアメニティのハンドタオルを今でも使うことがある(ウオッシュクロスとして。笑)。その度に雨で濡れた物を乾かす光景を思い出し過ぎた歳月を感じる。


Day8 4.22 Sat
崎戸炭鉱

 パートナーと別れ、遺構探しのため再び大島へ。三日がかりの探索は、もらった最終情報から意外にあっさりと発見することができた。それは大島ではなく一つ奥の島、崎戸島にあった。
「崎戸炭鉱」
 最盛期は数千人が生活していたというこの場所に当時の面影はない。それどころか、目の前に広がる景色は異様そのもの。
 ポツポツと点在する民家のその奥、小高い丘の上にそびえたつ炭鉱住宅。窓は抜け、くすんだグレーと黒の躯体。鉄筋から染み出した赤茶けたしたたりは、人類滅亡後の世界を連想させた。
 あれから11年多くの旅を重ねたが、この時の絵は強烈!日常生活においても高台に立つ公営住宅を見ると、瞬間的にフラッシュバックする。
(崎戸だ!)
 洗濯物のはためくバルコニーに、人類滅亡後の風景を重ね合わせる。
 さらに奥へ進んだ。
(こんなところに!)
 大山祗神社(愛媛県大三島)と書かれた鳥居を発見した。ここもすでに廃墟となり先には進めない。社はあるのだろうか?気になる。
 朽ち果てた神社仏閣に出会うたび、神仏は人の中で創り上げられたものだと確信する。人類がすべていなくなったあと、神は何を思うのだろうか?
 簡単に下見したあと、近くにあった炭鉱資料館で情報を仕入れる。出る頃には雲行きも怪しくなってきたので今日の探索をあきらめ、おとといチェックしていた百合岳山頂公園にテントを張った。
 景色は最高。水もトイレも完備し環境も快適だったが、夜ものすごい風が吹き荒れた。テントが飛ばされそうだ。記憶に残る風の夜はいくつかあるが、五本の指にはいるだろう。


Day9 4.23 Sun
崎戸〜島原〜玉名

 昨夜の暴風雨が嘘のように快晴。沖にはおそらく佐世保から出港したであろう戦艦が、白波を立てて航行している。
 早々に撤収し、昨日下見した崎戸炭鉱を写真に撮りはじめた。毛虫が多い。それもけっこう大きなやつ。知らないうちにももの上を這っていたときはぞっとした。
 忘れられない建物は平和寮と映写室跡。平和寮はこの場所でもっとも多く写真におさめた建物で、ほぼ完全な形で残っていた。といっても多くの窓ガラスは壊れていたし、階段には剥離したコンクリート片が散乱している。たくさんの野良猫が住み着いていて小便くさい。
 屋上からは最高の景色を眺めることができた。すぐ目の前には「元気らんど」という広い公園があり、きれいな芝生に覆われている。そして広くて青い海。ただ、あの丘に建つ炭鉱住宅の存在感は強力で、単なるのどかな島の風景ではないことを物語っている。
 もう一つはかつて崎戸劇場と呼ばれた映画館の映写室跡。誰もが一度見たら忘れない形。
 高さ5メートルほどある7本の足の上に、窓の二つある部屋が乗っている。見た瞬間思い出したのはスターウォーズに出てくる攻撃用ウォーカー。武器は付いてないが今にも歩き出しそうだ。
 それにこの映写室。本体の建物はなくなっていて上の部屋に登る方法がない。登れないと見てみたいという気持ちは倍増するものだが…。
 3年後の2003年、再びこの場所に訪れた。平和寮は道路拡張のため道路側の階段部分が取り壊されていたがまだ健在。映写室もそのまま残っていた。実はこのとき、2階の部屋へのアプローチを試みる。
 上にも書いたように高さは約5メートルとそこそこあり、手や足を引っ掛ける場所はない。両腕を伸ばし、足で突っ張りながら登っていく方法で床面の角まで手を掛けた。あとは這い上がるだけ。ところが!
 ふと目線を遠くに向けたところ、目の前の民家数軒から丸見え!ここで躊躇してしまった。到達を直前にしてやめてしまったのだ。
「遺構に次はない。」
 それを裏付ける最大の後悔。今も残る遺構の多くは常に取り壊しの可能性を秘めている。特に民家の隣接するものは、安全面や景観の問題からその確率は高い。
 数年後、その後悔は現実のものとなってしまった。映写室は平和寮と共に取り壊され今はもう存在しない。炭住にしても、現在グーグルマップには一 棟だけ残っていることが確認できるが、航空写真にはタイムラグがあるため実際に残っているかは不明。このあと、沖縄で同じミスを犯すことになる。
※崎戸炭鉱は、03年初頭、映画「バトルロワイヤル2」のロケ地として使用された。
 もう一つ崎戸で感じた事で、旅のスタイルに大きく影響する感覚があった。この場所は、建物、規模とも強力なロケーションを誇っている。ここだけを目的として来ていたならもっと強い印象を受けていたに違いない。ところが、端島のすぐあとに見たためその印象は薄くなっていたことを否定できない。
「1日に200キロ以上走らない。」
 これは今も継続している目標の一つ。もちろん日時の決まったイベントなど、距離のある目的地には弾丸ツアーを組む事もある。しかし浅く広く、「行ったことがある。」レベルのコレクション的な旅をしなくなった。
 走る時間が長いと当然見過ごしてしまうものも増える。それよりもできるだけその場にとどまり空気を感じたい。通り過ぎていく人々もその空間の一部であり、地元の人、観光客、その会話を聞いているだけでも最高に面白い人間ウォッチングだ。
 さらに、いわゆるライダーの「一日に何百キロ走った。」にもステータスを感じなくなった。どれだけ走ったかではなく、何を見て感じたか?である。
 長崎市内から小浜を通過し一気に島原へ。浦上ヶ丘YHで会ったKE君に教えてもらった道の駅「みずなし本陣ふかえ」に立ち寄る。ここには雲仙普賢岳噴火によって被害を受けた建物がそのまま保存されており、火砕流のすさまじさを知る事ができる。テレビで見るだけではわからない、自然災害の本当の恐ろしさを感じた。
 さらに災害以前からの場所にそのまま保存されている大野木場(おおのこば)小学校跡へ。ここはすごかった。広島に生まれ育った自分には見覚えのある光景。焼けただれ、金属の窓枠さえ溶けている様子は、被爆建物を彷彿とさせた。
 そのままバイクで行けるぎりぎりのところまで登ってみた。活動は終息したらしいが溶岩ドームからはまだ噴煙が立ち上っている。
 島原湾を渡り熊本へ入るが暗くなってしまう。ツーリングマップルに記載の「丸山キャンプ場」を探し始めたがなかなか見つからない。風呂に入ろ うと玉名温泉共同浴場に寄った。ところがいくら呼んでも誰も出てこない。テレビがつきっぱなしだ。どうなっているんだろう?数分呼んでも何の反応もないため、あきらめて再びキャンプ場を探し始めた。
 性格上寂しさを感じることはまずない。しかし唯一の例外がこのパターン。夜遅くなり、暗く、寒く、腹が減りテントサイトが見つからない。やめて家に帰ろうかと思う瞬間だ。(笑)
 ぐるぐる回っているうちに誰もいない「小岱山キャンプ場」を見つけた。なんとかテントを張りやっと食事。それにしても寒い。夜何度か寒さで目が覚めた。
 そういえば、トイレに何か落として手を突っ込んで拾った覚えがある。何を落としたかは忘れたが。


Day10 4.24 Mon
玉名〜桜島

 極寒の夜をしのぎ朝食をとっていると、長崎のようにおじさんが現れた。
(嫌な予感…。)
 ここが丸山キャンプ場だったらしく当然無料。やはり例年より寒い夜だったとの事。おじさんとしばし世間話ののち出発。
 一気に鹿児島へ。途中の阿久根で桜島のユースホステルに予約を入れた。利用することがほとんどなかったユースだが、浦上ヶ丘では居心地もよく4連泊もしてしまった。ユースとはそういうものだと思っていたが…。
 鹿児島市内に入ってもどこにも立ち寄らず、桜島に渡ってすぐにチェックイン。しかし…、ものすごく事務的なうえ笑顔もまったくない。夕食もイマイ チだった。救いは目の前にそびえる桜島と茶褐色の大浴場。
 同宿は関東からの旅人と外国人親子4人連れ。ほとんど話すこともなくみな翌朝早く旅立っていった。
注)今現在桜島ユースの接客がどうなっているかは知りません。


Day11 4.25 Tue
桜島〜沖縄行きフェリー埠頭

 活火山である桜島を知らない日本国民はいない。何度来ても新鮮な驚きを感じる山だ。県庁所在地である鹿児島の対岸、すぐ目と鼻の先で強力な存在感を誇っている。ビジターセンター、湯之平展望台を回った後、鹿児島市内へ戻った。
 ここでアクシデントに気づく。チェーンガイドとリヤサスのリンク部分を保護している一体型のゴムが、チェーンと干渉して磨り減っている。リンクの金属部分が完全に露出し、金属同士が擦れ合っている状態で大変よろしくない。よくみるとリヤタイヤのエッジ部分にも当たっている形跡がある。
 地元の後輩に電話しパーツナンバーを調べてもらうが旅先のこと、この地で注文して到着を待つわけにはいかない。沖縄までは船。走行距離は伸びないのであっちで注文しよう。
 チェーンガイドとは別に、限界にきていたフロントタイヤの交換をするためバイクショップを探す。途中、西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)通り過ぎた。このつい一ヶ月前、屋久島に行ったとき来たので遠くにきた気がしない。
 全国チェーンのバイクショップ「南海」を探すがこの日は残念ながら定休日。3件目でやっとオフタイヤを在庫しているお店にたどり着いた。チェーンガイドやはり注文が必要。沖縄まで持ち越しを決めた。そして…、鹿児島・沖縄行きフェリー埠頭。
「ついにやってきた!」
 以前から書いているように制覇などというコレクション的な旅は好きじゃない。しかし沖縄上陸と同時に47都道府県すべてを走ることになる。素直に持論と矛盾した感慨に浸り、そのまま日本最西端、最南端へと夢はふくらむ。
 待ち時間に愛知県豊田市から来たミヤと出会った。1981年に作られたハーレー・ダビッドソン。船以外で出会ったならおそらく話をすることはなかっただろう。
 彼はタバコを吸うが、吸殻を投げ捨てることがない。バイクにも吸殻入れがついている。感心。人は見かけによらない。
 出発直前、桜島が小噴火した。そのとき談笑中だった地元のおじさんたちによるといつものことらしいが、噴火があまり身近でない者にとってはすごいこと。鹿児島の人達はよく平気でいられる。
「乗船。」
 丸1日船上の人となり、明日の夕方には与論島に上陸する。


Day12 4.26 Wed
フェリーあけぼの〜与論島

 大島運輸(現A-Line)フェリーあけぼの船中。昨日夕方鹿児島港を出港した船は、5:00奄美大島の名瀬港に到着した。夜になって雨が振り出したらしく、とても蒸し暑い。
 港では時間つぶしどころか目が釘付けになってしまったのがピッキング。巨大フォークリフトによる荷物の積み替え作業だ
 ここのフォークは普段街中の倉庫などで見る物と違い、その数倍の大きさ。巨大なコンテナをリフトアップしながら、何台もがスムーズに離合している。それはあたかも後ろに目があるかのような紙一重の動き。
(素晴らしい。)
 ミヤも同じ思いで眺めているに違いない。ふと時計を見ると、名瀬港の出港時間を一時間も過ぎている。まだ二つも寄港するのに予定通りつくのだろうか?(途中寄港は奄美大島、徳之島、沖永良部島、そして与論。)
 しばらくすると完全に夜が明け、愛知のミヤ、船中で知り合ったビラーゴの旅人と過ごした。最初楽しかった船旅も、丸一日近く乗っていると飽きる。Jフォンはまったく入らない・・・。
 結局与論には3時間遅れで到着した。これから那覇に向かうミヤたちはかなり遅くなるはずだ。名残惜しいがここでお別れ。お互いの無事を祈りつつ船を降りた。またどこかで出会えるかもしれない。
「与論島」
 途中下船しわざわざ立ち寄った理由は大学時代にさかのぼる。当時住んでいたアパートの部屋に、B0サイズ(1030*1456)の巨大なポスターを貼っていた。ANAだったかJALだったか航空会社の旅行キャンペーンのもので、小麦色の肌をした黒いビキニのモデルが、海面から上半身だけ出して空を見上げている。
 まわりに広がるのは遠浅でエメラルドグリーンの海。それが与論。「天国に一番近い楽園」とかいう原田知世の映画のようなコピーだったような気がする
 この頃はまだオフロードオンリーで、山で林道を走ることが多かったのでその海はまるで別世界。この絵を見るたびいつか必ず行くと心に決めていた。
 下船時、雨は上がっていたがすっきりしない天気。そのうえ降りるバイクは自分だけしかいない。先にテントを張るため目的の大金久キャンプ場に向かった。観光客らしき人は誰一人見当たらない。ビーチの食堂で管理しているようだ。
 中に入るとおばちゃんが一人。テントは好きなところに張っていいとの事。すぐに設営をすませ、今日はその食堂で食べる事にした。
 値段にしては量があった生姜焼き定食に満足。そこへ地元のおじさんが入ってきて話し始めたのだがその会話に耳を疑った。内容がまったく聞き取れなかったからだ。
(注文する時の会話は普通だったのに。)
 理解しようといくら聞き耳を立てても、まったくわからない。
(どうやら単語自体が違うようだ。)
 南の島に来たと初めて実感したのはこの時だったかもしれない。


Day13 4.27 Thu
与論出発〜沖縄上陸

 そこそこの天気だがビーチには誰もいない。海を眺めていると地元のおじさんがグラスボートに乗らないかと話しかけてきた。グラスボートとは船底がガラス張りになっていて水中を見ることが出来るボート。このビーチの少し沖には有名な百合ヶ浜(干潮時のみ現れる砂浜)があったのだがこの時は価値観を持たず断った。この先与論を訪れる機会が少ない事を考えると少し後悔している。
 テントを撤収し島内を回る。他のビーチもみてみたがやはり誰もいない。夏の行楽シーズンを除けば意外と静かなところなのかもしれない。
 島中央部の与論城で初めて観光客らしきカップルに出会った。ここからの景色はさえぎるもののない360度の展望。明らかに本土のものとは違う。
 印象的な光景に出くわした。小さな神社で熱心に手を合わせる女性。神社という表現は正しくないかもしれない。与論は鹿児島県に属しながら文化は琉球に近く、鳥居に木造の社ではなく自然の岩。つまり沖縄で御嶽(うたき)と呼ばれるもの。もう1日島にとどまろうかと迷うが、那覇行きを決め14:40の船に乗った。
「黒いビキニのポスター。」
 あこがれ続けたあの海がまた一つ、現実の旅の記憶として刻まれた。
 実は沖縄本島が小さい島だと錯覚していた。今にして思えば最初に最北端の辺戸岬を確認してから那覇までかなりの時間がかかっていたのだがこの時は感じなかった。その理由は、
「日本国内全都道府県制覇。」
 旅をコレクションする事に興味はないといい続けて久しいが、これは別格。辺戸岬から那覇まで、やんばるの山並みを見ながらの100kmは、それを振り返るには十分な時間だった。
「那覇港到着!」
 感慨にひたることなくすぐに寝る場所を確保しなければならない。すでに20:00過ぎ、公衆電話の電話帳で國際通りに近い照美荘という素泊り宿を見つけた。母親とその息子さん二人で経営している宿でなかなか良い雰囲気。コインクーラー90分100円。蒸し暑いので使わずにはいられない。 お風呂はシャワーしか使用しない。湯船は一応あるのだが中は物置のような状態でずっと使われてない様子だ。
 おばぁに聞いてさっそく近くの店にソーキそばを食べに行った。値段のわりに量もありおいしい。小皿を出されたので隣の人を見ると、骨を入れるのに使用するようだ。そのまま國際通りへ。夜遅いにもかかわらずかなりの人通り。お店もほとんど開いている。
 何をするでもなくブラブラと歩いていると、23:00過ぎてやっと閉店しはじめた。初めて過ごす南国の夜がゆっくりとふけていった。


Day14 4.28 Fri
沖縄中南部

 那覇から反時計まわりでオーソドックスな観光に出る。
・喜屋武(きゃん)岬:本島南端にある岬。戦争悲話が残る。
・ひめゆりの塔・平和公園:生まれ育った広島を除き、長崎、沖縄と大きな戦争被災地を立て続けにめぐることになった。ひめゆりの塔を過ぎたところで雨が降り始める。
・知念城:古代の城跡。珊瑚の岩が印象的。誰ひとりいないうえ足元も草ぼうぼう。ハブがいそうで恐い。
・斎場御嶽(せいふぁーうたき):琉球の聖地で少し観光客がいた。東の海には、琉球の始祖「 アマミキヨ 」が降り立ったと言われる神の島「久高島」(くだかじま)が見える。雨がつらい。※久高島は07年の島旅で訪ねる。
・首里城:入場料800円は放浪旅人には高く通過。知念城に比べ、少し作り物っぽい印象を受けたのもある。この年の夏、九州・沖縄サミットが開催された。
 いちど照美荘に戻り、当時写真屋さんで働いていたあゆさんに会いに行く。
 彼女は00年始めごろネットサーフでたどり着き、初めて相互リンクさせてもらったサイト「Treasure」の管理人。この日は挨拶のみだったが、彼女も長崎で会ったLynneさんと繋がりがあり、インターネットの不思議さを実感する。


Day15 4.29 Sat
中城城址~海中道路~瀬底ビーチ

 二泊した照美荘をあとにして本島北部へ。最初に中城(なかぐすく)城址。ここは出発前から重要な目的地の一つ。知念城と同じく城跡もすごいがメインはその奥にある遺構だった。「Royal Road Pub」と書かれた入口からアクセスする。
 内部は沖縄らしく英語の落書きが多い。一部の区画ではかなり荒れていて火事になった形跡もあった。
 訪れた当時この建物に関する云われは諸説あったが、2011年現在「中城高原ホテル」としてウィキペディアでも検索する事ができる。一度も営業する事がなかったという点でとても興味深いだけでなく、素晴らしい展望と城跡との対比がすごい。
 次に海中道路。地図で見て渡ろうと思わないライダーはいないだろう。肉眼で見るまでマイアミのキーウエストのような橋を想像していたが、実際は堤防道路。真ん中ににビーチがあり賑わっていた。
 本島東岸R329を一気に北上し、名護からR449で本部(もとぶ)の瀬底(せそこ)ビーチへ。ここはキャンパーには有名な無料ビーチで、筋金入りのキャンパーが集まっていた。毎年千葉から潜りに来る者(夏の間ずっとテント生活)、もう1年も滞在しているという者、アルバイトに出て不在だというスペイン人2人組。広い空、青い海。気持ちはわかるが。


Day16 4.30 Sun
辺戸(へど)岬

 曇り。沖縄海洋博公園。1975年、ここで沖縄海洋博覧会が開催された。広島県人として記憶に残るカープ初優勝のこの年、巨大海上パビリオン「アクアポリス」の勇姿と記念百円硬貨をはっきりと覚えている。
 25年間海に浮かぶアクアポリスだが、今は公園案内板からも削除され錆びついている。これにグラッとこないわけがない。何とかたどり着こうとわき道に入ってみるが墓地。公園から徒歩でアプローチするが思ったより遠い。また来ようと思った。
※未確認情報ではあるがアクアポリスは法的には船と分類され25年間船長が常駐していたらしい。たどりつけても入れなかったかもしれない。しかし沖縄から帰ってしばらくして買い手が見つかり、韓国へ移動したとの報道。大失敗!当然だが廃墟は行ける時に行くべきだ。
※どこだったか忘れたが、自販機のおつりに海洋博記念百円硬貨が出てきた。
※記念公園水族館のオキちゃん(イルカ)ショーはおすすめらしい。

2011
※正しくはアクアポリスはスクラップにされるため上海に送られていた。本体が広島で建造され海上移送されたことにも驚く。
※この時の百円硬貨は今もテレビの前にある。
※00年、その後ブレイクする美ら海水族館”新館”はまだなかったが、オキちゃんショーと共に07年島旅でコンプリート。
 今帰仁(なきじん)城通過。道の駅「国頭(くにがみ)」の手前でついに雨が降り始める。フリーマーケットが開催されていて、空の様子を見ながらゆっくりするがやむ気配なく走り出す。岬までずっと海岸線、晴れていたら快適ルートなのだろう。
 岬にはお店が数件あり観光客でにぎわっている。しかし雨がいっそう強くなってきた。すこし離れたところにある巨大ヤンバルクイナの展望台を見ると、大粒の雨が真横に飛んできているのがわかる。
 帰りは東海岸ルート。展望はあまりなく米軍演習場が多い。いや、多いどころかほとんどが演習場。ゲートには「キャンプ~」と書いてありニュースで聞いたような名前もある。
 雨の中のハイペース走行で一度リヤを滑らせ転倒しかかった。沖縄の道路は滑りやすいといわれている。石灰分が含まれていることや、高温や塩害による劣化も早いとのこと。特に雨ではそれが顕著になるため注意が必要。
 悪条件のためこれ以上の移動をあきらめ、再び瀬底に戻りテントを張る。雨の作業はつらい。
 びしょ濡れでテントに入り、ほっとしたのもつかの間大変な事態に気づいた。長時間の雨天走行で持っていたカメラ(コンパクト、一眼レフ)が両方とも浸水している。フィルムを抜き乾かすがかなりまずい。
 夜も暴風雨が吹き荒れた。テントの中というのは外の状況に非常に敏感になる。フライシートにあたる雨の音がすごい。3ヶ月滞在中の人も今までで一番ひどかったと語っていた。
※カメラについては、このときの経験が11年経った今でも教訓として刻まれている。機動性・盗難対策・荷物軽減と写真のクオリティを計りにかけた場合、前者が優先。ただこのときは端島や中城の撮影もあったため仕方がないのだが。

2011 硫黄鳥島
 沖縄県最北端が硫黄鳥島であることを知った。経度こそ辺戸岬の真北にあるが、緯度的には鹿児島県の与論、沖永良部を飛び越し、徳之島の北端に近い。さらにはるか南西に位置する久米島町に属すると知ってまたビックリ。
 今なお活発に活動するツインボルケーノ。行ってみたいな。


Day17 5.1 Mon
瀬底~パレット~那覇新港~石垣

 目が覚めると嘘のように快晴。瀬底に初めて南の島の海を見た。とにかく昨日濡れたものを乾かす。カメラが心配だ。
 靴が乾くのに時間がかかり14:00テント撤収。那覇市仲井真のバイクショップ「イエローストーン」で例のチェーンガイドを注文した後、あゆさんのお店によってみる。
 彼女はおらず、小柄な女のコが応対してくれた。初めて会うにもかかわらずそのコが誰だかわかった。あゆさんのサイトに頻繁に登場するOOMIさんだ。予約した石垣行きフェリーの出港時間がせまっていたため、またお邪魔することを伝え那覇新港に急いだ。世の中もゴールデンウィーク。これを逃すと休み明けまで船がない。
 港につくとすぐに手続きを済ませたが、ここで一 つ間違いをおかしていた。予約していたのは琉球海運という船会社だったが、実際に乗ったのは有村産業の飛龍という船。港はかなり混雑しており、連休ということも考えるとよく乗れたと思う。さらにこの飛龍、いわゆる広間に雑魚寝の2等ではなく6人部屋2等寝台で、各部屋にシャワーもあり超快適。そして、素晴らしい出会いがあった。
 まず待合室で見たような姿。なんと鹿児島〜与論の船中で一緒だった愛知のミヤだった。5日ぶりの再会に感動する。さらに横浜のヒロ、甲府のハヤさん、横浜のケンジ、神戸のノッチ。もちろん全員ソロで旅に出ていて、仕事を持ち期限付きの旅をしているのはハヤさんだけだった。石垣まで半日、楽しい船旅になる。
ミヤ/ハーレー・ダビッドソン/愛知・豊田
 鹿児島港で出会い、こちらが与論で降りるまで船旅をともにした。四国経由で南下し、当初の計画では沖縄本島までだったらしい。
ヒロ/赤いKLX/横浜
 この時点で旭川に住んでおり、5月中に北海道に戻り、実家横浜に引越しをしなければならず、ある意味期限付きの旅。3月には1ヶ月間タイを旅していて真っ黒に焼けている。
ハヤさん/シルバーLANZA/山梨・甲府
 ゴールデンウィークの休みを利用した期限付きの旅。このメンバーでは最年長で、唯一年上だった。
ケンジ/CRM/横浜
 前年の99年、北海道を旅している。驚く事にミヤと宮崎・高鍋のキャンプ場で出会っていて2日ほど一緒だったらしい。ヒロと同い年。
ノッチ/ブルーLANZA/神戸
 完全自炊仕様で装備がものすごい。まだあどけなさを残しているが、ミヤと同い年だったはず。
 船の中でハヤさんが西表の縦断の話しを持ち出す。有名なトレッキングルートで、一泊して島の反対側まで抜ける。面白そうだ。ヒロとミヤ以外2ストなのが懐かしい。

2011
 この日のことを書き直していて、つくづく出会いの不思議を感じる。当時南西諸島への航路は四つの船会社が運航していた。
大島運輸(現A"LINE)
 関東便も含めるともっとも多くの航路があったと記憶。「あけぼの」と「なみのうえ」に乗った。
 数年前、東京便のフェリー「ありあけ」が和歌山沖で座礁した事件が記憶に新しい。
 いつだったか山口の笠戸島に大島運輸の船(あまみ?)がドッグ入りしていて感動したことがある。
追記:
 A"LINEの船に飛龍21という名前があり気になっていたが、ウィキの有村情報により同じ船ということが判明。事故を起こした「ありあけ」の代船として購入とのこと。
琉球海運
 この日予約していたのが「わかなつおきなわ」。現在旅客は受け付けておらず貨物のみ。
マリックスライン
 「クイーンコーラル」号。
有村産業
 有村のクルーズフェリー「飛龍」、「飛龍21」は他の三社と大きく違う。航路は名古屋を出港すると台湾の高雄まで到達する。上に書いたように一番安い2等でも雑魚寝と寝台を選べ、もっとも快適な船旅ができた。
 手続き時の間違いがこの出会いにつながった。「わかなつおきなわ」に乗っていたとしてもまた違う誰かと出会っていたと思うが、6人部屋という環境を考えると同じようにはならなかったはず。
 有村産業は08年経営難で倒産し、今は存在しない。四つの船会社すべてを利用し比較検討することができたのは貴重だ。
 最後に最も重要なこと。数年前、ヒロからの調査依頼で愕然とする。沖縄から石垣へバイクを載せて渡るフェリーがなくなっていたのだ。
 有村を除く他の三社は今もあるが、フェリーは本土〜那覇間のみ。唯一の例外としてバイクを貨物とし、人だけ空路で移動する方法があるが、梱包や手続きなどハードルは高い。
 レンタルバイクという考え方はあるが、多くの放浪旅人にとってどんな小さな島にも自分のバイクで渡りたいというのは一つのステータス。大きな衝撃を受けた。


Day18 5.2 Tue
石垣上陸〜米原キャンプ場

「石垣島」
 沖縄本島から400キロ以上も離れているとは知らなかった。沖縄本島に戻るより台湾に行く方が近い。
 着くまでかなりの田舎を想像していたが、最初に見た街並みは全く違うものだった。思ったよりもはるかに都会。そういえば石垣は「市」である。重要な点は、ハブ港の役割を担っているということ。八重山諸島を船でまわる際すべてこの離島桟橋から出港する。この後全部で9回、ここで乗り降りすることとなる。
 下船してすぐノッチが同じ便に乗っていたタカコを紹介してくれた。彼女は東京からのバックパッカーで、ノッチとは3年前北海道で知り合ったらしい。軽く挨拶を交わし別行動となった。
 ノッチはタカコと消え、ヒロ、ハヤさん、ケンジは郵便局へ。ミヤと2人で市内の「なかよし食堂」に入った。さっそく八重山そばを注文。
 本島のものと違い、丸麺で刻んだ豚肉がそえてある。量もあり美味しい。1度別れたハヤさん、ヒロ、ノッチが外のバイクを見つけ入ってきた。
 店から出たところで地元のおじさんに声をかけられる。内容はアルバイトの誘い。おじさんはトウマさんといい、石垣でタバコの葉を栽培しているらしい。作業は葉に養分を行き渡らせるため花を摘む作業で急を要していた。少しでも長くやってほしいということだったが、西表縦断の計画もあり5月3・4日の2日間。与那国に向かうハヤさんをのぞく5人(ヒロ、ケンジ、ミヤ、ノッチとおれ)で話しがついた。もちろんアルバイト料が出るうえ、旅先で面白い体験できそうだ。
 再びミヤと2人になりキャンプ場に向かう。本来なら島中央を突っ切るが、道を間違え川平(かびら)まで行ってしまう。戻ってくる時にハヤさん、ノッチと合流、さらに少し時間がたってヒロとも出会った。みな間違えてる。笑
 キャンプ場で別行動のケンジと合流し全員がそろった。
「米原キャンプ場」
 伊野田キャンプ場と並び放浪キャンパーの双璧。張りっぱなしのテントが各炊事場の近くに立ち並んでいた。松本サリンの前、オウムがキャンプしていたことで全国ニュースになったこともある。
 長期滞在者も多く、彼らはテントを張ったままアルバイトに出て夕方帰ってくる。
 気の合う仲間たちと夜遅くまで語り合った夜。


Day19 5.3 Wed
タバコ花摘みアルバイト

 晴れ。5人でトウマさんの畑に向かうが、なかなか見つからない。近くにあった農業試験場で聞いてみるが、同じ苗字の人がたくさんいるらしい。どうすることもできずうろうろしていると、ひょっこりトウマさんが現れた。試験場のすぐそばだったらしい。
 仕事は単純。花とその近くに出た不要な枝を摘んで専用車にのせる。これにより本当に必要な葉のみに栄養分を集中させることができる。
 右手で摘み、左手で持ちきれなくなるまで抱えておくのだがものすごいヤニでベトベトになる。タバコに含まれるタールはここからきているのかと妙に感心。今にして思えば、大嫌いなものの栽培に関与しているというのも笑う。
 半袖でやっていたので、肌が弱い自分だけ、手から肘にかけ広範囲にかぶれてしまい、治るまで1ヶ月近くかかった。
 お昼は近くの倉庫で焼肉。働いたあとのご飯はうまい。
 仕事が終わると、トウマさんのお母さん宅でシャワーと洗濯をさせてもらう。
 米原には水シャワーしかなくとてもありがたい。沖縄に入って初めて、久しぶりの湯船。
 元気なお母さんだが、庭でハブに2度も噛まれたと聞き少しビビる。1度目はたいした事がなかったが、2度目は大変だったと。これがアナフィラキシーというものか。
 ただ八重山のハブはサキシマハブという種類で、本島のものより毒は弱いらしい。どちらにしても噛まれたくはないが。


Day20 5.4 Thu
タバコ花摘みアルバイト2日目

 昨日に引き続き同じ作業をこなす。天気も良く暑い。
 夜はお母さん宅でバーベキュー大会。ここで忘れもしない「おだぎりさん事件」が起こる。
 キャンプ場に戻ると与那国に行っていたハヤさんが帰ってきていた。ところが転倒 して怪我をしたとのこと。見ると傷も痛々しい。 
 西表縦断の件は、怪我の経過を見てから決めることになった。

2011
 春ごろヒロとメールしたとき、このおだぎりさん事件がなんだったか二人とも覚えていないことが発覚。
 おだぎりさんとは、このときトウマさんのところで働いていた旅人。たしか北海道人だったような。
 涙を流しながら、息もできないくらい大爆笑したことだけ覚えている。


Day21 5.5 Fri
西表上陸~星の砂キャンプ場

 フェリー「かりゆし」で西表へ。
「西表島」
 この島の名前を知らない日本人はいないだろう。もちろん「イリオモテヤマネコ」が最初に思い出されるはず。でも普通の猫となにが違う?滞在中に出会う事ができるだろうか?
 西表は沖縄県内では本島に次ぐ大きさ。そのほとんどがうっそうとしたジャングルに覆われ、真の秘境という感じだ。
 港に着いてまずテントサイト探し。まず南風見田(はいみだ)の浜に向かう。ここはフェリーが着く大原港から最も近いが、水の確保ができない。他も見てみようということになり北へ向かった。
 由布島。ここはに予備知識があった。島までの水深が浅く水牛車で渡れる島。
 事前にヒロとこの島でキャンプしようという話をしていた。しかしとんでもない。歩いて渡るだけでもお金を取られる。満場一致で通過決定。ヒロとノッチだけが歩いて中間くらいまで行ったが、関係者はいい顔をしていなかった。
※由布島は私有地のためキャンプができないのは当然。
 お昼を「新八食堂」でとる。ここではじめて「ゴーヤチャンプル」なるものを食す。
(なるほど。)
 次は違うものにしよう。そしてこの日のテントサイ ト「星の砂キャンプ場」に到着した。
 島の最も北に位置し、芝生がとても綺麗。先客は茨城からきたゼファーのチューヤン、バイクで世界2周したというカブ、その連れ福井からきたモンキー。3人ともただものではない。
 チューヤンは前年夏から旅に出ていて北海道から南下してきた。
 カブはイナガワさん。なんとバイクで世界2周した人。1周じゃないうのが憎い。さらにその時のレポー トを雑誌「オートバイ」に連載していたらしく見せてもらった。2周もすごいがレポを持ち歩いているというのにオーラを感じる。
 モンキーはなんといっても原付で来たということだけで頭が下がる。本人いわく失敗したといっていた。(笑)
※キャンパーネームとはキャンプ場を渡り歩く旅人につけられるニックネームで、面白いものが多い。チューヤンは北海道では「ツンドラ」と呼ばれていたらしい。
 この日初めて海に入った。ゴーグルとシュノーケルを持参していたのはヒロとケンジ。借りて潜ってみたが、このときはピンとこなかった。リーフの外で危険を感じていたからかもしれない。
※大学時代、千葉の九十九里で離岸流に流されかけたことがある。
 確かに透明度は凄いが、干潮のため、リーフでせき止められた海水は、ぬるいお風呂のようで気持ち悪い。
 夕方、バックパッカーのタカコも合流し7人グループになった。


