Shima-Tabi 2007

TOKARA

 おそらく人生最後の放浪旅になる。いつになく早い段階から計画を練り始めたが、気分は盛り上がらないままでいた。将来のこと、両親のこと、殺伐とした社会。テレビのニュースでは毎日人が殺され、人々は日々すり減らされていく。その中で、自分はどこを目指して歩いていけばいいのだろう。でも、今しか出来ないことがある。

 トカラは、昔から地図で眺めるだけの島だった。旅をするようになってからも、普通に仕事をしていてはまず手の届かない存在。飛行機はなく、フェリーは週2便。そのフェリーでさえ、少し波が高くなるだけで欠航するという。人は何人住んでいるのだろう?アクセスは?特に悪石島(あくせきじま)の持つイメージは強力だ。フィクションの中での悪霊島や獄門島ではなく、リアルに存在する島。抽象的なだけに、言い知れぬ怖さを感じさせる。ネットが普及した今、簡単に調べられるようになったとはいえ、それでもなお、気軽な観光を拒絶する島々であることに変わりはない。

 最初の段階では、下り便のみを利用し口之島、中之島、子宝島を考えた。が、地図を見ているうちその先には奄美が見えてくる。船から港を見下ろしたことはあるが、実際に上陸したことはない。「そうなると沖縄まで。」と考えるのにそう時間はかからなかった。7年前、いつか訪ねる時のためわざと残しておいたはるか東の島うふあがりじま。南・北大東島のことだ。トカラと大東島を結ぶ今しか出来ない島旅。地図の中に線が見えてきた。


Day 1
 3/11 いよいよ準備に取り掛かる。どうも切羽詰らないと動き出せないのはいつもの事だ。最初に悩んだのがバイクの選択。
 去年行った薩摩硫黄島での経験から、リッターバイクは島旅には有効ではないと感じた。そのため3年ぶりにRMX(オフロードバイク)を長距離に持ち出すことを決める。行き帰りの1,200キロがかなり辛いと予想されるが、フェリーに何度も乗り、小さな島でも小回りの利く点は捨てがたい。
 久しぶりにリヤキャリアを装着し、手持ちのリヤパッド交換、前後ブレーキフールド交換、エアクリーナエレメント交換、2ストオイル満タン、5分山の古いタイヤに付け替え。少しでも荷物を減らすため、オイルは持ち歩かずギリギリまで引っ張り那覇で買う事にした。気掛かりはフロントパッドとリヤタイヤ。総走行距離は2,000キロを予想。2ミリをきっているがおそらく大丈夫だろう。タイヤはツルツルだったので少しでも山のある古いタイヤに換えたが少し心配。

 次に生活仕様。
 大東は大丈夫そうだがトカラは買い物さえ出来ない島があり、自炊装備は必須。ガスストーブ2つと110カートリッジ2つとつめかえ君。ソロクッカーとシェラカップ。去年秋買ったお気に入りの熊本・山幸窯マグ。水は常時2.5リットル携帯し、食料のない島のために備蓄食料を多めにした。衣類は九州南下だけのために革ジャン、オーバーパンツ、ウインドストッパーフリース、フリース、ウインターグローブ。2月の暖冬から一転して、凍える3月上旬だ。通常着替えは長袖Tと下着、靴下3日分。久々に旅先での洗濯となるため少し減らすことが出来る。そして22:30、晴れ。南の島へ向け旅立った!


Day 2
 3/12 深夜0:40、徳山で一度目の給油。気温2度。この気温自体は冬の旅ではよくある事で、対策は出来ている。が、それはフルカウル(風防付)のでかいバイクでのこと。吹きさらし、全身で風を受けるオフロードバイクでは予想以上に寒い。途中寄り道をすることのない移動のみの走行はいつもナイトランだ。当然、車や信号の数が激減する。予定としては、休憩込みで100キロ3時間。船の出る鹿児島港まで600キロ弱で18時間。16:30到着を算出した。出港は鹿児島を23:50だが、この手の船は手続きを済ませておかないと乗れないということがある。あとは最初の目的地、十島村口之島まで6時間200キロ。寝ている間に移動できる。

 2:26、埴生で2度目の給油。タンク容量は11L、予備が3L。ナイトランで予備に入るのに120キロちょっと。深夜のため開いているガソリンスタンドで必ず給油。4:00、3度目給油、北九州黒崎。順調だ。6:09、4度目給油、久留米。このあたりからが問題。世の中が動き始め車も増えてくる。9:12、熊本、宇土。八代あたりを走っていて面白いものに出くわした。
キムケン。
といっても人ではなく、あの姉歯、耐震偽装の木村建設だ。もちろんシャッターは閉じていたが、あの頃の事が思い出される。当時、度々報道された住めないマンションの人たちは今どうしているのだろう?

 12:03、6度目の給油、鹿児島、出水。さすがに疲労度が増してきた。どこだったか忘れたが、途中道沿いの東屋で少しだけ横になる。そして、13:30先が見えた串木野でロースかつ定食をいただく。元気を取り戻し15:30、ついにフェリーターミナルに。予定より1時間早い到着だった。

 船の予約はしていないので、とりあえず受付へ行く。すると22:00頃また来てほしいとの事。よし!これで今日渡れる事は確認したので、最初の島、口之島の民宿黒潮の宿に電話を入れる。しかし、あいにく満室との事。次に掛けたのがふじ荘。おばちゃんが出たので明日の晩の空き部屋を聞くと、大丈夫という返事。現地での情報が少ないので、まずは民宿に泊まり情報収集。その後は状況に応じて対応していけばよい。鹿児島の友人や、連絡を取り合っている旅仲間にメールを入れた。トカラではドコモ以外の携帯はまったく通じない。でもそれは大した事ではない。そういう島に行くのだ。

 出港にはまだ時間もあるので、市内のダイエーに寄り、サイドバッグの開いた所に入るだけ食材を追加した。夕御飯にはまだ早いので、フェリー待合所に戻り仮眠をとる。夜中走り続けたため、眠りにつくまで数分とかからなかっただろう。

 目が覚めるとあたりはもう暗くなっていた。港にある食堂街ドルフィンポートのラーメン店、山小屋でしばらくとれないであろう最後の外食。さらに給油。これから行く7つの島すべてにガソリンスタンドは1軒もない。満タンにしてもかなり厳しいことが予想される。家からの走行距離589キロ。

 22:00になり乗船の手続きをする。2等6,010円+2輪3,500円。島旅の始まりだ!

 客室に向かうとそこそこのお客さんがいる。お隣は悪石に向かうという診療所の先生。トカラに常駐の医者はなく、診療所には看護士がいるらしい。月2回先生が鹿児島から各島を回る。急病の際は自衛隊にヘリを要請するため、各島に必ずヘリポートがある。例えば、脳梗塞や心筋梗塞など、都会で対応が早ければ助かる病気もここでは命取りになるのだろう。大変な地域だ。

 ここでちょっとした問題が。口之島に到着するのが朝6:00。5:30には起きていたいので、携帯の目覚ましを使うわけだが、まわりの人も全員起こしていいのか?かといって自然に起きるのにたよる訳にもいかない。おそらく少し前に放送かなんかあるのだろうが、単車乗りは徒歩と違い、着込んだり色々やることがあるのだ。とりあえず、アラームを5:30にセットして、また一瞬にして眠りについた。


Day 3
 3/13 目覚ましより少し早く起きた。客室の照明はまだ暗い。外はまだ暗闇だ。とりあえずいつでも降りられるよう身支度をととのえる。結局、心配することはなかった。港に着く前、明かりがつきもうすぐ到着という放送。最初の島に期待が高まる。

 ついに上陸!が、まだ真っ暗で様子が分からない。民宿から軽1BOXが迎えに来ていた。付いて来いと言うので行こうとした時、ちょうど一緒に降りたでかい1BOXに間に入られてしまった。この車が遅い。曲がりくねった道を行くので、民宿の1BOXを見失いそうだ。「もっと早く!」と思っていると、何のことはない同じふじ荘に泊まる人たちだった。何かのアンテナを立てる為に調査に来た工事関係者の3人組。あと、半分仕事、半分遊びっぽい福祉関係のおじさん2人。自分を含め計6人が今日の宿泊者。

 宿に着きすぐに朝ごはんだ。なかなかこういう経験はない。当然と言えば当然だが、早朝到着して食べるところはないわけだから、この朝食から3食で1泊6,000円。

 母屋で食べたあと、離れに一時移動したが、予定していた人が来ないということでまた母屋へ。母屋と離れ2棟からなり、20名くらい対応可能。少ないときは主、フジコ女将が1人で切り盛りするが、今日は6人ということで近所のいとこさんが手伝いに来ていた。母屋、離れといってもまったく普通の民家。離れもかつて親族が普通に暮らしていた家だという。

 早起きしなければいけなかったフェリーではさすがに疲れが取れず午前中は爆睡。午後から行動開始となった。天気は曇り。出る前におばちゃんに暗くなる前に帰ってくるように言われる。何でも昨日の宿泊客が暗くなっても帰ってこず、ちょうど島に来ていた駐在さんをも巻き込む捜索騒ぎになったという。関係者の心配をよそにひょっこり帰ってきた徒歩旅の彼は、なんと野生牛6頭に囲まれ、1時間くらい動けなかったらしい。色んな所で牛に接してきたが、牝に囲まれるって言うことがあるのだろうか?牡は確かにやばいが、単独行動だし。ちなみに、トカラには駐在さんが一人だけ、普段は南となりの中之島にいて、定期的に島を回っている。偶然にもその時口之島に滞在していたという話。

///// 脱線するが、今パソコンを打ちながら、4/10に北大東の浅沼商店で買った魚肉ソーセージの最後の1本をかじっている。なんか・・・店の様子が浮かんでくる。今この時間もあそこで日常の光景が繰り広げられているのだろう。/////

 で、口之島。
島の役場にあたる出張所で簡単な地図を貰い、時計回りに外周へまわった。この島の東側には野生牛が住んでいて、観光の目玉になっている。集落に害がないように柵で仕切られていて、見に行くにはその柵を自分で開けてから入る。柵からしばらく行くとガッツポーズ!ちょい荒れダートになったのだ。オフロードバイクで来た選択がいきなりハマった。さらにしばらく行くと現れました。野生牛。
 実際、ただの牛なんだが、もちろん柵越しではなく普通に道端にいる。それにえさは自分で確保するわけだから、若干アバラが浮き牧場のよりやせている。牝らしく臆病で、近寄っていくと適度な距離を置き逃げていく。


野生牛生息地域

 続いてそのまま島の東をまわり込み目当てのセランマ温泉へ。ここには屋内の湯船もあり、島の総代に鍵を借りて入るとあるが、普段は湯も張ってなく、建物の裏手にある無料の露天風呂に入る。こじんまりしていて、展望もそんなにある訳ではないがいい雰囲気。
 先客がいた。話すと午前と夕方のみ開店する島唯一の売店の主人とその知り合い。「さっきすれ違っただろ?」と言われ、記憶をたどるとそういえば売店の前ですれ違った。写真の牛の頭蓋骨は彼が置いたと聞いて笑ってしまった。2人が去ったあとも小一時間はいただろうか。温泉はいい。

 「暗くなる前に・・・」というおばちゃんの言葉を思い出し、前岳林道へと向かった。野生牛のところで気付いたのだが、古いタイヤを付けてきた為、タイヤのベース面に少しクラックが入っている。
「おいおい、こんな序盤で大丈夫かよ?まさかバーストはしないだろうが・・・。」それにガソリンを心配しつつも、目の前のダートを見過ごせなかった。地図には一応危険なため通行禁止とあるのだが・・・全線通過。確かに出口付近はすでに廃道状態となり、左右から草が生い茂っていた。帰ると今日の走行距離25キロ。次の中之島の方が大きいのにガソリンは持つのか?外の台所ではおばちゃんが今日取れたというサワラをおろしている。今日の晩御飯。


Day 4
 3/14 今日は朝からいい天気。島内ではとしまの運行状況が逐一放送される。
「フェリーとしまは、8:00に子宝島を出港しました。」
なるほど、としまが今どこにいるのかがよくわかる。これは役場から放送されるのだが、なんと十島村の役場は現地にはなく、鹿児島市内にあるのだ。去年行った硫黄島のある三島村もそう。この放送システムは何年か前に全島に設置されたとの事。

 ところが、昼前頃だっただろうか?その放送がとんでもない事を口走った。
「明日のフェリーとしまは、天候不良のため欠航します。」
「えっ?こんなにいい天気なのに。」
 おばちゃんに聞くと、としまは上り便のあさっての天候が悪いと下り便から出港しないんだそう。ということは、中之島への移動はさらに3日後か。これはつらい。しかし、こればかりは文句をつけるところがない。気を取り直してまずは北部のセリ岬に向かった。ここは野生牛ではなく、出荷する牛がいるのだが、やはり、集落との柵を開けて入っていくと、優雅に牛が草を食んでいる。


草を食む牛

 先端まで行くと、遠くに屋久島と口之永良部が見える。あとでおばちゃんに聞いた話では、口之永良部と重なって硫黄島も見えているらしい。大戦後ここに国境があった。

 10メートルくらいの浅い瀬を挟んで、赤い岩があった。これなら岩をつないで渡れそうだ。波打ち際まで行くとこれがけっこうすべる。おれもバカじゃない。慎重に足を掛けて進んでいったのだが・・・予想を超えるすべりに両足水没。アホだ。まだまだ人生経験が足りないと反省した。濡れたからではなく、判断を誤り、落ちてしまったという事実がA型としては許されない。もちろん渡る気持ちが失せたのは言うまでもない。


セリ岬と渡ろうとした赤瀬

 濡れた裾にがっくりきながら、フリイ岳に向かった。本来ならここも放牧場で牛がいるはずなのだが、どうやら今はいないようだ。しかし、広々とした草地に海、小さな池がアクセントになっていてとても綺麗だ。そうこうしている間に昼前になり宿に向かった。帰り道、昼を食べるために宿に戻るということもあまりない経験だと考えながら到着すると、他の5人はもう食べ始めていた。みな上り便で鹿児島へ帰るからだ。という事は、欠航によりあと三日三晩フジコ女将と二人きり。奇妙であり、面白そうでもあり。ちなみにおばちゃん、おそらく70歳過ぎくらい。

 5人を見送り、再びフリイ岳に向かった。昼に聞いた話によると、頂上に旧日本軍の遺構があるらしい。港にこれから出港するフェリーとしまが停泊している。今七つの島に滞在中のすべて人が、あれに乗らないとあと三日足止めを食らうわけだ。


フリイ岳からとしまを見送る

 そのままフリイ岳の山頂を目指したが、途中から琉球寒山竹に覆われルートが見つけられない。回り込んでみたがはやり見当たらずやむなく断念。南ルートから再度セランマに向かった。明日以降の雨の前にもう一度入っておきたかった。昨日と同じく1時間以上堪能したが、今日は誰も現れなかった。
 そしてこの日のメインイベント横岳。山頂のすぐ下にあるヘリポートからの眺めは素晴らしかった。昭和45年無人島になった臥蛇島(がじゃしま)、その隣の小臥蛇島(こがじゃしま)。吹き抜ける風と、かたむく太陽に輝く海は、とても写真で表現できるものではない。


小臥蛇島

 ふもとにはたくさんの牛たちが、小さな黒い点となっている。そして左手には次に渡る中之島、御岳(おたけ)が噴煙を上げている。続いて、大きなアンテナの立っている山頂へ。ここはその施設のためあまり展望は良くないが、ちょうど反対側、昨日走った前岳林道が一望できる。

「本当に良い人生を送っている。。。」


前岳と前岳林道

 宿に帰る。今日は36キロ走行。昨日から計60キロ。かなりやばい。このままではガソリンが持たない。おばちゃんに手はないかと聞いたが、この島では無理だろうと。もしかしたら中之島では何とかなるかもしれないとも。どちらにしても今考えてもどうしようもない。節約して行きたい所に行けないのは本末転倒だ。徒歩という最終手段もある。


Day 5
 3/15 予報どおり朝から雨。しかし退屈はしなかった。おばちゃんとお茶したり読書したり。特に宿にあった3冊は面白かった。十島村村誌(村史?)、写真集、特にハマったのが鹿児島のライターが書いた旅行記「トカラへ」。これには島の歴史、財政、教育、観光受け入れと生活とのジレンマ、泊まった宿のことまで書いてあり、その後の島を巡るにあたってすごく役立った。どこの自治体にもある観光をPRする行政と、受け入れる地元側とのギャップが離島では顕著に現れる。かきいれ時の連休などに営業していなかったり、食事は同じメニューが続いたり、細かいところではシーツを換えないとか。。。地続きで1泊ならまだましだが、1度渡ると数日滞在しなければならず、選択肢も少ない場所で感じる事は、その土地全体のイメージとなりリピーターは減る。
 だがトカラの場合それは関係ないのかもしれない。行く人はそれを承知で、そして欠航を考えると週末に軽く行ける場所ではないのだ。釣り客、そして島に必要な一時的な工事関係者などが客の多くを占める。

 そうそう、この本にはおばちゃんのことも書いてあった。聞くとまさか本に書かれるとは思ってもなく、送られてきて驚いたと。もう一つ面白いことが書いてあった。そのライターが、おばちゃんが畑に外出中宿にいて、予約の電話を取らされたと。それを読んだから聞いた。
「おばちゃん、おれも電話あったらとれって事?」
 すると、
「出てくれ。」って。。。
 受け入れ人数とか制限があるだろうに。(笑)結局、実際に掛かってきたのは1度。鹿児島の役場から確定申告の件でだった。

 降り続ける雨は午後になり激しさを増した。なるほどこれなら欠航もうなづける。昼過ぎ、
「にいちゃんよ〜!」おばちゃんが呼ぶ声がする。
「どこ〜?」と聞き返すと隣の倉庫の前からだった。行ってみるとなんと餅つき。と言ってももち米ではなく、島の田んぼで取れる芋、ミズイモと紫芋、さらに何かの具を加え餅、というよりは団子を作るため杵と臼でつく。
「にいちゃん、手伝ってくれ。」という事ででつく訳だが、これがけっこうキツイ。つくのは振り下ろすだけだが、かなりの粘り気があり、なかなか抜けない。しかしまあ、面白い体験をさせてくれるものだ。肝心のミズイモ団子というと・・・ちょっと辛かった。食感が。。。