Day22 5.6 Sat
浦内川リバーカヤック

 この日ハヤさんの企画による西表徒歩縦走の予定だったが、当のハヤさんの怪我のためやはり中止に。その代わりとして浮上したのが浦内川リバーカヤック
 南の楽園沖縄では当然ながらマリンスポーツが充実している。そのプランは西表最大の川「浦内川」を登り、マリウドの滝を見てくるというもの。
 驚いたのはその事前説明。安全のためとはいえ、多くのレジャーで規制はつきもの。事故などがあるとさらに厳しくなる。誓約書とか長い説明とかを覚悟していたが、実際行われたのは5分もかからない簡単なもの。まったくの素人6人相手に経験者のサポートもない。事故があれば自分たちの責任というわけだ。「茂ってる枝をつかむと転覆するから気をつけろ。」くらいしか覚えてない。
 全員一人乗り希望だったが、船の数の関係で二人乗りに。組み合わせは自分とケンジ、ヒロとミヤ、ノッチとタカコ。
 漕ぎにもすぐ慣れジャングルクルーズを楽しむ。川岸にはマングローブが生い茂り、秘境気分を満喫できる。
 行き止まりまで到着するとそこに船着場があり、歩いてマリウドの滝へ。正直なところなんていことない普通の滝ではあるが、目的地としての意義はあった。
 帰りはいくつかの支流を探索。鉱山の遺構があるとの情報を得ていて探してみたが、結局見つけることは出来なかった。
 喫水が浅く、パワーウエイトレシオの小さいヒロとミヤはどんどん先に進んでいく。それに対し重量のあるこちらは浅瀬で何度も座礁。悔しがってると先行の2人が転覆。爆笑しながら木の枝をつかむとこちらも転覆。注意されたのにね。(笑)
 最後の数百メートルではレガッタばりの競争。メシおごりをかけたような覚えがあるが、何とか引き分けに持ち込む。
 この日はもう一つ面白いイベントがあった。夕方よりキャンプ場近くの月ヶ浜で島おこしコンサート開催。低価格の露店や、地元出身の三線アーティスト「まーちゃん」のコンサートを楽しんだ。沈んでいく夕日を見ながら感じた別世界に迷い込んだような感覚を今も覚えている。
 もりだくさんな1日だったが、夜、地元にかけた定期連絡で、とても悲しい知らせを受ける。


Day23 5.7 Sun
終日フリー

 各自別行動。ハヤさんはなくしたメガネを探しに南風見田へ。ヒロとケンジは赤離(あかぱなり)へ潜り、ノッチとタカコは途中までそれに同行。ミヤと二人でキャンプ場に残った。毎日休みでも休日は必要なのだ。
 洗濯したのち日向ぼっこ。午後から一人で白浜方面を流した。島の南西の四分の一は道も集落もなく、白浜はその行き止まり。最後はゴミ捨て場になっていた。
 土産物屋のおばちゃんとしばし談笑。コーディネイトを指摘された覚えがある。
 テントはキャンプ場に張りっぱなしのため島での行動は近所へのお買い物感覚。特に意識したわけではないその日のライディングスタイルは、
RMX・バイク:イエロー
Bell Moto6・ヘルメット:トマホークスオレンジ
FOX パウテクター・グローブ:オレンジ
LIVI'S・Tシャツ:イエロー
海パン:オレンジ
New Blance・サンダル:赤/黒
ライダー・日本人:黄色人種(日焼け気味)
 黄オレ系星人だ。
 ここで長期の旅における洗濯方法を紹介。街中ではコインランドリーを利用することもあるが、テントではキャンプ場の炊事場で行う。
 まず量に応じた大きさの買い物袋を用意する。多いときには一番大きな黒ビニールごみ袋を使う。(このビニール袋は緊急時レインウェアやレインカバーにもなる。)
 袋の取っ手を片方、炊事場の蛇口に引っ掛ける(ビニールなら結ぶ)。そして水を注ぎ洗剤をよく溶かす。(当時タブレット型固形粉末洗剤。割って使うこともあり。)ここでの浸け置きもある。
 左手でもう片方の袋の取っ手を持ち、残った右手で回転させる。回転方向、洗濯物の量、繊維の擦れ具合などを考慮し調整できることを考えれば、洗濯機よりはるかに精度が高い。
 排水後軽く絞って水を交換すると今度はすすぎ。ここでのポイントはビニール袋の下の端に少しだけ穴を開けること。これにより注水しながらの排水ができ、水循環も良くあふれることがない。穴の大きさと注水量のバランスを取ることが大切。大きすぎると水圧で破れてしまう。きれいな水になるまで行う。
 実際あふれながらでも問題なく、再利用や破れることを考えたら穴を開けない方がいいが、旅におけるこだわりと遊び心。手動洗濯機というところ。
 最後に脱水。こればかりは回転式洗濯機に勝ち目がない。絞るか、振り回すか、乾いたタオルを当てるか。いずれもジーンズなど厚手の生地では厳しく、完全に乾くのに時間がかかる。時間はいくらでもあるが・・・。
 今日現在最後にこの洗濯を行ったのが、島旅帰りの鹿児島「国分キャンプ場」。テントの奥に写っている洗濯物がそれで、右の木の奥にはためいている白いのが”洗濯層”ビニール。
 ※紺と赤のUSJバンダナ。この1-2年後、北九州あたりの高速で風になった。

2011
 年齢を重ねていくにしたがい、生きているうちには行けない場所があることを意識するようになった。この西表に残る後悔について記録しておく。
 まずヒロたちが潜りに行った赤離(あかぱなり)。陸地に程近い小島の集まりなのだが、強烈な存在感を放っていたのが座礁船。上陸当日にも目が釘付けになった。
 30-40年前から放置されており、全体が赤茶けた錆に覆われている。ヒロたちは泳ぎ着いたらしく、ネット検索では鉄腕DASHでも取り上げられたことがあるよう。
 残念なのはこのときまだ素潜りに興味を持っていなかったこと。二人に付いていく選択肢はまったくなかった。
 次に西表島温泉。温泉フリークとして必ず押さえておかなければいけない場所だったが、当時1,200円と聞き瞬殺してしまった。現在はリゾート化が進み、なんと1,500円もするみたいだが、最南端、最東端の温泉としてステータスは高く、今なら必ず行くのに。
 西表炭鉱。白浜から目と鼻の先にある内離(うちぱなり)島にあり、その北200mを海峡を挟んで外離(そとぱなり)島がある。内離はほぼ全体が炭鉱施設で、強制労働など負のエピソードも残る。軍関係の遺構も残っているらしい。
 空撮を見ると西表からはわずかの距離で、奥は船浮湾という大きな入江。潮が引いた状態から浅瀬を利用すれば流されても陸地。泳いで渡っても危険はなさそう。
 船浮は船以外到達手段のないまさに陸の孤島。今も人が住んでいる。すべてをひっくるめたツアーもあり、地元も積極的に観光誘致している模様。
 当時も船で渡れるという情報は持っており、炭鉱、船浮とも実現できなかった後悔は本当に大きい。
 船浮からさらに岬一つ越えた網取にあるのが東海大学沖縄地域研究センター。ここも船でしかアクセスすることが出来ないが、定期船が2010年まであったことに驚く。
 70年代すでに廃村になっており、センターは中学校跡地を利用しているとのこと。
 こちらも当時からその存在を知っていたが、関係者以外接点がないものと思い込んでいた。サイトを見ると、何らか研究テーマを持っていれば一般でも利用できるよう。
「放浪旅人における僻地(へきち)探求心理」
 レポート用紙一枚でどうだろうか?


Day24 5.8 Mon
パナリ島

 一緒に波照間に渡るミヤ、ハヤさんとは今日でお別れ。残りのヒロ、ケンジ、ノッチ、タカコとパナリ島に向かう。
パナリ島/新城(あらぐすく)島
 沖縄離島情報で知って以来絶対訪れてみたかった島。上地と下地、二つの小さな島からなる。2000年当時住人は上地に4人、下地に牧場管理者が1人となっていた。
 渡るには西表、黒島、石垣などからツアー(1人10,000円程度)が出ているが、大原から15,000円でチャーターできた。頭割りで1人3,000円と安い。同じ店でシュノーケリング3点セットもレンタル。
 船はまず上地島の集落に到着。そこからは徒歩で移動する。港付近には民家があリ、昔はそこそこ人がいたことが伺えるが今はその気配はない。
 ビーチにつくとまだ満潮に近かった。海峡なので潮流もあり危険。しばらくの間、岸付近で泳ぐ。それにしても強い日差し。あたりに日陰はまったくない。ただ先月タイから帰ってきたばかりのヒロは真っ黒で気にもしていない様子。
 昼頃から東にリーフが現れ、海峡の流れが止まった。待ってましたとばかり沖へ泳ぎだす。上地と下地の距離は400mくらい。水深は10m前後だろうか?海底には明るい光に照らされ波の影が揺れている。お花畑と呼ばれる色とりどりの珊瑚、その中を図鑑や水族館でしか見たことがない熱帯魚がたくさん泳いでいる。
(パラダイスか?)
 もともと潜る趣味はなかったが、スキューバをやる人の気持ちが一発で理解できた。
 そのまま下地の海岸に泳ぎ着いた。ヒロとケンジはまだ海に、ノッチとタカコはリーフを歩いて散策している。上陸して先に進んでみた。下地は全体が牧場になっており管理人がたった一人いるだけ。何もないはずだが。
(いや、いた。)
 アブの襲撃だ。無防備な海パン一丁ではとても太刀打ちできない。
(下地島よさようなら。)
 走って浜まで逃げ帰り、上陸してきた二人に状況を伝え即時撤退。その後時間いっぱいまで、一度も足の付く場所に戻ることはなかった。みんなが海人(うみんちゅ)となった忘れられない一日。

2011 9.13
 ハヤさんとはこの日別れて以来会っていない。北からの帰りに甲府で一度連絡を取ったが、タイミングが合わずじまい。メールのやり取りも07年が最後となっていた。今回これを書くにあたり連絡してみると、元気なハヤさんと話すことが出来た。
 驚いたのは当時乗っていた99年式ヤマハ・ランツァに乗り続けていることと、いまだにこのサイトをチェックしてくれていたこと。40,000km越えの2スト。素晴らしい。いつか再会できる日を楽しみにしています。
沖縄離島情報(コンパクト版)
 沖縄を貧乏旅(?)する人のバイブル。たくさんの情報がA5サイズの一冊に凝縮されている。
パナリ島
 泳いで渡ったパナリ海峡は今までの人生の中でナンバーワンの海。目を閉じると、今でもキラキラ光る海底が浮かぶ。同時に負の側面も残った。汚い海には入る気がせず、この10年地元の海にはあまり行ったことがない。今は民宿もあり滞在できるよう。


Day25 5.9 Tue
テントサイトで

 ヒロが一人、与那国に向けて旅立った。石垣でまた会えるはずなので無事を祈りつつ送り出す。
 昼間はずっとキャンプ場。ケンジ、タカコと語り合った。それぞれ色々な悩みを抱えているよう。若いということは素晴らしい。
 放浪旅人がみなノーテンキに毎日を過ごしているわけではない。将来という決して小さくはない不安を抱えながら、時には沈み、見ない振りをして旅を続ける。
「人生は一度しかない。」
 かけがえの無い体験と、問題の先送りという二つの側面を、バランスを取りながら、各自の価値観で合理化していく。いつの日か振り返ったとき後悔のないように・・・。
 夕方、月ヶ浜に繰り出し夕日を見た。西表最後の夜をワインで。


Day26 5.10 Wed
ふたたび石垣へ

 残った4人(タカコ、ケンジ、ノッチ)で西表を離れる。まずひとり別行動でイリオモテヤマネコの保護センターへ。夜行性のヤマネコはしばしば交通事故に遭うため、怪我をしたものが保護されている。ちょうど1匹いるとのことだったが肉眼で見る事は出来ず、監視モニターを通して。微妙。
 続いてパナリに渡してもらったショップでゴーグルとシュノーケルを購入。これでいつでも潜れる。
 港でみんなと合流。キャンプ場で一緒だった面々が集結している。チューヤン、世界2周、福井モンキー君、カップル一組。乗船客が多く全員部乗れるか心配したが、なんとか無事乗り込むことが出来た。
 5日ぶりの石垣上陸。すぐにディスカウントショップに立ち寄る。どこでも水浴びが出来るようホース(2m買ってケンジと2等分)と、バイクにつける安い時計を買い、さらにあやぱにモール(商店街)のタダでネットできる場所で久しぶりに掲示板をチェックした。
 夜はケンジとナーベーラー(へちま)定食なるものを食べた。こちらも次回は違うものにしよう。
 ノッチ、タカコとも合流し、市内中心部にある新栄公園にテントを張った。静かな夜・・・。


Day27 5.11 Thu
竹富島へ

 4人で波照間に渡りヒロと合流するはずだったが、なんと船がいっぱいでバイクを載せることが出来ない。ノッチはバイクを置いてバックパッカーとなりタカコと乗船。仕方なく2人を見送った。日本最南端へはバイクで渡らなくては意味がない。
 時間が空いたので、国頭で濡れた一眼レフと、すでに不具合が出始めていたコンパクトカメラを自宅に送り返した。あとは使い捨てカメラのみ。
 ケンジと再プランニング。竹富島を目指すことにした。
竹富島
 島内をまわる水牛車で有名な竹富島は、石垣から高速船でわずか10分ということもありたくさんの観光客が訪れる。二つの船会社が交互に30分おき。どちらかが15分に1便出ていてスピード競争をしていた。しかし何の迷いなくフェリーを選択。こちらは4日に1便。つまりバイクを渡してしまうと4日間石垣に戻ることが出来ない。いやというほど堪能できるだろう。
 港についてどうしようかと考えていると、チューヤンが徒歩で現れた。彼はバイクを石垣に残し、1時間そこそこで島内1周したという。バイクを見てテント・野宿禁止だと教えてくれた。
 こちらも事前にその情報は得ていて、テントは張らず、野宿できないかと考えていた。狙っていたのは島西側にあるコンドイビーチ。途中の道端には仕事を終えた水牛たちがのどかに食事中。
 ビーチの東屋は申し分ない環境だった。そばにはたくさんの見たこともない蝶がヒラヒラしている。
 暗くなって、自販機を探しに一人、集落に向かった。この島の道路は大半が砂で、明るい月明かりが白っぽい路面にくっきりとした影を落とす。
 鳥?生まれて初めて聞く面白い泣き声の生き物が鳴いている。別世界にまぎれ込んだような印象的な夜だった。


Day28 5.12 Fri
竹富島二日目

 朝食をとっていると、ビーチにマイクロバスが入ってきた。バスはそのまま海の家に変身。出てきたおじさんは昨日島に上陸してすぐ見た覚えがある。「どけ」とまでは言わないがすごく威圧的な態度。こちらも半公共の場で寝泊りしているため強くは出れない。
 朝早くから観光客をのせた1BOXが何台もやってきた。驚いたことに来たと思ったらすぐUターンして帰って行く。せっかくここまで来たのに何をしに?
 バイクをコンドイにおいたままケンジと歩いて港へ。もしかしたらヒロが渡ってくるかもというので、午前中いっぱい待ってみる。その間人間ウォッチング。
 絶え間なくやってくる観光客に対して、宿や水牛車への呼び込みが行われる。半日も見ているとなにか感じるものがあった。それは観光客を「処理」しているという感覚。会話も聞き取れるためなおさらその印象は強い。ケンジに話すと、彼も同じことを感じていたらしい。結局ヒロは現れなかった。
 昼食をあさひ食堂でとり、島の南東部にあるアイヤル浜に向かう。数人の観光客に出会ったが、コンドイと比較して静かな浜だった。ゆっくりと昼寝。強い日差しに肌がジリジリくる。この日もコンドイで野宿。


Day29 5.13 Sat
竹富三日目

 カイジ浜。お店が一軒あリ観光客もそこそこいる。この浜では星の砂がよく取れる。ただすくった砂がすべてそうだというわけではなく、少し採って掌で選別する。そのため、数を集めるにはある程度の苦労を要するが、いい時間つぶしになった。小さな島に三日目。完全に時間をもてあましていたのである。
 お昼はそば竹の子。冷房が効いた店内でマンガを読む。南の島の楽園でいったい何をしているのか?ケンジと港で作戦会議を開いた。
 バイクを移動することは出来ないので、高速船で人間だけ石垣にもどり、黒島に渡ることに。夜は引き続きコンドイで野宿。


Day30 5.14 Sun
竹富〜石垣〜黒島

 8:00の高速船でテントだけ持って石垣に戻る。そこからまた高速船に乗り換え黒島へ。チケット売り場でとても腹が立つことがあった。融通のなさと対応の悪さに閉口。安栄観光にはもう絶対乗らない。
黒島
 島内のほとんどが牧場という肉牛の島。毎月13日にはセリ市があるというがなんと昨日。とても残念。
 ウミガメの産卵も有名で、その保護のためキャンプは仲本海岸のみに制限されている。バイクは竹富に置いてきたため、港からキャンプ地までかなり歩くことになった。
 途中でビジターセンター、海中公園研究所に立ち寄った。研究所ではウミガメの赤ちゃんを見ることが出来る。愛嬌があってとってもかわいい。ここで出会った埼玉の女の子と3人でランチ。(黒島マリンビレッジ)
 彼女はなかなかのツワモノで、埼玉から自転車で北陸へ、友達の結婚式に出席後自転車を送り返し、現在はバックパッカー。昨日は仲本にテントを張ったということで情報をもらった。
 仲本海岸は、狭いが設備が充実しており、トイレ、シャワーも新しい。
 テント設営後すぐ民宿「くろしま」で自転車を借り島内散策に出た。本当に牧場しかないが、竹富に比べて観光地化されていないところがいい。ただこちらも小さなことに変わりはなく、自転車でも1時間ちょっとでまわってしまった。夕方少しだけシュノーケリング。
 夜はキャンプ場のみんなと盛り上がる。小浜島のリゾート「はいむるぶし」で働いていたという彼は、このあと西表・由布島の水牛車を引くアルバイトをするとのこと。倉敷ナンバーのモンキーもいた。原付でお疲れ様。
 この時知ったのがペットボトルランタン。簡単な加工を施したボトルの中にロウソクを灯す、言わばキャンドルランタンで、風に強く、すすで黒くなればすぐ作り変えることができる。ロウソクが安価で入手しやすいのもうれしい。全面が透明なため光の効率がよく、ボトルの形状により様々な形の「ゆらぎ」が発生した。
 製作にはとてもハマり、吸気口や排気口のついたもの、置くタイプや吊り下げタイプなどいろいろ試した。最近はあまり使うことはないが、今でも天井に一個ぶら下がっているし、キャンドルに興味を持つきっかけとなった。


Day31 5.15 Mon
黒島~石垣~竹富~石垣

 港に向かう前また潜る。ここの海は、干潮になるとリーフが外海と遮断されプールになる。中に残った魚が餌付けされていてえさをやると寄ってくる。保存食料のソーセージやっていてモンガラ(魚)に指を噛まれた。
 時間ぎりぎりまで海にいて急いで港へ。再び船を乗り継ぎ竹富に戻ってきたが・・・。
 港近くの邪魔にならないところに置いていたバイクにどけろという張り紙がしてある。無断で駐車していたことはいけないし、邪魔になったかもしれないことも前提として、南の島ではとにかくこういう体験が多かった。同じように旅をした北海道ではまったくなかったことから、やはり強い記憶として残っている。自分を含めた過去から現在に至る旅人の振る舞い、土地の狭さ、もしかしたら民族的ことも影響しているのかもしれない。初日のコンドイでの出来事もあわせて竹富には良い思い出がない。ただあの月明かりの夜は今でもよく覚えている。砂の路面に落ちる自分の青い影・・・。
 バイクと共に石垣に戻り、テントサイトは再び新栄公園。つらい夜だった。明け方まで近くで大声で騒いでいる連中がいてまったく眠れず。この件に関しても、公共スペースでのテント泊のためどちらかといえばこちらが悪いが・・・。
 それともう一つ。冒頭に書いた胸部CTでの右肺の影が気になり始めていた。


Day32 5.16 Tue
日本最南端コンプリート!

 5日前、満車によりフェリーに乗ることが出来ず、ノッチとタカコを見送った離島桟橋。日本最南端波照間島(はてるまじま)を目指す。島までの所要時間は2時間。チューヤンたちとまた一緒になった。やはりバイクは石垣に置いてきたらしい。
 航行中面白いものが見れた。それはトビウオ。船の進行と同じくして水面から少し上、時間にして5秒前後だろうか。かなりの距離を飛行する。トビウオはホントにトビウオなんだと妙に納得。
波照間島
 バイクで旅をする人間にとって4つある聖地のひとつ。有人島では日本国内最南端の地である。それほど大きい島ではなくバイクで15~20分程度で1周できる。ここでもやっかいな情報を仕入れていた。
 テント、野宿は禁止。警察まで絡んでいて見つかると民宿に強制収容されるという。九州・沖縄サミットを目前にしていたことも影響していた。八重山に来てずっとこのような心配ばかりしているような気がする。
 港につくが迎えがいない。ヒロ、ノッチ、タカコが来ているはずなのだが・・・。
 とりあえずニシ浜ビーチへ。観光客もちらほら。3人を探していると、なぜか広島県人と出会った。彼はこの島に住んでおり、愛車のハイラックスサーフはまだ広島ナンバー。南の島での広島弁はかなりの違和感がある。やはり「キャンプできないよ。」と教えてくれた。そこにヒロたちが到着。3人は人目を避け、ビーチ近くのジャングルのようなところにテントを張っていた。デカイ蚊が飛び回っている砂地の高台にあリ、寝ているうちに流砂が起こり、地面が崩れそうな恐ろしい場所だ。
 再会を喜ぶ間もなく、入れ替わりに石垣に戻る3人。ヒロとはここでお別れ。彼はこのまま北海道旭川のアパートへもどり、実家横浜に引越しするのだ。 お互いの旅の無事を祈りつつ再会を約束し別れた。ノッチ、タカコとは石垣でまた会えるだろう。
 ケンジと2人で島内を偵察開始。その前にまず腹ごしらえ。食堂「パナヌファ」はエスニックな感じのするいい感じのお店。
 次に寄ったのは土産物屋「モンパの木」。オーナーは関西出身の女性で、もう16年この島に住んでいるそうだ。そして・・・。
 ついに日本最南端の地に立った!レンタサイクルのチューヤンたちも現れ一緒に記念写真撮影。彼は、昨年からずっと一緒に旅をしている北海道ホクレンの旗を石垣に忘れ、写真に入れられないと悔しがっていた。
 そうこうしているうちたくさんの観光客を連れたガイドがやってきた。彼女の名前ははるかちゃんといい、関東出身で島の民宿で働いている。夏からは「パナヌファ」で働くと言っていた。広島県人、モンパオーナーといい内地からやってきた人が少なくないようだ。
 帰りに再び「モンパの木」の前を通ると、なんと黒島で一緒に食事した女の子とばったり。再会を喜び合う。(ケンジは旅を終え横浜に帰った後、彼女と交流があったらしい。)
 夕方、水平線に沈む夕日を見た。
琉球の方角
 東(アガリ)、西(イリ)、南(フェー)、北(ニシ)。「北」が「ニシ」というのが紛らわしい。
ニシ浜ビーチ
 この年の秋、ビーチの東屋で旅行中の女の子が殺される事件があった。当時全国版ワイドショーなどでも大きく取り上げられたが、その中でも印象的だったのが旅人心理。
 たしか、宿などで初めて会った人を港まで見送りに行くか?というもの。長期間旅を続けていると、話し方や行動パターンで相手がどういう旅をしているか想像がつくようになる。たった一度食事をしただけでも別れを惜しみ、その後の旅の無事を祈るということが無意識に行われる。
 反面、このような事件が旅人、地元双方に残す傷跡は計り知れない。犯人はすぐに捕まったがやはり旅行者だった。ニュースを賑わせた多くの指名手配犯がある意味「旅人」だったことを考えると、よそ者が警戒されるのは当然だろう。それを踏まえ、自分が何者かを明らかにする行動を心掛けている。
「パナヌファ」は「あやふふぁみ」という名前に変わり営業中らしい。


Day33 5.17 Wed
Dive! Dive! Dive!

 一日中潜る。ニシ浜ビーチでは、リーフが海岸近くで急激に落ちこんでおり深く青い。遠浅というとエメラルドグリーンの面積が広く見た目美しい。さらに生まれ育った瀬戸内海には少なく憧れではあった。ただ潜るということになると話は別。竹富のコンドイなどは「もういい!」ってくらい延々と遠浅が続き、いるのはナマコくらい。
 リーフの切れ目はとても美しく、珊瑚が縦方向に連なり階層を成している。同時に危険も存在する。瀬戸内と違いここは外海。潮流に気を配ることを怠れば、黒潮と旅をする羽目になるかもしれない。
 昼食は「たかな食堂」ではるかちゃんに作ってもらう。その後ケンジと話し合い、素泊まり民宿「勝連荘」に宿泊することに。何も悪いことはしていないのに逃げ隠れしながらキャンプするのは楽しいものではない。5/1のフェリー船中泊以来久しぶりに屋根のある夜。

2011.12.29
 昨年9/10の夕方、ケンジから久々のメールがあった。内容はただ「健在です。」とだけ。添付写真にはなんでもない民家の玄関が写っており他には何の情報もない。
 彼とは必要な言葉以外かわさない。このメールも実に何年かぶり。ヒロ経由でたまに情報を得ていたし、便りがないのが元気な証拠というわけだ。その簡素なメールから考えること数秒。
(勝連荘の玄関!)
 ケンジ、健在、民宿。記憶の連鎖により11年前の光景がよみがえった。
「モンパの木は?パナヌファは?」
 モンパの木も健在、パナヌファは先述の通り。ケンジはスキューバのライセンスも持っていて地元では御蔵島がホーム。八重山ではマンタを狙っていたそう。
 もう一つ違うエピソードがある。東日本編に登場する大学時代の友人クロダ。彼も95年波照間を旅し、その時お土産にくれたのがモンパの木のキンチャク。今もガソリンストーブを入れ使用している。


Day34 5.18 Thu
波照間島~石垣

 石垣に戻るフェリーの時間までニシ浜で潜る。ケンジは次の便までもう数日、島に残るとのこと。
 思い返せばすでに3週間近く仲間と一緒に行動してきた。これはバイクに乗り始めて初めてのこと。那覇新港で話しかけてきたヒロの姿が目に浮かぶ。この時点でケンジとはまだ合流する予定だったが、船の別れというのは独特の寂しさがあった。誰もが映画の主人公というところか・・・。離れていく岸壁では、ケンジが恒例になりつつあるラジオ体操第一で見送ってくれた。
 石垣に戻ったがキャンプ場までいくのが面倒になり素泊り宿を探した。この頃から沖縄にたくさんあるファミリーレストラン「A&W」(エーアンドダブリュー、通称エンダー)にハマリ始める。不思議な味の飲み物「ルートビア」にやみつきになったからだ。ビアといってもアルコールではなく、何かの根(ルート)から抽出したエキスが元になっているらしい。サロンパスのような味と形容され、おそらく10人中9人がまずいという。サイズはL、M、Sとあるのだが意味不明なおかわり自由。わざわざ単価の高いLを頼まずSでおかわりしまくる。何杯か繰り返していると、凍ったジョッキに変えてくれたりする満点のサービス度。

2012.1.4
 ルートビアは今でも大好きで、岡山に直輸入の店(インポートショップトレンド)があり近くを通った際買いこんで帰る。当時沖縄のスーパーで350mlアルミ缶一本58円程度で売っており、コストパフォーマンスも高い。ただ缶入りはきめ細かく舌触りが若干異なる。やっぱり店でジョッキで飲むのがいちばん。
 波照間を出る直前にモンパの木に寄ったと書き残している。記憶をたどると、その後けっこう長い期間使ったキーホルダー他アクセサリー類を買ったのを思い出した。
 さらにこの晩どこに泊まったかまったく覚えておらず記録を開いてみると、石垣市内西側の「パークハウストモ」という民宿。白保海岸近く、街の東側だと思っていた。夕食も中華屋とだけ書いてあるがこちらも一切の記憶なし。


Day35 5.19 Fri
髪きり~玉取崎~伊野田キャンプ場

 宿をチェックアウトし髪を切りに行く。あやぱにモールの東のハズレ?店内は木目調の内装だったような・・・。旅先で髪を切ることはまずないので不思議な感覚だったことだけよく覚えている。
 マエザト食堂でお昼。泊まったと勘違いしていたのはここかも。すぐ目の前にある青サンゴで有名な白保海岸に立ち寄った。潜ろうと思っていたが、海岸には誰一人おらずスルー。そのまま玉取崎へ。
 この展望台から見える海は本当にきれいで、エメラルドグリーンとはまさにこの色のことを言うのだろう。関西から来たという女の子としばし談笑。
 そして石垣では放浪旅人の双璧である伊野田キャンプ場に到着。ここでまたもやチューヤンと再会した。夜の宴会に誘ってもらったが、食事も取らずにうたた寝、朝まで目が覚めることはなかった。

2012.1.11
 玉取崎まで行っておきながら、平久保崎(石垣島最北端)に足を伸ばしていないのが不思議であり悔いが残る。川平は行ったが西の半島にもまったく踏み入っておらず、離島とキャンプ場との往復だったことがうかがえる。それだけ仲間との時間が楽しかったということかもしれない。
 そういえばチューヤンは同じコールマンのツーリングテントを使用していた。フライシートには旅先で出会ったたくさんの仲間の走り書きがあった。記憶をたどっていると、なんとなく当時の伊野田の空気がよみがえってくる。あのテントは今どうなっているのだろう?


Day36 5.20 Sat
地図帳の悲願

 早々に伊野田を撤収し離島桟橋に向かった。
与那国島
 小学校高学年だったか中学に入ってからか、社会の教科書に付属した地図帳を手に入れた。世界・日本地図と各種データからなる地理の本で、まだ見ぬ風景に思いをはせた。
 世界地図でもっとも興味を持ったのは今も変わらず楼蘭ロプノール。後年知ることになるスヴェン・ヘディンの名も欠かせないが、一生行けない場所であることは間違いない。同時に国内で目に留まったのがこの与那国島だった。
(沖縄本島に戻るより台湾の方が近い!)
 その最果て感は宗谷をしのぎ、いつの日か到達することを夢見た。実現に必要なツールを手に入れて以降91年の宗谷納沙布、そして今回の波照間と、バイクでいける国土の果てを順調にコンプリート。これが最後の聖地であり、4点のうち唯一一般人が到達可能な正真正銘の国土末端である。
 フェリーで4時間。この船、別名「ゲロ船」と呼ばれるが、言うほどの揺れはなかった。
「上陸・・・。」
 お約束のテント・野宿禁止。
(さて、どうしよう。)
 とりあえず腹ごしらえということで、久部良の港近くにある「ユキさんち」という食堂に入った。上品な雰囲気漂うユキさんも内地の出身だそう。日替わりカレーをいただく。
 まず目的の日本最西端西崎(いりざき)へ。天気の良い日には台湾が見えるというが、感動は意外にも少なかった。碑のまわりには、この夏開催される九州・沖縄サミットにあわせ、参加各国の国旗が掲揚されている。とりあえず写真におさめ、テントサイト探しに出かけた。
 比川浜で東京から来たというチャリダー、わたぬき君と出会った。彼もテントを張れるところを探しているよう。
 東崎(あがりざき)、サンニヌ谷、ダンヌ浜と、押さえておきたい名所をひと回りするがどこもしっくりこない。この島の海岸は断崖が多く、これまで訪れた南の島のイメージとは大きく違っていた。結局暗くなるのを待って西崎に設営。
 夕方、岬入口にあるトイレの水が出なくなる。どうやら時間で管理されているよう。誰ひとりいない日本最西端。深夜、雨の降る音がする・・・。

2012.1.16
 東崎で面白いことがあった。岬は牧草地となっており、牛や天念記念物の与那国馬が放牧されている。離島、特に南の島ではよく見られる風景で、あたり一面に落ちている糞を避けながら展望台まで歩いていた。多くは臆病な雌牛で通常向こうが避けてくれるが、しばらくして巨大な牡と出くわした。遊歩道のコンクリート部分は幅1.5mほど。お互い譲らず睨み合いとなった。
(チキンレース。)
(・・・・・・。)
(降参!)
 こちらの何倍もある身体と堂々とした態度にビビリが入り、負けを認めざるを得なかった。彼は道の真ん中を悠然と歩いていった。
 日本の西の端の記憶は、夜、テントの中にあった。設営した緑地帯の近くに灯台があり、正確な間隔をおいて明るくなる。横になり、白く点滅する天井を眺めながら、何も考えずボーっと目を開いている自分を思い出す。11年という歳月は、夢と現実の境界を曖昧にする。あの夜、自分は本当にあの場所に存在したのだろうか?


Day37 5.21 Sun
亀のお宅

 ユキさんちで早めの昼食を取り、定番観光地巡りの続き。
 最初に久部良(くぶら)バリ。海辺にあるただの岩の裂け目だが、辛い歴史を持つ場所だった。昔、この地方に人頭税という重い税制度があり、それを逃れるため妊婦を集めて飛び越えさせ、成功した者だけ生存を許したという。
 ティンダハナタは岩の回廊が続く。
 宇良部岳は頂上にアンテナがありバイクで行ける。ヨナグニサンという日本最大の蛾がいるらしく、このときも虫取り網を持った人を2人ほど見かけた。
 このあたりからまた今日の寝床を探し始めるが、なかなかいいところがないうえ、空模様も怪しい。平地に下りナンタ浜で地図を開いていると、突然声を掛けられた。
「おーっ!」
 ノッチだ。波照間の港で見送ってから5日ぶりの再会。石垣でタカコと別れたあとこの島に渡り、草刈りのアルバイトをしているという。これからヤシガニ獲りに向かうらしい。さらにノッチとの話し中ずっとそばで様子をうかがっているおじさんがいた。聞いてみると、なんと(広島で)隣町に住んでおり、ナンバーを見て気になったとのこと。つくづく世間は狭い。かなりの時間おしゃべりしたのちおじさんは海へ。少し離れたところでは船で見かけた女の人が泳いでいる。
 一人になり、再び宇良部岳へ。テント設営中今にも降りそうだった雨がついに落ち始めた。
 夜、外で動くものが!よく見ると大きな亀。甲羅に降った雨が反射しキラキラ光っている。誰もいないこの場所で小さな仲間意識が芽生えた。いや、彼らのお宅に泊めてもらっているというところか。

2012.1.24
 あのとき話したおじさんは今も元気に隣町に住んでいるのだろうか?
 旅先で同郷人と出会ったとき感じる気持ちはなんとも言えない。波照間で会ったお兄さんもしかり。
 広島県人は地元では保守的・排他的な反面、開拓者でもある。歴史上、北海道、ハワイ、そしてブラジルへの移住がそれを物語っている。普段気にもせずすれ違っているのに遠くで出会ったときのあの安堵感。不思議。
 実はノッチはタカコを追いかけていた。しかし残念ながらその恋は叶わなかったよう。
 与那国で真っ先に思い出す絵は、前日の灯台の光と、この日の雨に濡れた亀の甲羅。


Day38 5.22 Mon
ゲロ船

 朝起きても雨が降っていた。この頃、出会った旅人に雨設営と雨撤収どちらが嫌かという質問をよくした。持論はやはり撤収。濡れて重くなるうえ、次に開くとき臭くなる。
 急いで埠頭に向かった。この島の航路は週二便。これを逃すと3-4日後となる。数日前同じ便で上陸したチャリダーのわたぬきくんと再会した。輪行という言葉をこのとき初めて知った。自転車はそのまま船にのせると料金が発生する。そのため前後輪を外して小さくし、キャリーバッグで覆うことにより手荷物扱いにすることができる。当然積載している荷物がを手持ちとなるので大変。先にバイクを乗せ運ぶのを手伝った。
 もうひとり面白い人物と出会う。歳は30代後半だろうか?所持金が少なく、昨夜は教会に泊めてもらうため洗礼を受けたという。
「そんなんで洗礼ってできるの?」
 おまけに金がなくなったので役場に借りてくるという。
「役場で借金できるの?で、いつ返すの?」
 いろんな意味ですごい。
 埠頭にはたくさんの見送りが来ている。何人かは行きの船で顔見知り。島を離れる者、島に残る者。たった少し話しただけでも別れを惜しむ。これが旅人である。
 ノッチやおじさんと話したナンタ浜で出会った女の人から面白い話を聞いた。与那国の南東のダイビングスポットには海底遺跡があるという。とても興味を引かれたが、さすがにシュノーケリングでは無理。彼女は博多大丸に勤めており、「近くを通ったなら」と名刺をいただいた。
「ゲロ船」
 前に書いたように、与那国〜石垣間航路の別名。生まれ育った瀬戸内海と比較して、ここ南西諸島はまったくの外海。特に波照間と与那国は有名で、危ないときは酔い止め飲んですぐ寝るというのがいちばんの解決策だった。しかし波照間も、行きの与那国も言うほどの揺れはなく、「たいしたことないじゃん」と高をくくっていたのだが・・・。
(いやはや、なんとも)
 後にも先にもこのときほど揺れた船に乗ったことはない。まさにゲロ船本領発揮。横になっていると身体が宙に浮いている感じがする。いや、本当に波にもまれ、浮いているはずだ。ビルの1階から2階では生ぬるい。1階から3階を上下しているよう。急激な上下の重力変化は、体液の位置エネルギーを維持しようとする。まるでエアポケットに入ったときの、風が身体の中を通り抜けていくようななんとも言えない気持ち悪さ。
 トイレは満員。行き場所のない数人がその前で青い顔をして座りこんでいる。港で出会った”にわか”クリスチャンは、乾いた吐物で口のまわりがガビガビだ。そんな中屋外デッキにいる者もいる。足元は雨ではなく海水。波をかぶったあと姿が見えなくなっていてもおかしくない。
(沈むんじゃ?)
 ホントに心配になるが、出港したんだから大丈夫なんだろう。
 酔い止めと睡眠療法で、吐くことなく無事石垣へ到着。トイレ軍団の仲間にならなくてよかった。みな疲れ果てている。
 船でこの埠頭に着くのはこれで7度目。波照間から帰っていたケンジが出迎えてくれた。そのまま近くの公園で雨にぬれたテントを乾しながら、お互い離れてからの出来事を報告しあう。さらに撤収後、エンダー&ルートビアで乾杯。違うボックスではわたぬきくんも連れと一緒だった。
 夜になり、石垣の食堂「たかしま」でアルバイトを始めていたたかこも合流し、ワインとホカ弁。数日の単独行動で、仲間といる楽しさを再認識した。港での宴会は深夜まで盛り上がりったため、キャンプ場まで行くのが面倒になり、波照間行き桟橋の待合所ベンチで野宿。先客が来ているなと思ったら、再び登場のわたぬきくんだった。いつものごとく蚊の襲撃に遭いなかなか寝つけなかった。

2012.2.2
 その後博多大丸での再会は実現しなかった。(帰りは宮崎、大分経由のため。)あれから12年、まだ名刺は持っている。
 惜しむらくは、この最南端、最東端の島にフェリー一便の間しか滞在しなかったこと。せめてもう一便(それでも3-4日になる。)遅らせていれば、もっと何かを得ていたような気がする。週末いけるような場所ではないのだから。


Day39 5.23 Tue
別世界

 わたぬきくんは波照間へ、再びケンジと合流し小浜島へ。
小浜島
 八重山では比較的地味な島。そもそもの目的は、無人島「嘉弥真島(かやまじま)」に行くためだった。
 とりあえず1周。この島もそれほど大きくなく、バイクですぐに1周することが出来る。途中で見つけて気になったのは、数年前に閉鎖された「コーラルリゾート」。広い敷地に一戸建てのコテージが立ち並ぶ。メインの管理棟は神殿のようなつくり。ただ閉鎖されて時間が経っておらず、探究心は芽生えなかった。チャンスがあればまたいつの日か。
 食事は少し小高い町の中央にあるシーサイドという食堂。昼も夜もお世話になる。というか、ここしかないという方が正しい。おいしくて値段も安い。
 上陸前より気になっていた場所へ。
ヤマハリゾート「はいむるぶし
 テントも楽しいがゴージャスなホテルも嫌いではない。外にいたスタッフに聞くと、バイクで入っても問題ないとのこと。広大な敷地の最奥に位置するビーチに行ってみると・・・。
(苦笑・・・。)
 真っ白な砂浜に置いてあるチェアーには幸せそうなカップルが横たわり、沖ではクルーザーが引っ張るバナナボートが白波を上げている。米原キャンプ場とはあまりにもかけ離れた光景に、汚れ放浪キャンパー野郎2人はとてつもなく浮いていた。なにしろビーチチェアーに座るだけで料金が発生するのだ。「折りたたみ椅子が買えるぜ!」みたいな・・・。面白いものを見せてもらったと感謝しつつ、そそくさとその場を立ち去った。
 細崎は島の西の端。行き止まりはゴミ捨て場となっている。ちょうど向かい側、手の届きそうな距離に西表の由布島が見える。デカイ魚が泳いでいて、ケンジに名前を教えてもらったが忘れてしまった。
 今日のベッドは港の公園にある東屋のベンチ。トイレもあり快適。キャンパーにとって最高のリゾートだ。

2012.2.6
 「はいむるぶし」は名前だけかなり昔から知っていてぜひ行ってみたかった。キャンパーはまず立ち寄らない場所。
 最新のサイトをみてみると、ローシーズンスタンダード2名利用、一泊朝食つき最低料金がひとり当たり17,850円で意外にリーズナブル。もちろんハイシーズンは3万近くになり、さらに部屋のグレードを上げるととんでもないことに。12年前はもっと高かったのではないだろうか。
 その後訪れる薩摩硫黄島トカラの島々では何度もヤマハの名前を聞いた。しかし、実際に行った島ではそのすべてが失敗し廃虚となっていた。硫黄島では開発の名残として孔雀が野生化し、島の随所で見ることが出来る。
 このとき廃虚だった「コーラルリゾート」は、その後人手に渡り何度か営業していたらしいが、今現在再び閉鎖されてる模様。グーグルでは「別荘村サンゴ倶楽部」となっている。
 冒頭で小浜島を地味な島と書いたが、この翌年の01年上半期、国仲涼子主演のNHK連続ドラマ「ちゅらさん」の舞台となり全国的にブレイクした。


Day40 5.24 Wed
嘉弥真島

 嘉弥真島(かやまじま)は小浜島から船で10分の距離にある無人島。島まで運んでくれるのは、「ダパンプ」しのぶくんの実のおじいさんだ。短い船旅を終えすぐにテント設営、海へ!
 無人といってもビーチ管理人として若い男女(20代前半?女2、男1)が常駐している。日帰りの体験ダイバーも訪れ、管理人は「お花畑」と呼ばれる、珊瑚にたくさんの魚が集まる場所に連れて行く。こちらはもちろん泳いで現地へ。
 最高にきれい。でかい海蛇もいた。基本的にこっちが何もしないと向こうも何もしない。もちろん襲ってくるようなことはない。われ関せずという感じで優雅にえさを探している。しかし、コブラより猛毒という一般常識が染み付いており、突然現れるとさすがにビビる。同じく毒のあるミノカサゴなんかもいて注意が必要。
 無人島という意識からかなんとなく開放的な気分。夕方、水平線に沈む夕日をみた。これまで見たことがあるのは、厳密には「水平線上にある雲」に沈んでいくものがほとんどで、真の水平線に沈む夕日はあまり記憶にない。


Day41 5.25 Thu
楽園

 泳いで島を1周した。港からみると島の裏側、北東の海岸線ではたくさんの海蛇と出会った。相変わらず見つけたときはゾッとするが、シンプルな白黒ストライプは素直に美しく、水面近くや海底の砂地をパクついている様子にはかわいさすら感じる。
 この日は記録に残すことがないほど、とにかく海に出ていた。


Day42 5.26 Fri
野宿トリオ

 朝、しのぶくんのおじいさんが迎えにくる。小浜に戻り、島の最高峰「大岳(うふだき)」に登った。山といってもそれほど高くなく、実際には小高い丘という感じ。今までに行った島が一望できる。
 シーサイドで昼食後、東屋に戻ると、波照間に行っていたわたぬきくんがまたまた登場。夜は3人で食事。とても風の強い夜だった。
※この日も「はいむるぶし」に行ったと記録に残しているが、まったく覚えていない。

2012.2.10
 嘉弥真での記憶はとにかく海の中。どの日か忘れたが、小さなフグと出会い、追い掛け回した。ふくれたり、しぼんだり、いい迷惑だったろう。
 島にはうさぎがたくさんいるが、それよりもヤドカリ。テントサイトは真っ白な砂地で、あたり一面にウロウロしていた。キレイな紫色のヤツがいて、見ていると飽きない。ケンジと浜でフリスビーをした覚えもある。
 管理人3人は怪しい。夜な夜な3Pが繰り広げられているのではと、野郎2人の妄想はふくらんだ。笑
 嘉弥真からさらに東に行った海に「幻の島」というのがあった。潮の満ち引きで面積が変わる島で、島というより砂浜。同じようなロケーションに、与論の「百合ヶ浜」や久米島の「はての浜」がある。地図でみると泳いで行けそうな距離だが、小浜に戻る倍くらいある。行っとけばよかった。
 八重山の島々を何度も行き来したが、(与那国と波照間を除き)多くの場所で船から海底が見える浅いところが多い。
※グーグルマップを写真にして嘉弥真から東(右)にドラッグすると現れる三日月形の砂浜が「幻の島」。
 現在の嘉弥真への渡航を調べてみると、ホテルミヤヒラからツアーが出ている模様。
 そうそう、小浜の東屋での夜、ここには書けないとても貴重な体験をした。


Day43 5.27 Sat
それぞれの旅

 嘉弥真に向かうわたぬきくんを見送り、小浜をあとにする。たかこの働く食堂「たかしま」で200円カレー。一回だけ好きな量の御飯を盛れる。
 洗濯、インターネット、エンダー、ゲンキ乳業ソフトクリーム、そしてプリマートで買い出しを済ませ、久々の米原キャンプ場へ。与那国で別れたノッチが帰ってきていた。
 新しい仲間も。すでに4年間ここで漁師のようなことをしているシグマ。関西からカップルで来ているしろうくん(確かXR)と連れの看護婦さん(DF)。ケンジと北海道で出会ったDRの兄さん。
 夜はシグマが、たった今海でとって来たばかりの魚をさばき宴会。


Day44 5.28 Sun
トラフィックアクシデント

 昼過ぎよりケンジと2人で市内へ。しかし途中の於茂登トンネルで大転倒。舗装路でこけたのは何年振りだろう。たいした怪我はなかったが、ケンジいわく、「これで山本さんとの旅は終わったと思いました。」とのこと。
 八重山に来てからはほとんど海パン、Tシャツでライディングしていた。怪我がなかったのは不幸中の幸い。
 市内に着くとまた洗濯。小浜から帰ってきたわたぬきくんとも再会し、3人でまたエンダー。デジャビュ?

2012.2.15
 キャンパーの生態は面白い。行動パターン、装備、その積み方まで個性があり性格が出る。出会った仲間も、誰一人として似たようなヤツはいなかった。キャンプ場にいる旅人は集団ではなく、個の集まりだ。
 於茂登ではトンネルの前から遅い車にイライラ。ある意味見通しの効くトンネル内での追い越しがそもそも違反であり間違い。山から染み出した水で、晴れていても濡れている場所があるのは知っていた。抜く気になり、バンクさせると同時にアクセルを開けたのも間違い。すぐにリヤがスライドし、しばらくカウンター状態で踏ん張ったが、こらえきれず転倒。ハイサイドかスリップダウンかは覚えてない。後ろから見ていたケンジも、カウンター状態が長かったと語っていた。
 ダメージは海パンが少し擦り切れ、身体は擦り傷程度。このときの海パン、まだ使っている。
 この転倒は大きな教訓となった。雨でもないのに濡れているということは、常時湿っていて、苔が生え、滑りやすくなっている可能性が高い。以降トンネル内では路面をよく確認し、なるべくマシンを起こす。光の反射を見つけると、今でもこのときのことを思い出し、セーフティスイッチがはたらく。
 メモ帳に残した5/28の全文。
5/28
米原
昼過ぎより石垣へ(ケンジ)
おもとトンネル内でスリップ転倒
すりキズ以外ケガなし
コインランドリーで Gパン、パーカー
洗たく、チャリダーと再会
牛丼や→エンダー(チャリダ含む)
¥100ショップ他→プリマート
米原 夜 野菜いため
 チャリダーはもちろんわたぬきくん。何を洗ったかなんてメモないと覚えてるはずがない。


Day45 5.29 Mon
心残り

 お昼はテントで、ケンジにソーメンをご馳走になった。午後はゆったりと読書をして過ごす。
 夕方からいつものエンダーへ。そのまま流れての夕食は、わたぬきくん、その連れの大見謝(おおみじゃ)さん、ケンジ、たかこの計5人で食堂「ごはん亭」。ギョーザ定食とラーメン(小)を注文。
 ホテル前の公園に出かけ、みんなとワインで乾杯。穏やかな一日が過ぎようとしていたが、とても大きな決断をしていた。
(明日、石垣を離れる。)
 市内に住み込んでいたたかこと、別れの握手をしてキャンプ場に戻る。わたぬきくんとは、明日の宮古行きフェリーで再会を約束した。
(折り返し地点。)
 先月半ばに家を出て以来、旅は無限に広がり続けていた。しかし、この決断をした瞬間から何もかもが反転し始める。寂しさとも悲しさともいえない、言葉で表現することの出来ない感覚。心残りがひとつ。
 たくさんの偶然とかけがえのない出会いの中で、結果的に八重山のほとんどの島に上陸していた。実際、波照間、与那国以外の島は、事前に計画していたものではなく、あくまで偶発的なもの。通常の手段で行ける島の中で残ったのは、たった一つとなっていた。
鳩間島(はとまじま)
 西表の北にある小さな島。あまり情報がなく、キャンパーの間でも話題にのぼることは少なかった。ケンジがさんざん誘ってくれていたのだが・・・。

2012.2.20
 公園での宴会で、ワインを2本開けたと書いてある。一人でじゃないと思うけど。
 「祝・エンダー、スタンプ満杯」とも書き残している。なんの特典があったのかは覚えていない。毎日通ったもんね。
 読んだ本は、ケンジが持っていた星新一。


Day46 5.30 Tue
離島原風景

 朝起きてからも迷っていた。しかし、これを逃せばもうチャンスはないかも。まだ寝ていたケンジをたたき起こした。
「もー、勝手なんだから。」
 真剣に怒っていた。ごめん。
 鳩間へは小型の貨客船「かりゆし」が、一日おきに運航している。今回もバイクを置いて乗船。
「やった!」
 これで通常の手段を用いて渡ることの出来るすべての島へ上陸。船を下りるとすぐ、その感動を打ち消すように釘をさされた。
「テント禁止だよ。」
 と、地元のおじさん。すでに慣れてはいたが、やっぱり気持ちのいいものではない。例によって島内を歩いて1周。泊まれそうな東屋や水場は見当たらない。再び港近くに戻ってきて島唯一の売店で休憩するが、この店も夕方18時からわずか1時間ほどしか開店しない。
(今までの島とは違う・・・。)
 ほとんど観光地化されておらず、リゾートの気配もない。相談の結果、仕方なく民宿に泊まることに決めた。
 選択肢は3軒。次のフェリーまで2泊出来るため、違う宿にも泊まってみたい。ケンジは「まるだい」、こちらは「青空荘」と別々に泊まることにした。他に泊り客はいない。この家、やけに子供がいるが・・・。
※この島の宿はすべて1泊3食付き5,500円程度(当時)。なぜ3食か勘のいい人ならすぐわかるはず。宿以外で食事できる店は一軒もない。

2012.2.24
 石垣の郵便局で、かなりの足手まといとなっていた一眼レフと、必要のないフィルムを送り返した。瀬底で濡らして以来邪魔でしょうがなかった。
 売店で宿について相談していたとき、石垣の「ヴィラフサキリゾート」で働く大阪の若者と出会った。色白、丸ぶちメガネで「イマジン」の頃のジョン・レノンにそっくり。しばらくケンジとは「鳩間のジョン・レノン」で話が通じた。たぶん今でも。
 もちろん当時の話だが、「まるだい」と「青空荘」は何か訳ありのよう。二日目は「まるだい」に移ると伝えると嫌がるようなそぶりをみせた。
 16時頃一人で、港と反対にある北の浜で潜ったが、海水が湯のように温かく、のぼせたように気分が悪くなった。ダツもいて怖い。
ダツ=口の先が槍のように尖っている魚で、刺されて死亡することもあると聞いていた。(ウィキにも同じことが書いてあるので本当らしい。)
 夕食は、鯛、サザエ、もずく、そして刺身。嫌いなもののオンパレード。生まれつき海産物が嫌いだったが、今は問題なく食べられる。
 「青空荘」での最大の収穫は、ある本と出会ったこと。本木修次さんの、「小さな離島へ行こう」、「だから離島へ行こう」、「無人島が呼んでいる」の三部作だ。
 泊まった部屋に本棚があり、うち2冊が並んでいた。このときすでに離島に興味を持っており、行ってみたい島がたくさん載っていた。若い頃にはバイクでも島巡りもされていたようで、まさに大先輩。
 旅から帰ってしばらくは忘れていたが、03年にふと思い出し3冊とも買い揃えた。これを書くにあたり、本木さんを検索してみると、09年に亡くなられたよう。ご冥福をお祈りします。
 めまぐるしく過ぎていく現代社会の中で、穏やかに流れていた離島時間はかつてのものとなり、無人化した島や過疎に悩む島も多いだろう。本木さんの見た往事の風景は、すでに離島での生活史を知る貴重な歴史的資料となっているのかもしれない。それは衰退の一途をたどる今の日本と重なる。毎日のニュースを見ていると、もはやセンチメンタリズムを通り越し、メランコリックですらある。


Day47 5.31 Wed
島時間

 昼食より「まるだい」へ移動。ケンジは引き続き連泊。14時から港近くの海に潜ったが、潮が悪かったのか濁っていてイマイチだった。
 夜、ここに住んでいるけんたくんと話した。この島には里親制度というのがあって、内地から子供を預かっている。どういう仕組みかくわしく聞かなかったが、そういえば青空荘にも子供がたくさんいた。

2012.2.25
 けんたくんは確か関東の子。里親制度については7年後のトカラ(子宝島)でいろいろな話を聞くことができた。
 島に駐在はいない。「まるだい」の軽トラなんてナンバーすらついてなく笑う。無税?
 鳩間は05年、日テレのドラマ「瑠璃の島」の舞台となった。(07年スペシャル)さらに「まるだい」は設定でも「ぱいかじ」という民宿に。
 実際に行った島というだけでなく、ドラマ自体もとても記憶に残るものだった。東京で問題を起こし預けられた成海璃子は、少女を地で演じていた。警察に追われ、少し陰のある役がハマったのは竹野内豊。里親役は故・緒形拳とその妻、倍賞美津子。見事なキャスティングだ。そして、まさにこの島の実際を描いたストーリー。璃子はあの日のけんたくんだった。
 主題歌のコブクロ「ここにしか咲かない花(注:規制がかかり無音。4:10秒ころ「まるだい」も登場。)」も素晴らしい曲だった。こちらは成海璃子メイン。(同じく無音だがメロディが聴こえてくる気がする。)


Day48 6.1 Thu
思い残すことなし

 鳩間最終日。石垣に戻る貨客船「かりゆし」は、西表の上原港を経由する。寄港時間がけっこうあるため、「星の砂」滞在時気になっていたデンサー食堂で食事。
 16時、ついに9度目の石垣港到着。お約束のエンダーでルートビア〜あやぱにモールでインターネット〜本屋さん〜そして食堂「たかしま」。たかこも元気に働いている。おかみさんのご好意によりおむすびをいただいた。タバコアルバイトでお世話になったとうま親子とも再会。


Day49 6.2 Fri
余韻

 宮古行きフェリーが明日のため終日キャンプ場の予定。夕方まで読書をしてゆっくりしていると、市内に出たケンジからTEL。図書館前でヘルメットを盗まれたらしい。キャンプ場にいたDRのお兄さんにヘルメットを借りケンジに届けた。他でも盗まれたという話を聞いた。気を付けないと。

2012.3.2
 聞いたところによると、当時の石垣ではジェッペルの人気が高かったらしい。ケンジのヘルメットは確かAraiのMX2。チンガードを外せばジェット型に変身する。そもそもミラーに引っ掛けていただけとのこと。ちょっとセキュリティが甘い。


Day50 6.3 Sat
反転

 ついに石垣を離れる日がきた。ケンジ、ノッチ、たかこ、そしてキャンプ場の仲間ともお別れ。5/2に上陸して以来1ヶ月、特にケンジとはずっと一緒に行動し、たくさんの時間を共有してきた。 お互い怪我のないように旅を続けよう!
 「たかしま」と掛け持ちで、とうまさんの農場でも働いていたたかこのところにも寄った。元気で。とうまさん、お世話になりました。たかこをよろしく。
 12:00発琉球海運宮古行き。しろうくんと看護婦さんも一緒。5時間後の17時に宮古着。一人でエンダーに行くが味気ない。食料買出しのため寄ったスーパー「プリマー ト」で、見たことのある自転車を見つけた。
「わたぬき君のだ。」
 数日前、鳩間に行くことを決断し切れなかったとき、宮古行きの船で一緒になるはずだった。お互い旅人どうしであり、とくに約束していた訳ではないが、ある意味すっぽかした感じがして気になっていた。彼はすでに宮古を回り、こちらが乗ってきた船で本島にもどる。つかの間ではあったが会えて良かった。これからも良い旅を。
 テントサイトの前浜キャンプ場につくと、しろうくんと看護婦さんがテントを張り終えていた。
※わたぬき君はこの後、沖縄本島から飛行機で東京に帰り、2000年夏より小笠原でアルバイト、そして現在(2011年2月)はオーストラリアで観光ガイドをしている。

2012.3.2
 初めて会った人間と1ヶ月も行動を共にすることはもうないだろう。ケンジとは似たところも多かった。年賀状や、たまに連絡をくれるヒロとは対照的に、お互い積極的な連絡は取り合っていない。しかし、テレビなどで、八重山に関するキーワードが耳に入ってきたとき、ふとどうしているかと思い出す。たぶん・・・、次に会うときも、まるで昨日米原で一緒だったかのように話せるに違いない。
 04年、福島からZZ-Rを譲り受けた帰路に再会し、泊めてもらった。相変わらずドライだったが、向こうもそう思っていたことだろう。言葉のない会話ができる数少ない友人。
 あれから長い時間が経ち、ケンジもここは見ていないと思うので暴露。彼はこの後石垣に残り、ひと夏たかこと付き合った。似合いのカップルだと思ったが続かず、その詳細も聞いたことはない。旅先でのアバンチュールは長続きしないということか?
 さらに!横浜に戻ってから黒島で出会った女の子とも仲良くなったらしい。寡黙なくせに意外に手の早いヤツ。(笑)
 たかことは今日現在まで会っていない。この旅から帰って、一時期体調を崩したようだが、去年の震災時メールすると、元気にやってるようだった。ポーっとしているように見えて、実は有名大学を出て文学的一面ものぞかせていた。メールで詩のやり取りをしたことが懐かしい。
 勘違いで乗船することになったクルーズフェリー「飛龍」。今はなきこの航路での出会いがなければ、多くのものに出会えなかっただろう。偶然は必然。振り返ると胸が熱くなる。

※これを書くにあたり、わたぬき君のホットメールにもメールしてみた。戻ってはこないのでアドレスは生きているようだが、チェックはされてないよう。グローバルな旅をしていた彼のその後がとても気になる。
※確かこの日だったと思うが、宮古のホームセンターで白い陶器のマグカップを買った。今も活躍中。


Day51 6.4 Sun
来間島~東平安名崎

 上陸最初はいつもどおり定番観光地巡り。来間島(くりまじま)は、前浜ビーチのすぐ対岸ある小さな島。泳いでも行けそうだが、きれいな橋(来間大橋)で宮古とつながっている。
 東平安名崎(ひがしへんなざき)は最も有名なビューポイント。とてもきれいな岬で、観光客も多く、灯台に登ることもできる。

2012.3.8
 この日の具体的行動は、「昼までテント-来間島(展望台。宮古側にあり、ビーチから目の前に見える。)-東平安名崎-港でしょうが焼き500円-夕方ビーチで泳ぐ-即爆睡。」とある。


Day52 6.5 Mon
Touch and Go

 伊良部島(いらぶじま)は宮古から定期船で数分、さらにその隣りにある下地島(しもじしま)とは6本の橋で結ばれている。目的は下地にある下地島空港。ここは国内唯一、ジャンボジェット機訓練のため空港で、タッチアンドゴー(着陸して止まらず、すぐに飛び立つ訓練)は圧巻らしい。
 観光名所の「通り池」などに寄りながら空港をの周りをまわってみるが、まったく音がしない。今日は休みか、それとも時間が遅かったか。管制塔前にはジェット機が止まっているが、飛ぶ気配はない。残念。
 宮古にもどり、西平安名崎(にしへんなざき)、池間島(いけまじま)をまわる。この島は宮古のいちばん北にあリ、やはり橋(池間大橋)でつながっている。途中、激しいスコールに襲われ、かなりの時間雨宿り。
 定番観光地巡りは慣れが生じ、あまり感動がない。唯一、西平安名崎で見た虹は幻想的だった。

2012.3.8
 この日は、「昼まで前浜-けいたい充電-500円カレーセット-伊良部島(14:00宮古発)-展望台-下地島-通り池-空港-1周して港-ハーレー(=ハーリー:沖縄の伝統的ボート競走)-西平安名崎(途中で大雨)-虹-池間-古謝本店(ミニ野菜炒め)」。
 実はスコールのことをいちばん覚えている。レインウェアを着るタイミングがないほど急に降り出し、慌てて道路わきにある民家の納屋に逃げ込んだ。もちろん私有地だが誰もおらず、玉ねぎかなんかが置いてあったような記憶が。
 時間を気にするわけでもなく、ゆったりとした気分で雨が通り過ぎるのを待つ。今も思い出す軒下に落ちる雨粒の映像は、本当に幸せな旅をしていたのだと今更ながら思う。


Day53 6.6 Tue
本島へ

 キャンプ場で船待ち。1ヶ月ぶりに沖縄本島に帰る。
 走り始めたところでしろうくんと看護婦さんに出くわした。下地でタッチアンドゴーが見れたとのこと。情報をあげたこちらが見ることが出来なかったのはとても悔しい。
 20:30出港。乗船時間はやはり一晩。先島諸島の遠さをあらためて感じる。
 与那国で会った”にわかクリスチャン”とも一緒になった。移動を船に頼るため再会する確率は低くない。今回、ゲロは大丈夫みたいだ。(笑)
 旅の終わりが、カウントダウンで近づいてくる。寂しい・・・。

2012.3.8
 前日かこの日かわからないが、早朝、カップルのバカ騒ぎで目が覚めた。テント内から察するに、波打ち際で戯れているよう。会話の内容もすべて聞こえるほど大声のためかなりの迷惑だが、そのうちポケットに入れた携帯を水没させたと叫びはじめた。ただ、そんな事態にもかかわらず引き続きハイテンションで楽しそう。
 さてこの日の記録は、「午前中前浜-昼焼きそばUFO-15:00ころカブの旅人を話し、ウーロン茶を貰った-港へ行く途中、伊良部島から帰ってきたしろうくんたちと出くわした-プリマート買出し-古謝本店(おろしとんかつ)-エンダー-港」。


Day54 6.7 Wed
沖縄のふたり

 7時に那覇港に到着。防波堤内に入るまでなんとかもっていた空が、着岸と同時にどしゃ降りに。ツイてない。
 10時過ぎまで待合所で雨宿り。11時になって、石垣に渡る前にもお世話になった照美荘にチェックインした。例のチェーンスライダーをを注文していたイエローストーンというバイク屋さんで部品交換。これで治るのだろうか。
 20時、TRESURE(相互リンクしていた写真サイト)のあゆさん、その友達のOOMIさんと待ち合わせ、「飛梅」という店に入った。ふたりともお酒と写真が大好き。グビグビ飲んで、バシバシ撮っている。なるほど、サイトに載っているあゆさんの写真は進歩が早い。やはり撮ることが上達のいちばんの近道なんだろう。OOMIさんの写真は良い意味で変わっている。
 ショットバーに場所を移し、お開きは午前2時。暗くなったら寝て明るくなったら起きるキャンパーにとって徹夜も同然だが、とても楽しい夜だった。ふたりともありがとう。

2012.3.17
 このとき入ったショットバーは、ベースプレイヤーでもあるあゆさんの友人が働いていたお店。生で聴いたSANTANAのEUROPAが忘れられない。


Day55 6.8 Thu
原始生活から夜型人間へ

 昼まで寝る。午後から公設市場をぶらぶらして、ネットカフェで掲示板チェック。夜はOOMIさんとふたりでイタリアン。その後も2件くらいハシゴして宿に帰ったのは3時。お疲れさま。

2012.3.17
 最後のお店から出た後も、久茂地の三角地帯の公園でいろいろ語り合った覚えがある。


Day56 6.9 Fri
ロケ

 この日休みのOOMIさんと宜野湾トロピカルビーチに行くが、彼女は沖縄生まれなのに泳げない。足が届く安全なところで遊んでいると、突然のスコール。このときの光景がとてもドラマティックで、すごく心に残ってる。
 続いて、あゆさんとOOMIさんが交互に写真を担当しているフリーペーパー「週間レキオ」の撮影。旅から帰ってしばらくして、そのときの掲載号が送られてきた。ありがとう。

2012.3.17
 今考えると、OOMIさんには3日連続で付き合ってもらってた。ビョークに似てて、ちょっと小悪魔的なかわいい子。B型。(笑)
 レキオの写真は、ライターが書いたエッセイに合う写真を自由に撮る。そのときは確か、「人は追いかけると逃げていく。」みたいな文章だった。今でも持ってるので取り出してみてみよう。


Day57 6.10 Sat
瀬底、再び

 出発前、照美荘のおばちゃんと話し込んだ。パレットではあゆさん、OOMIさんとお別れ。また会いましょう。それまで元気で。
 北谷で、旅の間サイト掲示板のコピーを取ってもらったすかりーさんに、ブルーシールアイスを送る。で、そのまままたエンダー。
 残波岬(ざんぱみさき)に向かう途中、前を走っていた軽ワンボックスが子供を轢き驚く。すぐに近くの店舗で警察と救急車を呼び、事情聴取を受けた。あの子どもは大丈夫だっただろうか?
 全国ニュースで有名になった米軍の通信施設「象のオリ」を写真におさめる。そのまま残波岬へ。テレビで泡盛「残波」のCMソングが耳に残り、かなり気になっていた。
 1ヵ月ぶりの瀬底には前回と同じメンツが・・・。黒島で会った倉敷ナンバーのモンキーとも再会。
 明日、本部から鹿児島行きフェリーに乗る。

2012.3.17
 07年の旅では、また照美荘にお世話になり、貴重な体験をさせてもらった。あゆさん、OOMIさんとも再会。
 あゆさんはあのショットバーのベースプレイヤーと結婚し、ふたりの子どもがいる。趣味が仕事となり、写真館で働いているらしい。OOMIさんも結婚し子ども一人。すかりーさんは、去年ミクシを退会してから交流が途絶えたが、やはり結婚して幸せそうだった。
 象のオリは、やはり07年に再訪。その後すぐに取り壊された。