 色々な話をした・・・。
生い立ち、家族のこと、島のこと、島の人間関係のこと、さらに戦争のこと、戦後の米占領下のこと。話は尽きない。ここでは書けない事も色々聞いた。名前はフジコといい、小さい頃から皆にもそう呼ばれていた。しかし結婚するとき戸籍を見たら、フジだったとか。(笑)島に逃げてきた詐欺師を見破り、逮捕につなげた話とか。あと悲しい事故の話。全国ニュースになったおととし暮れの5人の遭難事故。
 工事関係者の5人が海が荒れたにもかかわらず、どうしても中之島に渡らなければならず、漁船で出港した。ちょうど中間でエンジントラブルにより停止漂流。その後の天候悪化により転覆し、船長以外の5人全員が遭難し、今も遺体はあがってないという。そのうちの一人から宿に引き返すという携帯からの電話があり、その後消息を絶った。中には二十歳の青年もおり、おばちゃんは思い出すたびに涙を流したという。中之島なんてほんのすぐそこに見えるのに。海はこわい。


Day 6
 3/16 引き続き雨。同じくお話と読書。三日目に入る二人きりの生活だが飽きる事はない。小降りになったところで港まで車を取りにいった。おととい例のおじさん二人が帰る時に港に乗り捨てていった為、そのまま置いてある。離島で誰も盗んだり出来ないから大丈夫という訳だ。傘を差して港まで歩いていった。歩くスピードでしか見れないものもあり面白い。

 帰ってからセランマであったおじさんのいる売店へ。話は前後するが、最初に宿に来た日、次の中之島でも宿にしようと、なごらん荘を取っていた。しかし欠航になった為、必然キャンセルで延期しようとしたところ、ちょうど土曜日となり満室。他の宿をあたる事も出来たが、今後の連泊の費用を考慮し、テント泊に決めていた。その為の食材追加という訳だ。しかし値段が高い。が、その流通の大変さを見てきた為仕方なし。島の各家庭には台所以外の縁側や倉庫に巨大な冷凍庫がある。冬場や台風シーズンにはとしまが何便も欠航になることがあり、2〜3週間の食料が備蓄してある。
 売店では、袋入りのインスタントラーメン、チョコレート、ソーセージ、カセットコンロ用カートリッジを購入。ラーメンが一つ百円もした。カップ入りはかさばり、ごみも発生するため買う事はない。続いて、明日の切符を買いに出張所へ。2等1,420円、バイク1,000円。渡ってから一つ一つの島の移動は安い。

 夕方、Hさんというおじさんがやってきた。上陸した日、1BOXで先導してくれた人だ。昔、鹿児島に住んでいてバイク乗りだったらしく話が盛り上がっていると、演歌番組を見ていたおばちゃんが一言、
「うるさくてテレビの声が聞こえないじゃないか。」だと。これを聞いて笑ってしまった。普通なら客に向かって言う言葉ではないが、そんな事は一切感じない。一緒に住んでいる母親に言われるような感覚。それでもかわいいところはある。コーヒーを飲んでいた時、それまで勝手に淹れなさいといっていたのに、その時だけ「お客さんにやらしちゃいけないね。」と言って淹れてくれた。笑
 中之島の民族資料館にHさんが作った船の模型があると聞いてまた楽しみが増えた。口之島最後の夜だった。


Day 7
 3/17 5:00起床。いよいよ島を離れるときが来た。予定では船は5:50港に入ってくるが、普通の船ではない。用事が済んだらさっさと出港してしまう。おばちゃんが、
「こんなことあまりないよ。」と言いながら、おにぎりを作って持たせてくれた。普通に移動していくと、次の島に渡りすぐに食事となるが、テントだという事を考えてくれているのだろう。
「ありがとう。また来るよ。それまで元気で。」手を差し出した。同時に2日前の船の欠航に感謝した。

 中之島へは約45分で到着。相変わらず小雨が降っている。すぐに支所に行き玄関で待つ。中之島はトカラの有人島七島の中心的存在で、他の島の役場が出張所(だいたい地元の方が1人で兼任)と違い、支所という形で役場から派遣されてくる。現在職員は3人。どの島も船が着くと郵便など荷役作業のため出払い、そこで色々聞くのも申し訳ないため事務所で待つことに。それに今回はテント。水やトイレも確保したいし、何より勝手に訳の分からないところに張って、地元民の顰蹙を買うのは最悪だ。それに口之島でも感じたことだが、本土と違ってよそ者はすごく目立つ。自分はまっとうな?人生を歩んできたつもりだが、現地の人にはそうは見えない。まず身分を明らかにすること、すると自分にとっても島の人にとっても都合が良い。

 職員さんにテントを張っていい場所を教えてもらった。港からも近いし、トイレは支所のを使ってよいとの事。水もある。ガソリンのことを尋ねた。やはりこの島でも無理と言うことだった。だが明らかにもうもたないし、他の島はもっと入手困難になる。
「何とかならないですかねー。」とお願いしてみると、
「じゃあ、私が個人的に分けてあげるということにしましょう。」よしきた!
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」その前の会話の中でピンときていた事があった。「燃費は?」と聞かれた時、「2サイクルエンジンなんで悪いです。」と答えると、
「2ストですか・・・」この人はバイクに乗っていた事がある!これでとりあえずこの島では気兼ねなく乗れる。

 さて宿を作る。今回の旅の最初の設営が雨とは嫌な感じだ。海辺から坂を上ると、言われたとおりすぐにバキュームカーが見つかった。ただの空き地でその奥が少し広くなっている。最初聞いた時、「えっ臭いの?」と思ったが、臭いはしない。それにバキュームカーはその午後出て行ったきり、一度も帰ってくることはなかった。推測ではあるが、気を遣って違う所に止めてくれたんではないかと思う。しかし雨だ。口之島から数えて三日連続の雨。どこにも出る気がせず、クラスメイトから譲り受けた日商簿記2級のテキストを開いた。これは・・・次回6月の受験は無理な難易度だ。(笑) それでもフェリーの時刻表の裏を使って仕訳をしてみた。雨はそのあとも激しく降り続け、終日テントに閉じ込められる事となった。おばちゃんにもらったおにぎりが本当にありがたい。たくさんのたくあんが付けてあった。夜、近くでガサガサいっている。


Day 8
 3/18 雨。ここまで降られるのもあまり記憶にない。簿記を開く気にもなれず、寝たり起きたりしながら昼をむかえる頃やっとあがる。晴れた訳ではないが、動ける時に動いておかないといつまた降りだすかわからない。
 テントから出てみると、昨夜のガサガサの原因がわかった。ヤギ太郎だ。沖縄や鹿児島の離島では、よく草地にヤギがつながれ放置されている。一人と思っていたこの空き地に仲間がいたわけだ。よろしく。
 まず、キャンプ場があるという七ツ山に向かった。ここにテントを張るつもりは最初からなかった。集落から真反対にあり、ありえない遠さ。としまの運行状況も聞こえない。バックパッカーやチャリダーではまず行こうとも思わないだろう。続いてヤルセの灯台へ。


ヤルセ灯台

 昨日までいた口之島が見える。


口之島

 北上し底なし沼と呼ばれる御池。正直、こういう形で場所だけを巡っていくのに感動はない。ただ、せっかく来たのにもったいない。で、やっとこの島のメイン、御岳登山口に辿り着いた。トカラ最高峰御岳(おたけ)は979メートル。アンテナのある7合目まではバイクで登れ、そこから徒歩となる。そこそこ急な登りを頂上へ。とりあえずお釜のふちまで到達した。山頂付近は曇っていて、かなりの強風が吹いている。お釜の中を覗き込むとかつて硫黄を採取した硫黄畑、数箇所から噴煙、と言うよりは蒸気が噴出している。下におりる道を探りながら、外周を時計回りにまわる。最初に三角点を見つけた。


御岳三角点

 左側にふもと(といっても見えない)、右側に火口を見ながらさらに回りこんでいく。風が強い。霧というか、もう雲の一部が吹き付けてくる。意外と大きな火口だ。反対側にきてもまだ降りるところが見つからない。さらにあるいていくと、あった。火口への入口だ。おりる途中にものすごい蒸気を吹き出している穴を見つけた。いや〜これに当ったら、即大やけどだろう。風向きが変わり、その蒸気が流れてきた。距離があり、温度は暖かい程度なのだが、息が出来ないくらいの硫黄ガス。油断できないぞ。くぼ地に見えない有毒ガスが溜まっている可能性もあるが、この強風では大丈夫だろう。
 う〜ん・・・だが見ていて飽きない。この穴はどこまでつながっているのだろう。なんというパワー。近くに違う吹き出し口がある。こちらは横を向いていて、周りにきれいな黄色の硫黄の結晶が付着している。さらに足元に目をやると、硫黄の固まりやら、酸化して、ちょっと踏んだだけでボロボロになる石が散乱している。植物は一切生えてなく、こういうところが地獄とか呼ばれるのがよくわかる。また風向きが変わりガスを吸い込んで咳き込んだ。あまり近寄ると危ない。


吹き出しモンスター

 お釜にはグレーの水が溜まっていた。「暖かいのかな?」と手を浸けてみたが、ただの水。最初の穴に戻り、小さな石を投げ込んでみると、すぐに戻ってきた。調子に乗ってさらに大きい石を投げ込むと今度は戻ってこない。まずい!フン詰まりになって怒り出し、大爆発したら危ないので急いで逃げ出した。


火口と硫黄採取跡

 帰りはそのまま時計回りに進む。すると雲が晴れ、口之島がどーんと迫ってきた。日頃の行いがいいのだろう。しかしその先が問題だった。火口のふちが一番低くなっているちょっとした鞍部で、吹き出しているガス全部が山肌へ流れ出ている。息を止めて突破しようとしたが、苦しくなりちょっと吸った。お〜っと、もろに硫黄だ。息が出来ない。何とか突破して上がってきた場所に帰ってきた。ちょっとした探険気分。

 夕方しか開かない売店にて食料調達。消費期限が長いパン、パインの缶詰、インスタントラーメン、チョコレート。野菜、惣菜などはまったく売っておりません。サバイバルな様相を呈してきました。おばちゃんとしばし世間話。宮崎の出身だそう。初めて家に電話を入れる。携帯が使えないため、持っているテレカ全部持ってきている。掛けるのは掛けられるのだが、公衆電話が支所に一台あるだけ。
 同時に島の民俗資料館に予約を取った。予約といっても、毎日客が来るわけではなく、普段は閉まっていて見たい人がいるときだけ開ける。隣の天文台とも兼任する館長さんが車で迎えに来てくれるというので、思わず入館料を聞くと無料という。素晴らしい。

 夜、温泉に出かけた。海岸通には西区温泉と東区温泉という温泉が二つある。それもすぐ近くに。なぜかは口之島で読んだ本に書いてあった。西区は古くからこの島に住んでいる人たち。東区は奄美などから渡ってきた人たち。昔からうまくいってないのだそう。今はそれほどでもないが、温泉はそれぞれが管理している。売店で20:00に掃除して溜め始め、時間がかかると聞いていたので、22:00に行くと、まだ30センチほどしか溜まってない。これ以上待つのも大変なので入る。寝そべれば何とか全身浸かれる。料金は島民は無料、外部の人は維持管理に寄付という形だったので、持ち合わせの硬貨200円を払った。二日ぶりの風呂にさっぱりと、そして今日は(実際は昨日も)ヤギ太郎と一緒に就寝。

 書き忘れていたが、明日鹿児島出港のとしまは、翌日出港に延期。この雨ならなるほどという感じ。欠航ではないし、もう驚きはしない。

Day 9
 3/19 やはり雨。初日に教えられた水道へ水汲みに行くが位置がわからないので、同じ敷地内の駐在所に入った。奥さんらしき人が出てきて、事情を話すと位置を教えてくれると同時に水ならここで汲んでいきなさいという。言われるとおりボトルを手渡した。
 駐在さんの夫婦は鹿児島から3年の任期でこの島にやってきて現在2年目。よくしゃべる奥さんだ。まるで職務質問されているように尋ねてくる。これから資料館に行くと話すと、「またよりなさい。」と言われ駐在所を後にする。テントに帰り、ヤギ太郎の写真を撮っていると、館長さんが迎えに来た。ヤギ太郎はびしょぬれで寒そうだ。


ヤギ太郎

 資料館につく頃には再びどしゃぶりになっていた。しかしよく降る。目の前にあるトカラ馬の牧場には、数頭が寄り添って雨に耐えていた。
 施設はきれいでいかにもお金がかかっていそう。中之島だけでなく、トカラ全体の色々な展示物がある。お目当ては悪石の仮面神ボゼ。悪石島のお盆に現れるこわい神様だ。秋田のなまはげみたいな感じ。館長さんが一対一でつきっきりで説明してくれる。これで無料とはなんという贅沢。
 歴代定期船の模型のコーナーで、Hさんが作ったというチャーター船ななしまの模型があった。そしてやはり目玉なのだろう。仮面神ボゼが3体飾ってあった。男性器ををかたどった杖で人を小突きながら、赤土を付けまくる。付いた人はその年病気にならないという。生で見てみたい。実はこのボゼ、実際には祭りの後すぐ壊される。とっておくと祟りがあるというが、ここにあるのも本物で、祟りが怖いですと館長さん。(笑)  昼までの2時間じっくりと見学した。テントに戻るとヤギ太郎がいない。さみしい。

 夕方雨の中、郵便局に行った。あるのは口之島、中之島、宝島の3島だけ。大目の現金を持っていないと緊急時、民宿に泊まれない。お金をおろしたら、今日は西区温泉ではなく東区温泉へ。つくりはほぼ一緒なのだが、こちらは少し低い位置にあり、階段を下りていく。なんとなくこっちのほうが好きだ。同じく200円を寄付。地元の人と少し話す。買出しに寄って戻るが裾がびしょ濡れで気持ち悪い。もういい加減にしてほしい。

 テレビも携帯もないので情報はすべてラジオから得る。普段は聞きもしないAMのNHK。1時間ごとに天気とニュースを流すので非常に助かる。特に天気予報は重要で、明日には回復するということだが。。。でもこの地域、中途半端だ。予報で十島地方という情報はたまにしかない。ほとんどが「種子島・屋久島地方」か「奄美地方」で判断するのだ。おそらく悪石あたりまでは前者、以南は後者といったところだろうか。
 このラジオ、なぜか夜になると韓国や、台湾に侵略される。国内では同じ周波数に二つの放送はないが、外国にまで統一はされていないのだろう。NHKが中国語放送にジャックされてしまうのだ。しかしこれがけっこういい曲を流している。


Day 10
 3/20 雨。しかし予報通り午後にはやんだ。ほっと一安心。支所に行き、延期になったフェリーが明日出港することを確認。切符も買う。欠航により日程がずれ、最終的に月曜に出る名瀬便に乗るため、もう一つ島に行けるようになった。次は諏訪之瀬だ。3,060円。バイクは明日船が出る前に支払う。1,000円。それとガソリンを分けてもらうという大事な用件があった。みな個人的に鹿児島からドラム缶で買うらしい。運賃もかかるし高くなるのは当然だろう。しかし、こちらはいつ予備燃料になってもおかしくない状態。リッター200円でも払うつもりでいたのだが。。。
 職員の方の名前はKさん。元々島の人ではない。話をするとやはり昔バイク乗りだった。話に夢中になっていてガソリン代のことを忘れていたのだが、思い出しいくらか聞いた。

Kさん:「いいですよ。」
自分:「はっ?でも高いでしょう?」
Kさん:「同郷のよしみという事で。」
自分:「えっ?どこなんですか?」
Kさん:「呉(広島)の出身なんですよ。」
自分:「えっーーー???」

 早く言ってよKさん。まさかこんな所で広島県人に会うとは・・・。同郷というのは不思議なものだ。当たり前だが地元にいてはあまり感じないのに、遠い土地で出会うことにより発生する仲間意識。お言葉に甘えます。ありがとう。手に入るだけでも助かったのにタダとは。

 出港の際もう一度会えるのでとりあえずの礼をいいテントに戻った。すぐに準備をして東区温泉へ。奥さんの「またよりなさい。」という言葉を思い出し、駐在所に寄った。大声で呼んでも出てこない。二人とも外出中なのだろう。そのまま温泉に向かった。昨日もだったが、この時間まだ誰もいない。貸切だ。
 だいぶ時間がたち、くつろいでいた所に地元民のおじいさんが入ってきて話になった。御岳の話題になると、「わしが一番運ぶのが早かった。」と自慢し始めた。山頂では採取した硫黄をどうやっておろしたのか気になっていた。まさか背負子でふもとまで背負っておりるわけはないだろうし・・・。聞くとやはり索道を設置していたらしい。

 買い物をして、また駐在所によってみると二人とも戻ってきていた。偶然にも奥さんはこちらが温泉に入っている時テントに寄ってくれたみたいで、行き違いになったようだ。すぐに、今おろした刺身がある、肉じゃががあると、次々出してくれる。そういうつもりで寄ったんではないんだが・・・。(笑)すでに奥さんの職務質問も始まっていた。
 なんでも北九州で働いている息子さんが、大学で野球をしていたらしく、こちらがアメリカンフットボールをやっていたと話すと、同じ六大学出身という事で共感している感じだ。

 前でも書いたように任期は3年の2年目。あと1年で鹿児島に帰るそうだ。平和そのものの島だが、口之島での捜索騒ぎの話にもなった。例の牛に囲まれたってやつ。ちょうどこちらが口之島でおりた船に乗り、移動する当事者の彼と一緒に島に戻ったことになる。
普段は中之島に常駐しているが、定期的に各島を巡回し、明日は下り便で子宝島へ向かうという。
 いい方法を教えてもらった。下り便は鹿児島を出港後各島に寄港し、交互に宝島か奄美の名瀬に一泊し、翌日また鹿児島へ戻る。下り便のみを利用すると、三日から四日動けないのに対し、下り便で一つ行き過ぎ1泊、翌日の上り便で一つ戻ると、二日で二つの島に行くことが出来る。なるほど!思いつかなかった。そうすると悪石や宝にも行ける。同時にそれを今知ったことに感謝した。もし最初から知っていたなら、すでにかけがえのない体験となっている口之島とこの島の四日間はなかったかもしれない・・・。

 奥さんが部落の寄り合いに行くというので、「持ってかえって食べなさい。」と、肉じゃが、島の特産枇杷、タンカン、パッションフルーツを持たせてくれる。「こんなにもらっていいんですか?」食堂がないのでインスタントラーメンのサバイバル生活には御馳走だった。