Day58 6.11 Sun
さようなら南の島

 10:10本部発鹿児島行きフェリー。ついに沖縄を離れるときが来た。切ない。でもまた来る。そのために慶良間、渡嘉敷、久米島、大東島を残しておいたよ。
 目的は達成した。日本全県制覇、最南端、最西端到達。これで9年前の北海道と合わせ日本の”端”四点、すべてに立ったことになる。

2012.3.24
 7年後の07年、南・北大東島上陸を実現した。


Day59 6.12 Mon
もう寄る場所はない

 朝8:20鹿児島港到着。天気予報はよくない。そして問題再発。本部で乗船前に気づいたのだが、那覇で交換したチェーンスライダーがもう擦り減っている。都井岬、佐多岬に寄りたかったが、九州ならいつでもこれる。即北上して、はるかなる我が家を目指した。
 鹿児島を抜けないうちに雨。スライダーはネジが外れ、左足で押さえながらの走行はかなりつらい。ノンストップで別府までたどり着いた頃には夜になっていた。
 この旅最後になるであろう今夜はリッチにビジネスホテルに。別府だからお風呂も温泉だ。

2012.3.24
 昼はどっかの道沿いにあった「東京カレー」というお店。夜は別府駅近くの「松美」というビジネスホテルに泊まった。ジョリィパスタで旅を振り返る。


Day60 6.13 Tue
無事帰宅

 国東半島・竹田津港より、山口・徳山までスオーナダフェリー。船上から見る海の色は、南の島とはまったく違う色をしている。本当に同じ海なのだろうか?
 徳山からは見慣れた道。いつもの信号、いつもの交差点、つい2ヶ月前のことなのにすごく懐かしい。自宅の駐車場は、何事もなかったかのように迎えいれてくれた。
 全走行距離3,450km 最後にお世話になったみなさんありがとう。現在も旅を続けている人たちへ。気を付けて、そしてよい旅を! 
2001年2月23日

2012.3.24
 スオーナダフェリーを使うときにはいつも、この日感じた気持ちを思い出す。


あとがき
 島旅というのは、ライフタイムを強く意識させる。例えば普段の生活において、「またここに来れるだろうか?」とか、「これが最後かも。」と感じることは少ない。ところが島旅、特に上陸の困難な離島ではその連続となる。行く場所すべてで感動と切なさが共存していた。
 多くの離島は、週末の1泊2日で訪ねることは難しい。ましてやバイクでの上陸に固執する非合理的な手段ではなおさら。渡航費も高くなるため、現地をとことん堪能したいと思うのは当然だろう。
 旅の実現は意思の力だ。今の自分を含め、「仕事や日常生活があるから無理。」と合理化している。しかし、実は「行こうとする意思の強さ」の問題。実際、トカラや大東島に関して、「行けないんじゃないか?」と思ったことは一度もなかった。いつか行くという確信があったからだ。
 人としてのモラルを抜きにして考えれば、明日の朝、まわりに何も告げず、放浪の旅に出ることは不可能ではない。もちろんすべての環境を整え、万全の状況を作って旅立つことは当然だが、今の社会情勢では難しい。(不可能と思うこと自体が意志の弱さか?)
 だからというわけではないが、意図的に残した沖縄本島西側の島々(伊是名、伊平屋、伊江、慶良間、渡嘉敷、久米など。)へは、今回の人生ではもう行けない気がする。あえて他動的な書き方をしたのは、本気で行く気がないからかもしれない。もしまた旅立つことが出来るなら、一度行った島を再訪したい。
 12年の歳月は、この旅を昨夜見た夢にかえた。つい最近のような、はるか昔のような。
「自分は本当にあの場所に存在したのだろうか?」
 そんなとき、ヒロからメールが入る。
「けんじはどうしてる?たかこは?」
「夢じゃなかった・・・。」
 沖縄をバイクで旅するとき、船なくしては語れない。数年前、ヒロから石垣行きの航路を調べてくれと頼まれたとき、現状を知り愕然となった。バイクと一緒に渡ることが出来るのは鹿児島-那覇間のみで、マルエーとマリックスの2社だけ。琉球海運は旅客から撤退し、有村にいたっては会社そのものが存在しなかった。つまり、那覇から石垣へ、バイクと一緒に渡る方法がなくなっていたのだ。
※バイクを貨物としてコンテナに積み、人間だけ飛行機で渡る方法がある。

・実際に乗った船
00年
鹿児島-与論:大島運輸・フェリーあけぼの
与論-那覇:マリックスライン・クイーンコーラル
那覇-石垣:有村産業・クルーズフェリー飛龍
石垣-宮古:琉球海運・かりゆしおきなわ
宮古-那覇:琉球海運・わかなつおきなわ
本部-鹿児島:大島運輸・フェリーあけぼの
07年島旅
名瀬(奄美)-本部:マルエーフェリー・フェリーなみのうえ
本部-鹿児島:マリックスライン・クイーンコーラル
大島運輸(現マルエーフェリー=A" LINE) Wiki
・フェリーあけぼの:
 00年では、鹿児島から与論、本部から鹿児島へ戻るとき乗船。04年、韓国に売却され、国内の定期航路として使用されているよう。
・フェリーなみのうえ:
 07年島旅で、奄美大島の名瀬から本部まで乗船。今も現役。
マリックスライン Wiki
・クイーンコーラル:
 00年では往路の与論から那覇、07年島旅では本部〜鹿児島へ戻るときに乗船。韓国DBSクルーズフェリーに売却され、09年Eastan Dreamとして境港-東海(韓国)-ウラジオストックを結ぶ。10年に飛龍と交替?DBSトップページの船はおそらく旧クイーンコーラル。
・クイーンコーラル8:
 乗ったことはない。今も現役。
琉球海運 Wiki
・かりゆしおきなわ:
 石垣から宮古へ渡るとき乗船。ASIA ACEと改名し、アジアを回っている
・わかなつおきなわ:
 宮古から那覇へ戻るとき乗船。ASIA INNOVATORと改名し、やはりアジアを回っている。
※上記二船は韓国に売却され、CARIM ENGINERING(キャリム エンジニアリング)という会社で精密機器運搬を行っている。同社サイトではASIA ACE(=かりゆしおきなわ)航行中の動画も見れる。
有村産業 Wiki
・クルーズフェリー飛龍:
 00年、那覇〜石垣まで乗船。ヒロやケンジたちと出会った最も思い出深い船。韓国DBSクルーズフェリーに売却され、PYEONG SANとなりEastan Dream(旧クイーンコーラル)に代わり就航。
・飛龍21:
 乗船はない。09年、三重沖で座礁したありあけの代船としてマルエーに売却され、同名で現役運航中。
※飛龍、飛龍21、RO-RO船海龍の3隻は、有村倒産後しばらく、福山の常石造船沖に係留されていた。見に行っておけばよかった。
 フェリーは単なる交通手段ではなく、道であり、宿であり、かけがえのない出会いの場所だった。船にも船の人生というものがあり、少なからず人格すら感じる。人手に渡り、名前も容姿も換え、この地球上のどこかで旅を続ける。
2012.5.12

Special thanks to
URAKAMIGAOKA YH Lynne
S.Kenmochi E.Kanaya
K.Tanaka T.Miyazaki
TERUMISO T.Nishida
T.Uchiyama T.Hayakawa
K.Fukazawa N.Nozu
Y.Watanuki A.Arakawa
N.Oomi Great Blue!


7.26~10.27
 もともと北を目指すつもりはなかった。貴重な無職期間にあてたかったのが、最後の未到達県である沖縄上陸と日本最南端・最西端到達。それを達成した今、大きな目標はなくなった。しかし旅の終わり頃からたびたび聞かれたのが、「北海道へはいつ発つの?」という問いかけ。まるで行くのが当然のような言い方には苦笑したが、その気にならない訳がない。
 旅立つ前に大きな問題をクリアする必要があった。3月に引っ掛かった右肺の影は、再度CTを撮り異常なし。結果からみれば大げさだが、少なからず死を意識した3ヶ月に区切りが付いた。

Preparation
 ギヤオイル、F/Rスプロケットとチェーンを交換。沖縄から引きずっているチェーンスライダーは、ショップでスイングアーム側のネジを切りなおして貰いとりあえずの固定。完治したのだろうか。
 九州・沖縄(自走距離/3,450km)では、フェリーでの海上移動が大部分を占めていたのに対し、北海道へは往復するだけで同じくらいある。バイクの整備は不可欠だ。
 生活装備。沖縄ではストーブ(ガソリンコンロ)を持っていたが、使用したのはインスタント食品の湯を沸かす程度で、弁当か外食が基本だった。今回は期間や経済性を考慮し完全自炊仕様。気温の変化にも対応するため衣類も増える。要らないものをいくら削っても沖縄の倍近くになった。

Equipment
●宿泊関連●
テント、シュラフ、ロールマット、ブルーシート、折りたたみいす、サンダル
●自炊関連●
ストーブ(コンロ)、軍手、ストーブ用予備ガソリン1L、百円ライター、鍋大小2個、炊飯用コッヘル、陶器マグカップ(宮古で購入)、箸、さい箸、スプーン、まな板、20cmフライパン、ナイフ(Buck110)、水2L(ペットボトル)、500mlペットボトル(米研ぎ用)
●食材●
お茶2L(ペットボトル)、米(出発時4kg、途中購入2kg)、ゆうげ(味噌汁)、魚肉ソーセージ、シーチキン、パスタ、こくまろカレー、キャベツ、にんじん、玉ねぎ、にんにく、ふりかけ、オリーブオイル、味ぽん、牛乳、ロールパン、バナナ、塩、こしょう、醤油、砂糖、乾燥パセリ、鷹の爪、カレーパウダー、味コンソメ、ローリエ、ネスカフェ・カプチーノ・カフェラッテ、リプトンティーバッグ、クノール粒コーンスープ、鍋のときのみ(白菜、長ねぎ、 しいたけ、豆腐)非常用食料(雨や買出しにいけなかった時)インスタントラーメン、レトルトカレー、レトルトミートソース
●生活用品●
衣類、爪切り、トイレットパーパー、綿棒、ろうそく、ヘッドランプ、蚊取り線香、洗濯洗剤、台所洗剤、シャンプー、リンス、ボディーソープ、歯ブラシ、歯磨き粉、リードジップロック
●バイクメンテナンス●
工具一式、エアーポンプ、2ストオイル、チェーンオイル、ガムテープ
●その他●
レインウェア、ツーリングマップル関西、(中部※途中購入)、関東甲信越、東北、北海道)、マップルマガジン北海道(旅行ガイド)、北海道キャンプ場ガイド、コンパクトカメラ、フィルム、携帯ラジオ、乾電池、Burrn(メタル雑誌)、コンパス、ペットボトルランタン

 朝は基本的にパンと牛乳、バナナ。昼は、移動していれば外食かコンビニ弁当。キャンプ場にいれば、インスタントラーメンかパスタ。夜は野菜炒め、カレー、パスタ、餃子、水炊きほか。
 炎天下も冷却せず生ものを持ち歩いていたが、消費効率がいいため腐らせたことは少ない。


Day1 7.26 Wed
北へ~赤穂

 ゆっくりしていると、またまた15:00になった。2000年7月26日、沖縄の旅から約一ヵ月半の充電期間をおいて旅立つ。オドメーターは13,143km。とりあえずのリミットは8月7日のねぶた夜間運行最終日青森着。
 給油と食事以外走り続けるが、兵庫・赤穂で22:00に。R250から少し海側に入った丸山キャンプ場を最初の宿泊地とした。近くではファミリーキャンパー2組が盛り上がっている。
 この日の夕食は、手前の備前で買ったコンビニ弁当。疲れてすぐ寝てしまった。蒸し暑くて何度が目が覚める。

2012.5.24
 この日以来丸山キャンプ場を訪れたことはないが、闇夜に現れたアース製薬の工場を覚えている。
 赤穂という地名は、年末、否が応でも聞く町の名前であり、広島からは近くて遠い微妙な距離。R2か山陽道でかすめたことしかなく、散策してみたい町の一つ。


Day2 7.27 Thu
ニアミス~無の里キャンプ場

 8:00にキャンプ場を出発。今日も移動に徹する。神戸の長田で、石垣で知り合ったノッチと同じカラーのランツァを発見。もしやと思い電話してみると、残念ながら彼のものではなかった。ところが驚くことに、彼もついさっき自宅を発ち、北海道へ向け十数キロ先の西宮を走っているとのこと。6/3に石垣の米原キャンプ場で別れたきりだというのに、なんという偶然!日本海経由でねぶたへ向かうらしく、現地での再会を約束した。さらに彼の情報によると、愛知のミヤもねぶた参加のため北海道から南下してくるという。楽しみ。
 R2~R1~R163~R25~R23と、基幹国道をメインにルーティング。都市部を一気に抜けたかったが、名阪国道で起こった事故により時間をロスしてしまう。
 18:00。暗くなる前に何とかテントを張りたかったのには理由があった。持参したツーリングマップルは、中四国・関西・関東甲信越・東北・北海道の5冊。これだけでもかなりの重さとスペースが必要であり、滞在エリア以外では意味を持たないのが必然。1冊でも荷物を減らすため中部を購入しなかった。関西と関東甲信越でカバーできるという目論みははずれ、よりによって今、地図上の空白地帯にいる。
 どうしたものかとR23バイパスを通過中、路肩に小さな看板を見つけた。民家の脇の細い道を抜けキャンプ場へ。人里離れたとても静かなところ。先客は誰一人いない。その名も「無の里キャンプ場」というらしい。
 食事はこの旅で初めてご飯を炊きレトルトカレー、シーチキン、玉子スープ。
 早々に済ませ、ホースを取り出した。このホース、石垣のホームセンターでケンジと一緒に2m買い、半分ずつ切り分けたもの。誰もいないので全裸で水浴び。気持ちいい。使ったのは5/22、石垣は波照間行きフェリー埠頭のトイレ以来。昨夜のジメジメを洗い流した。これでぐっすり眠れる。

2012.6.24
 この時は何とか地図なしで乗り切ったが、帰路南下の際、太平洋ルートか日本海ルートかで迷い、結局新潟で購入した。


Day3 7.28 Fri
再会

 予報は雨。9:30の出発時は大丈夫だったが、走り出すとすぐに降りはじめた。今日もとにかく走る一日。静岡ではかなり強い雨にあい、ずっとレインウェアを着たまま神奈川に入った。R1を走っていると、間違って横浜新道戸塚IC(有料)の入口に出てしまう。原則有料道路は使用しない決まり。戻れそうな道があるが・・・。
 ずっと走りっぱなしだったためルート検討を含め休憩をとる。この日は大学の友人クロダ宅に泊めてもらう予定だった。携帯をみてみると、石垣で知り合ったヒロからメールが入っており、つい先ほど通りすぎたばかりのラフ&ロード(バイクショップ)にいるという。「10分で行けるよ。」とすぐに現れた。

「再会!」

 二人して感動を分かち合った。石垣でヒロと行動を共にしたのは正味10日程度だったが、古くからの友人のような気がする。彼の誘いによりお宅に泊めてもらうことになった。両親と10月出産予定の奥さん、そして犬のチロと住んでいる。夜、奥さんも加わり、石垣で別れてからのことをを語り合った。
 横浜ではもう二人会いたい人がいた。長崎で一緒に軍艦島へ渡った川崎のカナヤ君(=KE君)と横浜のサキコさん(=KSさん)。まずサキコさんに電話してみる。会う段取りについて話していると、そばで聞いていたヒロが「うちの近くではと?」言ってきた。ダイクマ、ラーメン屋、近所の商店・・・、なんと!サキコさんはヒロの家から歩いて1分というところに住んでいた。あまりの偶然に唖然。そのうえ、歳も一つ違いで、通っていた学校も一緒。こんなことって!
 カナヤ君とも無事連絡が取れ、明日横浜で会うことが決まった。

2012.7.19
 ヒロとサキコさんの件は、これまでの旅の中でも最高クラスの驚きだった。時間も場所もまったく違うところで知り合った二人がご近所だったとは!出会いの不思議と素晴らしさを象徴する出来事。


Day4 7.29 Sat
再会2

 ヒロは朝早くから仕事へ。昼まで寝させてもらう。昼食後から奥さんと2人で話し込んだ。
 夕方にヒロが帰宅するのを待って3人でラフ&ロード(バイクショップ)へ。ここでサイドバッグを購入。これまで、すべての荷物を沖縄でも使用したバッグ一つに押し込んでいたため、重心がとても高く、低速ではかなりふらついていた。これで安定走行できるとともに、荷物も分散できるはず。
 仕事帰りのサキコさんをひろって待ち合わせのみなとみらいに。無事カナヤ君とも合流できた。春の長崎以来3ヶ月ぶり。みんな元気!ヒロとはもちろん初対面だがそこは旅人同士。以前から友だちだったかのように盛り上がる。というか、ヒロとサキコさんはご近所さんだった。
 焼肉ジャンボで夕食後、赤レンガ倉庫を散策。楽しい夜になった。

2012.7.24
 東京に住んでいたころ何度か山下公園を訪れたことはあるが、ランドマークタワーのそびえ立つ今の「みなとみらい」に行ったのはこのときが初めて。その変わりように驚いた。
 川崎に住んでいたカナヤ君とは、この日以来会っていない。記録をみると、PCメールアドレスと固定電話番号が残っていた。メールはアンデリバリーで戻ってきた。試しに電話もかけてみたが留守のよう。一人暮らしだったはずだし、12年前と同じ場所に住んでいる可能性は限りなく低い。それでも今夜、もう一度電話してみよう。

※結果はまた。


Day5 7.30 Sun
再会3

 8:30に起き荷物整理。お昼にソーメンをご馳走になったあと、ヒロと近くのバイク屋さんに行ってみる。チェーンがサスのリンクに干渉するトラブルを沖縄から引きずっている。ラインのずれは無くやはり原因はわからない。引き続きガムテープを貼りながら走るしかない。途中までヒロが送ってくれた。
 1国(R1)・環八経由で板橋まで。昔よく通った道だが、この車の量は耐え難い。免許はバイクも車もこっちで取った。環八などは路上教習のコースで、住んでいるときも何とも思わなかった。しかし広島に帰って数年、この渋滞はありえない。東京という街は、若いときや遊びに来るには楽しいが、地方から出てくるとお世辞にも住みよい場所ではないと感じた。
 5年ぶりに会うクロダは元気そうだった。

2012.8.7
 平成2年4月、国道1号(第二京浜)大田区千鳥付近で、免許を取って初めて反則キップを切られた。(以降今まで貰った3枚の青キップは現在も保存。)違反は赤色信号無視。もちろん無視したつもりは無く黄色でGoしただけだが、深夜だったのと交通安全期間中だったことが災いした。以後安全運動期間には敏感になり、今でも安全運転を心掛けている。


Day6 7.31 Mon
"Tokyo Days"

 洗濯を済ませ、昼から別の友人Nと合流して東横線学芸大学駅に向かった。
 東京で過ごした6年間ずっと住み続けた街。同じく一度も引っ越さず住んだアパートは、今も変わらずそこにあった。

「懐かしい。」

 続いて駅ビルの中にあるカレー屋「牛ゆう」でスタミナカレー。当時いりびたっていたお店だ。はっきりいって味はイマイチだが、質より量を求めた学生時代には完璧にフィットしていた。新橋でパスタを食べたあとNと別れる。
 次に大学のフットボールチームで一緒だったカワダと3年ぶりに再会。彼はチーム内で最も仲がよかった友人で、旅と温泉の世界に引きずりこんだ張本人でもある。これまた懐かしい飯田橋のデニーズで待ち合わせ、深夜まで語り合うが話しが尽きなかった。

2012.8.20
 このアパートの大家さんにはとてもよくしてもらった。同年代の息子さんが当時転勤で広島に勤務されていたことが大きな要因。
 ふと思い出したときグーグルストリートビューで”近所を散歩”する。そこには今も変わらない懐かしい風景と、消えてしまった建物への寂しさが同居する。あのカレー屋「牛ゆう」も4-5年前になくなってしまったらしい。
 カワダは今の自分ライフスタイルに絶大な影響を与えた友人の一人。四半世紀前、彼と行った那須の一軒宿「北温泉」が、秘湯を巡る旅、いや、今につながるすべての旅の原点となっている。もう8年近く年賀状だけのやり取りになっているが、またいつか飯田橋のデニーズで再会したとき、つい昨日会ったかのように話せるはず。

※前回書いたカナヤ君の固定電話に何度かかけてみたが、呼ぶだけで出ない。また休みにでもかけてみようと思う。(継続中)


Day7 8.1 Tue
洗濯

 今日もまず洗濯。夕方より池袋でクロダと待ち合わせて夕飯。なんと、ヒレステーキをおごってくれた。彼とは大学時代お世話になった運送屋のアルバイトで知り合った。学校も違うし、接点といえばバイトだけだったが、今も続く貴重な友人の一人。おいしいヒレステーキはいいお値段。ごちそう様でした。
 青森でねぶたが始まった。

2012.10.4
 記録には東武練馬駅でマッサージ(風俗ではない!笑)に行ったとある。まったく記憶にない。


Day8 8.2 Wed
主夫

 またまた洗濯。もちろん自分のもあるが、このままではクロダの主夫になりそうだ。そろそろ出発しないとねぶたに間に合わない。
 夜はパスタ。断ったがまたおごり。重ね重ね申し訳ない。食後ビリヤードを楽しむ。


Day9 8.3 Thu
あだたら野営場(福島二本松)

 東京に長居しすぎた。でも出発は昼過ぎという。雨の中ぶっ続け走行で話題がない。ノッチとミヤはすでにねぶたで再会したとのメール。あだたら野営場は、暗くなって探したためとても見つけづらかった。

2012.10.4
 この日の記憶をたどったとき思い出されるのが二つの映像。一つは場所も思い出せない郊外のR4。たぶん福島に入っていたと思う。降り続けていた雨に雷が加わり、すぐに閉店した商店の軒先で雨宿りした。落雷は怖い。直撃しなくとも意識を失い、自立しないバイクは必然的にどこかへ激突する。すでに陽は落ちており、いつ過ぎるともわからない雷鳴をボーっと眺めていた絵。
 もう一つは、二本松でR4を離れ、あだたら野営場へ向かう途中。いつまで経ってもそれらしいキャンプ場はなく、道は細くなっていく。たまらずバイクを止め、電柱の街灯だけを頼りに地図を開く。
(道は間違ってない。)
 どんな観光地よりも覚えている、なんでもない旅の一ページ。

「智恵子は東京に空が無いと言う。」
 読んだ事もない「智恵子抄」の一節だが、二本松、安達太良山、阿武隈川というキーワードは、自分にとって特別な意味を持っていた。
(これが智恵子の言う空か。)
 思えば、旅の目的の一つは、初めて見る「空」を探すことだ。


Day10 8.4 Fri
大堤キャンプ場

 朝出掛けに小学校の校長をしていたという人に声をかけられ談笑。この日もやはり走りつづけ、岩手・北上市の大堤キャンプ場にテントを設営した。かなり快適なキャンプ場で、R4のすぐ近くでありながら静か。設備も整っている。

2012.10.28
 お昼は福島の吉野家。坂の下りにあったような気がするがマップ上でヒットしない。
 近所の学校の先生から情報を貰い、北上江釣子ICそばのマースという健康らんどでお風呂。
 大堤キャンプ場はとても気に入り、帰りにも利用することになる。季節的に帰りのことだと思うが、池に大きな白鳥がいた。


Day11 8.5 Sat
トラフィックアクシデント~八九郎温泉

 朝、となりでキャンプしていた近隣小学校の先生にスイカをいただく。
 14:00過ぎ、鹿角手前で正面衝突事故に遭遇。警察が来るまでの30分ほど、TDM850でタンデムツーリングしていたご夫婦と一緒に交通整理。マー チの女性が左カーブでふくらみ、スプリンターワゴンの女性と正面衝突。スピードは出ていなかったらしいが、ぶつかられた女性は妊婦。母子ともに無事である事を祈る。
 小坂で秘湯奥八九郎温泉に。秘湯中の秘湯の一つだが、とんでもないアブ地獄。ヘルメットをかぶっていても隙間から入ってくる。裸になって入るなんて事はとても出来ず、写真だけ撮って立ち去る。暗くなり碇ヶ関手前でテント。

2013.2.24
 この日も宿泊地をスタートしたのは11:00。あらためて思うが本当に贅沢な旅。
 この事故のことは今でもたまに思い出すことがある。もちろんお腹にいた赤ちゃんのこと。無事生まれていれば12‐13歳。どんな子に育っているだろう。


Day12 8.6 Sun
ねぶた~再会4

 8:15(原爆投下時間)に黙祷。撤収中、ねぶたを見てきた東京青梅の家族にプチトマト、ゆで卵2個をいただく。ありがたく食し、一気に青森市内へ。情報では函館行きフェリーターミナルの近くに特設キャンプ場あるとのこと。高架を降りて行くと一目でわかった。と言うより、勝手に目に入ってくる。とまっているバイクバイクバイク、テントテントテント。圧巻の光景だよ。実際はどうだかわからないが、誰かが300台以上だといっていた。
 最初に見つけた人にテントをどこにテントを張ればいいか声を掛けた。ん?どこかで見たような・・・。次に見かけたのは、おー!西表で一緒だったモンキー君ではないか。今回はバリオスで来ている。最初の人は沖縄瀬底ビーチで見かけたKLXのライダーだった。
 辺りを見回すと、いるわいるわ。ノッチ、ミヤをはじめ、チューヤン、DRのお兄さん、しろうくんと看護師さん・・・。なんだよ、石垣にいたメンツと一緒じゃん。
 ノッチ、ミヤからいろいろ情報を仕入れる。「跳ねる?」とは、ねぶたで踊ることらしい。ゆかたは?レンタルとお買い上げがあるらしい。毎年、ねぶたに参加している団体がここのライダーたちを招待していて、行列の中でも一二を争うにぎやかさという。そして今日は山車の夜間運行最終日、何とか間に合ったと言うわけだ。「跳ねる」ことに興味ないので、みなの誘いを振りきり見る側に。夕方が近づくにつれゆかたに着替えるものが増えてくた。というかほとんど?そしてゆかたのままバイクにまたがる。この行列がまたすごい。みんなが出た後、バイクがほとんどいなくなった。
 風呂に入り、会場に着くとものすごい人。暗闇に浮かぶねぶたはすごい迫力。東北三大祭りだけのことはある。
 ねぶたが去ったあと、じりじりと後退する機動隊、それに合わせて辺りの見物客が急に撤収し始めた。「なんだ?」そのわけはすぐにわかった。「カラス跳人(はねと)だ。」黒い衣装に身を包み、花火を乱射しながら狂ったように踊るヤンキーの集団。先端では機動隊と本気でもみ合いになっている。ねぶたもすごかったがこっちも面白いよ。(笑)

2014.2.15
 この日のことは今でもよく覚えている。2000km以上離れた石垣にいた連中がそっくりそのままいた。(笑)テントだらけのキャンプ場の光景も本当にすごかった。前傾になり”見え”を切るねぶたの勇姿も忘れられない。
 後で知った話だが、この年のカラス跳人は特にすごかったらしく、翌年取締りが厳しくなったとのこと。


Day13 8.7 Mon
祭りのあと

 午前買い出し、昼からはねぶた最後の行列。最終日は昼間の運行。輝かないねぶたはやはり味気ない。それより平日の昼間、青森市内の目抜き通りを通行止めにして行なうところに感心。
 夕方からは優勝したねぶたを海に流す海上運行、そしてフィナーレの花火大会だ。知り合ったみんなと一緒にキャンプ場から見物。遅くまで飲みながら盛り上がった。

2014.2.16
 この日のメモ。「買出し、12:00ねぶた、本部席前で全部見る、夕食、18:00、花火、Z750、カブ90、セロー、19の若者、SL、三線と一緒」とある。
 このキャンプ場は、青函連絡船フェリー乗り場のすぐ前にあるなにかの処理場で、この時期だけ特別に開放されていた。調べてみると、新田浄化センターとして今も現存している。ストリートビューで確認できる入口付近はあのときのまま。仮設トイレが立ち並んでいて、少し臭かった。
 花火は水門みたいなところに登って見た記憶がある。


Day14 8.8 Tue
田代元湯~天間林

 特設キャンプ場は今日まで。徐々に減っていくテントを寂しく眺めていた。ノッチとミヤは北海道へ。こちらはねぶたに間に合うよう急いできたためもう少し青森にいると伝えた。また会えるだろう。
 昼過ぎ撤収。キャンプ場を出るころには、あの盛り上がりが嘘のように閑散としていた。残った者に別れを告げ、田代元湯温泉に向かった。
田代元湯温泉
 かつて温泉旅館として営業していたが、ダムの建設に伴い廃業。現在は廃墟だが、湯船は残っていてたまに訪れる人もあるらしい。実際に行ったことのある友人カワダに情報をもらいながら、駐車場のある入口まで到達した。
 人ひとりしか通れない登山道を荷物満載で進むが、すぐにスタック。誰もこないだろうと荷物だけ道端に放置し、バイクだけで先へ。さらに橋が現れ、バイクも捨てて歩く。15分くらい歩いただろうか、崩れかけた廃屋にたどり着いた。
 廃業して数年たっているらしいが、掃除道具もありきれいにしてある。地元の人も来るのだろう。湯船の底にはヘドロがたまっていた。お湯そのものは気持ちいい。このような素晴らしいロケーションの温泉が、ダム完成と同時に消えてしまうと思うと寂しい気分になる。
 八甲田温泉から県道242号に入る。この道は途中から有料の「みちのく道路」と並走、ダート部分が多い。そういえば、沖縄を発ってからまともにダートを走ったことがない。久しぶりのダートは楽しく、対向車もなく快適。そしてこの道を抜けたところに、目的の天間林村森林公園キャンプ場があった。
 このキャンプ場はかなりハイレベル。滞在者は自分も含め4人と少なく、トイレも水場もきれいな上携帯が充電できるコンセントもある。テントを張り終わって落ち着いていると、八戸から来たというおじさんに「晩飯を食ってけ。」と、声をかけられる。すでに北海道帰りの若いカブ主がご馳走にありついていた。遠慮なく頂きます。メニューはジンギスカン。北海道上陸前から頂けるとは思いませんでした。ごちそうさま。

2014.2.17
 この日のメモ。(原文)
「午前中ゆっくり。昼前買出し。13:30サマーキャンプ出発。マック昼食。田代元湯へ。廃きょ。にもつすて、バイクすて、湯へ。きれいにのこっている。ダムに沈む。林道経由で天間林キャンプ場へ。ハイグレード。八戸のおじさん。東京のカブ。おじさんにごちになる。ジンギスカン、めし、みそ汁。」
 ウィキペディアによると、田代元湯はすべての建物が崩壊し、最後の橋も落ちて渡河不能とのこと。2018年にはダムに沈むらしい。ただ、ネット上にはたくさんの到達記録が存在するため、読んでいると面白い。
 天間林キャンプ場の東屋には、コンセントだけでなくピンクの公衆電話が置いてあり、使った覚えがある。


Day15 8.9 Wed
天間林連泊

 洗濯のため連泊。昼はまたおじさんにごちに。いろいろ話を聞いた。旅人にはお天気区分が重要。ラジオでも下北地方、津軽地方、三八上北(さんぱちかみきた)という表現を使うので、それがどの範囲か、自分がどこにいるか把握していないと意味がない。下北、津軽はすぐわかるが三八上北は三戸、八戸、上北。地図で見るとよくわかる。
 このキャンプ場の事。三沢基地が近いので週末にはアメリカの兵隊がよく来る。そして同行の女子が、キャンプ場内を流れる川でトップレスで泳ぐのだという。これを聞いて、週末まで連泊しようかと思った。(笑)
 おじさんはこの後、テントを張ったまま十和田方面に出かけた。明日帰ってくるというが、会えないと思うので丁重に礼をいい見送る。夕方から七戸のジャスコに買い出し。夜新しく来たファミリーキャンパーにスイカをいただく。

2014.2.18
 おじさんとの会話。実は半分以上わかってない。北国の方言って、口から無駄に熱を放散しないとか根拠あるんだろうね。単語そのものも違うため、はっきり言って英語よりわからん。おじさん曰く、「津軽の言葉はわからん。」に笑ってしまう。沖縄でも同じこと感じた。日本は広い。


Day16 8.10 Thu
尻屋崎・寒立馬

 このころには明るくなったら起き、暗くなったら寝るという生活リズムになっていた。5:00前には起床、朝食後、荷物片付け、シュラフとテントを乾かして10:00前後に出発する。この日も昼前にスタート。9年前は恐山を経由して大間に抜けたが、今回は尻屋崎を目指した。
 走ったことがないR338太平洋岸を北上。原燃で有名な六ケ所村通過。早く通り過ぎたいのは自分だけだろうか・・・。
 尻屋崎は、下北半島を斧に例えると、刃側の柄の先端、北東の尖った部分。緯度的には本州最北端の大間よりやや南になる。岬入口にゲートがあリ、夕方から翌朝まで車両は進入できなくなっている。ゲートの中には、寒立馬(かんだちめ)という馬が放牧されていて、景色もよく、尻屋崎灯台がシンボル。立派なトイレがあり、屋根のあるベンチに泊まることにした。
 夜、食事をしていると、ずっしりと重い足音が。水を飲みに来た寒立馬だった。彼等は大きい。競走馬がF1マシンなら、こちらは重戦車というところか。撫でてもまったく我関せずという感じ。しばらく見ていたが飽きなかった。
 ベンチに横になるが蚊が多過ぎる。気になって眠れず、結局夜中にテントを張った。天気が悪そうだ。

2014.2.19
 この岬は国内ベストポイントの一つ。沖縄・与那国の東崎(あがりざき)、宮崎の都井岬、鹿児島・トカラの島々、そして隠岐の西ノ島。牛馬が放牧されている岬はどこも素晴らしい。決して一人が寂しいというわけではないが、動いている生き物、哺乳類がいるのは落ち着く。目には心が感じられるし、本当に見ていて飽きない。たぶん、鳥じゃだめなんだ。


Day17 8.11 Fri
大間崎

 早朝、今にも降りそうな空模様。岬のゲートはまだ開いてない時間だが、旅人風のチャリダーが灯台の方に向かっていった。撤収、出発するころには降り始めた。目的地は2度目の恐山。
 到着したときには大雨に。車はたくさんいるが、バイクは自分だけ。今回は500円支払い初めて入場。有名なイタコが盆休みで姿なし。いわゆる恐山の典型的イメージ、かざぐるまがいたる所で回っている。びしょびしょになり、ひとまわりしたところで早めに出た。
 大雨は降り続いており、屋根のあるベンチで対策を検討。実はここにテントを張るつもりでいた。霊の存在は信じていないので気にならない。それよりもここに泊まったことが最高の話題。(笑)そうこうしているうちに、ライダーが一人二人と集まってきた。みなレインウェアのまま雨宿り。そのうちひとり、アフリカツインのライダーが同じことを考えていた。晴れならここにキャンプしようとしていたらしい。お互い「これじゃ駄目だね。」と別れる。易国間林道からR279に抜けた。林道は大雨で川のようになっていて、17キロのダートが珍しく長く感じた。
 大間に着き、フェリーの時間をチェック。チャリダーが話しかけてきた。早朝、尻屋崎で見かけた彼だ。いつも思う事だが、チャリダーはこちらが思う以上に速い。恐山に寄ったとはいえ、もうここまで来たのか。お疲れさま。
 どうしようか考えていると、急に雨があがり、晴れ間が見え始めた。これなら濡れたものが乾かせると思い、今日の渡航中止。すぐ近くの大間テントサイトに向かった。
 大正解!このキャンプ場も素晴らしい。特に炊事場の環境は、これまでのキャンプ場の中でもトップクラスだろう。四方を民家に囲まれた街中にあるのも珍しい。恐山でテントを張ろうとしていたアフリカツインも先に着いていた。
 大間は本州最北端の地。函館まで最も近く、フェリーは時間、料金とも青森〜函館間の半分、2時間2000円ちょっと。ちょうどNHK朝ドラマ、「私の青空」の舞台になり盛りあがっている。
 夜は久々の外食。ツーリングマップルに載っている「かもめ食堂」で、その名も「大間崎丼」を注文。何も考えず頼んだあと値段を見てビックリの1500円。イカとホタテをタレで煮こんだもので味はそれなり。夕食後、近くの大間温泉で疲れをとる。
 今日は地元の夏祭りが予定されていたらしいが、この雨で明日に明日に延期。ここも連泊だな・・・。

2014.2.20
 大間のマグロと言えば今や全国区。埠頭にたくさんのかもめがとまっていた光景を思い出した。「かもめ食堂」に納得。06年公開の小林聡美の映画の方が先に思い浮かぶかな。
 恐山でテント泊できなかったのは今も心残り。もうチャンスはない気がする。寂しさを伴う最果て感は、北海道より、下北や竜飛の方が強い。演歌が似合うのもこちら。


Day18 8.12 Sat
祭り

 朝洗濯。昼ペペロンチノ。アフリカツインの彼はすごい。ツーリングでは考えられない料理のレパートリーと、それを作るための装備を積んでいる。その日も鶏肉のなんとかソースかけというキャンプ場で見たこともないメニュー。少し味見させて貰ったがもちろん美味しかった。
 夜は、前日雨天順延となった地元の祭り。バイクの4人、ヒッチハイカー1人と繰り出した。小さい町だが、十分な盛り上がり。最果ての場所で、普段好んで行くことのない空間に、不思議な感覚に陥る。

2014.2.21
 元々、祭りとか大きなイベントなど人の多いところは嫌いだったが、この頃から、特に地元以外の祭りに面白みを感じるようになった。阿波おどりや佐賀バルーンなどはその典型。地元民に混ざり、自分だけが幽体離脱して、別の場所から客観的に眺めている感じ。反面、見ず知らずの人々と袖摺り合う距離感。うん、やはりタイムスリップという言葉が当てはまる。
 そういえば、祭りからキャンプ場に戻る途中、地元民とこちらの旅人仲間がトラブルになりかけた。ねぶたの浴衣を着ていった一人が地元民にからかわれたのが原因。


Day19 8.13 Sun
北海道

 世の中はお盆。予定より早めにフェリーの手続きを済ませる。予想通りたくさんのバイクが集まり始めた。関東から来た休日ライダーは、キャンセル待ちとなりあせっている。こちらは余裕の席ゲット。里帰りの人々が徐々に増え始め、船内は超満員。2等船室は座るところすらない。ほどなくしてさっきのキャンセル待ちライダーが現れた。無事乗り込めたらしい。
 乗船時間2時間ののち、9年ぶりの北海道上陸を果たし、感慨に浸る。知り合いにメールを送りまくった。
 走り出すと、右ウィンカーが早い。上陸そうそう縁起が悪いぜ。点灯しない右リヤウインカーを分解してみると、球切れではなく断線だった。「球切れなら即購入」と飛び込んだカー用品屋の駐車場で修理。ついでに向かいのスーパーで買い出し。本屋で、「北海道キャンプ場ガイド」という本をみつけた。2冊あったが、安く小さい方を購入。北海道滞在中とても重宝した。
 R5をすぐに北上した9年前と違い、松前半島をまわりこむルートを選択。木古内で今回初ホクレン給油し、フラッグをゲット。北海道に来たという実感が込み上げ、泣きながら知内(しりうち)まで走った。
 買ったばかりのキャンプ場ガイドにより「知内ファミリーキャンプ場」へ到着。北国の短いキャンプシーズンということで、とても賑わっていた。近くの「こもれび温泉」で、旅の汚れと疲れを癒す。
 キャンプ場に戻ると、函館から来た中年夫婦とその友人1名のグループに食事に誘われる。ビール、ステーキ、スープとまるで天国にいるよう。(笑) 天国気分のまま昇天。

2014.2.22
 メモに残っている情報は。
「V-MAX、アフリカツイン、スズキの3台と記念さつえい。」
「11:30函館行き。」
はこだてのおじさん2人、おばさん1人に、ビール500mlx2本、スープ、ステーキごちになる。」
とある。
 ホクレンとは、北海道全土にあるガソリンスタンド。ライダーにとってもやさしい。やはり道内に展開するセイコーマート(コンビニ)と合わせて、北海道の象徴といっても過言ではない。
 北海道初上陸(1991年)の際、深川のホクレンでコインランドリーがないかと尋ねたところ、この街にはないとの答え。ところが、店内で洗濯、乾燥(5時間かかった)させてくれたあげく、食事までおごってもらったという・・・。(入れたガソリンより金額が高い。)
 毎年夏に、ライダー向けのキャンペーンとして無料で三角フラッグを配っていた。それをバイクに取り付け、ヒラヒラさせているのが旅人の証しだった。


Day20 8.14 Mon
おっぱい祭り

 町じゅうにある告知や、昨夜夕食を振舞ってくれたおじさんたちから聞いていた地元の祭り、「知内おっぱい祭り」のため連泊は決定済み。キャンプ場で知り合った神戸の美術の先生と一緒に会場入りした。露店で低価格やきそば、たこ焼きなど連日幸せな気分。先生はダンボール舟競争に駆り出されたあげく、沈没して全身びしょ濡れで帰ってくた。お疲れさん。
 一度テントに戻り、二人で知内温泉に向かう。キャンプ場から少し離れていたが、昨日と違うところに行ってみたい。お湯はかなり熱かったが満足。ここで吉岡海底駅の情報ゲット。JR津軽海峡線(青函トンネル)の木古内〜竜飛海底駅間にある、文字通り海底にある駅で、水族館もあるという。時刻を問い合わせたが、今回は断念。
 帰りに、ツーリングマップルにも載っているお蕎麦屋さん「さらしな山田屋」に寄った。なんと、落書き帳に広末涼子の書き込みがあリ、先生と二人で驚く。真偽のほどは定かではない。
 日が暮れ、再び祭りへ。メインイベントはよさこいソーランとサブちゃんのステージ。よさこいソーランとは、ソーラン節をダンス風にアレンジし、それをバックに十数人で繰り広げるチームパフォーマンス。道内のイベントでは必ず行われる。サブちゃんはもちろん北島三郎。この町に来てはじめて知ったが、彼はこの町の出身で実家もあるそう。出演は他に鳥羽一郎、小金沢君ほか。ジョージ山本は欠席だった。もちろん演歌に何の興味もないが、旅先で、この日この時しかない出来事に遭遇する不思議。

2014.2.23
 心残りベストの一つが吉岡海底駅に行かなかったこと。つい2-3ヶ月前、本土側の竜飛海底駅と合わせて廃止になるという情報を聞いた。詳しく調べると来月14日。すでに06年には見学も出来なくなったらしいが、「いつか行ける」を過信するとこういうことになる。自然は逃げないが、人口建造物は行けるときに行くのが原則。
 広末のサインは、映画「鉄道員(ぽっぽや)」の公開が99年ということを考えるとまんざらニセモノでもなさそう。別にファンでもないのでどちらでもいいのだが・・・。
 北島三郎の実家が近くにあるというので見に行ったが、普通の家だった。


Day21 8.15 Tue
平田内温泉~鉛川キャンプ場

 先生と別れ、トイレ休憩のため道の駅・知内へ。GPS搭載のジェベルに乗る旅人モッチーと出会う。静岡からきた彼は、休日を利用しての旅。島牧へ激安のうにめし、いくらめしを食べに行くとのこと。お互いの安全を祈りつつ別れる。
 無料でインターネットが出来る道の駅・上の国(かみのくに)で自分のサイトをチェック。
 熊石で無料露店風呂の平田内温泉に立ち寄る。以前から一度訪れたかった湯だ。バイクを停め階段を降りて行くと、先客の家族が入っていた。しかし・・・、またアブだらけ。湯加減を見て写真だけ撮り退散。アブは嫌いだ。
 夕方も近付き向かったのは今日の目的地、町営鉛川キャンプ場。ファミリーが2組、札幌のツーリングカップルが1組いた。のちにアメリカンのライダーも到着。それでも他に比べれば静かなキャンプ場だ。町営温泉「おぼこ荘」がすぐ近くにあるのもうれしい。ライダー4人でいっしょに夕食。明日の天気予報がおもわしくない。
 ここで青森でもふれた天気予報の区分について。地元広島では北部、南部とわかりやすい区分け。しかし北海道は大きい。同じ道内でまるで違う天気が混在する。
 石狩(いしかり)、空知(そらち)、後志(しりべし)、渡島(おしま)、檜山(ひやま)、胆振(いぶり)、留萌(るもい)、宗谷(そうや)、紋別(もんべつ)、網走(あばしり)、釧路(くしろ)、十勝(とかち)、日高(ひだか)、上川(かみかわ)、自分がどの区分にいるか把握する必要がある。沖縄と同じく天気予報の信頼度は低い。

2014.2.24
 静岡のモッチー。今でこそナビ、GPSは当たり前になったが、当時は見たことがなかった。
 メモを確認すると、アメリカンのライダーは福岡・マグナとある。
 印象に残っているのは、そのときのメンバーの一人が、アルパインスターのオフロードブーツ、スーパービクトリーを履いていたこと。同じものを持っていて、出会うことが少ないから。


Day22 8.16 Wed
長万部~洞爺湖~再会5 ~千歳

 天気予報は当たり、出発直前に降り出した。今日の目的地は、いまだ噴煙を上げている有珠山。R277を八雲に抜け、R5を長万部へ。国道5号線は、函館から札幌へ向かう主要道路。
 長万部といえば、みな名物「かにめし」を食べるのだろうが、海産物は嫌い。好きな人からは、北海道で海の幸を堪能出来ないのはかわいそうだと言われるが、嫌いなものを食べないことは、けっして不幸ではない。(笑)
 虻田から洞爺湖に抜け洞爺湖温泉に到着。立入り禁止の土嚢が積んであるが、みな普通に乗り越えて入っていく。せっかくだから同じ行動を。
「すごい!」
 すでに終息に向かっているというが、近所の裏山で噴火しているという感覚。噴煙は煙というより真っ白な水蒸気。それでも自然の恐ろしさを感じるには十分だ。目の前のガソリンスタンドは、灰まみれで営業していない。ついこの前行った島原を思い出した。しばらくすると、役場の車がきて危険なので出るようにと指示していた。
 R453を支笏湖へ。特に急を要していたわけではないが、駐車場いっぱいに止まった車とバイクにつられて入ったのが、壱億円トイレで有名な道の駅「フォーレスト276大滝」。そのトイレで、昨日知内の、やはり道の駅のトイレで出会ったモッチーとバッタリ。まったく別のコースを走ったはずなのに、旅のタイミングとは不思議なものだ。ここで初めて連絡先を交換し合う。旅も長くなり、一度会っただけ交換しないようにしていた。しかしニ度会うのも何かの縁、そのまま支笏湖まで一緒に走った。今日彼が宿泊するという支笏湖畔の宿「樽前荘」で別れる。千歳までの道道16号支笏湖公園線は快適な道。
 今日のベースキャンプは千歳の青葉公園ピクニック広場。街中でありながら無料で便利、炊事場も広い。
 この街で会いたい人がいた。9年前の積丹、誰もいない岬で知り合った自衛官のYさん。当時自宅に泊めてもらい、以来年賀状のやり取りが続いている。突然の連絡に驚いたYさんだったが、行きつけのバーでご馳走してくれた。
 Yさんも50歳になる現役バリバリのライダー。お互いの9年間について語り合った。20日にあるという基地でのパレードの準備で忙しく、早々にお開き。そのパレードは、戦車の行進や模擬戦などがあるらしく、かなり興味をそそられる。

2014.2.24
 この日から14年、今では旅先でも普通に海産物を食べる。加齢と過ぎ去った日々を感じずにはいられない。
 モッチーは、その後弾丸放浪ライダーとなり、全国を駆け巡っている。彼が四国で完全歩き遍路をやった際には2回捕獲したし、広島を通るときには連絡をくれ、元気な顔を見せてくれる。旅スタイルは正反対だが、逆にそれが新鮮でもある。
「たった2回、それもトイレで少し話しただけ。」
 14年後の今も続く交流は、「これぞ旅!」という象徴的な出会い。


Day23 8.17 Thu
洗濯

 今日は洗濯日。青森以来、厚手のジーンズも洗う。銭湯、買い出し、マクドナルド。本日全走行距離16km。
 走行距離についてひとこと。職業旅人は1日の走行距離が短い。昨日の鉛川から千歳ではかなり走ったが、それでも200kmちょっと。雨が続けばバイクに乗らない日さえある。大体1日200kmを目安にしていた。理由はいろいろあるが、まず朝出るのが遅い。起床自体は早いが、朝食からご飯を炊いたりするし、その片付けもある。濡れたままおさめると臭くなるので、テントは完全に乾かす必要がある。テントは張ったままベースキャンプとして連泊することも多い。身軽に動け、同心円状の近距離が行動範囲となる。長期間同じキャンプ場で生活しながら、アルバイトしているキャンパーも多い。今日のような洗濯日もある。
 一方、休日ライダーは多い時には1日500km以上走る強者もいる。旅する期間が限定されているので、少しでも距離を稼ぎたい。暗いうちから片付け始め、夜明けと同時に出て行く者も多い。雨だろうがガンガン走る。雨で得るものがないとは言わないが、失うもののほうが多い。そう考えると、職業旅人がいかに贅沢に時間を使っているかわかる。

2014.2.25
 この日の記録はほとんどないが、「ゆうらんせん」という不思議な記述が。船に乗った覚えもないし、気になる。


Day24 8.18 Fri
トウカイテイオー~札幌

 うちのサイトのお得意様すかりーさんの希望により、余生を送る名馬の写真を撮りに行く。情報によると、近くにトウカイテイオーがいるらしい。かなり探したが見つからない。サラブレッドがたくさんいる牧場を見つけたが、競馬の趣味がないのでどれがテイオーかわからなかった。日高に行けば違う馬がいるだろうと、この日はあきらめる。
 継続しているチェーンスライダー異常磨耗のため札幌へ。千歳からは40km。恵庭のキタムラでフィルム現像出し。同時プリントせず、現像済みフィルムがたまると自宅に郵送する予定。
 途中寄ったホクレンのお姉さんに、札幌のラーメン店「純連」をすすめられる。行ってみると、昼時間を過ぎているというのに店外まで並んでいる。なるほど、人気店なのだろうが、並んで食べる趣味はない。代わりに街の中心部、狸小路のラーメン屋に入るが失敗。
 白石区のバイク店に行くが、トラブルの原因はわからなかった。ついでにオイルとプラグを交換する。オイルは3000kmで交換しているので、すでに沖縄の全行程近くを走ったことなる。あらためて自宅からの距離を実感。


Day25 8.19 Sat
札幌~ハスクバーナWR250

 朝洗濯、昼から再び札幌へ。バイク用品店ダートフリークに寄る。東京に住んでいたころ、同店川崎店に通っていた。今も名古屋本店で通販利用中。
 店頭に現物の'00ハスクバーナWR250が展示してあり一目ぼれ。欲しい。
 キャンプ場に戻ると、同じブロックにテント6張りの大賑わい。栃木CB1300アキクサ君、仙台ジョルカブ、横浜シェルパ、茨城ゼファー1100、バリオスの女子。みんなで一緒に夕御飯。

2014.2.25
 気分を変え、札幌まで電車で行こうと思ったが、往復1620円。バイクの倍以上かかるため即却下。
 ハスクバーナWR250は、スウェーデンのチェーンソーメーカーが作り始めたオフロードバイク。山中探検中の倒木伐採のため、チェーンソーの方も欲しかった時期がある。
 レーサー逆輸入のため混合仕様で、まったく旅向きではない。当時の車両本体価格が100万近く。2-3万kmしかもたない2ストレーサーに100万は出せない。

※レーサー:レース用のため、ライトやウインカー、ブレーキランプなどの保安部品は後付け。
※混合仕様:市販車では、2サイクルオイルを専用タンクに分離給油するが、レース仕様では、メスシリンダーで測ったオイルをガソリンとシャッフルしたあとタンクに。その日の気候に合わせオイル比率を変える。この作業を給油のたびに行わなければならない。


Day26 8.20 Sun
90式戦車

 キャンプ場のみんなを見送ったあと基地へ。今日のYさんは制服姿でキマっている。パレード会場となる滑走路へはかなり距離があり、基地の広さがうかがえた。地元では毎年恒例行事ということでかなりの人出。
 滑走路を見下ろせる小高い丘に登ると、すごい!すごすぎる!たくさんの戦車、装甲車、偵察車。それでも昔の三分の一程度とのこと。砂ぼこりを押さえるため散水車が先導。この滑走路、舗装されておらずただの地面に見える。
 轟音とともに全車が動き始めた。地響きに身体が震える。最新の90式戦車は、でかい図体なのに速い。世界でもトップクラスの性能らしい。続いて模擬戦。
「ドォォォ〜ン!!!」
 度肝を抜かれた。もちろん空砲だが、その発射音は、身体を包むすべての空気を震わせる。息つく暇なく頭の上10mをヘリが通り過ぎる。ホバリングしているヘリから隊員がロープで降下、自衛隊仕様DF(バイク)に乗り、アクセルターン3回。たたみ掛けるパフォーマンス。すごいものを見せてもらった。ただ、これが殺し合いの訓練であることも事実。考えさせられる一面もある。
 滑走路を離れ、90式戦車試乗の列に並んだ。砲塔の後部に簡易ベンチが取り付けられ、一度に5-6人が乗れる。戦闘兵器なので、いうまでもなく乗り心地は悪い。並んでいる多くが子供だが、明らかにミリタリーマニアとわかる人たちも少なくなかった。
 一度キャンプ場に戻り、Yさんからの連絡を受け支笏湖まで一緒に走った。貴重な体験、ありがとうございました。

2014.2.26
 Yさんとは、91年、積丹(しゃこたん)半島の沼前で出会った。旅の帰路、千歳で泊めてもらい、そのときにも74式戦車に乗せてもらった。数年前腰を悪くし、バイクには乗らなくなったとのこと。
 あれから23年、あの日の積丹に23の自分がいた。今年も届いた年賀状が、それが夢ではなかったと教えてくれる。


Day27 8.21 Mon
夕張~富良野~十勝岳

 朝片付けをしていると、横浜から来たというワクヤ君が声を掛けてきた。話しているうち、彼が岩国出身ということがわかり一気に親近感が増す。この3月、沖縄に旅立つ前の3年間、岩国で仕事をしていたからだ。息投合し、一緒に走り出した。
 すぐに戦車隊に遭遇。広島で、一般道を走る戦車に出会うことは少ない。真面目に信号待ちしている戦車は意外にかわいい。
 夕張では、映画「しあわせの黄色いハンカチ」のロケセットを見学。なんと、ワクヤ君は「しあわせの黄色いハンカチ」を知らない。自分はそういう世代になっているのだと実感。
 お昼は風美亭でジンギスカン。夕張メロンソフトクリームも美味。
 夕暮れも迫り、富良野を抜け一気に吹き上げ温泉キャンプ場へ。500円とやや高めだが。目の前に温泉があるのはポイントが高い。夕日に照らされる十勝岳が美しい。

2014.2.27
 メモによると、ワクヤ君は畳屋のせがれ。バイク走行中荷崩れを起こしたバッグに気付かず、ボロボロに破けていたのには笑ってしまった。
 戦車も公道に出れば、道交法を遵守しなければならない。金属製のキャタピラーでそのまま走れば、舗装をめちゃめちゃにしてしまうため、ゴム製のを装着している。しかし40t近い車重に耐え切れず、通過後、黒いゴム片が路面に散乱している。
 「しあわせの黄色いハンカチ」は、つい最近テレビで見てタイムリー。このとき買った出演者サイン入り黄色いハンカチは、PC周辺機器のほこり避けとして今も使用している。


Day28 8.22 Tue
奈奈

 朝イチ、ワクヤ君と一緒に「北の国から」で宮沢りえが入ったことで有名な吹上無料露店風呂に入る。「熱過ぎ!」人も多くて落ち着かない。
 続けて十勝岳温泉へ。ここは9年前の思い出の場所の一つ。当時、許可を得て、砂利だった駐車場にテントを張った。露店風呂から見た十勝岳の夕暮れは素晴らしかった。夜、音のない稲妻が長時間光り続け、「北海道の自然ってすごい。」と感心したが、特殊な出来事だったようで翌日の新聞に載っていたという。
 今回、駐車場は全舗装され、建物はモダンになり、あの日いた”ぐうたら”セントバーナードは、ラプラドール・レトリーバーのゴンタに変わっていた。唯一以前と変わらないのは十勝岳。下りの分岐でワクヤ君と別れる。「気を付けて!」
 富良野。「北の国から」の聖地ではあるが、実は見たことがないため思い入れはない。お約束観光地「ファーム富田」。外国のお姉さんが売り子をしていたラベンダーソフトクリームはよかった。昼食はレストラン野乃花でジャガチーカレー。北上し「菅野ファーム」。少しラベンダーが残っている。
 美瑛。9年前は通過のみ。ゆっくり見ようと思っていた。風景館という写真館。キレイな丘がたくさんあることで有名な美瑛には、多くのプロ、アマチュア写真家が集まり、自宅を改造したりして作品を公開している。どれもキレイな写真だった。パフィーの木、新栄の丘、拓真館・・・、定番観光地でありながら期待を裏切らない美しさを見せてくれた。しかし!
 この雨を何とかしてほしい。新栄の丘あたりから、明らかに自分の真上だけに雨雲がある。美瑛駅にたどり着いた頃にはどしゃ降りになっていた。
 駅には雨宿りできた訳ではない。この町に住むアキさん(名字)と待ち合わせをしていたからだ。
 知り合ったのは99年初め、当時利用していたプロバイダーAOLのコミュニティで、ペンパル募集したのが始まり。買ったばかりのデジタルカメラで遠くに住む人と写真交換するのが目的だった。アキさんと、富山のきゃのん君からメールをもらった。
 もちろん会うのは初めて。もう一つ楽しみなことがあった。写真交換し始めたころ、アキ家でゴールデン・レトリーバーを飼い始めた。ネットを介して、その犬の名付け親になったのだ。その名が奈奈。
 18時の待ち合わせ時間までかなりあったが、雨が振り続いており足止め。するとみるからに旅人風のCRMがく雨宿りに入ってきた。聞くと彼も18時に待ち合わせらしい。2スト同士ということで盛りあがる。
 しばらくするとアキさんがやってきた。CRMと別れ、お宅へ。奈奈とご対面!かわいい。近くの「おれんち」というお店で御飯をご馳走になり別れる。夜遅かったので町外れの道端にテントを張った。

2014.2.28
 この日の記憶はやはり雨。ホント、雨雲が付いてきたというか、追いかけたというか・・・。
 富山のきゃのん君。この後も数年に渡り写真の交換をしたが、音信不通になってしばらくして、北海道の別の友人〜えみりー経由で亡くなったと聞いた。歳も顔も知らないし、会ったこともないが、うん・・・、大切な出会いの一つ。
 ネコが好きで、送ってもらった写真は今もPC内に残っている。モンキーオーナーでもあった。
 あれから14年。十勝岳温泉のゴンタもいないだろうね。


Day29 8.23 Wed
美瑛

 5:00前目が覚め、すぐ片付け。
 6:00、「北西の丘展望公園」でバイク整備。プラグ交換、チェーンアジャスト、空気圧調整、そして携帯充電。静かな早朝、居心地よくしばらくゆっくりする。
 前日に続き丘めぐり。すべてが絵になり、誰もが写真を撮りたくなるのもうなずける。マイルドセブンの丘、親子の木、セブンスターの木。昨日駅で一緒に雨宿りしたCRMと再会。彼も丘めぐり中。
 美瑛自然の村キャンプ場にテントを設営した。有料だがよく整備された静かな森。アキさんより連絡あリ、またお邪魔することになった。今度はお宅でジンギスカン。お風呂にも入れてもらい感謝。仕事の関係で色々なところを旅されているアキさん。たくさんの写真を見せてもらう。

2014.3.1
 初めて書く残念な話。このときお宅でPCの調子が悪いというので立ち上げてみた。すでに手の施しようがない状態だったため何もせず、修理依頼するよう伝えた。
 後日、「4万もかかった。」と。疎遠になってしまった。
 奈奈も、大型犬だからもういないだろうね。


Day30 8.24 Thu
旭川・春光台

 朝、キャンプ場で一緒だった習志野の人にパンプキンパンをいただく。洗濯後12:00出発。ゼルブの丘経由で旭川へ。
 15:00、旭川・春光台キャンプ場でテント設営。たった3時間しか走ってない。
 旭川の目的はラーメン。この夜は、テレビにもよく紹介されるという「青葉」。期待を裏切らない美味しさ。
 夜中、何者かにテントを襲われた!飛び起きて外に出ると、キツネがテントにかけておいたゴミをあさっている。初めて見たときはかわいかったキタキツネも、ご存知のように危険な寄生虫を持ち。お近づきになりたくない。それにしてもこんな街中に出るとは・・・。

2014.3.1
 北海道をキャンプで旅するなら、エキノコックス症について知っておいた方がいい。テント生活は不衛生なうえ、キタキツネの生息域と絡むことが多いからだ。
 エキノコックス症は、4類感染症に分類され、キタキツネ(タヌキ、イヌ、ネズミなども)を宿主として、虫卵の経口摂取により感染する。おもに肝臓に寄生し、潜伏期間が10年と長いのが厄介。かくいう自分も、2000年代後半、右季肋部の痛みが続いたときこの寄生虫病を疑い、診察を受けたことがあるが、本州、それも北海道から遠く離れた広島では診断の対象になりにくい。素手でえさなどやらないように。


Day31 8.25 Fri
RESURRECTION

 お昼もに有名店「梅光軒」。すぐ入れそうだったので少し並ぶ。店内はとても活気があリ、味も期待通り。
 そのまま繁華街をぶらつく。百貨店「マルカツ」ではCDショップと本屋に寄った。汚れのキャンパーが普通に街を歩いている不思議。試聴コーナーで聴いたROB HALFORDの"RESURRECTION"とIn Flamesの"CLAYMAN"には鳥肌が立った。家を出てもう1ヶ月。ディストーションサウンドに飢えていたのだろう。
 旭川駅建屋内にあるJフォンショップ。劣化で使用時間が短くなったバッテリーについて問い合わせると、中古の色違い(バッテリーとケースが一体型)をタダでくれた。ありがたい。
 サティのDP屋さんで現像出し、キタムラでリチウム電池購入、ホーマック(北海道のホームセンター)でガムテープと2ストオイル、近くの銭湯「フタバ湯」、珍しくローソンの弁当。細々と用を済ませ、あわただしく帰宅。雨の予報が出ていたからだ。

2014.3.2
 今読んでいる本、加藤則芳 「メインの森をめざして」は生涯ベストの本になりそう。その中で同じようなことが触れられている。よごれで汗臭いバックパッカーがたまに街に出たときに感じる気持ち。こちらは風呂も洗濯もして臭くはないが、放浪者という自己意識からくる違和感を常に感じていた。
 また、アメリカ東部3500kmを歩くアパラチアン・トレイルでは、「トレイルマジック」、「トレイルエンジェル」という言葉が存在する。前者はトレイル中に起こる出会いと再会の不思議。後者は過酷なトレイルに挑むバックパッカーに、無料で食事や宿泊場所を提供するボランティアのこと。四国八十八箇所での、いわゆる「お接待」と似ている。
 バイクの旅でもそれは同じ。携帯バッテリーをタダでくれたJフォンのお姉さん、さしずめ「ライドエンジェル」というところか。
ROB HALFORD "RESURRECTION"
In Flames "Bullet Ride"
 特にレザレクションのイントロを聴くと、必ずこの日のことを思い出す。
 なるほど、漫画のタイトルにもなっているVAGABOND(ヴァガボンド)とは、流れ歩く放浪者という意味だったのか。


Day32 8.26 Sat
旭川ラーメン

 夜中から降り出した雨は大雨になった。小牧ナンバーの若いカブ主とぼやく。
 昼過ぎにはやんだが、今にもまた降り出しそう。さらにすぐ近くに地元ボーイスカウトがテントを張り始めた。とてもうるさい。
 夜もラーメン。マップルガイドに載っていた「さいじょう」を探すが、いくら探しても見つからない。犬の散歩をしている人に尋ねると、地図とは全然通りが違う。「マップルめ!」やっとたどり着いたお店は、ラーメン屋というより食堂という感じ。塩ラーメンとカレーのセットを注文、ここも悪くない。旭川ではハズレがなかった。
 ボーイスカウトは夜遅くまで騒いでいた。

2014.3.2
 メモには、「昼、キャベツ全部使用、野菜炒め。」とある。まったく忘れていたが、この一文によりキャンプ場炊事場のレイアウト、切ったキャベツの光景までよみがえってきた。記録の大切さを実感。でも普段仕事での記録は苦手。
 キャンプ場の近くには自衛隊の演習場があって、昼間ドンパチが聞こえていた。


Day33 8.27 Sun
三毛別ヒグマ事件

 3日間滞在した旭川を離れる。ずっとうちの前にテントを張っていた網走のバハ(XLR BAJA、ホンダのオフロードバイク)も出かけるらしい。ヒッチハイクのボードを書いているので聞いてみると。
 網走の学生である彼は、ツーリング途中旭川で事故に遭い(軽症)、バイク修理で滞在していた。修理はすでに完了しているのに、なぜかヒッチで網走まで忘れ物を取りに帰ってくるという。イマイチよくわからん行動だがとにかく気を付けて。
 9:00スタート。R275を幌加内、朱鞠内湖へ。道沿いには、使われなくなった鉄橋や駅が残っている。政和のホクレンでおばちゃんから聞いた話では、この近くにある鉄橋が取り壊されるので保存したいとのこと。しかし廃線後も数年ごとの保守点検、塗装が義務付けられており、その費用が問題となる。店内に貼ってあった在りし日の列車の写真。店の裏にはただの物置となった駅舎が寂しくたたずんでいた。
 R239を苫前へ。天気予報にもよく登場する霧立峠は「グッドワインディング!」。気持ちよく走り抜ける。
 苫前。知内で神戸の美術の先生に聞いた郷土資料館を訪ねた。ここには昭和50年代に退治された重さ500kgのヒグマ、その名も「北海太郎」の剥製が展示してある。他にも6人が亡くなった三毛別ヒグマ事件の実物大ジオラマなど、ヒグマの恐ろしさを再認識。そして・・・、北海道のハイライトへ。
 R232はオロロンラインと呼ばれ、稚内までずっと海沿いを走る素晴らしい道。この日は偶然にもトライアスロンが開催されていて、沿道にはたくさんの人出。頑張ってる選手たちとすれ違うとき申し訳ない気持ちになった。
 幌延のふるさと森林公園にキャンプ。使用料105円と格安。近隣の福祉センターのお風呂も240円と安い。夜メーターを見ると270kmも走っている。「走り過ぎ!」

2014.3.3
 朱鞠内湖は日本最大の人造湖。
 残っているメモ。
「道の駅くまざさソフトクリーム、まあまあ。」
 思い出した!
「天塩でフラット直線ダート2.5km。そう快。」
 覚えてないけど気持ちよさそう。
「カレー、シーチキン、みそ汁。」
 カレーは「レトルト」と「作る」両方あるが、この日はレトルトだと思う。
 ヒグマ事件は、現場(かなりの山中)も観光用に整備されており、行ってみたい場所の一つ。


Day34 8.28 Mon


 終日雨。食事以外テントの中でラジオを聴くだけ。キャンプ場も完全貸切。

2014.3.3
 この日のメモが面白い。
「朝から大雨、ずっと大雨。」
「昼ペペロン、ごはん。」
「18時買出し、この頃雨あがる。2,000円オーバー。ギョーザ、納豆、野菜、みそ汁。」
「夜中、なにかがテントの外通る。」
「走行0km。」
 夜中何が通ったんだろうねぇ。(笑)


Day35 8.29 Tue
道道106号~かけがえのない出会い

 10:00出発、晴れ!ついに道道106号に入った。左に利尻富士、右にサロベツ原生花園を望み、電柱のない風景が延々と続く日本最高の道。HP開設以来ずっと使ってきたロゴを撮った場所でもある。正確な位置を覚えてないため注意しながら走っていると、
「あった!」
 小さい丘を登りきったあと突然飛びこんできたその光景。真っ直ぐな道の途中に三連のアップダウンがあり、谷部分では車も見えなくなる。
「・・・。」
 しばらくその余韻を味わった。落ち着き、写真を撮っていると、さっき追い抜いたカブが近付いてきて止まった。ヒゲ面で、旅人以外何者でもない荷物。荷台の横には、手作りステーで取り付けられた怪しい発砲スチロールの箱。
「イケてる!」
 彼の名前はネモト君といった。ナンバーは岩代町。
「どこだ?」
「みんなに聞かれます。」
 福島からだと教えてくれた。驚くことがもう一つ。彼も7年前ここを訪れ、思い出に残っている場所だという。何でもない場所を目指し、同じ時間に出会う不思議。これが旅!
 さらに、これもひと目で旅人とわかる女性チャリダーが止まった。川崎在住のmizuさん。彼女は元々ライダーだが、初めての北海道チャリ旅に挑戦していた。歩道もない道端、3人で盛り上がる。
 丘から下ってくるトラックが至近距離を通り過ぎて行くのもおかまいなしに、1時間以上話しただろうか。みな目的地は稚内。それぞれ巡行速度が違うため、現地再会を約束し、記念写真を撮って別れる。
 稚内森林公園キャンプ場。時間差で二人とも無事到着。高台にあるテントサイトから見える稚内の夜景が美しい。

2014.3.4
 これまで日本全国を旅してきて、最も素晴らしい道が、この道道106号線。もう一度行くことができるだろうか。
 以前、一度会っただけではアドレス交換しないことを書いた。この出会いは序章。真のかけがえのない出会いまで、さらに2週間を要する。


Day36 8.30 Wed
洗濯日~日本最北端フラッグ

 キレイな朝日。今日は洗濯日のためキャンプ場で過ごす。
 夕方銭湯に行く途中、稚内のホクレンで給油。ここではもう一つ大切な目的があった。この給油所だけでしか貰えない日本最北端刻印入りフラッグを手に入れること。無事ゲット。うれしい。
 キャンプ場に戻り、ネモト君、mizuさんと夕飯に出かけた。マップルガイドに載っていたカレー屋さんはすでに閉店。旭川のラーメン屋に続き、またも誤情報。最新版買ったのに・・・。結局寂しげな食堂に入り、3人ともレバニラ炒めを注文。(笑)
 夜から雨が降り始める。

2014.3.5
 ホクレンフラッグは、このとき貰ったものも含め全部部屋に飾ってある。(フラッグについてはDay19参照)
 今はどうか知らないが、当時稚内の町にはたくさんのロシア人がいて、あるお店に入ったネモト君は、「日本人か?」と聞かれたらしい。(笑)


Day37 8.31 Thu
はるかなる西表

 昨夜から降り続いていた雨は8:00過ぎに上がった。ネモト君とmizuさんは撤収開始。二人は今日、礼文に渡る。出発する頃には良い天気に。記念写真を撮り、送り出す。「良い旅を!」
 キャンプ場内の少し外れた場所にひとりになった。メモにはこの日の昼のことが記載されていない。何をしていたのだろう?
 夕方、再び仲間が加わった。旭川・春光台キャンプ場で出会った愛知・小牧のカブ主マツウラ君。彼は、旭川を出た後網走に行き、オホーツク沿岸を北上してきた。なんという無駄な動き。いや、職業旅人に無駄という言葉はない。社会的観点からあえて言うなら、(自分も含め)存在自体が無駄である。(笑)ネモト君が張っていた反対側にテント設営。
 マツウラ君と話しているとき、驚きの人物が現れた。この5月、西表・星の砂キャンプ場で一緒だった福井のモンキー君。今回カワサキバリオスに乗る彼とは、今月初め、青森ねぶたでも出会っている。その距離3,000km。まさに日本縦断の再会!