 その夜、この島に来て初めて雨音のしない夜だった。遠くに潮騒、まわりでは虫や鳥の音楽会。こんな場所だったんだ。。。今日一日だけで、雨に閉ざされ、マイナスだったこの島のイメージがプラスに変わった・・・。


Day 11
 3/21 5:00起床。入港は7:00前だが、テントの撤収を考えると仕方ない。準備が出来るとまず支所へ。諏訪之瀬にしていた行き先を悪石に変更してもらう。運賃は一緒。続いてバイクの手続き。港に行くと子宝に向かう駐在さんがすでにフェリーを待っていた。支所のKさんや、資料館のFさんも現れ、お世話になった人たちが揃う。一晩島を留守にする駐在さんにKさん、
「大麻を密輸し、飲酒運転、ノーヘルしますよ。」かなりブラックなジョークに大爆笑。そして、久しぶりの晴れ、何とか生き延びた中之島を後にした。

 雲の切れ目からスポットがさす。左手には中之島、右手には諏訪之瀬島。日本国内において、噴煙を上げ海上に浮かぶ二つの島を同時に眺められるのはここだけではないだろうか。すごい光景だ。


二度とないライティング

 次の寄港は平島。だが島が平坦なわけではなく、平安末期、平家の落人が隠れ住んだためだという。しかし平家というのはどれだけの人数がいたのだろう?日本全国に逃げまくり、数々の落人伝説を残している。トカラでもほとんどの島に、平家が隠れ住んだ穴などが残っている。今から向かおうとしている悪石という名前にしても、追っ手に恐怖感を与えるために付けられた名前といわれ、数百年前の朝鮮の地図にもすでにその名前がある。

 平島が近づいてきたが、建物がぜんぜん見えない。本当に人が住んでいるのだろうか?駐在さんが教えてくれた。外敵から身を守るため、海上からは見えないところに集落を作る。なるほど。実際、宝島では、海上から見えた牛を奪おうとしたイギリス船と交戦し、それが外国船打ち払い令につながったという日本史上の事件がある。

 入港前、一人の若者が話しかけてきた。名古屋の大学生の彼は、昨日この便で鹿児島を出港し、そのまま奄美へ。そして最終的に西表に行くというのだが、日程に余裕がなく、各港でお願いして下船し、上陸した証を写真に撮っている。こちらが平島だけ行かないと言うと、一緒におりようというのだが。。。
 言うことは理解できる。船から眺めるだけと実際に足あとを付けるのは大きく違う。20代であったならそれに意味を感じたかもしれない。しかし今は違う。最低でも一泊、いや一泊でも何もわからない。いればいるだけ何かを見つけられる。何よりその行為の最大のデメリットは、たった一歩で「トカラに行ったことがある。」と錯覚してしまうことだ。

「おれはいいよ。また来ればいい。。。」

 駐在さんに教えてもらった上り下り便の使い方で、向こう三日間で確実に風のない日を調べて出れば、2泊で島一つに上陸するのは可能だ。前に、気軽に行ける島ではないと書いたが、金曜の宝島便が出れば、週末の一泊旅も可能。特に北側の島、例えば口之島では、深夜出港、早朝到着。帰りは翌日の昼過ぎ。十分な滞在時間だ。逆に南の島は短い。宝島だと深夜出港翌日昼過ぎ到着。翌早朝にはもう上り便に乗らなければならず、明るい時間は数時間しかない。そう考えると平島は都合がいい。到着は朝8:00過ぎ、帰りは昼前と、どちらとも負担の少ない時間。平島を一つ残す、それが後日また来る口実となる。いつの日か・・・。

 としまが入港体制に入った。これは大変だ。車両が乗り降りするランプウェイは左後ろしかないので、小さな湾内で繊細な操舵が求められる。その為、としまには船首に方向転換のためのスクリューが付いている。それにこの平島と、子宝島はしっかりした防波堤がないため、少し波が高いだけでランプウェイをおろさなかったり(車両は下船できない。)、最悪抜港(ばっこう。入港せず飛ばして次の島へ行く)する時もある。実際、停泊時の横揺れは大きく、波が高いと岸壁に当り損傷は免れないだろう。

 港には10人前後の子供たちを含んだそこそこの人数がいた。名古屋の大学生が下船し写真を撮っている。
 出港。見送りが始まった。先生らしき人が音頭をとっている。
「フレーフレー、まーさーゆーきー!」
一つ上のフロアから答えているのがまさゆき君だろう。トカラ七つの島すべてに高校はない。中学を卒業すると、一人で鹿児島へ出るか、もしくは家族ごと移るか。
 胸が締め付けられる思いがした。まさゆき君は高校を出て進学か就職をし、もうこの島には一生戻ってこないかもしれない。そうなると親と一緒に過ごした時間は15年。たったの15年だ。(後日、子宝島でこの推測が違っていたかも知れない事をを知る。)
 見送りを終えた後、横にいた平島在住のおじさんと話しをした。急病で奄美の病院に入院したお父さんを迎えに行くという。教育、医療・・・大変なところだ。。。

 悪石が近づいてきた。駐在さんが教えてくれる。
「あの白い屋根が砂蒸し温泉。おそらくあの前の広場にテントを張るようになるはず。」明日の上り便でまた一緒になるが、とりあえずの礼をいい下船した。
 集落まではかなり急な上り坂が続く。最初は宿の迎えもあるだろうが、徒歩でまわるバックパッカーには大変だろう。このページの背景写真は、その上り坂の途中から撮ったもの。子宝へ向かうあの船の中には、駐在さんと名古屋の学生、平島のおじさんが乗っている。もちろん、まさゆき君も。

 いつものように出張所の前で待つ。帰ってきた所員さんに島のパンフを貰い、テントサイトを確認。駐在さんの言っていた通り、砂蒸し温泉の前。すぐそばには絶景の湯泊温泉もある。子宝について聞いてみる。ここのところ、としまの出港放送には必ず条件が付いていた。ランプウェイの使用制限。「平、子宝では天候により、入港しても車両は下ろせませんよ。」というお断り。降りられないとまた悪石に戻らないといけないし、帰りにそうなると子宝に釘付けに。もしかしたらバイクだけ船に乗せたままという事も出来るかもしれないと教えてくれた。なるほど、それならとりあえず人だけなのでまだましだ。次の便で聞いてみよう。雨の中之島から一転して青空が眩しい。

 サイトはこちらもあの空き地から一転して広々とした芝生。最高だ。


悪石のテントサイト

 白い屋根が砂蒸し温泉。指宿の埋めるやつとは違い、ござの上に寝る玉川温泉みたいな感じ。上からはいたる所からガスが吹き出している。ちなみにこの一泊でこちらがテントにいる時訪れた人は二組。


駐在さんの奥さんに頂いた枇杷、タンカン、パッションフルーツ。むいたルビーは鹿児島のダイエーで買ったもの。

 テントの中でラジオに引き込まれた。松平定知の朗読で藤沢周平の「蝉しぐれ」。映画には描かれていない最終章で、映画のキャスト、市川染五郎と木村佳乃がだぶる。若き日のすれ違いの切なさに涙した。なるほど、映像のないストーリーというのがどれほど想像力を刺激することか。実は映画で失っているそれは意外と大きいのかもしれない。

 現実に戻り、集落を抜け景色がいいという灯台下まで折り返す。明日の朝9時には諏訪之瀬へ向かう。この島には今日一日しかいない。このめぐり方で上陸する島が増えたとはいえ、やはり三日は滞在したいと思った。あの名古屋の学生に毛が生えた程度ではないのか?そのまま東側の山中を通って御岳(みたけ)山頂へ。眺望はいいが、どうしても豪快なお釜のあった中之島と比較してしまう。ボゼが居ない時期の悪石は、平和そのものだった。テントに戻り湯泊温泉へ繰り出す。ホッとする時間。


Day 12
 3/22 未明より雨。合羽を着て港へ。だが午後には回復するという予報だった。デッキで駐在さんと再会。お世話になっておきながら失礼にも名前すら聞いていない。駐在さんはAさんといった。港ではまた見送りの風景が始まっている。今回は診療所の方。船から紙テープがたらされ、それぞれの先を下の人が持っている。Aさん曰く、
「まるで映画のようだろう?」まったくその通りだ。子供の頃見た船の別れのシーン。船が岸壁を離れ、切れたテープが風に流れる。岸ではまたフレーフレー。船内放送ではほたるの光。なにか・・・、関係のないすべての人をも巻き込んだ想いがこの空間に漂っている。青空が顔をのぞかせた。。。

 諏訪之瀬到着。Aさんに最後のお礼をいい下船。トカラで2番目に大きな島だが、火山活動が盛んで火口より半径2キロ以内が立ち入り禁止になっている。島の大きさに対して人の住んでいる地域は極めて狭い。港から軽い山越えをし、キャンプ場の看板のある分かれ道を通過、出張所へ。いつものように所員さんを待つ。島のメインストリートでは、港から帰ってくる車が何台か通り過ぎていった。
 戻ってきた所員さんにパンフを貰い、テント設営場所を聞くと、やはり先ほどのキャンプ場300円。書き込むノートには今年に入って数人、去年からも数えられるほどしか記名されていない。なるほど、そうだろう。来た道を戻ると・・・、
「ほ〜、これは・・・。」初めてキャンプ場らしいキャンプ場だ。きれいな炊事場、トイレ、水シャワー。噴煙を上げる御岳が目前に広がる。大きく違う点が一つあった。地面が真っ黒だ。火山灰。その為、テントサイトは板張りの高床になっている。ペグが打てないため洗濯用ロープを取り出し6点を固定した。

 見所は少ないため一気にまわっておこうと走り出した。最初に藤井富伝の墓。明治時代、大噴火により70年間無人となったこの島を、苦難のすえ開拓した人だ。その苦労を偲び、手を合わせた。
 ナベタオ。集落から近い山で、ここに御岳に通じる登山道があると勘違いした。とんでもない斜面をトカラヤギが逃げていく。最終的に車道は終わり、山道となり、気にせず進むも倒木。クリアできない高さではないが先に進んでも何もないので引き返す。下りから望む景色はなかなか良い。
 立派ながじゅまるの横を通り、本当の御岳登山口に。先ほどの出張所で、どこまでなら行っていいのか聞いた。植生がなくなるところから先はまずいということで、キャンプ場から確認すると、その場所ではまだ火口は遠く、見ることは出来ない。まあ登山口まで来たということで再び反転。いちばん興味のあった飛行場へ。
 この飛行場はかつてヤマハがリゾート開発しときに作ったもので、今は飛行場ではなく、他の島と同様緊急時のヘリポートとして使用されている。しかしヤマハ、リゾートの鬼か。硫黄島といい、沖縄の離島といい、やたらと開発している。それに失敗が多い。(笑)
 「ZZ-Rで走りたいなー。」などと思いつつ、でも長さは800メートルくらい。「250キロは出せんなー。」と、どうでもいい事を考えながら120キロ出してみた。リヤタイヤのクラックのことを考えると、この辺で勘弁してやろう。


諏訪之瀬飛行場の滑走路

 すぐ近くにあるヤマハホテル跡。特に廃虚心を刺激するモノではなかった。

 バイクを置いて買い物に。キャンプ場入口にある民宿御岳。その横にあった畑をふと見たとき、!!!これは!!!首狩りの風習が!!!頭を石で殴られたような痕もある。この島に来ている事は誰も知らない。せめて連絡だけを付けておきたいが公衆電話が一台もない島だ。どうしよう。。。夜が怖い。そしてこのセンスは・・・、大好きだ。


首狩族

 「家の人がいれば開いている。」という売店。所員さんの話を元に歩いていくが、どこにあるのかわからない。ちょうどその時、統一地方選挙の看板を立てている人がいて聞いてみる。「そこですよ。」これは・・・、普通に家だ!何の看板もなく、タダの玄関に品物が置いてあるだけ。素晴らしい。。。またラーメンとチョコとビールを入手。
 夜、雨の音に外を見ると、火山灰だった。

/// 四国に上陸しているはずの北海道のチャリダー、佐々木さんにメール。5月3日4日と訪ねてみようと思ったからだ。しかし、四国から帰ってきた今も何の返信もない。おそらく充電切れか紛失、水没などの携帯トラブル。無事に旅を続けていることを祈る。
 気分が四国になっており、やはり四国を回っている横浜の友人ヒロに連絡、香川で落ち合うことになった。連絡を取り合いながら、サイトを大野原萩の丘公園に決め、こちらが先に到着。お互いの家は行き来していたが、テントをつき合わせるのは実に7年ぶり。懐かしい話に盛り上がった。彼の持っているサーマレスト(キャンプ用マット)が欲しい。
 帰りに少し切ないことがあった。R11の伊予三島。3年前、完全歩き遍路に出た静岡のモッチーの陣中見舞い。その時泊まったビジネスホテルが跡形もなくなっていた。近くにあったセルフうどんも。///


Day 13
 3/23 一番鶏と牛の声で目覚める。前日、行きたいところはまわっていたので、ずっとキャンプ場に居て考える日とした。ネガティブな考えに陥ったとき、見上げると雄大な御岳。小さい小さい・・・、抱える不安など何とちっぽけな事か。。。
 昼過ぎ、明日向かう宝島の宿を取るため、出張所の電話を借りた。取れたのは浜坂荘。南の島二つにはトカラハブが生息する。ハブも怖いが、諏訪之瀬のようなキャンプ場では、地元の人との接点が何もない。トカラでは民宿が正解なのかもしれない。


Day 14
 3/24 30分遅れの船に乗って、宝島へ。この島にはそれほど興味をもてず、おまけという感じ。同宿は、作業服を着た仕事の青年と、定期診療のため明日子宝に行く鹿児島の日赤の先生。最初に船に乗ったときで出会った人とは違った。
 昼過ぎに到着し、明日の早朝には離れる最も滞在時間の少ない島。すぐに島最高峰イマキラ岳に。頂上には高さ4メートルくらいの馬の形をした展望台があり、隣の子宝が見える。しかしそこまで行くのに草むら。いたる所にハブが出てきそうでビビる。
 荒木崎。ここもいい景色なのだが、それより楽しかったのは牛。種付けのためか牡が一頭だけいた。通常、牝は臆病で近寄っていくと逃げる。しかし、今まで会った牡で逃げたやつは一頭もいない。近寄っても我関せずという感じ。
 思い出に残るのは沖縄、与那国の東崎にいた牡牛。細い歩道を進んでいくと、牝はモーゼの十戒のごとく避けていくのだが、一頭立ちふさがるやつが現れた。よく見ると牡だ。予期せぬ出来事にこちらがひるんだ。動物はこちらの気持ちを見抜く。しばらくにらめっこになったが、相手は数百キロの巨大だ。勝ち目はない。負けを認め、道を譲った。ヤツの金玉は、握りこぶしほどもあり、こちらも負けを認めざるを得なかった。
 7年後のここ、荒木崎。おそらく年下であろうヤツの金玉も握りこぶし大。近くには小牛も数頭。先輩と呼ぶしかあるまい。
 外周をまわって、集落を抜け、宿へと戻ってきた。すぐ近くにある公衆浴場「友の花温泉」。沖縄から北上してきたという若者が話しかけてきた。
「ここって一番南の温泉ですよね?」
「違うだろ。」
正しいかわからないが、おそらく西表温泉ではないか。

 上り便の出港は7:00。天気は微妙。だが出るかどうか朝にならないとわからない。というのが、今回各島で異動の引越し荷物があり、普段なら天候が悪いと飛ばしてしまう子宝、平にも必ず寄れないと出港しないという。ある意味助かる。こちらは子宝に行くため、出たはいいが降りられないとなると、また悪石に行かないといけない。その為ある決断をした。先日、船で確認したが、バイクを積んだまま人だけおりるのは無理との事。そうなると、子宝へ降りれたはいいが、帰りに乗せられないということもありえる。考えた結果、バイクだけこの宝島の港に置いていく事にした。名瀬へ下るときはまたここに寄るので、急いで下船し積み込む。出張所と船へ確認を取り。必要なものだけバックパッキングした。同時に子宝での宿。名前に引かれ、湯泊荘に電話してみた。OK。。。

 そうそう、中之島の話に戻るが、その日の走行距離を記録するのをやめた。どれだけ走ったかは問題ではない、どれだけの貴重な体験があったかということが重要なのだ。一日の走行距離が増えれば増えるほど、反比例して失うものはどんどん大きくなる。。。
 10年来周囲に、「一日200キロ走らない。」と言い続けた。今や、
「一日100キロ以上走ると損をする。」と言いたい。(笑)(行き帰りの純粋な移動を除く。)


Day 15
 3/25 朝5:00。何の放送もない。宿の人は「何もないって事は出るんじゃない?」。相変わらずルーズだが驚きはない。港の少し沖で碇泊しているとしまに、まだ動きはない。港に行き、二日間潮ざらしになるバイクにカバーを掛ける。錆が心配だ。目指すはトカラ最後の島子宝島。最初から目的だった島のひとつ。相棒と離れ、にわかバックパッカーとなる・・・。

 子宝島到着。接岸作業を見守る。なるほど、荒れればつけられないと言うのはうなづける。凪いでいる今日でさえ、押し寄せる波で何度も岸壁のゴムにぶつかっている。
 人口40人程度の島だというのに、港にはそこそこの人が集まっていた。タラップをおり、湯泊荘の女将、アキばあの歓迎を受ける。一転、今度は岸の人となり見送る立場に。学校先生をはじめ、たくさんの島の人たちが、島を離れていく二人と別れを惜しむ。
「フレーフレー、りゅうのすけ。フレーフレーさやか〜。」これはまずい。号泣する二人を見て、恥ずかしながら涙がこぼれる。周りにたくさんの人がいるのに。でも、この切ない別れのシーンに遭遇し、涙しない人がいるのだろう?
 ただ、同じく船に乗っている他の数人の子供に涙はない。何故だろう?そこで山海留学というのを知った。
 どの島にも子供は10人前後しかいない。その中で島で生まれ育った子供はさらに少なく、数年間赴任してくる教員自身の子供も多い。その為、各島で山海留学というのを受け入れている。全国各地でいじめや登校拒否など問題のある子(注・みながそうなわけではない)を、島の家庭で預かる。かつて行った西表島の北にある鳩間島の里子制度を思い出した。期間はそれぞれ、実際の両親や都合や年齢によってことなるが、どちらにしても高校はないので、最大中学卒業までと言うことだろう。
 それで謎が解けた。号泣していた二人は島を離れる。他の数人は、春休みを利用して自分の家に帰るだけだったという訳だ。

 出張所の所員さんが、宿まで送ってくれた。しかし近い。ここ子宝島は歩いて一周しても30分かからないという島。バイクを置いてきたのはそういう理由もあったのだ。アキばあが戻り朝ごはんとなる。先客は昨日から泊まっているという埼玉のおじさん。食後のコーヒーも含め、3人で話し込んだ。徒歩でトカラをまわっているというおじさんとは、一便ずれながら下ってきたらしく、口之島ではどこに泊まったのか聞くとふじ荘。
「へー、一緒ですよ。」
「いやー、島一周してたら野生牛に囲まれちゃってさー。」
「ん?それどっかで聞いた話ですね・・・。」
「あ”ーーー!」
「あなたですか?駐在さんを巻き込んだ捜索沙汰になったのは!!!」(笑)
 実は、一つ一つ下ってきたおじさんと、中之島以南で交互に変えたこちらとは、悪石でも一緒だったらしく、
「砂蒸し温泉でテントとバイクあったでしょ?」
「そういやーあったねぇ。」なんだ、あの時来たニ組のうちの一人だ。(笑)そう考えると出会いというのは不思議だ。旅先だけでなく地元も含めて、「はじめまして。」な人と、実は街ですれ違っていたかもしれない。自分が気付いていないだけで・・・。答えのない想像は尽きない。

 とりあえず洗濯。懐かしい二層式だった。裏手の物干しに干しに行くのだが、その先に広がるのが風葬場。かつて島民が亡くなった時、棺に石を積み上げ、七年(だったと思う)待つ。その後お骨を洗い、墓におさめる。チベットの鳥葬や、ガンジスの火葬を思い起こさせるその葬り方が行われたのは、この島が隆起珊瑚礁であるゆえ、土壌が浅いという理由から。しかし、それも最後に行われたのは数十年前のことで、今やビロウやアダンに覆われうかがい知る事は出来ない。

 集落を軽くまわる。まともにまわっても10分はかからない。そのまま南風原牧場へ。ここは今までの島と違い、柵で囲われていて普通の牧場という感じだ。一頭だけ外に出されている牝牛のそばに座った。すぐ近くの柵の内側からはデカイ一頭が近づいてきた。明らかに牡だ。相変わらず金玉は先輩だった。チンコは意外と小さいが、「やるときゃやるんだろうな。」とつまらん事を考える。顔を触ると嫌がるが、逃げはしない。牛と戯れたことがある人がどのくらいいるのか知らないが、彼らの息はくさい。さらによだれと鼻水には要注意だ。まつげは長く、優しい目をしているが、表情がないためどこかさみしそうな印象を受ける。いや、いずれ肉になるという事を知っているからそう感じるのかもしれない。そこへ牧場主らしき人がやってきた。外の一頭について聞いてみる。
「なんで、この一頭だけ外に出してあるんですか?」
「気が弱いんでいじめられるんですよ。人間と一緒ですよ。ナナっ!」
なるほど、さっき寄ってきた牡一頭を除くと女だけの社会。色々大変なこともあるだろう。
「そうか、お前はナナっていうのか。」先ほどまではその辺の草をむしゃむしゃやっていたが、今は貰った配合飼料と新鮮な草をむさぼっている。おいしいんだ。。。しかし不思議でしょうがない。牛は草だけを食べてどうやってあの巨体を維持し、良質なたんぱく質を作り出しているのだろう。
 牡が呼ばれ牛舎のほうへ戻っていった。しっかりと自分の名前を認識しているのが賢い。その名もハム太郎といった。

 港を左にやり過ごし、時計回りに外周道路を進む。里原で畑に出ていたアキばあと遭遇。つくづく思う。島の女は元気だ。
 島の最北部横瀬海岸におりた。すごい光景だ。隆起珊瑚のこの島に砂浜はない。激しい波によって削られ、ナイフのごとく研ぎ澄まされた岩が延々と続く。はっきり言おう、とても危険な海岸だ。万が一つまずき、手などをつこうものなら擦り傷だけではすまない。おそらく縫わなければならないほどざっくり切れるだろう。ビーチサンダルなどもってのほか。
 「これは!」何本もの大木が打ち上げられている。それも、波打ち際から距離30メートルはあるだろうこのナイフ海岸の陸地側の高い場所に。「ひょっとしたら?」
 去年、種子島と鹿児島を結ぶ高速船トッピーが、漂流物にぶつかりたくさんの怪我人を出した。当初クジラといわれていたが、その前に中国の木材運搬船が東シナ海で沈没したとの情報があり、その流木ではないかと言われている。流れ着いているのは直径1メートルを超える大木ばかり。ここまで運び上げる波のパワーに感心する。推測の域を出ないが、その時の材木ではないだろうか。
 廃虚っぽい、コンクリートの基礎があった。なにか戦争に関する建物だろうか?


打ち上げられた流木

 外ばんや、ばんや、そうとうじと呼ばれる奇岩地帯に入った。同じく隆起したサンゴ礁が風によって風化し、あたかも恐竜のように襲い掛かってくる。アキばあが言った口を開けた怪獣とはあれだろう。反り返ったり、横に飛び出したり、重力を無視した奇岩たち。


注目の的

 怪獣たちから逃げたと思ったら、もう集落に戻ってきた。発電所と、海水淡水化施設。平らで小さな子宝島はずっと水の確保に苦労してきた。各家には、天水(雨水)を溜める貯水タンクが今も残っている。この淡水化施設が出来たことによって、その苦労から開放された。突然、塩湯地獄が現れた。灰色の泥湯で、強い硫黄臭をあげながら、「ぼこっぼこっ」と恐ろしげな泡を吹き出している。妖怪人間の冒頭のシーンをほうふつさせた。もちろん入れる場所ではない。お楽しみはその先にある湯泊温泉。目の前には広大な海が広がる。ただ、塩湯だからべとべとしそうだ。
 しかし、この子宝島。小さいのにいろんなものを見せてくれる。いや、バイクを置いて徒歩だからこそ見えるのかもしれない。。。
 小腹が空いたが売店は一軒もない。小中学校の前に一台だけ自販機があるが、これもソフトドリンクのみ。夕飯まで待つとしよう。

 アキばあは話好きだ。むしろおしゃべりと言ったほうが正解かもしれない。(笑)ふじ荘のフジコさんとはまた違った印象。小さな島に意外にもある人間関係の事や、山海留学の問題点など、突っ込めば負の面まで教えてくれる。なるほど、人間集まれば考えも違うし、逆に島だからこそ避けて通れないこともあるかもしれない。ある意味普通では聞けない話であり興味深い。それに(発泡酒だが)ビールを付けてくれた。普通なら別料金だが、単純な客と民宿との関係でタダで飲ませてくれた宿は初めてかもしれない。
 牛も数頭持っている。ハム太郎のいた南風原牧場に放牧していて、今朝の船でもドナドナ(出荷)したとの事。民宿、畜産、畑には自転車で行くし、本当にパワフルだ。
 横瀬海岸で見つけた廃虚の事を聞いた。大昔、赴任してきた先生が建てたもので、数年前子供を連れて現れ、基礎がまだ残っていた事に感動していたという。会ってみたい気がした。どうでもいいが、牛に囲まれたおじさんは独り言がすごい。ふすま一枚隔てた部屋は丸聞こえだ。いちいち行動を説明している様子は面白くもあった。


Day 16
 3/26 良い天気。しかし午前中早々と明日の月曜便が欠航との放送。「またか・・・。」今週は水曜の名瀬便もあるので二日延長。今日は島の最高峰竹の山に登る。最高峰と言っても標高は100メートルちょっと。宿の窓から顔を出せばすぐそこに見える。牧場の手前、貯水槽の場所からアプローチ。最初の登りはかなり怖い。道が細く、例によってそこらじゅうからハブが出てきそうだ。だがしばらく行くと手入れがされていて、道幅は広くなり歩きやすくなった。見たこともないキレイな蝶がひらひらと舞っていて南国ムードを盛り上げてくれる。高い山ではないのですぐに頂上台地に出た。以前は飲み水としても使われていた貯水池をまわり込み三角点を目指す。この貯水池、現在は牛たちの飲み水になっている。展望の悪い三角点を過ぎ、宿のすぐ上の開けた場所に出た。
 これはすごい!絶壁である為、足元はすぐ集落。程よい高さで、人が動いている様子もよく見える。下界を見下ろす神にでもなったような気分。違う気持ちがわいてきた。
「ひょっとして・・・、このまま飛び出したら飛べるんじゃないか?」もちろん自殺願望はないし、風邪薬も飲んでない。ただ、ほんの少しだけ窪塚の気分がわかるような気がした。おれは鳥になる。。。


竹の山から港方面を望む 左上の岩がうね神。
右上が赤立神。その間にある草地が、ハム太郎たちのいる南風原牧場。


子宝島集落 学校の校庭や、写真上側の空き地に白や青の四角い箱が見えるはず。
島を離れる先生たちの引越し荷物でフェリーとしまのコンテナ。

 正気に戻ると、文字の書いてある黄色いビニール袋を見つけた。最初は配合飼料の空袋に見えたのだが、そこに「龍」の文字を見つけ手に取った。2月に登った島の子供たちが書いた寄せ書き。昨日島を去った二人の名前もある。辺りを見回すと乾いた竹が差してあり、おそらくこの竹に結び付けてあった旗が風に飛ばされ落ちたのだろう。(また旗を掲げよう。)下からよく見える場所の青竹を一本選び、まわりの数本を折った。抜けて飛ばないよう先の笹だけを残し、途中の葉をむしる。節を利用してしっかりと結びつけた。さえぎるものの何もない山頂は激しい海風が吹きつける。(いつまで持つだろうか?少しでも長く。。。)

 昼ごはん。宿の戻るとアキばあ、
「手を振ったの見えたかい?」いや〜見えなかった。何回か宿のほうは見たんだが、さすがに窓から手を振ってるとは思わなかった。頂上には一時間半もいたし。
「落ちるかと思って、ハラハラしたよ。」確かに崖っぷちギリギリに立った。
「でもおばちゃん、あそこはそういう気持ちになるよ。」アキばあも笑っていた。二人で窓から頂上を見上げた。旗を結びつけた青竹は、強風で根元からあおられている。(ちょっと明日までは厳しいか・・・)それにしてもおばちゃん、あれが見えるとは年の割に目が良い。


竹の山から湯泊荘を見下ろす
真ん中の白い屋根が湯泊荘。左の岩の上に結びつけた旗がある。
宿の右側に広がる森が風葬場。

/// 昨日今日(5/10-11)と、南大東で出会い、熊本で再会したチャリダー、兵庫・下段君が我が家に。彼はこのまま北上し、ねぶた、そして北海道を目指す。とりあえず青森まで1,800キロ。(笑)事故のないように、気を付けて。そして良い旅を。

北へ向け太田川を渡る下段君///

 午後から湯泊温泉。三つの湯船で温度調整をしていて、この日は真ん中のが適温。しかし昔からどうも塩湯というのが好きではない。それより気になったのが隣の水槽。温度調整用なのか掃除のとき使うのか、ほぼいっぱいに天水が溜まっているのだが、そこにいるのがおびただしい数のボウフラ。いたる所でくねくねしているうえ、こいつらが夏にみな蚊になると考えると鳥肌が立つ。下にある栓を抜いて、一気に海に流してやりたいが、勝手にしてはまずいだろう。そこでさら気付いたのがまわりのコンクリートの壁にある穴。木の柱を立てたような跡で、直径10センチくらい。その中にもうじゃうじゃとボウフラが。
「こいつら!」そこに一番熱い浴槽から温泉を注ぎ込む。あふれたやつらは、排水から海へ。残ったのも硫黄、塩、熱で生きていられないはず。(これで少しでも蚊が減るといいな。)
 ところが、しばらくして見てもまだ元気にくねくねしている。(想像以上に耐性が強いのか?)この行為により、硫黄、塩、熱に強いさらに強力な蚊が突然変異するとまずい。通りすがりの旅人が、生態系に影響を及ぼしてはいけない。(笑)


Day 17
 3/27 朝から終日雨。アキばあ、おじさんと三人で話す。こんな小さな島でも、戦時中爆撃を受けている。島民たちは、港近くにある大岩屋を防空壕として使っていた。色々聞いたがプライベートなことが多くここには書けず。
 竹の山の旗は、強風と雨に耐え続けている。がんばれ!


Day 18
 3/28 晴れ。旗は・・・、どうやらあの暴風雨に耐え切れなかったようだ。結びつけた笹のない青竹だけが風に揺れていた。残念。
 洗濯をした後、うね神の方へ歩き出した。初日にメス牛のナナがいたところで、何回もモーモー鳴いてみると、来るわ来るわ、10頭以上の牛たちが集まってきた。面白い。(ハム太郎は真ん中の方で腰を下ろしている。)牧場を横切り、岩の直下へ。このあたりもナイフのようなサンゴ礁が続き、シューズの底がかなりのダメージを受けている。そこら中のくぼ地には天水が溜まり、ボウフラがわいている。湯泊で数百匹を葬ったところで大差ないことに気付いた。
 赤立神は近くで見ると意外にデカイ。その下には悪石までは感じなかったブルー。沖縄に続くあのブルー。
 反転した湯泊からはなれへの海岸で、最高な場所を見つけた。現在の潮位で深さ7〜8メートル位だろうか?岩のくぼみに出来た天然プール。その中にはハタタテダイやチョウチョウウオなどの派手な魚たちが優雅に泳いでいる。
 (潜りたい!)マスクとシュノーケルは、荷造りの時最後まで悩んだもの。しかしまだ早いだろうと荷物からはずした。実際、まだ裸で入るには寒いかもしれないが、もし持っていたなら迷わず潜ったに違いない。水面からだけでも無料水族館。時間を忘れて眺めた。必ず二匹一緒に泳いでいるチョウチョウウオがうらやましい。
 帰りに通りかかった塩湯地獄の量が増えていて驚いた。雨の影響だろう。相変わらず妖怪人間のごとく泡を吹き出している。。


Day 19
 3/29 晴れ。子宝を離れる日。船は昼過ぎの為、また近くをうろうろ。湯泊の奥の湯船には、なるほど、ポンプが取り付けてある。塩爺の館。なるほど、怪しい塩生産設備が。まるで私有地のように、池を取り囲んでいる。この件にはこれ以上触れずにおこう。
 待ち時間に大岩屋に入ってみた。船の残骸や材木などで物置となっているが、アキばあに話を聞いている為、ただの穴には感じない。空襲の時、少女だったアキばあをはじめ、当時の島の人たちが息を潜めた場所。恐ろしい時代だ。
 岸壁では、宝島の浜坂荘で一緒だった日赤の先生。欠航により同じく4日間足止めをくらい、下り便で奄美に下りてそこから飛行機らしい。そういえば、一度も見かけなかった。
 ついにトカラと別れる時がやってきた。もう一度来たいと思った島は口之島、中之島、子宝島。偶然にも最初に予定していた島と一致。最初の二つの島は人についてのみだが、子宝は人、島の自然を含めてもう一度来たい。あと悪石のボゼは見てみたい。
 入れ違いに訪れるお客さんがいるため、アキばぁは港に来ない。さようならアキばぁ、さよなら子宝島。。。

 再度宝島。今度は再会だ。4日間離れ離れになっていたバイク。タラップを降りようとすると、浜坂荘のご主人が近寄ってきた。
「カバーが飛ばされていたから、ゴムにはさんでおいた。」
「わかりました。」
 おとといの暴雨風にひょっとしたらなくなっているかと思ったが、かろうじてつながっていたようだ。バイクに近寄ると、さらに浜坂荘の奥さん、
「長かったね。」
 確かに、2日の予定が4日。ただ、長いとは感じなかった。カバーが飛んでいたバイクは雨ざらしで、置いていった荷物もびしょぬれ。弱い所には錆が浮いている。ゆっくりと見ている時間はないので急いで船に積み込んだ。宝で下船する牛に囲まれたおじさんとも別れのあいさつを交わす。
 岸壁では見慣れた、それでいて切ない別れのシーンがはじまっていた。自分も見送られているような錯覚に陥る。船がいつもより長く汽笛を鳴らしている。ありがとうトカラ。平島、いつの日か待っていろ。。。


宝島別れのシーン

 無人島である上ノ根島、横当島を右手に見ながら、船は一路、奄美大島・名瀬港に向かっていた。寄港したことはあるが、上陸したことはない。しかし、実のところ大きな島に興味を失っていた。最低限ハブとマングースの対決は見たいといったところ。
 名瀬港は入り江の奥に位置し、左の沿岸道路には車がたくさん走っている。(すごい!車がたくさんいる。。。)トカラでは白の軽トラか1BOXしか見ないので大都会にでも来たかのような感覚だ。としまともお別れ。計7回乗ったので、船員さんとも会話するようになっていた。最後に言った。「もう現れませんよ。」(笑) 島を結ぶ「道路」フェリーとしま。お世話になりました。

 入港したのはすでに夕方。まずテントサイトということで、大浜海浜公園に向かった。明日はハブセンターに行きたいので、沖縄行きはあさって。2泊分600円払いキャンプ場へ行く訳だが、車両乗り入れ禁止。片道5分。重い大荷物を無理して2往復しないと運びきれない。おまけに満潮時、波をかぶるので危険な時は山側の階段をという。確かに所々海水で濡れている。乗り入れ禁止のキャンプ場はよくある事だが面倒この上ない。サイトは青々とした芝に、真っ白な砂浜。申し分ないのだが。夕食はもうテント内で済ます。そうそう、アキばぁに貰ったおむすびもある。奄美も島なのに、小さな島ばかり渡り歩いてきたからだろうか?なんか本土にいるような感じだ。誰もいない静かな夜。