2014.3.6
 ネモト君との話の中で思い出に残っているのは、ガソリンストーブ(キャンプ用コンロ)へのこだわり。彼はコールマンのスポーツスターを使っていた。(こちらはMSRウィスパーライト)
 当時すでに、取り扱いの簡単なガスカートリッジストーブが主流となっていたが、あえてガソリンストーブを持ってきていた。特にウィスパーライトは、プレヒートという面倒な着火準備作業が必要であり、火力調節も大雑把なことから炊飯には不向き。それでも、プレヒートは食事前のある種「儀式」であった。
 ネモト君に出会うまで、入手方法が限られ、単価も高いホワイトガソリンを持ち歩いていたが、「レギュラーガソリンで問題ないですよ。」という彼の言葉によりレギュラーに変更。これにより、緊急時バイク燃料への転用、逆に燃料タンクからストーブへ使用できるというメリットも加わった。
 mizuと会ったのはこれが最後。実家が岡山のため、何度か再会のチャンスがあったが、実現はしていない。その後、大型免許取得、結婚、出産を経て、今も年賀状のやり取りが続いている。あの日の道道106号から・・・。ご主人もライダーとのこと。
 元々人が多いところは好きではない。テントサイト決定にあたっては、出会った旅人と一緒に行動している場合を除き、自分の空間を保てる場所が第一選択。沖縄以前の旅では、その日たどり着いた道端が基本となっていた。キャンプ場を探すため、無駄な距離を走るのは非合理的。必要な水や食料は必ず携行し、野外排泄のテクニックとマナーも心得ていた。しかし、旅を続けていくにしたがい、「出会い」が、美しい景色以上に素晴らしいと感じ始めていた。
 カブライダーをカブ主(かぶぬし)と呼び、正月には「カブ主総会」なるミーティングもあるらしい。(笑)


Day38 9.1 Fri
サイトアップデート

 福井バリオス君を見送ったあと町におりた。地元NTT内のPCで、このホームページ更新と掲示板のチェック。
 お昼はマツウラ君と、地元スーパー「西條」でロッテリア。天候悪化の兆しあり早々に帰る。予想通り14:00から降りだした。
 夕方、銭湯に出かけるときにはかなりの降りよう。夜半過ぎ、ただ事ではない状況になってきた・・・。

2014.3.6
 旅先での記憶は、ドラマティックなものばかりではない。この日を振り返ったとき浮かぶのは、お昼のロッテリアと、びしょびしょに濡れながら往復した銭湯。


Day39 9.2 Sat
暴風雨

 昨夜からの雨と強風は、一向に治まる気配がない。マツウラ君のカブをはじめ、キャンプ場滞在者のバイク数台が倒れたほど。テントの中で本を読みやり過ごすが、落ち着かない時間が続く。奈良からビーノ(スクーター)で到着した女の子の顔には、悲壮感が漂っていた。
 暴風雨と格闘中、沖縄のoomiさんよりメールが入る。その発信場所は、なんと富士山頂!念願を果たしたoomiさん。登頂祝福とともに、日本最高所からのメールを、最果ての町、稚内で受け取ることに感動。「おめでとう!」(ドコモはすごい!)
 さらに、長崎・浦上ヶ丘ユースホステルで知り合い、ここ稚内に住むかおりさんよりTELあリ。夕飯どころか、「泊まって行きなさい。」と。「かおりさん新婚さんでしょ?いいの?」長崎では詳しく聞かなかったが、旦那さんせんべえさんも旅人だったらしく、温かく迎えてくれた。なんと、出会いは礼文のユース桃岩荘。「伝説は本当なのか?」ちげ鍋、いかさし、ビールまで。ごちそうさまです。
 二人は、旅人のための月刊誌「風のたより」のスタッフをされていて、積極的にアウトドア活動に参加されている。また、地元FM局「わっぴー」で、毎週日曜お昼の番組のパーソナリティーもつとめており、明日の番組の出演依頼も。「そんなの苦手だよ・・・。(笑)」
 外はまだ風がすごい。

2014.3.7
 この日の暴風雨は、これまでの旅の中でもワースト2!バイクが何台も倒れていた。
 富士山頂、oomiさんからのメールは、今思い出しても感動する。メモによると、受け取ったのは9:57。
 礼文島にある桃岩荘は、北海道を放浪する旅人の間では、知る人ぞ知るユースホステル。フェリー到着・出港時に、ヘルパー(スタッフ)総出のお出迎え、お見送りの派手なパフォーマンスが繰り広げられ、かくいう自分も、91年、その姿を目撃した。(宿泊はしていない。)
 さらにこのユースには、礼文を縦断する「愛とロマンの8時間コース」というトレッキングルートがあり、一緒に歩いた旅人が仲良くなるという・・・。かおりさん、せんべえさんが、実際にそこを歩いたのかは覚えていないが、夢のある話。
 礼文島にはもう一つ忘れられない思い出がある。91年この島に渡った時、一時的に懐が寂しくなった。メインバンクが旧第一勧銀だったため、現金が引き出せなくなっていたからだ。そこで公衆電話(携帯電話が一般的ではない時代)から広島の親に無心。郵便局経由で数分後に5万を引き出し、事なきを得た。オンラインの素晴らしさに、妙に感動した覚えがある。その後食べたほっけのちゃんちゃん焼きも忘れられない。
 結局、この旅で礼文、利尻には渡らず。今も未到達の利尻に渡らなかったことは後悔の一つだが、この時もし渡っていたら、その後の出会い、いや、これまでの人生が大きな影響を受けた可能性は高い。旅の「たられば」はナンセンス。「すべての事象は偶然の産物だが、結果は必然。」と言う持論にたどり着く。
 白いシーツ!移動しながら各地を点々とする生活。テントとシュラフによる開放感と、自然との一体感は素晴らしい。しかし、たまに布団が恋しくなることも否定できない。振り返ると、最後にシーツの上で寝たのはちょうど一ヶ月前の8.2、東京の友人クロダ宅でのこと。シーツに頬をすりすりする気持ち。体験してみないとわからないだろうね。(笑)


Day40 9.3 Sun
「ポッポとせんべえのホクホク北海道」

 朝食までごちそうになり、一度キャンプ場に戻る。昨夜の暴風雨に耐えたマツウラ君も無事。彼ともう一人、所沢ジェベルの女子ナカヤマさんを半ば強引に連れ出し、稚内FM局「わっぴー」へ。
 番組は、その名も「ポッポとせんべえのホクホク北海道」。緊張した〜!生放送って難しい。あまり盛り上げることができなかった。かおりさん、せんべえさんごめんなさい。
 放送終了後、マツウラ君と市内の旅人御用達食堂「お天気屋」でリシリアンカレーをいただく。食べ終わるころせんべえさんもやってきて、みんなでキャンプ場に戻り、旅人トークに花が咲いた。

2014.3.8
 埼玉ジェベルのナカヤマさんはとても物静かな女の子。走行時がっちりと装着したエルボー、ニーパッドが印象的。暴風雨では2回もバイクが倒れた。
 ラジオは状況を見過ぎて言い出しのタイミングを逃したり、反対に先走って他の人とかぶったり。でも貴重な体験をさせていただきました。
 ゲストの三人が、それぞれ地元の方言を紹介。こちらは「たいぎぃ(だるい、めんどくさいと言う意味)」。それぞれが言った後、全員でそれにならう。稚内の空に「たいぎぃ」がこだました。今考えれば、公共の電波で「たいぎぃ(めんどくさい)」とは放送事故?笑える。
 番組中のリクエストで選んだのがFIREHOUSEの"Here For You"。もともと大好きな曲だったが、これ以降、稚内の記憶とセット。
 かおりさんはヤマハのTT250R、せんべえさんは、とても懐かしいモンキーバハ。
 その後お二人は別々の道を。かおりさんは01年より、富良野でポプリというペンションを経営中。4月、長崎での出会いから、稚内での宿泊、ラジオゲストと、まさに「ライドマジック」、「ライドエンジェル」でした。あの日の二人へ、本当にありがとう。


Day41 9.4 Mon
最北端の夜

 曇ってはいたが、久々の太陽が姿を見せる。晴れがこれほどうれしいとは。テント撤収後13:00、マツウラ君とロッテリアへ。利尻に渡る彼に、同じカブ主のネモト君のことを伝えておいた。
 マツウラ君と別れ、実に1週間ぶりの移動開始。9年前は普通に海沿いのR238を北上したので、今回は山ルートの宗谷丘陵へ。この選択は大正解。遠くに海を望む高台で、どこを向いても絶景の高原ダート。海の向こうはサハリン。
「最高!!!」
 余韻を残しつつ宗谷岬に下りた。説明不用、ライダー聖地のひとつ。言わずと知れた一般人到達可能な日本最北端である。2度目の今回は重要な目的があった。それはここで一夜を過ごすこと。すべての北海道旅行者にとってハイライトの一つであるこの場所は、さすがに観光客が多い。暗くなるのを待つことにした。寒い。今回の旅で初めて寒さを感じたのがこの日。
 宗谷の夕日は美しい。真の最北端、弁天島(岬のすぐ沖にある小島)に日が沈み、人も減り始めた。そこに一人残っているチャリダーが。同じくここでのキャンプをもくろんでいた沖縄出身、大阪在住のタマシロ君だった。
 彼は21歳のイタリアン調理師。もちろん今は職業チャリダー。仲間ができてうれしい。夜、暗くなると、最北端の碑はライトアップされる。これを生で見るライダーは、意外と少ないのではないだろうか。
 この地にはもう一人、それも有名人がいた。「間宮林蔵」蝦夷、樺太を探険した偉人の像。タマシロ君、間宮と3人。最北端の夜。寒い・・・。

2014.3.9
 移動開始14:00頃?相変わらずの自分らしさに苦笑。
 マツウラ君は、利尻でネモト君に出会えたそう。二人は、これ以前にも中富良野のキャンプ場で一緒だったことが判明。
 この年マツウラ君は、ニセコのスキー場でアルバイトをしながら、北海道で冬を越した。翌01年6月16~18日、沖縄への南下中来広。うちに泊まり、喜びの再会を果たす。愛知に帰ってしばらくして結婚したという知らせがあったが、以降10年以上連絡を取っていない。
 今回これを書くにあたり、携帯に連絡してみると、「都合により会話はできない。」とのアナウンス。続けて送ったショートメールに返信はない。どうやら別人のよう。記録には実家の固定電話番号も残っているがここまで。きっと幸せに暮らしていることだろう。
 宗谷丘陵はほんとうに素晴らしかった。最北端での計画がなければ、ここにテントを張っていたに違いない。久々に宗谷岬灯台のライブカメラにアクセスしてみると、まだ雪景色。だよね〜。
 PC内に、当時サイトに載せていた写真が残っていた。2000年のネット接続はピ〜ヒョロロ〜のダイヤルアップが主流。たった30KBの写真一枚ダウンロードするのにけっこうな時間がかかるためこのサイズが限界。また、デジタルカメラは100~200万画素レベルでメディア容量も小さく旅には不向き。原版はすべてネガフィルム〜ネガスキャン。
 夜の写真がこの日。明るいのが翌朝。手前のテントがタマシロ君で朝食中?最北端の碑の前にはすでに観光客がたくさんいるのがわかる。間宮林蔵はその右でフレームアウト。北ではなく東を向いて立っている。


Day42 9.5 Tue
函岳

 タマシロ君と朝日を見て二度寝。最北端で夕日と朝日両方を見られるのは最高の幸せ。
 快晴!テント撤収後彼と別れ、紋別方面へ走り出した。今日は林道三昧の予定。
 神威岬、枝幸と順調に通過し、風烈布からダートに入る。エゾシカが草原を飛び跳ねながら走り去っていく。美深・歌登林道は、北海道らしく、コーナーの少ない直線的なダートが連続する。対向車はゼロ。オフローダーの天国だ。しかし、なんて多くの立て札だろう。道端のいたるところに「熊出没注意」とある。北海道ではそれ自体珍しくないが、数があまりにも多過ぎる。少しビビりが入り、写真を撮っている間もエンジンをかけたままに。RMXのサイレンサーは、カーボン堆積によりほぼ直管状態。爆音と2スト排ガスで撃退効果抜群のはず。函岳(はこだけ)林道に入ると、普通車数台とすれ違った。ナンバーから地元の人たちのようだ。
 頂上につくと、車が2~3台止まっている。かなりの山中にもかかわらず、駐車場は広く、整備が行き届いていて、電波塔施設と立派な休憩所があった。中に入ると、同世代の男性がひとり。軽く会釈して三角点に向かう。頂上では家族が景色を楽しんでいた。
「う〜ん、しかしスゴイ景色。」
 熊が出るのもうなずける。駐車場に戻ると、先ほどの男性が話しかけてきた。頂上にいた家族のお父さん。昔旅人だったらしく、懐かしそうに話している。挨拶をして一度別れかけた。が・・・、またすぐに呼び戻された。
「牧場体験をしたくみたくないか?子どもが生まれそうな牛もいる。」
 今日はこのまま美深(びふか)〜名寄(なよろ)〜雄武(おうむ)と抜け、紋別まで行くつもりだった・・・。少し悩むが、こんな機会はめったいない!その牧場は枝幸にあるらしい。先ほど通ってきた道だ。
「ぜひ!」
 彼のデリカの後をついていくことにする。しかし・・・、未舗装路を車のあとについて走るのは地獄。巻き上がる砂埃で、到着するころにはおじいさんに変身していた。
 その牧場オーナーはイシダさんといった。奥さんと三人の子供、18の若者テッペイ、たまたま関東から遊びにきていた奥さんの友達ユウコさんの7人。もともと関東出身のイシダさん夫婦。出会いは石垣島という。「やはりね!」自分とはたった二つ違いなのに、広大な牧場のオーナーとはすごい。
 夕方より搾乳を手伝う。牛舎には妊婦1頭、体調の悪い牛3~4頭、子牛2頭がいた。子牛のうち1頭はプヨプヨという名前がついていた。先天奇形で、眉間のあたりを押すとぷよぷよと柔らかい。ミルクを飲む力も無くぐったりしている。もうダメだろう。
 搾乳タイム!すでに牛舎の前に、数頭が待っている。イシダさんの「ブッブー」という掛け声とともに、数十頭の牛がいっせいに牛舎の前に集まってきた。
「スゴイ!ナゼ?」
 各自自発的に寝床の枠に入っていく。ホルスタインは、ミルクを搾るため改良に改良を重ねており、自然な進化ではない。そのため乳房が怪物並。牛の方も乳が張るので搾って欲しいらしい。掛け声がなぜ「ブッブー」なのか聞くと、特に意味は無く、農家によっても違うとのこと。
 出荷用の乳搾りはもちろん搾乳機で行うが、健康管理のため手作業で前搾りをやる。誰もが想像するあれ。最後の1頭でやらせてもらう。
「面白い!」
 乳頭の根元を親指と人差し指で締める。これが不十分だと乳房内に乳が逆流し、感染症を起こす可能性がある。残りの指に力を入れると、
「チュー!」
 すごいよ!牛乳を湯水のごとく飲んだ子ども時代。
「これで大きくしてもらったんだ。」
 乳頭内の乳が出きったところで親指と人差し指を緩め、これを繰り返す。
 前搾りを終え、搾乳中はウンコ落とし。牛の寝床枠の後ろがベルトコンベアーになっていて、そこに落としていく。もちろん臭いが、もともと動物が大好きだし、ウンコを見ながらカレーを食べられるくらいなので気にならない。草しか食べていない糞はきれいなもの。搾乳が終わった牛から寝転がってくつろいでいる。お乳が楽になったのね。
 全部搾り終えると、外に追い出し、今度は寝床ならし。感心したのは牧草のリサイクル。最初えさとして与え、食べ残しは寝床の敷き草に。糞で汚染されたものをベルトコンベアーに乗せ、牛舎の外へ。発酵させたあと、牧草地にまく堆肥となる。新たな牧草の栄養分となるわけだ。無駄が一切無い。
 妊婦さんはいつ生まれてもおかしくないらしい。出産に立ち会えるかもしれない。夜は広い庭で鮭のちゃんちゃん焼き。たくさんの野菜と鮭を、みりんと合わせた特製味噌とからめ、アルミホイルで包み焼きする豪快な料理。北海道でのアウトドアの基本。以前礼文で食べたほっけのちゃんちゃん焼きも美味しかった。
 夜、タマシロ君が気になりTELしてみるが出ない。

2014.3.10
 自分で読み返してみても、素晴らしい出会いの一つに胸が熱くなる。記録のメモは、普段単語の羅列だが、この日は2ページに渡る文章として書き残している。
 メモの中に驚きのワードが!
「オキシトシン!?どして?」
 人間では下垂体後葉から神経分泌され、分娩時の子宮収縮、乳汁放出に関わるホルモン。先週このジャンルの勉強に散々悩まされ睡眠不足に。でもすぐに納得した。
「乳牛は褥婦である。」
 牛乳を搾るためには、すべての雌牛が産褥期でなければならないのは当たり前。オキシトシンは乳汁分泌を促進する働きを持つ。安定した搾乳量は牧場経営の根幹だ。前後には何も書いてないが、恐らくイシダさんが、搾乳のメカニズムについて説明してくれたのを書きとめていたのだろう。


Day43 9.6 Wed
パークゴルフ & BBQ

 5:00、朝の搾乳。テント生活では普通のサイクルなので問題ない。イシダ牧場の搾乳は1日2回。3回やっている農家もあり、当然乳牛への負荷は大きくなる。昨日と違う放牧地に放すため、道路渡しを行う。一般道を横切ってロープを張り、もし車が来たら待ってもらうというのどかなもの。幸い、この時は一台も来なかった。
 牛には一頭一頭性格があリ、基本的には神経質。渡す途中、立ち止まってはこちらを様子をうかがっている。知らない人間がいるとどうしても気になるらしい。それにしても、みな一列で、整然と移動するのには感心する。
 9:30から、年に一度ある酪農家の親睦会参加のため、車で枝幸へ。最初にパークゴルフ。北海道で普及しているスポーツで、ゲートボールに似たクラブとボールを使ってショートホールをまわる。一緒に組んだのは79歳のシラトリさんと、同い年のヒグチさん。もちろん二人とも地元の酪農家。
 スコア87。ゴルフ経験が無いので結果は散々。シラトリさんは普段からプレーしているそうで、とてもうまい。
 終了後はバーベキュー大会となった。意外にも内地出身者が多いのに驚く。なかでも愛媛、大三島出身の方と意気投合し、瀬戸内ローカルトークで盛りあがった。先ほどのゴルフ。よくわからない部門で1位を貰い、賞品のおこめ券をゲット!ラッキー。
 夕方、テッペイ、奥さんの友達ユウコさんと一緒に、雄武にある日の出岬の露店風呂へ。雨の中車で走行中、タマシロ君を追い抜いた!すぐに止めてもらい、少しだけ話す。自転車は辛そうだ。
「気を付けて!無理しないように。」
 お風呂ではテッペイと話し込んだ。18歳の彼は関西出身。一見ヤンキー風だがしっかりとした考えを持っていた。自分が18のとき、はたしてここまで考えていただろうか?牧場に来たいきさつも興味深い。
 プヨプヨが死んだ・・・。

2014.3.10
 普通に書いてるが、年に一度の酪農家親睦会に参加する当時33歳の無職放浪旅人。笑える。しかし、なんの違和感もなく受け入れてくれるコミュニティは、本当にすごいと思う。
 タマシロ君とはこれが最後だった。彼と一緒に過ごしたのはたった一晩だったが、あの最北端の夜は一生忘れることはないだろう。彼の作ったイタリアンが食べたかったな。
 興味深いと書いたテッペイのエピソードだが、その内容はメモに書いておらず、記憶にも残っていない。ただ、何らかの問題を抱えており、その解決のためここで生活していたことは確か。イシダ家では彼の部屋に寝かせてもらっていた。今32歳。どんな大人になっているだろう。会いたい。


Day44 9.7 Thu
母性の目覚め

 朝御飯はみんなのリクエストによりお好み焼き。いわゆる広島風。外で食べることはあっても家で焼くことがなかったため、自宅に電話して材料と手順を聞いた。
 ユウコさんが東京に帰るのでお見送り。「少しの間だったけど楽しかったです。気を付けて。」
 子牛に乳をやった。すごい吸引力。親指を吸わせると面白い。

2014.3.11
 朝からお好み?!記録を見ても朝と書いてある。この町でもオタフクお好みソースを入手できた。
 成熟した乳牛の乳頭はちょうど親指くらい。親指を口に持っていくと、吸う吸う!子牛を見守るような穏やかな気分に。母性に目覚めた瞬間だった。(笑)それにしてもマジすごい吸啜力。
 メロディの記憶がある。この夏、ラジオで嫌というほどオンエアされていたのが、花*花の「あ〜よかった」と「慎吾ママのおはロック」。テッペイの部屋では、aiko、愛内里菜が流れていた。また、牛舎には埃にまみれたプレイヤーがあり、倉木麻衣のデビューアルバム"Delicious Way"。"Stay by my side"と"Secret of my heart"がお気に入り。
 この2曲を聴くとき牛舎を、牛舎を思い出すときこの2曲を。窓から差し込んだやわらかな日差しが敷きワラを照らす。あの空気、あの匂い・・・。胸を締め付ける切なさは、過ぎ去った夏を想う心地よい痛み・・・。


Day45 9.8 Fri
プヨプヨ

 死んだプヨプヨを埋葬する。イシダさんが牧草地の隅に巨大な穴を掘っており、そこに死後硬直したプヨプヨを抱きかかえて運んだ。子牛とはいえかなり重い。奥さんから「嫌な仕事をさせてゴメン。」と言われたが、それほどでもない。
 大きなユンボ(ショベルカー)を使っての埋め戻しをまかされた。この操作がとても面白い。(プヨプヨごめん!)もちろん初めて動かすため思い通りにはならないが、ゲームのジョイスティック感覚。大きなトラクターも運転させてくれた。

2014.3.12
 このときの体験がもとになり、地元に帰ってから、車両系建設機械の資格と、それを公道で走らせるために必要な大型特殊免許を取得した。違う道に進んだため、いまだ実務にはいかせていない。ただ、幼児期の男児にとって、ショベルカー、ブルドーザー、クレーン車など、建設機械のミニカーは憧れの存在。一つの夢を実現したと捉えている。
 と、ここまで書いた後、サンプル動画を検索していてこんなものが。京商 1/50 IRC建設機械シリーズ
 ハマりにハマったメタルサウンドに吹き出し、終止ニヤニヤしながら何度も連続再生。BGM、効果音、カット割り、あまりにカッコよすぎる作りに、10万ビューはだてじゃない。これでIRC(赤外線コントロール)のおもちゃ。「チャンネル切り替えで3台同時走行が可能。」って、
「三つ揃えさすんかい!(笑)」
 全部買ったら、本物のユンボ資格取ってもお釣りがくるわ!大人三人が、部屋で採石・造成工事してる姿を想像し、またも吹き出す。女子にはドン引きされること間違いなし!いいもの見せてもらった。(笑)


Day46 9.9 Sat
草刈り

 放牧地に行くと、昨日プヨプヨを埋めた場所にたくさんの牛が集まっていた。何か感じるものあるのだろうか?見方によっては弔っているようにも・・・。イシダさん曰く、初めてのことではないらしい。やっぱり何かある。母親はどの個体だったのだろう。
 今日の仕事は牧場の草刈り。刈り払い機を使うのも初めて。むき出しの刃が回転するため、操作を誤ると大けがしそう。草の中に隠れている石には要注意。

2014.3.13
 牛たちの行動に何らかの感情が存在するのか?永遠の謎。
 どの日だったか覚えていないが、種付けも見学した。獣医が来て、購入した優良な精子を金属のスポイトのような器具で注入する。彼女の立場になって考えた。
 ヴァージンのまま、知らない野郎の精子を行為なく注入される。生まれた我が子はすぐ連れ去られ、来る日も来る日も乳を搾られる。出なくなればその繰り返し。最終的に搾乳できなくなると、安い肉として処理されることが多いらしい。
 都市部に乱立する大型スーパー、またどんな田舎のよろず屋にも牛乳は置いてある。人間の需要に答えるため、いったいどれほどの”彼女”が必要なのか?それでも牛乳は飲む。
 刈り払い機のエンジンは2サイクル。以前ハスクバーナの件でも触れた燃料混合給油。ガソリンに決まった割合で2サイクルオイルを混ぜ、攪拌して使用。2ストサウンドとオイル臭には交感神経が刺激され、アドレナリンが噴出する。最近感じるのは、パワーバンドに入った2ストエンジンの素晴らしさを共感できる相手が少なくなってきているということ。正直、加速はZX-10RよりRMXの方が好き。
 草刈りは、単純作業で没頭できるうえ、振り返ると終わった部分が明確なため、達成感がありとても楽しい。


Day47 9.10 Sun
誕生

 午前中、ユンボ(ショベルカー)で、堆肥をダンプに積む作業をやらせてくれた。移動は戦車に乗ってるようでとても楽しい。2本のスティックを前に倒せば前進、バックはその逆。曲がりたい方を緩めればそちらへ。片方を前、片方を後ろに倒すと、その場で旋回する。
 バケット(先端のスコップ)操作はさらに奥が深い。車体上部の旋回、アームの上下・伸展・屈曲、そしてバケットすくい。作業効率を上げるためには、これらの動作を流れるように連携させる必要がある。作業終了後、草刈りの続き。
 昼ご飯のあと、みんなで休憩しているところにイシダさんが駆け込んできた。
「タケちゃ〜ん、ごめ〜ん。」
 なんと!すでに子牛が生まれてしまったという。慌てて行ってみると、母牛の後ろの床に横たわっていた。
「残念!」
 牛舎の枠は狭く、方向転換ができないため、イシダさんとテッペイがお母さんの口元に持っていくと、ペロペロ舐めはじめた。お腹の中で粘った分大きな赤ちゃん。この牧場では出産も自然にまかせていて、テレビなどで見る、夜中に人間が引っ張り出すイメージはない。それにしても、函岳での出会いがこんな体験につながるとは!イシダさん、皆さん、本当にありがとう!明日旅立ちます。

2014.3.16
 牛舎からベルトコンベアーで運び出された糞と敷き草は、高さ数メートルの円錐形になっている。堆肥と書けば聞こえはいいが、実際は「うんこボタ山」。バケットを差し込んだ際は、とても香ばしい。(笑)しかし、この作業が来期の牧草の肥やしになると考えれば苦にならないし、なにより重機作業そのものが面白い。
 その後車両系建設機械の資格を取ったのは先述の通り。手作業と比較した、たった一杯のバケット容量はあきれるほど。スコップ一本と猫車(一輪車)で、(それもうんこを運ぶため!)遠くの牧草地を往復したら、どれほどの時間と労力がかかるのだろう。重機のない時代が想像できない。
 当時も思った疑問。母牛の子宮口は高い位置にある。子牛といってもかなりの重量があるため、そこからコンクリートの床に落ちて何の障害もないのは、やはり軟らかいということなのだろう。胎盤は母牛が食べるらしい。
「・・・。」
 これって母性実習済みでは?既習得単位として免除してくれないだろうか。なんのケアもしてないが。(笑)
 07年、トカラ・大東島から帰ってしばらくして、広島・世羅の肉牛牧場で1ヶ月ほどアルバイトした。乳牛と違い、いかに早く太らせて出荷するかが根本的な目的。乳牛牧場が女社会であったのに対し、肉牛は雌雄を区別しないため、思い出しても股間が痛くなる去勢や、血の噴水が見られる角切り作業あり。イシダ牧場が当時約80頭だったのに対し、世羅は1,000頭オーバー!規模も大きい。
 出荷時の重量は700kg前後。暴れる牛に足を踏まれたら骨折することもある。2-3日後、各部位の等級がFAXで送られてくる。
「巨大なあいつが紙に・・・。」
 複雑な心境になるが、牛肉は大好き。嫌ならベジタリアンになるしかない。


Day48 9.11 Mon
紋別・はたの食堂

 天気曇り。牧場の高台で記念写真。本当にありがとう。お世話になりました。
 日の出岬展望台〜バス停で雨宿り〜紋別。はたの食堂は、9年前2連泊したライダーハウスで、今回の旅で唯一泊まろうと決めていた宿。おばちゃんに以前来たことを話すと、その時の落書き帳が残っているという。探すこと数分。
「あった!」
 平成3年8月25日、「寒くて立ち寄った。バイク故障でいいことがなかった。」と書いてある。おっちゃんとも再会。昔と全然変わってない。
 周辺で大きく変わっていたのは、食堂のすぐ前にあった渚滑駅跡がなくなっていたこと。91年当時、廃線から数年たっていたが、駅舎はそのまま残っていた。
 21:00過ぎ寝る体勢に入っていたところ、おっちゃんに誘われ一杯。その席で、九州から来たユキコさん、DP屋さん勤務の廃墟マニア、ナカジマさんと知り合った。雄別炭鉱跡の情報を仕入れる。

2014.3.19
 9.11同時多発テロのちょうど一年前。Day48/94はこの旅の折り返し地点。
 牧場での最後の写真には、牛の背中に乗って撮ったものがある。牛は背中に人を乗せるのを嫌がるらしく、そう言われればあまり見たことがない。乗せてくれたのは、ボーという名前がついた牛。理由はそのまま、ボーっとしているからだそう。なるほど、だから乗れたのね。
 イシダ牧場には、数年に一度年賀状を書いている。貴重な体験をさせてくれたつながりを途絶えさせたくない。
 91年当時の相棒はKDX250SR。名寄でオイル漏れを起こし、ガスケットを交換した。落書き帳に書いてあった故障とはそのことだろう。
 渚滑駅は、89年、名寄本線の廃線と同時に廃駅。訪ねたときは、まだ2年しか経っていなかったということになる。紋別の記憶は、あのときの渚滑駅とおっちゃん。
 一枚だけPCに取り込んだ写真があった!次回更新までアップ。小さいけど珍しく24歳の自分も写ってる。写真右側に道道305があり、道路挟んではたの食堂。グーグルマップに見える広い駐車場が渚滑駅跡。


Day49 9.12 Tue
運命の再会

 朝まで雨が降っていたが、出発準備中快晴に変わる。先にユキコさんを見送り、食堂でライダー定食をいただいてスタート。サロマ湖を目指す。途中のコムケ湖北側、海沿い4.8kmの直線ダートは最高!天気も良い。
 サロマ湖の海への開口部、西側砂嘴(さし)の先端で、もはやルーティーンワークとなった、チェーンスライダー磨耗防止のガムテープを貼っていると、東京で泊めてもらった板橋のクロダから電話が入った。彼もまた、毎年仕事の休みを利用して北海道に来ており、こちらに向かっているとのこと。現在位置は恐山。道南ではかなりの雨が降っているらしい。「気を付けて。無理はするな!」
 再スタート。「今日のテントサイトは、キムアネップ?それとも網走まで・・・。」そう考えながら、サロマ湖畔を走っていると・・・。
「!」
 前方の路側帯をゆっくりと走るカブ・・・。リヤには白いサイドパニア、それも発泡スチロール製!
「ネモト君だ!!!元気だったか?!」
 2週間ぶりの再会を喜び、同泊することに。目標を網走・呼人浦キャンプ場に決定。先行し、先にテントを張った。網走湖畔に面した素晴らしいキャンプ場。夕日が美しい。
 しばらくして、無事ネモト君も到着。あらためてその後の話を聞いた。稚内で別れてから礼文に渡り、利尻では小牧カブ主のマツウラ君とも出会えたとのこと。
 利尻昆布を分けてもらい昆布めしに。ただ刻んで一緒に炊くだけだが、これがうまい!

2014.3.21
 昆布めしで鍋コーヒーのことも思い出した。挽いた豆をシェラカップに直接入れ、そのまま湯を注ぎ、上澄みだけ飲むといういかにもキャンパーらしい淹れ方。
 この再会は、その後の人生にとてつもなく大きな影響をもたらす。


Day50 9.13 Wed
網走監獄

 午後からネモト君と網走監獄へ。前回は通過のみのため必ず入ろうと決めていた。1,050円とやや高いが、大きな施設で見応え十分。そのまま市内に出て、旅人御用達の店「れもん亭」でカレーをいただく。稚内のかおりさん、せんべえさんがスタッフをしている旅人誌「風のたより」が置いてあった。
 本屋、ラルズ(スーパー)に寄ったあと一度キャンプ場に戻り、近くのホテル網走湖荘でお風呂。ネモト君と二人でくつろぎのひと時を過ごす。久しぶりのテレビ「速報、歌のなんとか」を堪能。外に出ると、けっこうな雨が降っている。びしょ濡れになりながらテントへ。

2014.3.23
 網走刑務所は、網走川北岸に稼動中の本物がある。
 れもん亭は、麗門亭と書くらしく、オーナーは関東から移住者。02年に網走の店を閉じ、ニセコでペンションを開業したとのこと。その名も「カレーやどHourglass」。行ってみたいな。
 本屋でツーリングマップル北海道を2冊購入し、イシダ牧場に送った。コンパクトで旅情報満載の地図は、イシダさんとテッペイがとても興味を示していた。有効に使ってくれたかな?
 キャンパーは自意識過剰なところがあり、ネモト君とテレビを見ながら、この話題で盛り上がった。「ヨゴレの宿無しが、ホテルのロビーでくつろいでいいのか?」と。(笑)


Day51 9.14 Thu


 食事以外ずっとテントの中。夜、カレーラーメン。となりのテントのご夫婦にカレイ(魚)をいただく。

2014.3.23
 メニューのバリエーションを出すため、S&Bのカレーパウダーを常備。れもん亭からカレーモードに入っていたものと思われる。カレイは洒落ではなく偶然。
 こちらに向かっていた東京のクロダより連絡が入り、天候不順により合流は断念とのこと。この雨なら納得。また会おう。帰路、気を付けて。


Day52 9.15 Fri
雨、雨、雨

 持っている本も読み飽きた・・・。
 夕方、ついに食料が底を尽き、パンを買うためレインウェアを着てローソンへ。そこでバイクのカップルに道を聞かれた。天候も悪いし、当然呼人を推薦。よくよく聞いてみると、二人はカップルではなかった。
 札幌の若者コマツ君は、美しい26歳の人妻、苫小牧のオオヌキさんと出会い、くっついてきたらしい。オオヌキさんは確かに美人。気持ちはわからないでもないが、自らストーカーと名乗るとはなかなか面白いヤツ。(笑)
 その夜、関東からの学生ライダー、コマツ君とオオヌキさん、他のキャンパーも加わり大宴会となった。中でもすごかったのがカヤ姉。彼女も34歳の人妻だが、春からずっと旅に出ているという。
「どんな夫婦?!」
 そのうえ5月には石垣・米原キャンプ場にいたらしい。一緒にいたんじゃん、顔合わせていたかも!(笑)

2014.3.23
 雨天3日目。テントから出て、トイレに行くだけでびしょ濡れになる。辺りを見回すと、良い物を発見。
「米研ぎ用ペットボトル500ml。」
 チンコの先をセットし、ややエア抜きして放尿。しかし!それまでトイレに行こうか迷い、限界まで我慢していたため、半分を超えても止まる気配がない。
「500以上か?!」
「止めっ!」
 男でよかった。(笑)次の器は、飯炊き用コッヘル(キャンプ用鍋)。無事全量排尿も。
「どうする?」
 そもそも、トイレに行くのが面倒でこの方法をとったのに、蓋のないコッヘルを室内でひっくり返したら、無意味な大惨事になる。テントのファスナーを開けた。外の地面は、降り続く雨でくるぶしまで浸かるほどの湿原と化している。
「放流〜。」
 500mlオーバーのオシッコは、みるみるうちに大海に拡散していった。(笑)
「自分のシッコほどキレイなものはない!」
 イカ天バンド「たま」の飲尿療法が話題になったのは90年代?ペットボトルとコッヘルを洗って再利用したのは言うまでもない。
 近年、一回排尿量の問題でこのときのことを思い出し、500mlと答えて不正解となった。(通常200〜400ml)
「だって500以上出たんだもん・・・。」
 夜、バカ盛り上がりしていた学生ライダーのグループが、PANTERAの"WALK"を歌いだした。すでにリリース後8年たつパワーメタルの名曲を、微笑ましく見守った。


Day53 9.16 Sat
北見バーベキュー

 やっと晴れた!3日ぶりの晴れに喜びもひとしお。酔っ払って昨夜のことを覚えていないカヤ姉(笑)と別れ、ネモト君とラルズへ。テント内でも短パンでは厳しくなってきたため、1,900円ジャンパーと1,000円ジャージを購入。
 ロッテリアで食事した後ネモト君と別れる。羅臼に行くというのでまた会えるはず。
 地図によると、北見国道は覆面パトカーに注意とある。おとなしく走っているとホントにいた。ツーリングマップル恐るべし。
 北見の街中にある中の島キャンプ場は、すごくわかりにくい場所にあった。先客は地元のグループ一組で、夕食のお誘いあり。その前に散髪、銭湯、現像出し。
 ディナーはバーベキュー。シャケ、肉、ホタテ、ビールもいただき感謝感激!旭川、置戸、北見在住の友人同士からなる6名と犬1匹。

2014.3.24
 このときラルズで買った真っ赤なジャージは、今もパジャマとして活躍中。
 記録に残してる犬の名前はビーグルのアンジー。


Day54 9.17 Sun
思い出のチミケップ

 昨日現像のみで出したフィルム8本を受け取りに行くと、同時プリントであがっていた。1枚5円にするからと言われるが、問題は値段ではなく荷物になること。無駄なものは持ち歩かないのが長い間旅を続けるセオリー。しかし、個人のプリントが本人以外なんの役にも立たないのは痛いほどわかるし、売れなければ廃棄するほかない。しぶしぶ受け取るもけっこうな量。
 チミケップは山の中の小さな湖。9年前テント泊し、霧に浮かぶ幻想的な風景が心に残っている。湖畔には、景観にとけ込んだチミケップホテル。いつか泊まってみたい宿の一つ。
 屈斜路湖に抜ける津別峠の変貌には驚いた。前通ったときは全線ダートで、峠の開けた場所から湖を望んだ。ところが、道は全面舗装、展望台ができお店さえある。せっかくの展望台も、霧のため何も見えず。
 屈斜路湖畔に下ると雨が降り出した。予報では台風が向かってきているらしい。一度行ったことのある屈斜路湖、摩周湖はスルーし、神の子池に。実物は想像以上にキレイ。光に調子によりエメラルドグリーンにもサファイヤブルーにも見える。透き通った池の底には倒木が横たわり、こんこんと水が湧き出している。
 清里〜斜里〜オシンコシンの滝を経てウトロに。前回はカムイワッカ湯の滝に行くためここでテント泊。今回は素通りし、そのまま知床峠へ。上りでは美しい夕日さえ見えていたのに、峠を越えた途端霧雨。危険を感じるほど前が見えない。
 国設羅臼野営場到着。キャンパーの間では名の通ったキャンプ場の一つで、すぐ近くに、やはり有名な無料露店風呂「熊の湯」がある。再びネモト君と合流し、湯船で2時間もだべる。(笑)夜は彼が貰ったさんまを焼く。

2014.3.26
 記憶というのは不思議なもので、この日のことを思い出し最初に浮かんだ絵が、何もない津別峠への上り、うっそうとした森の中で地図を開いた場所。記憶に残るのは、会話やメロディ、動物と遊んだとか。また、悪天候、レインウェアを着た、寒い、トラブルを経験したなども。有名観光地はあまり心に残らない。
 知床と言えば「知床しぶき」。大昔、グリコが出していたふりかけ。
 羅臼には網走で一緒だったカヤ姉もいた。


Day55 9.18 Mon
雨、熊の湯

 今日も雨。朝方、奈良ビーノの女の子が現れた。9月初め、稚内森林公園で荒天を嘆きあった彼女だ。「出会うときはいつも雨だね。」と再び慰めあうも、あの時と同じく雨の中へ旅立っていった。
 8:00よりネモト君と熊の湯で朝風呂。またも2時間。
 夜は薪で火を起こし、貰い物のシャケ、マス、サンマの魚づくし。シャケはちょっと酸っぱかった。(笑)

2014.3.27
 野郎同士で2時間も何を喋っていたのかと思うが、今も変わらなかったりする。


Day56 9.19 Tue
秘湯コレクター

 朝御飯はネモト君特製、マスの味噌汁。荷物整理後、知床峠に登る。天気を待ったかいあり最高の眺め。遅れて到着したネモト君と記念撮影。
 彼と別れ岩尾別温泉へ。カムイワッカ湯の滝に行く途中を右に折れる。3段になっている湯船が面白い。
 キャンプ場に戻りテントを撤収、ネモト君と別れる。開陽台に向かうため再会の可能性は高い。
 R335を南下し薫別から滝の沢林道に入った。林道手前の牧草地を走り抜ける直線ダートが素晴らしい。
 薫別温泉は知名度上昇中の秘湯中の秘湯。先客はレンタカーのホンマ君。ひとり湯船でくつろいでいたところにお邪魔する。有名になっても秘湯であることに変わりなく、脱衣所一切なし。岩盤をくりぬいただけの素朴な湯船。源泉は熱すぎるため、ロープの先に付いたバケツに川の水を汲んで湯温調節する。真夏には川に飛び込む人もいるらしい。こんな場所だけに熊もよく出没し、暗くなってからの入浴は危険とのこと。
 滝野沢支線林道から川北温泉へ。R244からも近く、オフライダー3人組がいた。白濁のお湯が気持ちいい。日も落ちたため、結局開陽台に向かう。

2014.3.30
 川北温泉は、かつてあった温泉施設の湯船だけを利用しているため、珍しいタイル張り。


Day57 9.20 Wed
旅人の聖地

 開陽台は、北海道屈指のツーリストキャンプ場。主(ぬし=長期滞在者)が幅を利かせていた91年にはあまり良い印象はなく、1泊のみにとどまったが、自慢の330度の展望は名前負けせず、眼下には、広島県の半分ほどもある広大な中標津の平野が広がっている。
 朝、トイレに起きるとネモト君とばったり。羅臼で聞いていたので驚かなかったが、昨夜着いたとき探したのに。奈良ビーノの女のコとも3度目の再会。稚内、羅臼と雨で散々だったため、「初めて晴れで会ったね。」と喜んだ。無事を祈り送り出す。
 午後からネモト君と中標津へ洗濯に。ホームセンター「LOOK」向かいのライダーハウスで洗濯機だけ利用。マシンウォッシュはイシダ牧場以来。ちなみに「LOOK」には「555」は売っていなかった。ご丁寧にも「売り切れ」の張り紙あり。爆発事故でもあったのだろうか。(笑)気温低下が顕著になり、地元スーパー東條にてフリースとズボンを購入。
 キャンプ場で出会ったのは、ねぶたで見かけたチャリダー、京都SRのガク、大阪NS400Rのササ。チャリダー(自称ミレニアムチャリダー)は、今まで出会った中で最強のキャンパーだった。

2014.3.31
 ビーノのナカムラさんと会ったのはこれが最後。50ccスクーターでの放浪旅は尊敬に値する。そのスピードでしか見られない貴重な体験をしているはず。速いこと、距離を走ることがえらい訳じゃない。
 「555」は、中標津のホームセンター「LOOK」でしか買うことが出来ないとされていたストーブ(キャンプ用コンロ)。爆発したとかしないとか?そのクオリティについて、キャンパーの間で面白おかしく伝えられていた。「LOOK」自体も2000年代後半に閉店したそう。
 沖縄旅で書いたかな?キャンパーには現在のハンドルネームにあたるキャンパーネームというのがある。「ミレニアムチャリダー」は、いわゆる自転車旅人の総称ではなく固有名詞。元自衛隊の彼のキャラクターは強力で、8月のねぶた最終日、ひとり、またひとりと旅立っていく中、スタートした瞬間荷物が全部荷崩れを起こした爆笑コントが記憶に残っていた。なにしろ、キャンプ場の土の地面にドカシー(ブルーシート)だけ敷いてそのまま寝るからね。夜露で濡れるだろうに。夜中まで騒ぎすぎてまわりに怒られていた。でも憎めないヤツ。(笑)


Day58 9.21 Thu
虹別林道

 ネモト君、京都ガク、大阪ササと中標津「やまや」の日替わりカレー。昼食後彼らと別れ、計根別から虹別林道に入る。この林道はとても魅力的。北海道らしい直線ダートに、ジャンプできそうなアップダウンが加わったスリリングな道だった。ちょうど走りきったところに、無料露天風呂「からまつの湯」がある。チャリダーが先に来ていた。そして悪名高きおっさんも・・・。
 美しい夕日を見ながらテントに戻ったが、夜からものすごい風が吹き始める。ネモト君とササは、テントをたたんで展望台の中に避難するほど。

2014.4.1
 中標津「やまや」は今もある。
 「からまつの湯」のおっさんは、一見さんに細かいマナーを強要するというキャンパーの間でも有名になっていた人物。確かに地元の方優先ではあるが・・・。


Day59 9.22 Fri
ハイジーの家

 展望台にある食堂、「ハイジーの家」でライダー定食をいただいたあと野付半島に向かうも、中標津まで出たところでついさっき貼ったばかりのチェーンスライダーのガムテープがほとんどすり減っている。
「症状悪化?」
 そのまま地元のバイク屋さん「BUM金沢」さんで見てもらう。息子さんが全日本モトクロスに参戦しているオフに強いお店。劇的な改善はないが、とりあえず応急処置を施す。夕方までお店でゆっくりさせてもらう。
 時間も遅くなったため、買い出し、街中の銭湯「マルエー温泉」に入ってキャンプ場に戻った。夜はカレーパスタを作った。この秋一番の寒さ。

2014.4.2
 ハイジーの家は、開陽台展望台の1階にあった食堂。惜しまれつつも06年に閉店してしまった。ライダー定食は、ご飯と吸い物に納豆が付くだけというシンプルなものだが、価格は320円。貧乏放浪旅人の懐には優しい。
 展望台の駐車場はテントサイトから距離があるため荷物運びが大変。バイクにも目が届かなくなる。駐車場の隅にクルマは通れないほどの細い道があり、テント宿泊者はここを登ればサイト脇にアクセスできる。ただこの道、けっこう傾斜があるうえ、道の真ん中が雨で掘れて溝になっていた。トレールバイクでは問題ないが、ササのバイクは低速トルクのない大排気量2ストロークNS400R。よく登ってきてたと思う。
 ある日、ササのバイクのパワーが出ないというので見てみると、マフラー1本から排気がない。エンジンを見ると、3つあるインテークマニホールドの一つが外れ、二次エアーどころか、思いっきり大気を吸い込んでいる。(笑)すぐにBUM金沢さんに行かせ、事なきを得た。


Day60 9.23 Sat
いつかまた!

 朝起きるとテント内が結露。寒い!ハイジーの家でライ定(ライダー定食)を食べたあと、ネモト君を見送る。枝幸でシャケバイのためみんなの制止を振り切って出て行った。(笑)これからの予定とはまったく逆方向のため、今回の旅で再会することはもうないだろう。いつかまた会おう。
 昨日バイク不調により断念した野付半島へ。9年前にも訪れている。潮流の影響により海に張り出した砂嘴で、先端まで20km以上あるという巨大なもの。「トドワラ」という、立ち枯れが林立する観光名所がある。しかし、長年の風雨と風化により、ほとんどが倒れていた。中標津Aコープにて買出し後テントに帰宅。
 夜はテントでこの秋初鍋。暖かくて美味しい。

2014.4.3
 シャケバイとは鮭を加工するアルバイトのことで、放浪旅人の貴重な収入源であり、沖縄のキビ刈りと双璧を成す。
 ネモト君。サロベツ原野、道道106号での出会いから、サロマ湖畔での再会。そして日々のテント生活。書き直していたら、思いのほか雨の日が多かったことに気付くが、それも含め大切な記憶。
 翌年01年冬、四国八十八箇所歩き遍路に出た彼は、2月末に結願し、高野山にお礼参りに行く前に広島に寄ってくれた。その6月には、大学の友人カワダと東北温泉旅の途中、二本松のデニーズで深夜まで語り合った。
 04年、お互いの中間を取って、和歌山で合流した。そのときの彼のバイクはZZ-R1100C1。龍神スカイラインのワインディングを軽快に切り返す後ろ姿。帰る期限の決まった2スト250オフでの長距離旅はきつ過ぎる。ダートを走れないバイクは必要ないという考えに変化が生じ始めた。その夏の終わり。
「ZZ-Rを売りたいって言ってる友だちがいるんですがどうですか?」
「いいね!でも・・・、免許がない。(笑)」
 当時、二交替制の製造業に従事していたため、夜勤を利用し、カリキュラム上これ以上は不可能という最短で大型二輪免許を取得、ヘルメットだけ抱えて新幹線で福島に向かった。
「ZZ-R1100D1」
 90年代前半、世界最速に君臨したこのリッターバイクとの出会いが、爆発的行動範囲拡大をもたらしたのは、以後の旅履歴が如実に物語っている。
 05年5月、最初で最後のZZ-R2台での中部北陸旅。8月には、彼のソロ九州旅途中、中国道千代田付近の高速道路上(こちらは仕事中の軽トラ!)で劇的にすれ違い、早9年が経つ。
「人生を変える出会い。いや、変わったんじゃない。2000年8月29日、道道106号の道端から、今へとつながる一つのストーリー。」
 年賀状のやり取りと、年1-2回のネット通話でやっぱり2時間以上話す。(笑)そろそろ顔が見たいねえ。時間を気にしなくていい露天風呂で。羅臼、熊の湯?


Day61 9.24 Sun
過ぎ行く夏

 朝起きると懐かしい顔が。石垣で出会い、青森ねぶたで再会したノッチだ。標津でシャケバイをしているらしい。
 昼、ササを見送る。だんだんと仲間が減っていく・・・。
 ガク、TTレイドのミヤモト君と3人で川北温泉へ。ミヤモト君はなかなか速く、けっこう飛ばしたのにしっかり付いてきていた。オンロードSR400のガクは当然ついてこれるはずもなく、置き去りにされスネていた。(笑)川北温泉はかなりの人。帰りがけ雨が降り出す。

2014.4.4
 横浜のヒロの情報によると、ノッチは結婚したらしい。
 ササは大阪に戻り、その後美容師に。やはり結婚して子供もでき、毎年年賀状をくれる。
 先に川北温泉にきていたというミレニアムチャリダーから電話があり、温泉の休憩所にツーリングマップルを忘れてきたとのこと。旅先で得たたくさんの情報を地図に書き込む旅人は少なくない。そのため世界に一つしかない大切な記録となる。自転車で取りに戻るのは大変。言われた場所にて無事確保!
 この日のラジオ。シドニー五輪女子マラソンで高橋尚子が金メダルを取った!


Day62 9.25 Mon
最強の暴風雨

 昨夜から降り出した雨は、風をともない荒れ狂い始めた。午前中「ハイジーの家」でやり過ごしていたが、時間が経つにしたがいその勢いを増す。
 昼過ぎ、何人かがテントを撤収。さらに強くなる風!快適な展望台の中から様子を見ていると、ついにつぶれるテントが出始めた。二つ目、三つ目、自分のテントも形が変わっている。
「仕方ない・・・。」
 人間文鎮になるべく雨の中へ飛び出した。テントがつぶれると、ポール(骨組み)が深刻なダメージを受け、一度曲がってしまうと繰り返し使うことは困難になる。テントの中の最も風の当たる角に体育座り。インナーテントとフライシートの2枚で外界と仕切られているが、背中にじかに雨風を感じる。1~2時間頑張ったところで雨はやんだ。風は引き続き強い。
「峠は越えたか・・・。」
 不在だった若者のテントは、折れたポールがテントを突き破り、外に飛び出している・・・。

2014.4.5
 ドームテントは風に弱く、前室があるとさらに風を引き込みやすくなる。ポールを外して意図的につぶしておくと、とりあえずの風は回避できるが、それ以上吹けば、人間文鎮、もしくは完全な撤収!
 90年代に存在した高級テントブランド「モス」を思い出した。このときの開陽台に一張りあり、羨望の眼差しで見ていた。調べてみると、00年代前半には買収され、消えてしまったとのこと。
 放浪旅ではほぼ毎日がテント生活となる。日差しや雨風によりすぐに撥水は落ちるため、消耗品の一つと考える。重要なのは設営、撤収が簡単なこと。もう一つ絶対避けたいのが浸水。この旅で使用したコールマンのツーリングドームは当時2万5千円程度。最新の緑色の同タイプに比べると価格も機能も見劣りするが、地面が湿原の状態になっても、浸水したことは一度もない。


Day63 9.26 Tue
スタマティス・ミリゴス & ミレニアムチャリダー

 朝、昨日の暴風雨は嘘のように晴れたが、予報はまた午後から崩れることを伝えていた。開陽台八日目、ついに移動を決意。ガク、ミヤモト君と別れの挨拶を交わす。
「楽しかったね!良い旅を!」
 まずオイル交換のため中標津のバイクショップBUM金沢さんへ。残念ながら、予報通り雨が降り出した。
 作業終了後も雨宿りがてらお店で過ごしていると、面白い人物に出会った。
「スタマティス・ミリゴス。」
 ギリシャからきたツーリングライダー。このお店には92・93・94年と3年連続で現れ、オーナーも覚えていた。大阪で働いていたこともあるらしい。走行16万キロのXL。溝はなくツルツルのスリックと化したタイヤ。かなり年季が入っている。年齢を聞くと、関西弁まじりの流暢な日本語で「昭和二十六年。」と答えたときには思わず吹き出してしまった。(笑)記念撮影をして別れる。
 雨が上がった17:00出発。一路鶴居を目指す。すぐナイトランになった。RMXはとてもライトが暗く、夜間走行は苦手。鶴居に到着するころには真っ暗になっていた。開陽台で顔見知りの連中が案内してくれる。自炊はあきらめラーメン屋に。暖かいものが恋しく感じる季節になってしまった。
 キャンプ場すぐとなりにある温泉では、偶然にも風呂の日(26日)ということで半額の250円。ラッキー!

2014.4.6
「平成12年9月26日 スタマティス ミリゴス ギリシヤ」
 この日のメモ帳には、彼自筆のサイン(漢字もそのまま)が残っている。そこでこのエピソード!!!
「時の旅人、スタマティス・ミリゴス!」
 2012年3月のこと。この旅の再編集の進捗は沖縄残り3日というところ。東日本編に先駆け、昔の記述を読み返していた。何の気なしに彼の名前を検索フォームにドラッグすると・・・、
「えっ?!」
 うちのサイト以外にもう1件ヒット。
ATAKAYA WEBLOG
「去年11月(2011年)に日田って?」
 さらに・・・、
「あのXL?!」
 所用で寄った大分・日田の家電店の駐車場で、スタマティスと出会ったいきさつが綴られていた。言い様のない嬉しさが込み上げてきた。
「広島は通ったのだろうか?」
 国道2号線を軽やかに走り抜けていく彼を想像するだけで頬が緩む。詳細が知りたくて我慢できなくなり、このブログオーナーにメイルしてみた。返信にはさらに驚きの事実が・・・。
「正確には覚えていませんが、昨年聞いた走行距離は50万キロぐらいだったような・・・。」
 2000年時点で16万、その後の11年間で34万、1年平均3万キロ以上キープ!
「ミリゴス師匠!!!」
 信じがたい数字だが、もはやその真偽は関係ない。心が沈んだとき、師匠がいまどこを走ってるのか想像するだけで何でも乗り切れそう。
 このブログオーナーに連絡を取ったのにはもう一つ理由があった。その珍しい名字に見覚えがあったから。
「ビンゴ!世の中なんて狭いんだ!」
 老舗ライディングウェアブランド「カドヤ福岡店」に勤務されていた方だった。今は自分の店を持たれていて、それがこのブログ。もちろん検索ワードがヒットするまで見たことはない。いつか寄ってみたい。
 2011年当時ちょうど60歳。こちらのことは覚えていないだろうが、会ってみたいな。いつまでも良い旅を!
「スタマティス!いまどこ?(笑)」
 ミレニアムチャリダー。開陽台へのアクセスはずっと坂道のため、自転車ではかなり辛い。この日まで姿を見せなかった。川北温泉で確保したツーリングマップルは、ハイジーの家に預け、彼にも電話でそう伝えておいた。無事受け取ったかは不明。その後も音信普通。記憶は曖昧だが、家も引き払っていてホントの宿無しだったような・・・。地図の件も含め、再会してみたい旅人の最上位にランクする。
「ホズミ!(ミレニアムチャリダー)いまどこ?(笑)」


Day64 9.27 Wed
穏やかな一日

 開陽台で一緒だったTTレイドのミヤモト君、網走の呼人で一緒だったセローのカヤ姉と再会。降ったりやんだりの雨が続く。Aコープでの買い出しのみ。

2014.4.10
 どの日だったか忘れたが、鶴居でのある朝。
「今日何しよ・・・。」
「・・・!?」
「これはもう・・・、旅じゃない。」
 攻撃的な非日常ではなく、怠惰な世捨て人の日常。このとき感じた気持ちは、今も生き方のベースとなっており、ピンチに陥ったとき思考をプラスに転換するツールとなっている。詳細はこの旅を締めるあとがきにて。


Day65 9.28 Thu
チェーン交換

 昼前より釧路に出た。相変わらず調子の悪いチェーンスライダー。電話帳で地元のバイク店を調べ寄ってみると、店主は同い年。話しやすい。チェーンをひとコマこまカットしてもらうが、長期間の横ブレによりかなりのガタが来ており、仕方なく交換。工賃を安くしてくれた。
 作業途中この店の常連客が現れ、お昼にパスタはごちそうになるは、缶コーヒーは何本もいただくは、たいへんお世話になった。
 NTTを見つけて久々の掲示板チェック。書き込んでいると、「やめてください。」の一言。今座ったばかりなのに・・・、気分悪い。

2014.4.11
 調べてみると、同じ名前のバイク店はあるが所在地が違う。移転したあの店であってほしい。
2014.4.12
 チェーンを交換した武田商会。JR根室本線の跨線橋を下っていくイメージは今も記憶にある。ストリートビューには、閉ざされたブルーのシャッターと、不動産会社の連絡先。(となりはヤクルト。信号が縦向きなのが北国!)店の名前を検索してみると、二駅東にある別保という地名がヒットした。電話してみる。
「よかった〜。」
 あのお店だった。応対してくれたのはお父さんで、同い年だったのはその息子。以前の店舗はクルマが停められないため、10年ほど前に現在の場所に移転したとのこと。バイクの修理販売だけでやっていくのは難しく、釧路湿原でカヌーを貸し出す事業を展開、息子さんはタクシードライバーを兼業。
「こちらに来たときはぜひ寄って下さい。」
 電話を切ってしばらく、不思議な気分が続く。
「今、北海道とつながっていた。」
 たった数分の世間話。でも、心は釧路を旅していた。
 ついでに、Day6からそのままになっていたカナヤ君にも電話してみたが、やはり留守番電話。


Day66 9.29 Fri
雄別炭鉱

 紋別・はたの食堂で出会ったナカジマさんより情報を得た産業遺構、雄別炭鉱跡に向かった。途中立ち寄った道の駅には、この炭鉱に関する資料館があり、事前情報はバッチリ。場所もすぐにわかった。シンボルの煙突がそびえ、閉山まで1年しか使われなかったという病院も生々しい。炭鉱跡の多くがそうであるように、かつて数百、数千の人が働いていたとはとても想像できない。ロボット兵が優雅に散歩するラピュタの世界に近いが、現実はもう少し寂しい。
 探索中、中標津で知り合い、鶴居に同泊しているカッパ君とセロー・オザキさんが現れた。彼女は同郷の広島からで、なんと沖縄・伊江島で拾ったという猫と旅をしている。カッパ君は霊感があるらしく、しきりにこの場所が気持ち悪いと言っていた。自分にはピンとこないが・・・。
 ひと通り写真に収め、幻の湖「シュンクシタカラ湖」へ向かうも、発見沢林道でルートミスしたどり着けず。あげく下りで大転倒した。キャンプ場に戻ってオザキさんにそのことを伝えると、やはり霊らしい。(笑)

2014.4.18
 オザキさんと初めて会ったのは、確か雨の羅臼国設。彼女のパートナー、伊江島のネコ。今考えると、ネコの自己決定権が疑問。勝手に連れて来られてどう思っているか聞きたいが、もうこの世にはいないだろう。日本縦断放浪旅の道連れというとても個性あるネコ人生は、逆に貴重なものだったのかもしれない。もちろん彼女もキャンパーのため、移動中のネコ居住スペースを確保する必要があり、パッキングが大変だっただろう。ダート走ると嘔吐してそう。(笑)
 ここにもセウォル号のことを。昨日事故を起こした韓国船は、07年島旅で、奄美・名瀬港から沖縄・本部港まで乗ったことのあるマルエーフェリー「なみのうえ」。本当に残念な事故。


Day67 9.30 Sat
シュンクシタカラ~天ぷら

 ミヤモト君を見送ったあと撤収。フルパッキング(荷物満載)でシュンクシタカラ湖に向かう。今度は迷うことなく発見。小さいがきれいな湖だ。湖畔のダートを1周できるのも楽しい。たたりもなく、無事昨日の復讐を果たした。
 35線沢林道を経由して陸別に抜け、一気に置戸鹿の子(おけとかのこ)キャンプ場へ。着くころには暗くなってしまい、手が凍えた。このキャンプ場は、ダムの真下にある面白いロケーション。先客は地元のファミリーキャンパー2組。当然の流れのように夕食に誘ってくれたが、驚きのメニューはなんと天ぷら!アウトドアに目覚めて10年以上経つが、キャンプ場で天ぷらに出会ったことは一度もない。冷えた身体にしみた。ビールもうまい。ありがとうございました。
 夕食後、近くの勝山温泉でくつろぐ。久々の単独行動だった。

2014.4.19
 このキャンプ場は、利用した中でもトップランク。ダムのロケーションは、岡山にある湯原温泉砂湯のイメージ。
 シュンクシタカラ湖はホントに誰もいない湖で、湖畔を1周できるダートが強く心の残っている。童話の絵本に出てきそうな感じ。
 天ぷらは・・・。この旅から14年、トータル四半世紀以上のアウトドア経験の中でも、いまだこの一回だけ。
 勝山温泉の行き返りは記憶に残る寒さ。テントの着くころには、身体は完全に冷え切る。清潔保持の目的も大切だけどね。
 不思議なもので、これを書き直していきながら、自分で自分の旅を追体験。まだ1ヶ月近く残しているが、旅が終わる寂しさを感じ始めている。
 ついに、左の沖縄編全行程に追い付いてしまった。


Day68 10.1 Sun
三叉路のガク

 昨夜天ぷらをごちそうになったお二人にお礼とお見送り。こちらも出発しようとしたところ、今度は違う二人に声をかけられた。同じエリアにテントを張っていたもう一組の年配の夫婦。
「おにぎりを持っていきなさい。」
 釧路で写真スタジオを経営。仕事の話題になった途端、ただのおばちゃんだと思っていた奥さんの目がフォトグラファーの目に変わった。かなりの時間、業界トークで話し込んでしまった。
 旭林道を経由してR39にアクセス。この道は大雪(たいせつ)に向かうメインルート。観光客も多い。
 石北峠(せきほくとうげ)のパーキングで、朝貰ったおにぎりをありがたくいただく。ここで出会ったチャリダーとしばし談笑。今登ってきたキツイ峠道を思うと、尊敬の念を感じずにはいられない。
 日本屈指の紅葉スポットである大雪山系は、かなり期待大!R273の分岐、トンネルを出てすぐの路肩で地図を確認していると、向こうから見たようなバイクが・・・。
「ガクだ!」
 開陽台で見送って5日目、ドラマティックな再会に別れづらい。大雪から北上して上川に向かうと言うガクを、半ば強引に糠平(ぬかびら)キャンプ場に誘う。彼にしてみれば、今来た道を戻ることになるわけだ。(笑)給油のため、現地で合流することを約束し別れた。
 あらためて大雪へ向かう。大雪湖湖畔を少し走ると、すぐ銀泉台に向かうため観光道路に入る。観光道路とは聞こえがいいが、全長15kmのオールダート。しかし楽しめると思ったら大間違い。季節がら紅葉狩りの一般車が行く手をふさぎ、函岳以来の全身砂ぼこりの洗礼。抜いても抜いても現れる遅くて譲らない4輪にブチ切れて、思ったより早く着いた。
 銀泉台からの眺め。早いのか遅いのか、最高の紅葉とは言えないが、おつりが来るほど素晴らしい。大雪高原温泉にも行ってみたかったが、暗くなってしまうのでそのまま糠平湖へ。キャンプ場で無事ガクと合流し、温泉と焚き火で楽しい夜を過ごした。

2014.4.20
 奥さんの目がプロフェッショナルな目に変わった瞬間は今も忘れられない。
 ガクと再会した三叉路のイメージははっきりと残っていて、今ストリートビューで確認すると、「そうそうここここ!」って感じ。
 銀泉台へ向かう登りは今思い出してもイライラくる。当時はそれでも景色は素晴らしいと記録しているが、今は砂塵の絵しか思い出せない。止まらなくてもいいから、ちょっと減速して左に寄ってくれたらお互いがすっきりするのに。


Day69 10.2 Mon
幌加・岩間温泉

 朝イチから次の焚き火の薪作り。ガクは撤収、こちらは連泊。二日後、大学時代の同期、カワダと合流する予定。
 最初に向かった幌加温泉は、R273からそう遠くない一軒宿。湯船は小さいが、砂防ダムより落ちる滝がいい味を出している。川に飛び込むガク!
 岩間温泉は秘湯中の秘湯。やや荒れたダートを10km、最後に川越えもある。SRのガクは、この川の手前でバイクを捨てた。建屋や脱衣所は一切なく、小さな四角い湯船があるだけ。
 先客の二人にびっくり。こちらの学校に行ってる子供を訪ねてきたという山口県周防大島、橘町の母娘。北海道の山中奥深くで出会えば、大島と広島はもう同郷。ローカルトークに花が咲く。
 国道に出たところでガクと別れた。このまま小樽から京都までフェリーとのこと。また会おう。
 キャンプ場まで帰路、大雨が降り出したが、辛くはなかった。この道に沿って、現れては消える廃線、アーチ橋。かつての列車に思いをはせる。

2014.4.21
 ガクとはこのとき以来会っていない。10年以上前にネモト君から聞いた話では、茨城に住んでいたとか?ササに聞いたらわかるかも。フィーリングが合った旅人の一人。いつか再会したい。
 周防大島の母娘はそこそこ行くことがあるのにそのまま。「来ることがあれば寄って。」と水産会社の名前が控えてある。覚えてる覚えてない、会える会えないは別にして、日帰り旅としてはかなりポイント高い。近日検討中。
 廃線跡は、「タウシュベツ」で検索すると興味深いサイトが見つかった。
NPO法人ひがし大雪アーチ橋友の会
 このサイト、偶然にも2000年5月にスタートしており、現在もしっかり更新されている。今やあまりにも有名になってしまったタウシュベツ橋梁は、このとき糠平湖に沈んでいたが、士幌線のアーチ橋だけでも十分ノスタルジック。

2014.6.22
 岩間温泉で出会った母娘を山口・周防大島に訪ね、お母さんと14年ぶりの再会を果たす。

2015.1.25
 福岡・古賀を訪ね、娘さんと15年ぶりの再会を果たす。ご主人(元ライダー)は「パン工房カウリ」経営。

2015.3.8
 1月の報告のため周防大島再訪。15年前の岩間温泉では、2人が後から来たこと、運転していた息子さんは学生ではなく糠平で働いていたことが判明。何よりこのエピソード、今後も継続しそう。旅と出会いって・・・。


Day70 10.3 Tue
Zero Day

 終日雨。テントで過ごす。
 夕方、バハ(XLR BAJA:ホンダのトレールバイク)を積んだ1BOXが現れた。ベースキャンプを決めてバイクを下ろし、釣りをしながら旅をしているそう。
 雨の中二人でチャンチャン鍋。驚くことに、バツイチで養育費を払っているという同い年の彼。なのにプロの旅人という。経済的基盤は?