Day 20
 3/30 開園時間を見計らってハブセンターへ。予想通り10:00が第1回目。始まる前に飼育されている蛇を見学。噛まれた傷の写真がいちばんインパクトがあった。
 ショーの見学者は旅人風の若者二人とおばちゃん3人の計6人。ハブを触ったり、ビデオを見たりの前座の後、メインイベントとなるわけだが、目の前には最初からマングースがスタンバっている。かわいい顔をしていて、山道に現れるイタチとそう変わりないし、震えている。透明ケースの中央に透明な仕切りがしてあり、それを吊り上げる事で開始!
 勝負は・・・?(ほー。。。)瞬きする間に終わってしまった。仕切りが上がりきる前に、マングースの牙が、ハブの頭を砕いていた。震えていたのにとんでもなくすばやい動き。激しく体をくねらせる蛇の動きが徐々に衰えていく。おばちゃんの一人が「(ハブを)かわいそう。」とつぶやいた。同感でもあり、毒蛇でもあるので微妙な心境。マングースにしても、常に命を賭けた戦いを、自分の意思とは関係なくさせられる。年に数回負ける事もあるらしい。日に3回のショーで年間どれだけのハブが頭を砕かれるか?身を守ったり捕食のために噛みつくハブと違い、生き残りゲームをショーとして楽しむ人間こそ、最凶、最悪の動物か?
 ジョイフルにて昼食。久しぶりの洋食が手軽に食べられる。当たり前のことがものすごく便利に感じる。チョコレートパフェも。トカラではお目にかかれない。そういえば、フェリーで2度ほど、ミスタードーナツをお土産にしてるのを見た。ケーキも持ち帰れないし、甘いものっていうのがぜいたく品なのかも。
 大東への本格的なルーティングを練りはじめた。まず、骨格となるのは定期船だいとうの運行計画。ほぼ5日に一便なので、日程調整が必要なら奄美で南下してカケロマあたりでも行ってみようかと思っていた。定期船と言っても、年間通しての出港日はわからず、直接問い合わせるか商工会のHPで調べるかどちらか。3/11に旅立ったので、3月の予定は持っていたが、としまの欠航で4月にずれ込んだためまったく情報なし。ネットが使えそうな友人にメールしてみるも、真昼間から私用でネットできる人は少なかった。運良く友人のみゆきさん、「大丈夫ですよ。」周りに人がいる為、普段と違い、敬語で話してくるので変な感じだ。これで4月の計画をゲット。ありがとうみゆきさん。
 最短では2日の北先便。という事は明日発って那覇で一日マージン。なかなかベストプラン。さっそく大東海運に電話した。北と南、どちらに先に行く方がいいか?バイクは潮がかからないか?この日程だとまず南大東、そしてバイクはコンテナに入れるから大丈夫との事。ただ、バイク積込は朝11時まで、出港は夕方17時。どうするよ?(笑)
 そうなると、今度は明日の沖縄便。明日はマルエーの運行なので、名瀬の事務所に手続きに。朝5時までに港へとの事。という事は、テント撤収と移動、余裕を持って3時起きか・・・きついな。


Day 21
 3/31 3時。真っ暗だ。波打ち際の通路は満潮に近く、かなり濡れている。この暗がりの中、高潮で持っていかれたら誰にも気付かれず、家族が捜索願をだしても蒸発扱いだろう?それにしても灯かりの一つでもつければよかろうに。北朝鮮の兵士がビーチより現れ、薬を打たれて連れて行かれるかもしれない。自然と早足になる。例によってバイクまで2往復。積む事を想定している荷物は、自力で運ぶと大変だ。
 港は朝5時にもかかわらずごった返していた。時期的に人々が移動する季節。車両も多い。着いた時には船はもう到着していて、荷役作業が始まっていた。フェリーなみのうえ、とんでもない船だ。としまの1,300トンに対して、こちらは6,500トン。もちろん乗った事はあるわけだが、どうしてもとしまと比べてしまう。大型トラックが何台も下りてきた後、普通車もたくさん下りてくる。(いったいどんだけ積めるんだ?逆に沈むのではないかと恐ろしい。)
 こちらが乗り込んだ後も、荷役作業が続く。出港時間はとうに過ぎているが、初めて乗った時も、鹿児島〜与論間で4時間遅れた。驚きはない。荷役優先、これは仕方ない。
 そのうちに夜が明け始めた。またまた別れのセレモニー。ただ、ここ奄美は人口も多いのだろう。子供たちの数は多く、トカラに比べ悲しみを感じない。みなが笑顔で島を離れる先生を送り出す。船が岸壁から離れると、数人が走り始めた。岸伝いに追ってくる。そして、岸壁が切れるところで、
「がんばれー。」(これ、どっかでカメラ撮影してるんじゃ?)本当に映画のワンシーンではないかと思った。

 次の寄港地は徳之島。デッキではトビウオに子供たちが大騒ぎしている。2等船室のテレビでは、昨夜、急病人を運ぶ為に飛び立った自衛隊のヘリが、徳之島山中に墜落したニュースを盛んに報じている。亡くなった自衛隊員はもちろん残念だが、帰りでなくてよかった。危うく急病の民間人も犠牲になるところだった。港ではその事故は一切感じることなく、普通の風景だった。

 沖永良部。先生をしている鹿児島の友人が赴任していたので、わずかばかり身近な島だ。奄美で見送られた先生が、今度はここで歓迎を受ける。タラップで待っていた生徒たちが、下りて来ない先生に肩透かしを食らっていた。(笑)どうやら、車で下船した模様で、待合の建物の前でつかまえ、歓迎式が始まっていた。他の学校へ赴任してきた先生もおり、いたる所で歓迎されている。

 与論。ここには一度来たことがあるので懐かしい。それより、港が100人以上の外人の子供たちであふれかえっている。おそらく、基地の子供だろう。みんな体操服みたいな服を着ていて、臨海学校ってとこ?
(これ、全員乗ってくるわけ?ヤダなぁ。)
案の定、客室からロビーまで大騒ぎとなった。

 この与論までが鹿児島県。二十日間にわたる第1ラウンド、トカラの旅を終える。小笠原に行った事がないので比較しようがないが、日本で最も不便な地域の一つであることは間違いない。ただ・・・、島の人たちは不便とは思っていないだろうが。。。
 おばちゃんたち、いつかまた訪ねる日まで、いや、ずっと元気で!同じくすべての出会った人たちへ。また来ます。

さあ、はるか東の島へ。。。

十島村:http://www.tokara.jp/

special thanks to ...
口之島:ふじ荘・フジコ女将 Hさん 中之島:支所・Kさん
駐在所・Aさんご夫妻 歴史民族資料館・Fさん ヤギ太郎
子宝島:湯泊荘・アキばあ
フェリーとしま そして、出会ったすべての人たち・・・






DAITOJIMA

「台風○号は、大東島の南○キロの海上を、発達しながら北北西に進んでいます。」
夏になれば必ず聞く島の名。沖縄本島から約400キロ離れたはるか東の島。鹿児島からトカラ、奄美、沖縄、そして先島諸島へと南西に延びる島々とは、まったく逆に位置する絶海の孤島。
 7年前、先島のほとんどの島を巡った後ちょっとした喪失感を感じた。沖縄本島に戻ってから大東行きも考えた。なんといっても、バイクをクレーンで吊って上陸するというインパクトは強烈だった。しかし、たくさんの島を見てきた慣れ、ここで行ってしまうと、次の目標を失ってしまうという思いに、あえて見送った。そして今がある。。。


Day 21
 3/31 与論から乗船した外人の子供たちは、まるで自分たちの家のようにはしゃぎまくっている。さらに、5〜6人の三味線のグループが目の前で弾き始めた。三線は嫌いじゃないし、それで盛り上がるのも楽しい。しかし、公共の場である船のロビーではいかがなものか?そそくさと反対側に移った。
 与論から沖縄本島最北端、辺土岬まではそこそこ近いが、その先が意外と長い。友人たちとも話すとき感じるが、小さく見積もることが多いようだ。実際、辺土岬から那覇まで100キロを軽く超える。ただ、その距離は郷愁にひたる時間を与えてくれた。左手にやんばるの山なみを眺めながら感じる。
「またここにやって来た。。。」

 瀬底ビーチが見えてきた。
(やはり・・・。)
 かつて、林の中には一癖も二癖もある旅人たちが全国各地から集まり、楽園を思わせた。八重山で出会った人との再会、そしてここで別れ、その後青森や北海道で再会した。テントで生活しながら働いていたスペイン人もいた。しかし船から見た瀬底は、きれいなゴルフ場。近年、旅人仲間からは名前も聞かなくなっていたし、ツーリングマップルからキャンプ場のマークも消えている。可能ならテントを張ろうと思っていたのだが、まあとりあえず行ってみよう。
 瀬底島を回り込み、船は本部港に到着した。みな右折し、名護方面に向かうのを尻目に左折。すぐに瀬底大橋の交差点だ。このたもとにあるスーパー、プリマートで買出しをしたのが懐かしい。だが、よく見るとマックスバリューに変わっている。
 きれいな海を見ながら橋を渡り、島内のメイン道路を走るがやはりなんとなく雰囲気が違う。ビーチへ。地形的には記憶と同じだが、見た目が大きく変わっていた。そしてキャンプ禁止の看板。
(18時か・・・。仕方ない、那覇に向かおう。)
 昔なら暗くなるのを待ってゲリラテントを張ったものだが今はマナー重視。

 瀬底の駐車場からすぐに電話したのは、那覇、国際通りのすぐ近くにある照美荘。前に来た時居心地がよく、もう一度泊まってみたかった。ミクシや離島情報などで、ゲストハウスも気になっていたので、とりあえず大東行きまでの二日間泊まることにした。ゲストハウスはドミトリー形式の素泊まり宿で、一週間以上で一泊当り1,000円位。安さが魅力。
 一方、照美荘は個室だが一泊2,700円。少し高いが、あそこのおばぁにまた会ってみたかった。玄関から続く廊下の先に、椅子に腰かけながらさんぴん茶と黒糖を出してくれた記憶が鮮明に残っている。あの頃すでにかなりのお歳だったが、まだご健在だろうか?
 電話に出たのは息子さん。こちらも記憶に残っている声だ。毎日午前様で帰った時、玄関を開けてもらうのが申し訳なかった。部屋数は少なかったはずなので、今日の今日は駄目もとではあったが大丈夫との事。(おばぁが電話に出ないということはもしかしたら・・・。)とりあえず行こう。
 最初に出た案内標識の表示は那覇まで70キロ以上。(そんなにあったっけ?8時ごろには着くだろうと告げたが無理かも。)
 名護。A&Wだ!!!飲むぞルートビア。と、ここはがまん。遅い車を信号でクリアしながら海岸線を走る。
 北谷。観覧車が見えてきた。友人のどかさんがバイトしていたヤツだ。ブルーシールアイスが右に。前にあそこからクールでお土産を送った。
 牧港。高架から左下に見えるA&W。前回帰る間際にも寄った、めちゃめちゃアメリカンな店だ。何もかも懐かしい。
 とまりん。あさっての朝にはここから大東島へ。そして松山の交差点を左折、少し行けば国際通りだ。8時過ぎというのに相変わらず人通りが多い。またすぐに左折して消防署通りをかけ上がる。入口を一つ間違えて一回ぐるっとしたがありました照美荘。エンジンの音を聞きつけて息子さんが出てきた。荷物をおろし、バイクを裏手に持っていった。
「しっかりカギかけといてね。」前にも言われた。(笑)
「おれもやられたからさー。」見ると、隣の車やまつひろさん(息子さん)の原付も鍵穴を壊されている。(マジか?そこまで物騒なのか。)
「この辺り、やんちゃな高校生とか多いからさー。」高級なバイクではないが、旅先でミラー持ってかれたり、鍵穴壊されたりは非常に困る。カバーを賭けて目だなないようにしようと玄関に戻ると、
「なんなら玄関に入れる?」前にも高いバイクで来た旅人が玄関に入れたらしい。高いバイクではないが、イタズラをまったく気にしなくていいと助かる。というわけで幅広のハンドルを切り返しながら玄関に収納。ちょっと2ストくさいが大丈夫か?

 昔、おばぁが座っていた椅子にまつひろさんが座り、お茶を出してくれた。
「とりあえず二泊いいですか?七年前に来たときはおばちゃんがここで応対してくれたんですよ。」自分を覚えているかは特に期待はしていなかった。毎日訪れる客の一人に過ぎない。それよりおばぁは?
「心臓を悪くしてね。火曜日退院するよ。」おぉ健在だ!火曜日というと、大東に発った翌日か。。。それを聞いた瞬間、島から帰ってもここにお願いしようと思った。
 まつひろさんはこの宿を継ぐ前、トラクターなどの農業機械を修理する仕事をしていて離島に詳しい。大東に行く話をすると色々教えてくれた。
「大東かー、いいところだよー。」期待がふくらむ。
 話し込んでいると23時近くになっていた。腹が減ったよ、飯食ってきます。行き先は決まっていた。那覇高校から壷屋方面に下ったところにある丸安そば。どんなに遅く行っても、タクシーが何台も停まっていて繁盛している。愛想のないおばちゃんたちだが不思議な魅力のある店だ。今回初ソーキそば注文。ソーキがでかいよ!
 (腹ごなしに少し歩いてみよう。)食べるだけだから地図は持たずに出た。さすがに七年ぶり、この時まだ地理は頭に入っておらず、ひめゆりどおりに出て北上すれば、垂直に国際通りにぶつかるだろうと適当に考えていた。かなり歩いてゆいレールにぶつかった。(なんか違うぞ・・・。)以前はゆいレールはまだ建設中で、ランドマークとしては希薄な存在だった。今度はその高架に沿って歩く。ブライダル写真屋だ。昔の仕事にちょこっと反応。さらに歩くと駅らしきものが。(牧志・・・、かなり歩いたぞ。)工事の警備員に聞いた。
「県庁はどっちの方ですか?」
「あっちへまっすぐ行くと県庁です。」少し歩くと三越が、ここで初めて自分の位置を把握。(げっ、帰りも遠い。。。笑)初日の夜は歩きつかれてよく眠れた。


Day 22
 4/1 朝から三日分の洗濯。那覇高校に沿って県庁の方へ。以前あったファミリーマートが反対側に移転している。その先の小道を入ると、前と変わらないコインランドリーがたたずんでいた。
 ひょっとして今日は暑い?乾燥機のまわっている店内ではよりいっそう暑く感じる。持ってきている三日分のシャツはすべて長袖。これからもっと暑い場所に行くのにこれでは辛い。(半袖を買おう。あと靴下も。)
 その先にある泉崎リウボウで、まずソックス三足、タオル一枚ゲット。あと薬局で大東航路対策の酔い止め購入。さらに楚辺方面へ。ガジュマルを左に折れ、中央公園前の酒蔵という酒屋さんに寄る。手土産にキュベミティーク(ワイン)2本。
 (さて、かなり歩いたぞ。)お店の人に帰りの最短を聞くと、目の前の裁判所の通りがそのまま消防署通りにつながっているととの事。このあたりの道は碁盤目状ではないのでイマイチわかりづらい。
 ところで、今地図を見ながらこれを書いているが、あゆさん家ここだったんだ。目の前を通っていたんだね。
 一度照美荘に戻り、まず2本のキュベミティークを日本酒縛りに。7年ぶりに会う沖縄の友人、あゆさんとのどかさんへの手土産。共に写真つながりで、二人とも写真が大好きだ。おれと違い。(笑)iいや、嫌いでもないか・・。

 再び宿を出て、国際通りへ。ミリタリー系Tシャツ屋の前で足が止まった。三枚千円。かなりバッタもんくさいが一枚333円。破れたら捨てればいいか。荷物になるので帰りに。
 さあ7年ぶりの再会だ。あゆさんの働いてるお店へ。彼女には行く事をまったく連絡してない。自分を含め、放浪旅人と言うのは何日何時にどこどこというのを嫌う。いや嫌いなのではなく、自分でも三日後にどこにいるのかわからないのだ。もちろん今日あゆさんが出勤してるのかも知らない。もしいなかったら、いる人に預けるつもりだった。
 壁際から店内が見えた。一人女の子が座っている。(あ”−−!あゆさんだ!)逆にあゆさんは、ほんの一瞬きょとんとした後・・・、思い出してくれたようだ。(笑)
「幽霊かと思いましたよ。」実はこの驚きの顔が楽しみだったりもする。
 久しぶりに写真の話をした。7年間の間の大きな変化も。彼女は仕事中のため、大東から帰ってきてまた会う事を約束しお店を出た。つくづく感じる、旅先に友人がいる幸せを。

 店を出て向かったのはゆいレール県庁前駅。前回来た時はまだ建設中。意味なく乗ってみたかったのだ。首里方面か、空港方面か?行った事のない空港を選んだ。もう一つ、帰りにTシャツを買うため、小禄のジャスコ内にあるユニクロにも寄りたい。
 けっこう乗り降りがある。景色も最高だ。こうやってみると、那覇市内というのは意外とアップダウンがある。バイクで走っているとなかなか気付かない。
 空港でのお楽しみは今回初エンダー。それを知る人すべてがまずいというルートビアが大好きだ。わざわざ岡山の輸入雑貨屋で買い込み、自宅の冷蔵庫にも置いてある。ちょうど昼も食べてないし、フルに注文したのだが誤算が。。。ルートビアが紙コップで出てきた。凍ったジョッキで飲むのが最高なのに。。。
 逆にこの窓際の席は最高の景色。そして驚いた。(那覇空港ってこんなに離着陸があるわけ?)離陸したと思ったら同じタイミングで着陸してくることさえある。それに背景は青い海。あと・・・、ポケモンジェットもいる。


ポケモンジェット

 ポケモンが離陸したのを見届けて小録に向かった。ユニクロでTシャツ3枚ゲット。さらに行きで見つけた国際通りの3枚千円も買い、半袖合計6枚。これで洗濯しなくていい期間がかなり伸びる。

 照美荘がある消防署通りのちょうど一番高いところにマッサージ店がある。ここの店先で「ピーン、ポーン」と定期的にチャイムが鳴っている。宿の部屋からも遠くに聞こえるこの音は、前回泊まった時も耳に残っていて、妙に・・・那覇に来ているという実感がある。不思議な音だ。夜は昨日に続き丸安そばでしょうが焼き定食。


Day 23
 4/2 
 実質的第2ラウンド開始の日。やっかいなニュースが二つも飛び込んできた。はるか南東にて台風1号発生。時期的にこちらに向かってくることはないだろうが、よりによって今日とは。さらに・・・、はるか南のソロモン諸島でマグニチュード8クラスの地震。朝からNHKでは、頻繁に津波情報を流している。パーフェクトストームやポセイドンみたいに沖から山のような津波が襲ってきやしないか?ひょっとして欠航も?
 ニュースを気にしつつもとりあえず荷造りから。島から帰ってきたらもう一度照美荘に泊まるため、不要なものを置かせてもらう事にした。皮ジャン、フリース一枚、防寒用オーバーパンツ。鹿児島出港以来ずっと持ち歩いていたもので、一時は送り返そうかとも思ったが、帰りの九州北上はまだ4月。朝夕は要る可能性が高い。持ち歩くとかなりの容量を必要としていたので劇的な軽量化となった。必要なものを取り出しやすいようにパッキングし完了。

 2週間後に帰ることを告げ宿を出発。最初に燃料補給。トカラと違い、スタンドはあるが価格が高いはず。続いてチケット購入。沖縄周辺の離島ターミナル、とまりん2Fで人間だけのチケットを買いそのまま船が横付けされている岸壁へ。

 「小さい!」大東へ向かう貨客船「だいとう」を初めて見た時の印象だった。見た目はもう貨物船。あのフェリーとしまの半分、鹿児島-沖縄航路と比較したら5分の1の699トンしかない。瀬戸内海を見て育ってきたので、南西諸島の海は十分すぎるほど外洋だった。しかし大陸に沿う東シナ海であったのに対し、大東はさらに外洋、まさに太平洋に漕ぎ出すイメージ。(この船でほんとうに大丈夫なのか・・・?)
 一足先に着いていたチャリダーが手続きをしていた。自転車とはいえ、自分以外に乗り物で渡る人間はいないと思っていた。2台とも島に送られる物資と一緒にコンテナに詰められクレーンで吊られて積載される。この船に車やバイクが自走して乗る為のランプウェイは付いていない。逆にそれがこの船の目玉でもあった。

 南北大東島は、2,000メートルの海底から突き出た円柱のようになっていて、岸壁からいきなり深海に没する。たった8キロしかない両島間の深さも1,000メートルあるという。ゆえに防波堤を作ることが困難で、岸壁は外洋に丸裸の状態。波をもろに受ける。船を直接付けることはできず、岸から数メートルのところにタグロープで固定し、荷物はすべて大型クレーンで下ろす。人間も同様で、コンテナサイズのかごに入れられクレーンで吊られる。これだけを目当てに来る旅人もいるらしい。港も両島とも三つずつあり、風向きにより島影になる港に入港する。
 クレーンの話は旅人の間でも有名で、バイクも直吊りされ空を飛ぶ。が・・・、実のところ嫌だった。直吊りされるということは裸で船に積まれるという事。この小さな船では波をかぶって塩まみれだ。そういえば、津波の話など誰もしてない。出港するという事は大丈夫という事なのだろう。(笑)
ところで、現在時刻午前11時。出港は夕方17時。(どうするよ・・・。)

 とりあえず腹ごしらえという事で、とまりんにある龍譚という店に入った。またしばらくの間自炊生活となるためここはリッチに食べようではないか。そうだ、考えてみれば、もうバイクを預けているので、運転することはない。平日の真昼間から飲むビールの味は何とうまいことか。。。
 あまりにも時間があるため、待合所で色々なパンフレットをみて情報収集。とまりんは渡嘉敷や慶良間、久米島などのフェリーも出港している。後ろのベンチで先ほどのチャリダーが知り合った旅人と情報交換をしている。みんな大東へ行くのだろうか?
 地図を見ているうちに時間は過ぎていった。これは何気に幸せなことだ。暇をもてあますという言葉があるが自分とは無縁だ。地図一冊あれば座っていても旅は出来る。15時から乗船可能という事で船に向かった。
 一番乗り。船室は2段ベッドの8人部屋が数室と、雑魚寝部屋が2室。進行方向右側の上側のベッドだった。小さなサロンがあり、テレビが一台。一応着替えを持って入ったが、シャワーはなく、食事もカップラーメンの自販機があるだけ。まあ明日の朝には到着のため、特に問題はないだろう。
 テレビを見ているうちに出港時間となった。ついにうふあがりじまへ向け旅立つときがやってきた。トカラとはまた違った高揚感。泊大橋をくぐり外洋へ、はるか400キロ先の絶海の孤島を目指す!

 サロンではすぐにしみずさんというおじさんと知り合いになった。名古屋からフェリーで鹿児島を経由し沖縄へ。話を聞いていると筋金入りの島マニア。それにれっきとしたチャリダーでもある。外はすでに漆黒の闇。ほどなくお腹も空いてきたので、自販機のラーメンを食べた。これが失敗だった。
 出港直後からもうかなりの揺れだった。買っていた酔い止めも飲んだし、安心していたのだが食べた直後から気持ち悪くなる。1回リバース。。。一つ勉強になった。激しい揺れの時は食べるとマズイ。こういう時は寝るに限る。速攻ベッドに戻った。
 その夜は揺れに揺れた。横になっていて、足を付けた壁に立つような感覚。寝たもん勝ち。


Day 24
 4/3 夜明けとともに目覚める。島の人によるとかなり揺れた方らしい。天気も思わしくない。それにこの寒さはなんだ。那覇で暑かったので、買ったTシャツ1枚で船に乗り込んだ。客室ではそうでもないが、外はすごく寒い。

 8時。まず北大東に寄港。クレーンで吊られる人たちをはじめて目の当たりにした。けっこう速い。ちょっとした遊園地のアトラクションだ。荷役終了後、南大東へ向け出港。二つの島の距離は10キロ前後。すぐそこに見える。
 1時間後、船は南大東の南側、亀池港に入港した。ついに自分があのカゴに乗る。カゴは客室後部、上甲板におろされた。1回では全員乗せることは出来ず、そこそこの人数が乗った。ゆっくりと地切りした瞬間、一気に上昇、海の上を旋回しあっという間に岸に。数秒の出来事ではあるが面白い体験だった。

 あまりにも寒い。時折小雨もぱらついている。バイクはコンテナに積まれているため、おろすのに時間がかかるとは聞いていた。しみずさんや、他のチャリダー、バックパッカーは次々と愛車を受け取り去っていき、那覇で一緒に手続きしたチャリダーと二人になった。バイクが入っているコンテナは下りてきたが、受け渡しは西港でとの事。(なぜおれたちだけ?)しかし、キャンプ場は西港にあるため、都合がいいといえばいい。チャリダーと二人でコンテナを積んだトラックの助手席に乗り込んだ。兵庫から来た彼は下段君といった。

 西港でバイクを受け取り、港湾事務所のすぐ裏手にあるキャンプ場にテント設営。5日後の次の便までいるという下段君。仲間がいるというのはいいものだ。泊港で出会った他の3人と合流するという彼を見送り、ゆっくりとした時間を過ごした。

 夕方、島の中心部、在所のJAの買出しに出た。トカラでのサバイバル生活を思い出し、店があるという幸せに感謝した。ここで島で醸造されているラム酒。コルコルをゲット。ラムという酒はカクテルなどで使われるが、サトウキビから出来ているという事は知らなかった。ストレートではどんな味がするのだろう?


コルコルとオリオンビール

 帰ってきた下段君と夕食。彼は自転車で先島をまわってきて北上中。これから北海道まで行くらしい。自転車の旅か・・・、考えた事もなかった。テントから自炊装備までフルパッキングし、少しの坂でも大幅なスピードダウン。すべてを走り終えた時の達成感は想像できないでもないが、日々の道程にそれがあるのだろうか?ただ辛いだけのような気が。

 快適なキャンプ場だが一つ残念なことがあった。海辺のキャンプ場では水しか出ないところも多く、それならあきらめもつくのだがここにはお湯のノブがあった。回してもお湯は出なかったがピンと来て建物の裏に回った。すぐに煙突発見。お湯を出すボイラーは設置されているという事だ。手続きをした港湾のお姉さんはお湯は出ないと言った。夏のキャンプシーズンのみ使用できるという事か?しかし、水シャワーはキツイ今こそ暖かいシャワーが必要なのではないだろうか?(この島もキャンパーには冷たいのだろうか・・・?)


Day 25
 4/4 下段君と11時に島まるごとミュージアム(ビジターセンター)で待ち合わせし、キャンプ場を出た。時計回りに北上し、最初に寄ったのがバリバリ岩。旅に出る前から来たかった場所。面白い場所だ。詳しい説明はやめておこう。行けばわかる。
 本場海岸。すぐそこに北大東が見える。ここの海岸も砂浜はなく、ナイフのような隆起サンゴ礁が続く。気をつけて歩かないととんでもないことになる。
 外周道路をまわる。(これは。。。?)キャンプ場を出てから何か見た事のあるような感覚を覚えていた。(北海道だ!)まっすぐ続く道の脇にはサトウキビ畑。見ようによってはとうもろこしに見える。防風のためわずかに残してあるキビからはあの声が聞こえてきそうだ。
「If you build it.He will come...」
レイ・リオッタ扮する”シューレス”ジョー・ジャクソンがいつ現れてもおかしくない。
 ただ決定的に違う点が一つあった。赤土だ。この島の土壌はほとんど赤土で、舗装道路の表面にも浮き、路面は赤く染まっている。
 ノエビア研究所。何を研究しているのだろう?
 南大東空港。キレイな空港だ。そろそろ待ち合わせ時間のため、まるごと館に向かわないと。。。

 エントランス前には、すでに下段君の自転車が停まっていた。この島まるごとミュージアムでは、南大東の自然を資料やディスプレイで詳しく解説してある。最初に目にとまったのはダイトウオオコウモリの剥製。けっこう大きい。超音波の反射ではなく、実際に目で見て飛ぶらしい。テントを張っている西港キャンプ場は、こうもり公園ともいい、トイレや水飲み場は大きなこうもりがかたどられている。滞在中一度は見てみたいものだ。
 下段君と合流し、見ていくうちに一枚の写真に釘付けになった。ヘルメットをかぶった子供が鍾乳洞を垂直降下している光景。すぐに副館長(館長はダイトウオオコウモリ)の東さんに尋ねた。
「これ、できるんですか?」
 ケービングという言葉を知ったのは2年前。洞窟探検の事だ。小豆島のキャンプ場で、モンベルの主催するカヌーツアーの団体と出合った時だった。即座に川口浩探検隊の事が頭に浮かんだ。
「アマゾンの洞窟に幻の吸血コウモリを見た!」
ヤラセだとわかっていても・・・、結局うやむやに終わり、最後は消化不良になっても・・・、最後までチャンネルを変えられない男のロマン。(笑)
 東さんによると、いきなり素人が何も足場のない宙吊りの降下は無理だが、初級の地底湖探検は出来るとのこと。費用は万一の怪我に備えた保険料を含め4,000円。
「下段君、付き合わない?!」
という事で明日の朝、即席探険隊は幻(?)の地底湖を目指す!

 その足でまるごと館すぐ隣にあるラム酒工場「グレイスラム」見学。かつての南大東空港の建物をそのまま使用していて、醸造タンクのある建て増し部分(屋内)にはまだ「南大東空港」との表示。かつての滑走路側の屋外部分にあたる。
 ラムという酒。工場内はかなり独得の香り。下段君はどうやら苦手のようだ。確かにストレートで飲むには癖がありすぎるのかもしれない。実際、カクテルやお菓子なんかに使われるイメージ。
 タイムリーだがジャック・スパロウが好きなのがラム。カリブ海といえばやはり南の楽園。サトウキビが作られていたのだろう。

 14時、遅い昼を食べに名物の大東そばに入った。時間が時間のため他の客はおらず、厨房の奥に声をかけた。
「まだ大丈夫ですか?」これが店のご主人、伊佐さんとの出会い。

 大東そばは、太目のちぢれ麺にさっぱりとしたかつおだし。本島のソーキそばとは、またちょっと違った雰囲気だ。誰もいない店内で一人、ずるずると音を立て完食。一杯五百円也。店を出る時、のれんを下げに来た伊佐さんと立ち話になった。

 昔、石垣で仲間と昼を食べていた店で、とうまさんという人に引っ掛けられ(?)タバコ栽培のアルバイトをした事があった。旅先での農作業は新鮮で楽しい体験だった。ここ大東でも、チャンスがあればサトウキビ収穫の仕事にかかわってみたいと思っていた。しかし、シーズンが終わっていたことも知っていたし、あの収穫のイメージ(鎌で茎を切って葉を落とし、束ねて道路脇まで持っていくという重労働)は大東にはなく、ハーベスターという大型の刈り取り機で行われている。

「サトウキビの仕事があればやってみたかったんですが・・・。」
「うちで何か仕事があったらやってみる?」
「えっ、あるんですか?!」伊佐さんは自宅で農業もやっているらしい。
(しまった!明日の朝は探険が・・・。)
「明日の午前中はまるごと館の地底湖探険に行くんですよ。」
「じゃあ昼からでも何かあったら電話するよ。」なんだか、面白くなってきた。

 JA裏シュガートレインの機関車、大東神社、大池展望台と回り、星野洞に向かった。琉球美人のお姉さんに800円を支払い、ラジカセを手渡された。各ポイントごとに自分で再生して解説を聞くらしい。面白そう。それにラジカセというのが懐かしい。
 かなり長い距離のトンネル状のスロープを下っていく。洞内の乾燥を防ぎ、湿度管理の役目をしている。
 ドアを開き、最初に目に飛び込んできた光景を見て息を呑んだ。おびただしい数のつらら石と石筍。
 実はここにそれほど期待はしていなかった。実際、800円は高いなと思ったし、小さな南の島にある鍾乳洞の名前は聞いた事がなかった。しかし、それを一瞬で吹き飛ばす力を星野洞は持っていた。ここで細かく文字によって描写することはやめよう。写真ですら無理だ。あの気の遠くなるような時間経過を見せられて出来ることは、ただ・・・ため息のみ。

 その夜、下段君とラムで乾杯した。

Day 26
 4/5 地底湖探検隊結成。費用は保険を含め4,000円。案内役は副館長東さん。一人が三つのランプを持たされ、見た目も探検隊。車に乗り込み走り出した。
 到着したのは何でもないサトウキビ畑の真ん中の空き地。(アプローチはどこに???)周りにそれらしきものは何もない。東さんは普通にキビ畑に入っていった。その先はキビ畑の真ん中にある直径10数メートルのガジュマルの木立。(これ!?)近づいて驚いた。周りを大きな石灰岩でかためた深さ数メートルのくぼ地になっている。(こんななんでもないところから。。。)東さんの説明によると、島の地下は大部分が鍾乳洞になっているのだが、近代のキビ畑拡張のためかなりの入口が埋められ、残っているものは少ないと言う。
 まずくぼ地の底へ降りる。ガジュマルの根を使い下へ。ここでも一つ驚いた。この根の張り具合がすさまじい。まるで弦楽器の弦のように張りつめている。強くはじくとウルトラスーパーLow”B”の音でも聞こえてきそうだ。
「これ、切れることないんですか?」
「ないです。」
納得。まさに弦をザイルにしてギターのフレットを下っていく感覚だ。

 入口。ついに光のない世界へ。ヘッドランプと手に持った懐中電灯オン。簡単なレクチャーを受ける。基本の3点指示。手足4本のうち移動で離すのは1本だけ。後の3本はしっかりと確保。この辺りの鍾乳石は少し乾燥気味で茶褐色をしている。地表面の赤土が流入して閉じ込められたものらしい。少し進むと黒い部分があった。これは戦時中防空壕として使われ、明かりを取った際の”すす”だと言う。あの62年前の戦争が、この洞窟の時間の流れの中でほんの一瞬に過ぎないことに不思議な感覚を覚えた。まるで昨日のことの様な。。。子宝島の大岩屋を思い出した。ここでも、島の人たちが生死の危険を感じながら息を潜め過ごした時間を思う。

 最初の地底湖が現れた。小さいものだったが、その青というか緑というか、陳腐な表現だが神秘の色としか書きようがない。
 表面に白いほこりのような物が浮いている。東さんが教えてくれた。浮遊カルサイト。いわば鍾乳石の子供のようなもの。東さん自身この事を知らずに、昔、研究者を案内した時、無造作に水面を混ぜ注意されたと言う。(笑)実際、ただのゴミにしか見えない。このカルサイトが時間と共にどうなるかはこの後知ることになる。
 ヘリクタイト。天井や壁に出来た枝状の鍾乳石。こいつらは小さいがすごい。まるで重力を無視するかのように横や上に伸びている。

 進んでいくうちに気付いた。鍾乳洞と言うのは、さまざまな石灰石の博物館であると同時に、時間の博物館であると。
 まわりの見回しただけでそれに気付く。生まれたばかりの結晶、幼年期、青年期、壮年期の鍾乳石。そして重みに耐えかねて折れ、地面に横たわるつらら石。しかしそれは死ではなく、上から落ちる雫の土台となる。いや違う!土台になるわけではなく、単純に上から下へ、自分のいる場所が変化しただけ。ここに死は存在しない。そのどれもが生であり、流れ行く悠久の時間の中でのサイクルの一部に過ぎない。すべての途中経過がここに存在する。
 そう考えると、今ここで眺めている自分は、限りなく面積のない点。いやそれ以下、説明できないほど小さな存在なのだろう。
 旅をする一つの理由を確信した。過ぎ行く時間の中で、自分がいかに小さな存在かを自覚し、限られた時間をどう有効に使うか。。。
 その思いを悟られたか?洞窟は広くなり狭くなり、奥へ続く。その先は奈落の底か、大広間か・・・。人生を短時間でトリップしている様な錯覚に陥る。

 「砂金が取れるんですよ。」東さんが天井を照らして言った。天井にはたくさんの粒々が金色に光っていた。よく見ると、ただの小さな水滴なのだが、光を当てると金色に輝いた。黄金の間だったか、金色の間だったか、
「名付けたのは俳優の佐野史郎さんですよ。」と東さん。

 ついにこのツアーで行ける一番大きな地底湖に到着した。何度も書くが文字では表現できない。そして誰もが潜って地底湖のさらに先へ進んでみたいという願望を抱くだろう。東さん曰く、ケイブダイビングは、ダイビングの中でも最も危険な部類で、かなりの経験を積まないと危ないらしい。昔、98メートルの深度を誇る岩手の龍泉洞にいったが、通路が整備されたいないここは、違った意味でのアドベンチャーだ。
「よかった・・・。」東さんがつぶやくのでなぜかと聞くと、前日テレビのロケで、お笑いのカラテカが水に入り、濁っているのではと心配だったそうだ。何とか澄んではいたが、本当はもっと澄んでいると。(くそっ、カラテカ!)