2014.4.22
 確かKTM(オーストリア製トレールバイク)も所有していると聞いた。どういう仕事をしていたのか?聞いたような聞いてないような・・・。
 旦那がいるのに半年も旅をしているカヤ姉、どこでも寝れるミレニアムチャリダーなど、愉快な仲間との出会いはかけがえのない財産。一般の人からすれば呆れる話なんだろうね。それを素晴らしいと思えるところに素晴らしさがある。(笑)「これでいいのだ。」


Day71 10.4 Wed
十勝温泉めぐり1

 やっと雨が上がった。大学同期のカワダと連絡をとりながら待機していたが、結局会えたのは夕方。
 カワダは、80年代後半、自分を秘湯の世界に引きずり込んだ張本人。那須の北温泉が原点だ。一つの温泉でゆっくりすることはは絶対ない。疲れるほどハシゴしてコレクションに加えていくというのが二人のペース。この日はまず、糠平湖畔にある秘湯「熊ヶ谷温泉」を探した。脱衣所もなくただ湯船だけがあり、増水時にはダム沈んでしまうとも聞く。残念ながら、探しているうちに暗くなり始めた。今日の捜索をあきらめ芽登温泉へ針路変更。大きな特色のない普通の温泉旅館で、露天もまあまあ。
 帯広市内に繰り出し、「新橋」というお店で名物の豚丼1,500円を食す。91年にも食べたことがあり美味。
 キャンプ場に戻り、おととい作った薪で焚き火を囲んだ。今日の移動手段はすべてカワダの借りたレンタカー。快適。

2014.4.23
 旅先で友人と合流するとき、特別な高揚感がある。記録には深夜2時寝とある。暗くなったら寝、明るくなったら起きる放浪生活では珍しい。そう、いつも書く、焚き火を囲んだ言葉のない会話を楽しんだに違いない。


Day72 10.5 Thu
十勝温泉めぐり2:トムラウシ

 再びレンタカーで移動開始。まず先日ガクと行った岩間、幌加温泉を再訪し、昨日断念した熊ヶ谷温泉へ。見つかるには見つかったが、本で見た湯船がない。手作りの石を積み上げた浅い湯船だけ。そこでテントを張っていた地元の人の話によると、つい最近公の機関により取り壊されたらしい。ひどいことをする・・・。
 然別を抜け、ヌプントムラウシ温泉へ。ここも秘湯中の秘湯なのだが・・・。
 ガケ崩れにより通行止め!仕方なく近くの国民休暇村トムラウシ温泉に入る。通行止区間は、明日バイクで再トライしてみよう。
 帰りに上富村牛の廃校に寄り、士幌で買い出しし、ナイタイ牧場から1本林道を走って菅野温泉へチェックインした。色々な種類のお風呂がある老舗旅館。近くにも無料露天あり。それは明日回ることにして、久しぶりのシーツに幸せ!一人では宿に泊まることなんてないからね。

2014.4.24
 熊ヶ谷温泉探索時、近くにタウシュベツ橋梁が沈んでいたと思うととても残念。
 上富村牛の廃校には体育館らしきものが残っており、隣りの民家の飼い犬が、そのホールを独占していた。
 シーツはイシダ牧場以来。


Day73 10.6 Fri
十勝温泉めぐり3〜パンケニコロベツ〜シートカチ林道

 朝から温泉ハシゴ。菅野温泉で入ってなかった湯船と、近くにある有名無料露天、ピラの湯と鹿の湯。鹿の湯の湯船で足の親指をザックリ切ってしまった。かなり深かったため糠平で消毒薬購入。キャンプ場でカワダと別れる。3日間ありがとう。
 再び単独行動となり、バイクでヌプントムラウシ再アタック。違う道を通りたいため、道東林道に次ぐ長距離ダート、パンケニコロベツ林道からアクセス。北海道らし雄大なオフロードが続く。シートカチ林道はさらに素晴らしかった。大雪山で感じることができなかった紅葉らしい紅葉。エンジンを切り惰性走行する。タイヤが小石を噛むジャリジャリという音だけが響く。オフバイク乗りだけが味わえる至福のとき。
 昨日来たヌプントムラウシ温泉への分岐。まず通行止チェーンをクリア。しばらくして今度はバリケード。脇のわずかな隙間よりクリア。数キロ先ががけ崩れらしい。コーナーの先に現れた現場は・・・。
「これは無理・・・。」
 林道走行での通行止めは日常茶飯事。ほとんどの場合バイクは通れる。ここもそうだと期待したが、歩いて越えるのもやっとな感じ。バイクを置いて歩き始めた。温泉まであと4kmほど。
「やばい時間帯・・・。」
 夕暮れ時は、羆(ヒグマ)が活発に活動する時間。行くには行けても帰りは暗くなる。がけ崩れを越えた先だ。何かあれば、翌年の雪解けまで発見されないだろう。徒歩丸腰のためエンジン音によるクマよけ効果は期待できない。道端からはいつでもクマが飛び出してきそうな雰囲気。すでに結構な距離を歩いていたためビビリが入り、帰りの道がとても長く感じた。
 キャンプ場まで帰路は、この秋いちばんの寒さ。

2014.4.25
 菅野温泉は08年から休業していたが、このGWにも再開の予定とのこと。タイムリー。
 足はかなり深く切っていて、しばらく消毒を続けた。以前書いた寄生虫による風土病「エキノコックス症」が気になっていたが、経皮感染はしないらしい。でも傷からはどうなんだろ。どちらにしても、潜伏期間満了のため時効。
 道東林道はただ長いだけだったが、パンケニコロベツ〜シートカチ林道は本当に素晴らしい道だった。
 今日分を書き直していて「SOS遭難事件」を思い出した。声の主は、本当にクマに食われたのだろうか?


Day74 10.7 Sat
Sleepless Night

 道内最低気温1度をここ糠平で記録。そろそろ夏用シュラフではきつくなってきた。1週間滞在したキャンプ場を後にする。
 天気はいい。10:00過ぎR274日勝峠から日高、夕張へと抜け、定番の夕張メロンソフトクリーム。
 15:30、約2ヶ月ぶりに千歳に戻ってきた。やはり青葉公園キャンプ場にテント設営し、キャンプ場内を1周してみる。もう10月半ば、さすがに前来たときより減っており3張り程度。その中に見覚えのあるテントが・・・。脇にある巨大なRVボックスで誰かすぐにわかった。開陽台、鶴居で一緒だったTTレイドのミヤモト君だ。不在のため帰宅を楽しみに待っていると、なんと女子を連れて帰ってきた。さすがにお邪魔、長話は出来ない。その後もテントから出てこない。眠れぬ夜になった。※ちょっぴり脚色、ホントはそこまで気にすることなく、いつも通り良眠。(笑)

2014.4.27
 ミヤモト君。今考えると、遠距離の相手とか、地元の彼女と千歳で合流したとか、色んなシチュエーションが推測できる。もちろん現地女子お持ち帰りの可能性もゼロではないが・・・。なかなかの好青年だったしね。


Day75 10.8 Sun
函館の夜

 結局二人は朝までテントで一緒だったようだ。ミヤモト君恐るべし!少しだけ話してキャンプ場を後にした。
 支笏湖南側にある北5条林道。木々に覆われた長い直線と、凸凹の楽しいダートだ。途中恐ろしい速さのレーサー軍団にぶち抜かれた。
 最初の温泉はオサルの湯。有名な無料露天だが、最近の大雨により湯船が土砂で埋まっていた。家族連れが掘り返しながら入浴中。写真だけ撮る。
 銀婚湯温泉。有名な老舗旅館で、糠平で合流したカワダからも薦められていた。お風呂自体は取り立ててすごいものではないが、上品な雰囲気の良さは伝わってくる。いつか日か普通の旅で訪れ、泊ってみたい。
 函館手前のきじひき高原キャンプ場にテント設営。高台の素晴らしいロケーション。糠平での寒さが嘘のように暖かい。

2014.4.28
 銀婚湯を検索してみると、2食付で1万円台前半。思ったよりリーズナブル。


Day76 10.9 Mon
サヨウナラ北海道~Deja-vu道端再び

 天候により少し迷うも、フェリーに乗ることに。14:50、かなり混んでいて、クルマはキャンセル待ち。駅、空港、港、どうしてこんなに切ないのだろう。陸路県境を越えるときはなんとも思わないのに・・・。出港を待つ間、お世話になった人たち、心配してくれている人たちにメイルする。サヨウナラ北海道。またいつの日か・・・。
 18:30青森着。前にも来たマックでお腹を満たしたあと、酸ヶ湯温泉に向かう。この温泉の千人風呂はあまりにも有名。これまで二度訪ねており楽しみにしていたが、到着は20:30になってしまう。日帰り入浴は21:00まで。残り30分ではゆっくりできないのでまた明日出直そう。
 すぐ隣りにある酸ヶ湯キャンプ場へ。来てみて思い出した。9年前にも夜遅く到着し、テントサイトが駐車場より遠いためやめたんだった。さらに思い出す。温泉の少し下にあるフラットな道端にテントを張ったんだった。行ってみると、今も変わらない道端。「またここか。(笑)」

2014.4.29
 ついに本土帰還。書き直していても寂しさでいっぱい。
 酸ヶ湯。実際には以前体験した記憶を思い出しただけで、初めての場所で感じる既視感ではないが、同じ行動パターンが笑える。ストリートビューで確認してみると、残雪に覆われたあの道端は今も変わらず。「青森の酸ヶ湯温泉では積雪何メートル!」と、近年の豪雪報道でもおなじみ。その度に、自分だけのキャンプ場を思い出す。


Day77 10.10 Tue
八幡平アスピーテライン

 朝気が変わり、酸ヶ湯には入らず十和田湖へ南下。寒さを吹き飛ばす紅葉と快適なワインディング。奥入瀬渓流はたくさんの人で賑わっていた。
 鹿角の郵便局で要らなくなった装備をゆうパックし、そのままR341を下って八幡平アスピーテラインに入った。分岐の少し先には、かつてカワダと来た赤川温泉という温泉があったが、97年の地すべり災害によって流され、今は跡形もないそう。
 アスピーテラインは、国内屈指の絶景ワインディング。後生掛、蒸ノ湯、籐七、松川など名だたる名湯が連なる。今回の目的地は松川温泉。大好きな硫黄白濁泉に期待が高まる。見返り峠でアスピーテラインから八幡平樹海ラインへスイッチ。このあたりは標高も高く、さすがに寒い。松川温泉松楓荘は、広い湯船と青白い白濁泉。期待を裏切らない素晴らしい温泉だった。
 R282に合流し、岩手山の中腹、滝沢村の馬返しキャンプ場にたどり着いた。辺りは登山基地っぽい雰囲気。なにやら警告が貼ってある。「数年前より火山活動が活発になっており、無期限の登山禁止。」とある。
「ここはヤバイのか?」
 寝てる間に溶岩に流されたら、遺体すら見つからない行方不明者になるだろう。
「どうしよう・・・。」
 周囲を探索すると、快適なトイレと数個のベンチを備えた立派なログハウスを発見。命を懸けるには十分なロケーション。ここに決定!ベンチを並べて寝床にする。月のきれいな夜。

2014.4.30
 奥入瀬渓流から十和田湖に出た三叉路で、地図を見ようと荷物を開けると・・・、歯磨き粉チューブ全開放!
 97年の地すべり災害は、全国ニュースでも大きく報道されたためよく覚えている。赤川温泉のさらに上に、澄川温泉という湯もあり、93年10月、カワダと一緒に訪れている。空撮で見ると、広範囲の法面補修が施されている。人的被害が出なかったのは救いだが、行ったことがある温泉が、なんの痕跡も残さず消え去ってしまったのはとても寂しい。
 岩手山。寝ている間に溶岩流による原子還元、もしくは火山弾直撃。今ならありかも。(笑)


Day78 10.11 Wed
龍泉洞

 馬返しキャンプ場。昨夜から誰一人現れず、快適なログハウス泊だった。
 盛岡を抜け岩泉町に入る。今日の目的地は10年来の念願だった神秘の鍾乳洞「龍泉洞」。1,000円を支払い入場。見せ場は深さ98mの地底湖。奥深くまでライトアップされている。
「すごい、すごすぎる!」
 沖縄の海の青が陽、客観的な自然だとすると、こちらは陰。見えない何かが宿っている感じ。油断すると取り込まれそう。残念ながら、深い方のライトが切れていて暗い。高い入場料取ってるんだから電球ぐらい変えてほしい。
 遠野を経由して、往路も立ち寄った北上市に戻る。もちろん大堤キャンプ場。10月の水曜、誰もいない。行きと同じく銭湯マースで入浴と洗濯。コインランドリーを使ったのは中標津以来。

2014.5.1
 龍泉洞は本当に行きたかった場所。広島からはその距離以上に遠い。公開されていないルートにはもっと深い地底湖もあるそう。当時は1,000円が高いと書いたが、けっこうな維持管理費がかかるはず。切れた電球の修理にもダイバーが必要。経費かかりそう。
 この日の最大の後悔は、遠野をスルーしたこと。山中のくねくね道を通ったため時間もかかり疲れていた。市街地の道端でチェーンアジャストまでした覚えがあるが、結局通過のみに留まる。ゆっくり散策していみたい町の一つ。比嘉愛美主演の07年NHK連続テレビ小説「どんど晴れ」以降、その思いは強くなっている。


Day79 10.12 Thu
大堤キャンプ場

 曇り時々雨。洗濯物も乾かないため早々に連泊決定。ゆっくりしようと思ったら、いきなり朝から刈り払い機での草刈りが始まった。仕方ないけどうるさい。さらに、こんなに広い場所にもかかわらず、わずか5mの至近場所でバーベキューを始める団体。うるさい・・・。しかし!昼過ぎその集まりに参加することになりうるさくなくなった。(笑)
 メンバーは地元の建設会社社員と現場の職人さんたち。大掛かりな料理を食べさせてくれた。その中に一人ライダーがいて、家に寄っていけと言う。年賀状書くから住所も教えてくれと。この場では住所交換だけして別れた。

2014.5.2
 でかい鍋で煮た、芋の入った汁物の郷土料理?をいただいた。往路Day10でも学校の野外活動に遭遇してスイカを貰った。街中でありながら、静かで過ごしやすい場所。地図を見ると、小学校、中学校、高校、幼稚園、運動公園に囲まれている。なるほど、環境がいいはず。白鳥はこのとき見たのかな。
 住所交換したライダー。北上の北西にある沢内村に住んでいる人で、結局お宅に寄ることはなかった。ちなみに2001年正月年賀状を出したが、向こうは出してなかったよう。返事は来た。(笑)


Day80 10.13 Fri
林道をつなぐ#1

 北上を発ち、夏油(げとう)温泉へ。この温泉は、10年以上前に一度訪れたが、冬季休業中で入ることが出来なかった。たくさんの種類の湯船と洞窟風呂が有名。受付で料金を払うも、無愛想なオヤジが気になった。期待の洞窟風呂は思ったより奥行きがなくそれなり。
 名なし林道を北上。通行止表示があったが危ない箇所はまったくなかった。走行中突然、地図にも載ってない鉱山跡が現れた。水沢鉱山というらしい。残ってる遺構は少ないが古いレンガ積みの壁が印象に残った。
 錦秋湖畔を通り、南本内林道へ入る。前半ラフ、後半フラットな土路面。採石場ありトラック多い。
 R342に合流して今日の宿泊地、増田の真人キャンプ場。北海道、東北は本当に良い環境のキャンプ場が多い。ここもその一つ。すぐそばに300円の温泉もありゆっくりできた。

2014.5.3
 南本内林道で転倒とあるが、まったく記憶にない。


Day81 10.14 Sat
林道をつなぐ#2

 朝から雨が降ったりやんだり。鳥除け?定期的にパンパン音がしている。
 9:00過ぎ晴れてきたので出発。R13からR108を経由して林道に入る。ずっと走りたかった長距離ダート。秋田側が手代林道。凸凹多く、砂利でラフな路面。水たまり多い。山形の県境を越えると奥山林道に名前が変わる。紅葉シーズンでやたらと4輪がいる。かなりきれいと感じるも、地元の人曰く例年より落ちるらしい。
 R345~R112~県44とつなぎ、荒沢ダムのすぐそばにあるキャンプ場に到着。しかし・・・、このキャンプ場はよろしくない。サイトの地面はジメジメと苔むしていて、ある意味ふかふか。本当にここがキャンプ場なのだろうか?目の前に民家が2-3軒あり、住人に聞いてみても間違いない。キャンプ場の隣りのゲートボール場は、出来たとき一度使ったきり何年もそのままだと言う。少しでも乾いているところにテントを張った。
 明日も東北有数の林道、朝日スーパー林道にアタックする予定。

2014.5.4
 荒沢ダムキャンプ場の苔は本当にふかふかで、まるで絨毯のよう。マット要らずだが、ジメジメであまり気持ちがいいものではなかった。すぐ前に民家はあってもすごく寂しい場所。


Day82 10.15 Sun
林道をつなぐ#3

 さわやかだが寒い朝。
 朝日スーパー林道入口では、よりによって今日、駅伝があるとの告知。通行止めと書いてある。迂回する選択肢など持たずそのまま進入。
 20kmを越える東北有数のダートは期待通り素晴らしい道。出口に近い猿田川野営場手前で駅伝のため足止めとなった。他にもたくさんの車が待っている。紅葉や山菜取りに来た人たちだろう。しばらくすると、関係者のペースカーを先頭にゆっくりと下り始めた。何人か選手を追い抜く。
 途中左折、三面(みおもて)林道に向かうも、今度は新しい奥三面ダムを建設中のため通行止め。ほぼ完成し、すでに水を貯め始めている。満水になっていく過程が見たい。今見えるところも湖底に沈んでいくのだろう。通り抜けをあきらめR7に向かう。
 国道合流地点のコンビニで、新潟在住のタナカさんと出会った。奥三面ダムの水が貯まっていく様子を写真に撮っているとのこと。同じことを考えている人がいるものだと感心。メイルアドレスを交換し、写真を送ってもらうようお願いする。
 近くの村杉温泉の情報を貰った。奥村杉キャンプ場にテントを張り、共同浴場へ。秘湯ではないが、安くてきれいな温泉だった。キャンプ場での同泊者は今夜もゼロ。

2014.5.4
 タナカさんとは何度かメイルのやり取りをした覚えはあるが・・・、奥三面ダムのその後の記憶はない。
 2000年のツーリングマップル東北にはもちろんダムは存在しない。今見るグーグルマップには、あさひ湖と名前がついた巨大なダム湖があり、時の流れを実感できる。なるほどね。


Day83 10.16 Mon
能生

 このまま北陸に抜けるか、関東に戻るか迷う。とりあえずスタートも、昼、見附のマックで再び悩み、結論出ず。最後の最後、北陸に向かうR8と、群馬に南下するR17の分岐で悩む。実のところ。何で悩んでいるのかわからない。どちらでもいいのだ。北陸に向かえば広島に近付き、旅が終わりが早まるということか。
 長岡で19のとき関わった人を探した。東京から広島に戻って以来音信不通だったが、かすかな記憶を頼りに調べてみると、意外なほど簡単に見つかった。元気そう。
 結局、R8を北陸に抜けることに決め、暗くなってきた能生という町でテントサイトを探す。国道沿いにふれあい広場?の看板。行ってみると、ワイシャツの男がゴルフの練習をしていた。バイクを置き、テントを張って良いか聞きに近付いた途端、突然罵声を浴びせられた!「ここはキャンプ場ではない。何を考えているんだ。」という内容。実際はもっとえげつない言葉を投げつけられた。正論で間違ってはいないが・・・。反撃の言葉が喉まで出かかったが何とか我慢。
 特に沖縄で感じたこと。多くの島でテントが禁止されていた。かつてのオウムの影響も大きいだろう。同様に、自分の行動も旅人のイメージに直結している。その振る舞いしだいで、この地の旅人への対応が、プラスにもマイナスにもなる。なによりワイシャツ男の様子からみてとんでもないヤツ、反論には何の生産性もない。
 再び付近を探すがいい場所がない。そのうち完全に暗くなってしまったため、また通りかかったさっきの公園に落ち着いた。すでにヤツはいない。嫌な気分は澄んだ空気ときれいな月が癒してくれた。少なくとも朝までは・・・。


Day84 10.17 Tue
Mega City

 朝起きると、今度は違うおっさんがゴルフの練習をしていた。長居は無用と早々にテント撤収をしていると、近くでボコボコ音がする。なんと!ゴルフボールを打ち込んできている。
「なんという町だ!」
 さっさと撤収して朝御飯のコンビニへ。
「ここもか!」
 温めた弁当と同じ袋にチョコパンを入れやがった。昨夜からの流れに、どうでもいいことに怒り心頭。
「能生、とんでもない町。」
※あくまで出会った人との主観的やり取り。善良な能生町民とは一切関係なし。
 あれほど悩んだ北陸方面をあっさり変更。糸魚川からフォッサマグナ西端R148を南下。長野は学生時代何度も訪れた地。あれから時が経ち、あらためて感じるすごい景色に感動する。既に冠雪している山々は神々しい。
 甲府では石垣で知り合ったハヤカワさんに電話するも連絡取れず。平日の昼間なので仕方ない。
 甲州街道を東京に向かう。しかし・・・、トラックが多過ぎる。片側一車線でトラックの後ろにつくと、排気を吸い続けることになる。抜いても抜いても続く試練。露出している全身が排気ガスで真っ黒になった。
 八王子から都内への40kmで疲労マックス。さらに異常な渋滞がたたみかけてくる。自動車免許を取得したのは世田谷、中型2輪を取ったのも八王子。初めての運転は都内から始まったわけで、当時はなんとも思わなかった。しかし広島に戻り、空いた道に慣れた現在、この渋滞は異常だ。道幅も狭く、左右に飛び出たフルパッキングではすり抜けもつらい。ヨレヨレでクロダ宅に。
 夜にはまた焼肉をご馳走になった。本当にお世話になります。ありがとう。

2014.5.5
 能生ね〜。(笑)あの知人も含めて新潟には良いイメージが持てない。
 ルートを悩んだあげく甲州街道という恐ろしく遠回りな選択に苦笑。旅慣れてくれば、いかに都市部を回避するかがルーティングの命題。


Day85 10.18 Wed
ゼロデイ

 洗濯など。移動なし。


Day86 10.19 Thu
悲願!那須三斗小屋温泉

 5:00に起き飯田橋へ。帯広でも会った大学時代の同期カワダと、那須の温泉にアタックするためだ。船橋で彼の仕事の打ち合わせのため待機、終了後再び北上、一路那須に向かう。
 今回訪ねる三斗小屋(さんどごや)温泉には忘れられないエピソードがあった。10年前の90年3月、やはりカワダと訪れ、積雪のため途中で断念。以来悲願となっていた。というのもこの温泉、車を置いてロープウェイに乗り、さらに徒歩2時間をかけてたどり着く秘湯。
 ロープウェイ山頂駅から登山開始。紅葉シーズンのため混雑している。途中いくつもの穴から硫黄と蒸気が噴出し、秘境度満点。時間通り、2時間で到着した。
 温泉宿というより登山基地の趣き。露天風呂も良い。自家発電のため21:00きっかりに消灯した。

2014.5.5
 90年の三斗小屋。道は積雪でただの斜面となりわからない。冬山装備のパーティーとすれ違い挨拶。ウインドブレーカーにジーンズという軽装は、今考えれば遭難してもおかしくない無知。あのパーティーもなぜ止めてくれなかったのが不思議。白の恐怖を感じた。
 この旅館までアンテナを立ててるドコモに妙に感動。もちろん持ってるJフォン(当時)は早い段階で圏外。
 悲願達成の喜びと、10年来の目標を一つ喪失したという思いが共存した。


Day87 10.20 Fri
高雄温泉

 登れば当然下らないといけない。雨の中下山する。来るときと違う道を通り、登りよりかなり早かった。
 そのままカワダのおすすめ温泉、高雄温泉を訪ねる。久々の五つ星温泉に出会った。脱衣所もなく石を積み上げただけの湯船は素晴らしく、三段で湯温を選べる。そして大好きな硫黄、白濁の泉質。最高!
 帰りもカワダの仕事の打ち合わせに付き合って川越に寄り、クロダ宅へ帰宅。充実した温泉行に満足。

2014.5.5
 かつての高雄温泉は、大分・鍋山の泥湯と雰囲気が似ていた。現在は「おおるり山荘」という巨大温泉施設が建ち、見る影もない。
 カワダとは何年も会ってないが、いつか再会のしたときには、まるで昨日会ったような会話が出来る友人。


Day88 10.21 Sat
ハスクバーナ

 洗濯。休日のクロダと輸入バイクを見に行く。札幌で一目ぼれした、チェーンソーで有名なヨーロッパ製のハスクバーナは諸経費込みで100万。欲しい。

2014.5.5
 広島に帰って、一時は真剣に買おうと悩んだ時期もあった。消耗品の2ストに100万はもったいないよね。


Day89 10.22 Sun
BIOHAZARD

 クロダ宅にあったPSゲーム「バイオハザード」をクリアするまでプレイ。自分にとって、PS本体を買う原動力となったソフト。やるのは久しぶり。旅先で変な時間の使い方をしてしまった。(笑)


Day90 10.23 Mon
天気待ち

 雨のためおとなしく過ごす。もはや旅の遅延行為。明日出発しよう。


Day91 10.24 Tue
再び、ヒロ宅

 クロダに感謝し出発。行きと同じく再び横浜のヒロ宅に寄ることに。15:00頃、臨月の奥さんが出迎えてくれた。お腹を触らせてもらい感動する。この中に命があるとは・・・。
 夜は近所のサキコさんとも合流し焼肉。

2014.5.5
 以前にも書いたが、クロダは後輩の運送会社のアルバイトで知り合い、もう四半世紀の付き合いになる。数年前出張途中家に来てくれたが、ゆっくり会いたいね。
 サキコさんも結婚し、子供もいる。毎年年賀状をくれる。


Day92 10.25 Wed
無の里~誕生

 奥さんの見送りをうけ帰路に。あいにくの雨。そういえば、往路の静岡〜横浜間も雨だった。
 久々に長距離を走り、愛知西尾、無の里キャンプ場にテント設営。往路偶然見つけた静かな場所。
 夜、ヒロからメイル。なんと!赤ちゃん誕生の報!今朝見送ってもらったばかりなのに。
「本当におめでとう。」

2014.5.5
 ヒロとは何度も再会している。03年には、このとき生まれた子供を含めた家族三人で沖縄を放浪し、その行き帰り家に寄ってくれたのだが・・・。残念ながら、奥さんと長男ダイチの二人とは別々の人生を歩んでいる。
 その後彼は新たな家族と出会い、大分・鍋山での合流や、広島に来てくれたこともある。2000年5月1日、あの那覇新港の出会いからね。

 今、久しぶりに電話で話した。GWの今日、なんと!12歳の長女と一緒に、横浜から山形までチャリ旅とのこと!それも北海道への予行演習らしい。
「素晴らしいこころ旅!」
 さらに、鍋山で会った赤ちゃんはもう6歳。その下に2歳も。そういえば去年は家の不幸で、今年は年賀状がなかった。知らない間に5人家族に。(笑)
「気を付けて、良い旅を!」


Day93 10.26 Thu
ミヤ

 朝、帰る気分になっていた。ただ豊田のミヤはすぐそこ。今を逃すとまたいつ会えるか?連絡を取り、お昼を一緒に食べることに。
 建設中のスタジアムの前で待っていると、地元の人から声を掛けられる。コーヒーを頂き、旅人トーク。待ち時間退屈しないですんだ。ありがとうございました。
 ミヤと再会し、名古屋味噌カツ。美味しい。やっぱり会って良かった。
 15:00、幹線道路の分岐まで送ってもらう。
「また会う日まで。」
 この時間、これまでの流れからいくと、もうテントサイトを探す時間。しかし今回は違っていた。もうどこかによる気分ではない。
「帰ろう。」
 久しぶりのナイトラン・・・。

2014.5.5
 豊田スタジアムは、02年日韓共同開催のワールドカップに向け建設中。
 ミヤは、01年、02年と2年連続で広島にやってきた。数年前北陸で働いていると聞いたが、その後は連絡を取っていない。電話してみると、コールするが出ない。プラン継続。消息を知りたい。
※今ヒロにも聞いたが、数年疎遠になっているとのこと。


Day94 10.27 Fri
Long Way Home

 三重、奈良、京都、大阪、兵庫、岡山、そして広島。思い出を振り返る時間としては余りある。
 3:00、尾道バイパスのパーキングに立ち寄った。トイレに入って無意識にしたのがコンセントを探すこと。それはもちろん携帯の電源を確保するため。ハッと気付く。もう今日は必要ない。
「終わる・・・。」
 深夜にも関わらず、お世話になった人たちにメイル。たくさんの人の顔が浮かんでは消える。ふとこのまま、石垣に行きたい衝動にかられた。しかし、一生旅を続けることは出来ない。鶴居で感じたあの気持ち。

「旅は攻撃であり、非日常でなければならない。けっして現実逃避であってはならない。」

「出会ったすべての人たち、自然、本当にありがとう。」

 広島市内に入った。沖縄から帰ってきたときと同様、見なれた街がやけに懐かしく、どこかよそよそしい。
「不思議な感覚・・・。」
 そして・・・、明るくなり始めた5:00、無事帰宅。4月に家を出たとき9,629kmだったオドメーターは、22,905kmを表示していた。
 今日現在も旅を続けているミヤ、マツウラ君、すべての旅人へ。

「気を付けて、良い旅を!」

2001年7月15日

2014.5.5
 あとがき製作中・・・。

Special thanks to
T.Nishida Family S.Kuroda
T.Miyazaki N.Nozu
H.Matsumoto K.Mochizuki
K.Yamanaka N.Akikusa
S.Wakuya M.Aki
K.Nemoto N.Mizuta
A.Matsuura Poppo
S.Tanaka H.Tamashiro
Y.Ishida family Cows T.Matsuzaki
Y.Yajima R.Nakajima
HATANOSYOKUDO N.Tsurumi
ECHOSTUDIO G.Koike
SASA K.Hozumi
T.Miyamoto W.Ozaki
S.Shibata H.Tanaka
I.Kawada The Earth!