地底湖に到達

 「ここでいつもやるんですが・・・。」東さんがライトをすべて切るように指示。暗闇に目が慣れるというのは、人間の目がわずかな光に順応していくことで、まったく光のないここでは何時間いようが目が慣れる事はない。東さんの最後の言葉の後、数十秒か数分間か、長さの特定できない沈黙が流れた。聞こえるのは、水面に落ちる水滴のが洞内に反響する音だけ。上下左右の感覚がなくなり、無重力空間に投げ出されたような感じ。

 湖面の飛び石を渡り最奥へ。(マジですか!?)何の整備がされているわけでもなく、左右は地底湖。(これ、鈍い人は落ちます。)身長180の自分でも気持ちを整える距離があります。トカラ口之島のセリ岬で海中に没しました。平地ではなんでもない距離だが、暗い地底湖の中では平均台のような感覚だった。実際、何人か落ちた人がいるし、その無重力感から錯覚し、足場のない空間へ足を踏み出した人もいるらしい。

 「帰りは、ケイビング初級編という事で・・・。」足元は地底湖、狭く身体をかわさないと通れない場所。テレビで見るインドアクライミングのように、右手をあの岩、左足はあの岩みたいに指定しないといけない場所。(これで初級編ですか?笑)
 水面に浮かぶゴミ?浮遊カルサイトのその後にも遭遇した。気の遠くなるような時間をかけ、穴に蓋をする。ただの地面と見分けがつかなくなる。氷のように薄い場合は乗ると陥没することもありちょっと危険。恐ろしく時間をかけた落とし穴というところか・・・。

 見覚えのある広間に戻った。それも言われて気付いた。(ここか!)一人では本当に危険だろう。面白い話も聞いた。何年か前の台風の時、島に来た旅人(女の子)が行方不明になった。三日後現れた彼女は、一人では寂しいので知り合った男子を誘い、この洞窟で過ごしたのだという。まったく人騒がせな話しだし、違う想像をしてしまう。(お前ら、三日間二人でなにやってたんだ!!!)

 わずか2時間強の探検隊は解散したが非常に貴重な体験となった。謎の人食い生物は発見できなかったが・・・。

 午後、大東そばの伊佐さんに電話してみる。
「今日は仕事はないよ。」・・・(もしかしたら無理かな?)まあそうなったらそうなったで仕方ない。
 夕方まではゆったりと過ごした。帰ってきた下段君の自転車を借りて、キャンプ場外れのヤギ小屋でヤギを観察していた。途中で飼い主の島人がえさをやりに来たので見ていると一斉に外に出てきた。網がしてあると思っていたら、一部が開放されていて出入り自由。意味ないじゃん。(笑)昨日生まれた赤ちゃんもいると聞き見てみる。なるほど小さい。そこへさらに一台の軽トラがやってきた。(どこかで見たような・・・、あれっ伊佐さんだ。)

「家にテントを張りなさい。」
「えっ?今からですか?」

 すぐにテントに戻り撤収を開始した。長い間テントを張ってきたが、夕方撤収する事はあまりない。それも待ってくれているので急いで。
 一人残る下段君に後ろめたさを感じながら軽トラの後を付いて行った。辺りはもう暗くなり始めている。。。

 テールランプを追い薄暮のサトウキビ畑の中を駆け抜けていく。しばらく走ると脇道へ。その奥にはまるでオアシスのような防風林の区画。それが伊佐さん宅だった。

 庭に入るとすぐに目に飛び込んできたのが大きなガジュマルの木。なぜか枝から一本のロープが垂れ下がっている。
 すぐに自己紹介。一緒に住んでいるのは伊佐さんのお母さんと、畑仕事を手伝っている藤代さんの二人。藤代さんは宮城の出身だが、小笠原やパラオに住み、深海釣りを得意としている漁師。かつては自分の船も持っていたらしい。

「ここに張るか?」と庭を指す伊佐さん。しかしすぐに、
「面倒でしょ。ここで寝るか。」と庭に面した部屋を案内してくれた。この島で布団に寝れるとは思っていなかった。。。

 時間も時間なので藤さんと食事に出た。言われるままに軽トラの助手席に乗り込み、再び闇の中へ走り出す。行き着いた場所は島の繁華街、在所にある富士食堂という店だった。日替わりのおかずを自分で取っていくらしく、藤さんに付いて行く。味噌汁にはレタスが。はじめてみる光景だ。まわりの客はというと、建設関係の若者が多い。
 あまりくつろぐ感じではなく、食べ終わるとまた軽トラに乗り、十数メートル先の交差点の近くに車を止めた。(今度はどこへ行くのだろう?)と興味深く見ていると、入ったのはボロジノアイランドという釣具屋さん。店内には店主であろう日焼けしたおじさんとまだ若そうな女の子がすでに泡盛を開けていた。
 その店主は沖山さんといい、釣具だけでなく隣のパン屋、そして自身のキビ畑も持っているというある意味実業家。そのパン屋のパンは下段君に味見させてもらっていた。
 声を発した女の子に驚いた。とうま君というその若者は23歳の青年だった。もちろんニューハーフというわけではなく単なるロン毛だったわけだが、藤さんも同じ勘違いをしていたらしい。釣具屋だけあって壁にはたくさんの魚拓が貼られているが、その内容がすごい。
「カジキ、西港岸壁。」大きさは2メートル前後だっただろうか?(岸壁から!?)カジキといえば、南太平洋で松方弘樹がトローリングで何時間も格闘し釣り上げる、まさにスポーツフィッシング。(そのカジキを、岸壁から!?ただの投げ釣りじゃん。笑)絶海の孤島。陸地からすぐに2000メートルの深海に没するこの島の特徴だった。漁師の藤さんを交えた3人の会話は面白い。
 そこへ伊佐さんが入ってきた。後ろに付いて来たのはなんと下段君。スポーツ好きな彼は、この店の交差点対角にある「ルーキー」という居酒屋に行きたいといっていた。そこが休みだったらしく、偶然見つけた伊佐さんが拾ってきたという。(笑)

 程よく盛り上がったところで藤さんと一緒に店を出た。藤さんは運転があるので飲んでいない。家に帰り、今度は藤さんの部屋でビールで乾杯となった。壁にはかつて自分の船につけていたという大漁旗が飾ってある。

 夜も更け、自分の部屋に戻り、歯磨きのため外へ出た。雲間に見え隠れする明るい月。その光に浮かび上がるダイトウビロウ。

(おれは今どこにいるのだろう?これは夢かもしれない。。。)

Day 27
 4/6 日の出と共に目が覚めた。どうやら夢ではなさそうだ。キビ畑の方に出てみる。トラクターの深いわだちは、朝日の斜光線に照らされキレイな影を落としている。足元を見ると、乾燥した赤土の”ダマ”がごろごろと転がっている。瞬時に大学時代の事を思い出した。

 大学の体育会は厳しい縦社会で知られている。1年生に自己主張は出来ない。その中で下級生が与えられた仕事でミスをすると"粗相"となり、ヤキダッシュや坊主などのペナルティが科された。例えば、新品のタオルが水分を吸い取りにくいのは誰もが知っていると思うが、これをそのまま上級生に出すと粗相となる。
 ある時は、同期がタバコを見つかった。1年生は年齢が18-19であり、当然法律でも禁じられている。大きな租袖だ。結果、タバコを吸わない自分たち含め1年全員が坊主となった。連帯責任というわけだ。ゆえにこれを通り抜けてきた体育会出身者は、当時就職に有利と言われていた。

 その中でも忘れられない出来事があった。練習場のある武蔵小杉グランドは、いわゆる関東ローム層で、雨が降るとくるぶしまでドロドロ、そのままほったらかしで乾燥させるとスパイクが立たないほどガチガチになる。
 1年生は練習の始まる前に二人一組となり、硬くなった地面にレーキ掛けをして表面を耕す。その日のグランド状態は最悪。前日、強引に使用した地面は足跡だらけ。どう耕してもボコボコだった。後にキャプテンとなる同期のMが当時の主将に報告した。
「時間ギリギリまで出来る限りの事はやったんですが・・・。」そばにいた副将が言った。
「過程じゃねぇ、結果なんだよ!」という訳でヤキダッシュ。(笑)
 もちろん当時はムカついたが、社会に出てすぐに意味がわかった。
「頑張ったんですが・・・。」
結果のついてこない過程は社会では認められない。今ではあのヤキダッシュさえ、体力ついてない下級生を鍛えるためと考えられないことはない。
※ヤキダッシュ=許可が出るまで延々ダッシュし続ける。
坊主になった後、さらに粗相を犯すと五厘刈りというのもあった。(笑)

 かなり横道にそれたが、赤土のダマを見てあの日のグランドを思い出した。(このキビ畑も雨ドロドロ、晴れガチガチ。なかなか難しい土壌だろう・・・。)

 そば屋の立ち話から、今ここで普通のお宅にお邪魔して朝食をとっている。出会いとは不思議なものだ。
 最初の作業は出荷するためのかぼちゃみがき。もともと島では主にキビを作っていたが、数年前より、より儲けのあるかぼちゃやじゃがいもに手を出しているそうだ。伊佐さん宅では今回が初めての出荷だそう。そのためそれほど量はない。(皮肉にもキビを原料としたバイオ燃料が世界的に脚光を集めているが、日本では流通の問題もあり、まだ現実的ではないだろう。)
 藤さんがへたを見栄えよくカットし、それをみがいていく。軽く小さなものや日焼けして色のよくないもの、病気にかかって表面がデコボコしているものははねる。しかし、食べるのには問題ないそうで、もったいないと思いながらこれが店に並んでいたらやっぱり買わないだろう反省する。
 次にオクラの畑に点滴を設置した。まだ芽が出たばかりで、前にも書いたとおり雨が数日降らないと地面がガチガチに乾燥するため、等間隔にピンホールの開いた専用のビニールホースを引いてポンプで水を送る。ちょうどほんとの点滴のように、ポタポタと水が落ちている。(ここ数年雨が少なく大変らしい。)
 今度はキビ畑。この時期のキビは背丈が50センチ程度。所々生えてないところがあり、そこに新たな穴を掘って植え替えをする。キビはちょうど竹の様な感じで、掘った穴に種となる茎を埋めるとそこから生えてくるそうだ。これがキツイが面白い。間が開いたところを見つけて、くわで20〜30センチ掘っていく手作業。キビ畑の端から端までは200メートルちょっとという所だろうか?やり始めのゴールは遥か先で愕然とする。だが進んでいくうちにスタート地点が遠くなっていき、ゴールした時振り返ると、まだ水分の蒸発していない濃い色の土が点線となって続いている。ある種の達成感。そして次の列のスタートにまた愕然とする。(笑)そうこうしている間にあっという間にお昼になった。

 お昼は玄関横のテーブルで伊佐さんが買ってきてくれたお弁当。最初のうちはそうでもなかったが、時間と共にどんどん増えたのがハエ。大きいのは払うが小バエは味噌汁に落ちる。気になっていちいち取るのだがあまりの多さにキリがない。そのうち具の一つとなった。

 玄関のガジュマルから垂れた一本のロープ。下がっている根元をよく見ると、すでにつる状の根に覆われ、まるで木から生えているようだ。それはかつてのブランコの一部だという。かれこれ30年。一本だけ残ったロープは、完全に木と同化していた。そういえば、使わせてもらっている部屋には、中森明菜やたのきんトリオのポスター、ジャッキー・チェンの本などがあった。息子さんたちは同世代なのだろう。

 昼からは植え替えの続きと、かぼちゃ畑に残ったクズのかぼちゃ拾い。こちらは選別した時のクズとは違い、小さく食べられないもの。畑のすみに捨てていずれ堆肥となる。

 夕方、下段君の様子を見に西港へ行った。彼も同じく次の便で北大東に渡るのだが、運航のタイムラグを利用した一泊のみ。という事はあっちでは一人か。。。

 夕食は伊佐さん宅で頂いた。おいしい刺身。

Day 28
 4/7 朝一の仕事は、かぼちゃがなくなって広くなった倉庫の片付け。その後、昨日に引き続き植え替えの穴掘り。ゆっくりと南の島での時間が流れていく。

 昼休憩。北行きの切符の手配のため西港へ。そこで問題が発生した。北大東への便は、予定通り明日の午後出るのだが、その日の北接岸はなく、はしけ(港に接岸せず、少し沖から小船を使って上陸する。その際ライフジャケット着用。)で人間だけ下ろすという。バイクを降ろせるのはあさっての朝。人だけ降りて野宿というのも嫌だし、仮にテントをバックパッキングしても、この時点でどの港につくかわからず、重い荷物を背負って歩くわけにもいかない。それに午後から天気が崩れるという予報が出ていた。港湾の人に尋ねた。

「だいとうに船中泊する事は出来ませんか?」

 船はどっちにしろ北沖に碇泊する。それならば、一晩快適な船内で雨を回避し、翌朝バイクと一緒におりる事が出来ればベストだ。出来ないことはないとの事。船で交渉してみよう。

 午後からはおばぁのヘチマの種まき。ヘチマはこっちではナーベーラーといって食用にもなる。藤さんが穴を掘り、自分が肥料と薬をまいた後、おばぁが種をまく連係プレーだ。その後はまた点滴ホースを設置したり、オクラに薬をまいたり、ニワトリ小屋を立てる鉄パイプなどの資材を下ろしたりした。

 夜は富士食堂。すぐに藤さんの部屋でビール片手にビデオを見た。パラオで生活していた時のテレビのドキュメンタリー。メインは生物学者の方で、それをサポートする形で登場する藤さん。専門はオナガダイの深海釣り。仕掛けを付けた糸を船から垂らし、竿は使わずに直接手で当りを見る。藤さん曰く、十個前後つけた仕掛けのすべてが手でわかるという。
「えさをつついて、逃げたか食ったかどうかも全部わかるよ。」実際、仕掛けのすべてにヒットさせることも少なくないという。
「遊びじゃねぇからさー。」画面に映る藤さんの表情は、それを裏付けるに余りある真剣なものだった。まさに職人の顔。さらにかぼちゃの話になった。
「手を掛けただけいいものが出来るからさー。」それはもう教えてもらっていた。使い物にならないクズがそれを語っていた。
「数個でいいから完璧なものを作りたいんだよ。」商売としてはどうかと思いながら、完璧なかぼちゃというのを見てみたい気がした。それを語る藤さんの顔が職人の顔になっている。職人は、海であろうと陸であろうと職人なのだろう。。。

 突然、来客があった。筑波から半年の任期で島の診療所に赴任している歯科技工士、山崎さん。たった半年ながら島の事にやたらと詳しい。すぐに地区の月例会に行こうという事になった。ただの通りがかりの居候旅人がそんな場所に行っていいのだろうか?

 伊佐さん宅のある新東地区の集会所。すでに宴会となっていたが、まじめな話の後の懇親会という感じだった。地区の長老たちが色々な話をしている。その中でも若手の人は、なんと探険した地底湖の持ち主だった。

 色々面白い話が聞けたが、印象に残った事があった。みなさん農家なので自分の家用に野菜なども作っている。その分は無農薬で。
「家で食べるのは虫食ってたっていいからさー。」キレイなものを作るには農薬は使わざるをえない。しかし当然身体には良くない。
 鳥や虫は旨い物を食う。それも時期の早いものや過ぎてしまったものをしっかりと選別して。逆説すると虫が食べない、農薬を使った作物はまずいものなのだ。だから無農薬でキレイな作物は高い。虫に食われたおいしい食べかけは、売り物にならず廃棄される。
 消費側に問題があることはわかっている。実際、スーパーで買い物をする時、無意識にキレイなものを選んでいるのは確かだ。かといって、身体にいいとわかっていながら虫食いを安く流通させる事は無理だろう。永遠のジレンマ。。。

 二日間の短い農業体験が終わった。今考えると、船をもう一便遅らせてもよかった。伊佐さんの許しさえもらえれば、もう一週間南大東に残っても良かったと少し後悔している。なかなか行ける所ではないのだから。

Day 29
 4/8 今にも雨の降り出しそうな空模様。まだ行ってないところを回った。日の丸展望台。島の南側にあるが、島を通り越して北大東が見える。ちょうど飛行機の到着時間なので、待っているとついに雨が降り出した。海軍棒プール。岸の断崖を削って作られたプールで、夏は子供たちで賑わうと言うが、誰もいない雨の中少し寂しい場所だった。11時半、一度大東そばに寄った。しかしこの日、FM開局に伴う公用行事で店内は大繁盛。出直したほうがよさそうだ。
 13時。再び店に行った時には静かになっていた。客としてそばを頼む。そこへ突然、港湾の人が現れた。出港が14時に変更になったという。(えー、それはないよ。)急いで出してくれたそばを慌てて食べる。そして客として差し出した代金を、伊佐さんは受け取らなかった。
「息子のところで食べてよ〜。」息子さんも那覇市内で店を出しているのだ。自分の親と重なる。弟が大手パン屋に就職した時、それまで買っていた地元のパン屋から乗り変えた。パン一斤、そば一杯でも子供の売上を思う親心。
「お世話になりました。またいつか来ます。」別れ際に二日分の日当をくれた。部屋と食事の面倒も見てくれ、貴重な体験をさせてくれた伊佐さん。(このお金は何か特別なことに使います。)

 急いで戻り荷造り。おばぁと藤さんともあわただしく挨拶。(ありがとうございました。お元気で!)そしてあわてて西港へ向かったのだが・・・。

 港についてみると、出港の気配がない。待合に下段くんを見つけ聞いてみる。なんと、北大東へ戻る人を待つため16時に変更になったという。(えー!)だいとうといい、としまといい、時刻表はあってないような物だと理解はしているが、それならあの慌しい別れななんだったのか・・・?
 待つ人たちというのは例のFM開局のために来た北大東の関係者。なるほど納得。船は乗り過ごすと1週間後だし、飛行機(飛行時間3分)と言うわけにもいかないのだろう。
 さて2時間どうする?。。。また戻ってお別れをやり直すわけにもいかない。(笑)待合には、今朝の船で来たというチャリダーも一緒だった。
 しばらく3人でしゃべっていたが、3日間過ごしたキャンプ場を目に焼き付けに戻った。そこである事を思い出す。そういえば神社の近くにも鍾乳洞の入口があるといってたような・・・。
 辺りを探すとすぐ近くに発見!こんな大きな穴なのに今まで気付かなかったとは。ヘッドランプを持っているの自分だけだった。もちろんヘルメットもない。だがバックリと開いた入り口はおいでおいでしている。かくして再び探検隊が結成された。

 一つのヘッドランプでみなの足元を照らし慎重に降りていく。ところが、入り口直下のホールからすぐにクライミング並みの降下。(下段君これは無理だぜ)なぜなら、彼はシューズをパッキング済み。今現在サンダル履きだった。一人脱落。
 もう一人のチャリダーと降下していく。次の大ホールから先に進めそうな穴を探す。右へ進むがすぐ行き止まり。という事はこの穴?左へ伸びるその穴は、歩伏前進とまではいかないが腹ばいにならないとすすめそうにない。ここで二人脱落。
 低い体勢でしばらく進むと小ホールに出た。この辺りの壁はかなり湿っている。穴はさらに先に続いていたが・・・。時間切れ!帰る時になってこんな楽しいものを発見するとは。。。残念。チャリダーがすごく感動していた。そうだろう。大人になっても探険心というものは消える事がない。特にここの場合、ガイドしてくれる人がいるわけでもなく本当の探険だった。あの先はどこへ続いていたのか・・・。

 北大東の方々も無事到着し、再びカゴで空中散歩。船上の人となった。ありがとう伊佐さん、藤さん、おばぁ。ありがとう南大東島。想像を超える体験をさせてくれたすべてに感謝。

 余韻に浸りながらもやっておかなければいけないことがあった。今日の宿探し。といっても船との交渉。だいとうは、このまま北へ行くが接岸せず小さな船で人だけ下ろす。バイクが降ろせるのは翌朝。船は一晩沖に停泊する。そこに船中泊したいのだ。
 船員さんに状況を話し最初に返ってきた答えは「不可」。理由はもし何か事故があったら責任がもてないという事だった。そう言われても引き下がるわけにもいかず、再度お願いしてみると船長に聞いてきますとの事。望みありか?
 そして帰ってきた船員さんの答えは・・・OKだった。(よっしゃー!!!)下段君たちにしばしの別れを告げる。

 すぐに北大東に到着した。どうやら西港のようだ。といってもかなり沖。断崖の上には何かカラフルな遊具のようなものが見える。おそらくそこにテントを張るようになるだろう事はわかっていた。
 たった一人、ラウンジから後方甲板を見守る。下段君やチャリダー、そしてスーツの北の関係者たちはみな、ライフジャケットを着用している。(はしけ体験もしてみたかったが。)そして、みんなを乗せたはしけはまず岸壁下まで、さらに船ごとクレーンで吊られ無事上陸した。

 貸切のラウンジでテレビを見る。ちょうどこの日は「SAYURI」。東洋を題材にしたハリウッド映画は相変わらず意味不明だった。
 船尾のタグロープ巻取機の辺りから、船員たちが釣り糸を垂らしている。先ほどの船長に聞いてくれた船員さんと話す機会があった。高知出身で普段ハスラー(小型オフロードバイク)に乗っているらしい。船員だろうが、旅人だろうが、乗っているというだけで話のきっかけとなる。それがバイク乗りというものだ。冗談かほんとかわからないが、今釣ってるのが晩の食事という。(笑)
 たまに客室フロアに現れる別の船員が、「なんでいるの?」という顔をしているのが面白い。

 雨が降り出した。予報どおりだ。しばらくは合羽を着ておかずを釣っていた船員たちだったが、すぐに土砂降りになった。荷は明日積み込む為、後方甲板にはコンテナは一個だけ。急いで片付けようとするみなが行き交っている。横殴りの雨はあっという間に甲板にたまり、揺れと同時に右へ左へゆっくりと漂っている。不思議な光景だ。


暴風雨の甲板

 すでに真っ暗になっていたが、激しい雷が海を照らす。遠くに北大東の断崖に打ちつける波が見えた。まるでコマ送りのストロボ写真のように、昼と夜が入れ替わる。子供の頃の台風前夜のような、少しの不安とこれから何が起きるんだろうというドキドキ感。揺れも最高潮に達している。船は碇を下ろし進んでいないため、前後左右上下関係なし。あらゆる方向に揺れる。木の葉のようにとはこの事だ。実際、腕まくらをしていると、いとも簡単に背中側に倒れる。今日は晩飯はやめておこう。(笑)食べてもどうせ出る。食べなければ酔い止めは必要ないだろう。

 船はその夜、風と波を避けるため2度ほど島影に移動した。そのたびにエンジンがかかり目が覚めるが不快ではなかった。それよりもこの面白い夜を、意識したいという気持ちの方が強かった。。。しかし、この雨の中、西港で野宿するといっていた下段君はどうしただろうか?

Day 30
 4/9 すっきりと晴れ渡った。雨をかわし、屋根のあるところで寝、バイクと一緒に下りるというもくろみが完璧にはまった。客室貸切というおまけまで付いた。さらに下船時。通常後部デッキからカゴに乗るが、コンテナがないため前部貨物ハッチから。かなり広い。クレーンカゴももちろん貸切。


だいとう船首貨物ハッチ

 バイクが下りるまで少し時間がかかると思い、油断して港湾の人と話していた。ふとクレーンの方を見ると、(なにー!!!)バイクがスリング(吊り下げベルト)で直吊りされている。あわててカメラを取り出すがたくさん撮れなかった。なるほど、どこに掛けて吊るのかと思っていたが、スリングを前後ホイールに通し、途中でクロスさせて安定させている。まさに空飛ぶバイク。

 着陸したバイクにまたがり、とりあえず西港に向かう。西港はかなりお金を掛けて整備されていて、前日夕方、船から見た色々な遊具や親水公園、青々とした芝生でとてもキレイだ。
 公園の入り口で下段君を発見。昨夜どうしたか聞いてみると、大雨の中、一緒におりた例の北大東の関係者。その中の一人が宿の主で、手ぶら宿無しの二人を泊めてくれたらしい。(そちらはそちらでうまくやっていたんだね。)
 もう一人のチャリダーは自転車を下ろしていたのですでに散策に出ていた。下段君は南に置いてきているため、徒歩で江崎港に歩いていった。(けっこう距離あるぞ・・・。)
 二人とも今日の午後便で那覇に戻る。見送りを約束して別れた。

 役場に向かう。ここも最近建て替えられたらしくすごくキレイだ。実務手続き以外で入っていくのは少し場違いな感じさえする。テントを張っていい場所を聞くと、いきなり封筒入りA4サイズ、厚さ5ミリはあるしっかりした町政パンフレットを手渡された。キャンプ場はと言うと、やはり西港公園。テントは好きなところに張って良いし、水・トイレ完備。屋内の休憩所まである。それがすべて無料。さらに応対してくれた職員の方が先導して連れて行ってくれた。今までたくさんのキャンプ場を訪ねたが、これほどの対応は初めてといっていい。旅人の立場からではあるが、少しでもお金を落としていくようにしよう。

 テントを設営して昼食へ。島の中心部にあるホテル、ハマユウ荘うふあがり島。安くておいしい定食が食べられる。周りは地元か、もしくは出張か、作業服で昼休憩という感じの人が多い。
 フロントのお姉さんに出港の時間を尋ねると、わざわざ電話して聞いてくれた。ロビーでは無料でパソコンが使えるので久々に連絡を取る。夜は大浴場も使用できる。(いいな!ハマユウ荘。。。)


西港公園


ハマユウ荘うふあがり島

 見送りまで少し時間があるので、北港まで行ってみる。この時期あまり使われる事のない港は誰もおらず、激しく断崖に打ちつける波の音だけが響いていた。西港方面に海沿いに伸びる道を走る。この道は完全な周回ではないが、大きく島をまわる外周道路で、国内でも上位に入る快走路ではなかろうか?右には水平線が広がり、左右には隆起サンゴ礁のオブジェ。鋭利に侵食された奇妙な形の岩々は、けっして柔らかなイメージはもてないが、さまざまなものに見える。そろそろ江崎港に向かわなくては。。。


北港海岸線


外周道路探索プラン

 甘く見ていた。北港から内周道路へ、ラグナセカのコークスクリューのような坂を下り中心部に戻った。どうやらその後を間違えたらしい。こんなに遠いのかと不審に思っていると、なんと北港へ向かう交差点へ戻っていた。あわてて地図で確認し、港に着いた時ちょうど下段君を乗せたカゴが吊られるところだった。ギリギリだ。乗船した下段君と7−8メートルの海を隔てて携帯のナンバー交換をする。2番カゴで乗船した探検隊メンバーのチャリダーともお別れ。彼らはもう一度南を経由しそのまま泊へ。ちょっとバタバタしたが、気を付けて、良い旅を!九州でタイミングが合えば合流しよう。


海上を旋回するカゴ


下段君とチャリダー


港を離れるだいとう

/// 07/8/7現在、下段君は青森ねぶたサマーキャンプ場に滞在中。どうするのかまだ聞いてないが、竜飛を回るか、船に乗るか、下北に回るか。青森からの船はないとみた。おれなら竜飛か。。。///

 空港に行った。南大東と違い、もろに海に面したロケーション。すごく気持ちいい景色だが、風があると離発着が大変だろう。少し待てば降りて来るので時間を風に任せる。そのうち島の子供が一人やってきた。彼と二人でゆうゆうと降りてくる飛行機を見守った。
 意外と多くの乗客が降り、それより若干少ない人たちが乗り込んだ。


北大東空港・琉球エアーコミューター

 JAで夕食と朝食の食材を調達しテントに戻った。とまぁ、単独でのポイントめぐりはこんな感じになる。やはり旅は人との出会いであり、土地の人とのふれあいなのだろう。
 かといって、これも必要なことだ。どんなにショボいといわれる景勝地であろうと、行ってみないとわからない。感じるものは人それぞれ違うのだ。

 ハマユウ荘の風呂。記憶をたどってみるとトカラ宝島の友の花温泉以来の湯船になる。沖縄では湯船にお湯を張らないケースが多い。泉質はおそらく温泉ではないが、広い湯船には癒される。まさに「極楽極楽」といった感じ。

 こちらも久々の、周りにまったく人いないテントサイト。前回は・・・、トカラの諏訪之瀬のキャンプ場にまでさかのぼるか。今までずっと誰かと一緒だっただけに、さすがに少しだけ寂しい感じはする。。。。

Day 31
 4/10 朝一、西港近くの港湾事務所で帰りの便の確認。そのまま徒歩で燐鉱石貯蔵庫跡を訪ねた。
 近年、物件をコレクションしていく廃虚には興味がなく、たまたま行った所にあればという程度だったが(端島を除く)、写真を撮っているとスイッチが入った。特に引き付けられたのがはしけを陸に上げるのに使うと思われる巻取り機。サビ具合が何ともすごい。この機械のみでかなりの時間を費やした。長い年月と共に互いが同化しくっついたワイヤー。そこに張るクモの巣。噛み合ったまま停まったギア。なんとも絵になった。
 倉庫跡のトンネルはまるでミサイル発射装置のように弧を描いていた。そして岸壁まで延びるトロッコ跡。ある意味この島にも鉄道があったという事になる。久々にノスタルジックな時を過ごした。


燐鉱石貯蔵庫跡


揚陸用ワイヤー巻取り機


建設年月日

 昼はハマユウ荘。つくづく思う。食べられる所があったうえでテントで食べる事と、食べる所がなくてテントで食べる事との違い。明日もよろしく!

 最高所の灯台、地蔵、かつての上陸港などをまわり、再び外周道路に出た。やはり素晴らしい道だ。走るだけで楽しい道。
 昨日のコークスクリューを抜けGSへ。(今のガソリン高騰はなかった時期)リッター145円にも納得。あの港での荷役作業を見ているからだ。輸送賃も含まれていると考えれば決して高いものではない。どうでもいいが、やたらとカエルが轢き逃げされている。


輪禍にあったカエル

 午後から再びポイントをおさえる。大東島を開発した玉置なんとかえもんの碑。そうそう、この島にはキジが多い。なんとなく硫黄島を思い出す。あの孔雀の島。
 重機で畑を掘り起こしているところに遭遇し、しばし見とれる。回転するアタッチメントが、かなり深い所から掘り起こす。もし人の手でやるなら数日かかるだろう重労働を十数分でやり終えた。


広大な畑の美しいライン

 教育委員会に連絡をいれ、民俗館の見学の予約を入れる。昔はいつも開いていたのだろうが、見学者と管理人件費の折り合いが付かないのか、連絡しないと開かず、さらに見学時間は朝の一時間のみ。疑問を感じながらもとりあえず見ておきたい。

 夕暮れ後の襲撃には驚いた。御飯にしようか迷っていた頃、突如おびただしい数の蚊の大群が襲ってきた。インナーテントに避難するもライト照らした前室内もありえない数の蚊が飛び交っている。この状態では食事すら出来ない。どうしたものかとしばらく悩むが、意を決して浅沼商店に向かった。仕方なく高い蚊取り線香購入。
 ところが帰ってみると、まだ少しは残っていたが一時の大群ではなくなっていた。それにあの中へ繰り出したのに刺されていない。あとで思うのになんらかの原因で発生したユスリカが流れてきたのだろう。その後いくらもしないうちにまったくいなくなった。

Day 32
 4/11 鳥の声とクレーンのエンジン音で目覚める。例によって漁に出る漁船を丸ごと釣り上げ海に下ろす。はるか南の島での雰囲気のいい目覚め。


漁から帰ってきた船

 不思議な夢の記憶が残っていた。小学校や高校のときの親友とまではいかない、そしてそれ以降も付き合いのない友人たちが登場する。

 民俗館を訪ねた。話では一時間という事だったが、何かの工事が入るらしくいつまで見てもOK。それほど豪華な展示物があるわけでないが、そこそこお金がかかっていてそれなりに楽しめるところだ。目にとまったものがあった。北泉洞。(この島にも鍾乳洞があるのか。。。)一人探検隊が結成される可能性もあり位置をよく確認した。

 午後から強めの風と雨。テントの中で幸せをかみ締める。晴れを待てる幸せ。多くの普通旅人はかっちりとした予定の中で雨に降られ、帰っていく人も多いだろう。
 雨がやんだあと、北泉洞を探してみた。位置はあのコークスクリューの坂の上。該当する地域にはいかにもという感じの草むらやくぼ地があるが、南で探険した時のように自然に帰っている可能性が高い。どちらもキビ畑に立ち入って行かなければならないため断念。もう少し正確な位置がわかれば・・・。

 夕食で初めてハマユウ荘に行った。さすがに夜は宿泊客がいてイマイチ浮いた感じだが、やっぱり湯船のお風呂はいい。ここで初めて大東すしをいただいた。伊佐さんの所で食べ損ねていたのでよかった。メニューもランチ時とは少し割高になっているがその分豪華。

 北での日々はゆっくりと流れている。盛りだくさんだった南と比べ少し寂しい感じはするが、北では本来のソロ旅らしい日々が続く。
 実は伊佐さんに友人がいるので訪ねてみればと聞いていたが、いきなり見ず知らずの流れ者が来ても驚くだろうし、また変にお世話になっても申し訳ないのでこのままでいよう。
 ハマユウで北泉洞の事を尋ねた。北では保護されていて立入禁止らしい。残念。

Day 33
 4/12 今日も西港の荷役作業の音で目が覚める。海の向こうに南大東の大きな貯水タンクが見える。伊佐さん宅からあのタンクの反対側を見ていた。


クルマももっこで吊られる

 午前中は洗濯とバイクの整備。ついにこの時がやってきたのだ。今この瞬間まで旅はさらにその先へと広がり続けていた。つまりこの整備により前進ではなく反転、帰路への整備ということになる。もちろんまだ家に帰り着くまで時間はあるが、折り返し地点を強く意識させ、寂しさを感じざるをえない。フロントパッド、何とか持ちそう。リヤタイヤ、同じく持ちそう。2ストオイル、予定通り那覇で購入補給。一本全部入るくらい減っている。チェーンオイル塗布。さあ、折り返しのパイロンを回ろう。。。

 昼はハマユウ。西港から北港へまだ走ってない区間をおさえる。いい道だ。港に帰るとおじさんがいて話しかけてきた。関西からの徒歩ダー。色々聞いてくるおじさんに、知っている情報を教えた。さらに夕方、原付のおじさんが通りかかった。少し立ち話。地元の人で、船が来た時は港湾で働いているとの事。伊佐さんに教わった人のことを聞いてみると知っているという。。。


隆起サンゴ礁のオブジェ


外周道路

 上にも書いたが、取り立てて書くような事柄はないが、時間をもてあましたり、退屈したりすることはない。しっかりと北大東島の自然を満喫している。海の色を見ていると飽きることはない。


停泊中のだいとう

 港湾事務所に帰りの船の確認。例によって港は明日にならないとわからないが、おそらく西港になるとの事。コンテナ番号も言われたが、行きも違うコンテナに入っていた。

Day 34
 4/13 北大東をはなれる日の朝。予報では雨だったが今現在は晴れている。いよいよ旅の終わりを実感するが、一転して現実に戻された。トイレの大便器が下痢便でひどく汚れている。そういえば昨日の午後、建設関係のトラックが来て用を足していた。あれだ。普通なら放置だが、今この公園でテントを張っているのは自分だけ。どうみても濡れ衣をかけられるのは必然。仕方なくウンコ掃除となった。しかし人のウンコというのはどうしてこんなに汚いものなのだろう。もちろん自分のも汚いが、同じ状況になった時掃除するのはまだ我慢できる。何の因果で南の島でトイレ掃除か?ちなみにまだガビガビにはなっていなかった。(笑)

 昨夜沖で碇泊していた帰りの船が、荷役作業を始めている。新たな発見があった。重機の先につけるツール。荷物に応じていろんなものがあると気付いてはいたが、想像以上にいろいろある。ドラム缶を数個いっぺんにはさむ冶具、吊り下げも対象物に応じてそのつど換えられる。段取りも考えられていて、二度手間や時間短縮のアイデアがたくさん。人間一人の力を考えると感心する。

 ゴミを捨てにJAに行った。缶コーヒーを飲みながら島を去る感慨に浸っていると、向かいの小学校のグランドに驚く。総天然芝。こんなに環境のいいグランドも珍しい。そうこうしているうち空が暗くなり、ついに雨が落ちてきた。涙雨か、いよいよお別れだ。


天然芝の校庭

 港に戻ると、一組の家族が船を待っていた。本島は名護、辺野古からやってきたという渡嘉敷さん家族。なにやら沖縄の神社や御嶽をまわって線香をあげているという。そういう風習があるのか?大きな黒線香のダンボールを数箱持っている。この線香。内地のように緑で一本一本別れているのではなく、数本がくっついていて初めて見る物だった。
 乗船時には雨は本降りになり、荷物を乗せるのを手伝ってあげると、もし辺野古に寄るならと連絡先を教えてくれた。ただ、家族はこの船で南大東へ降り1週間後に帰ってくるため日程的に無理だろう。それより!
 荷物が積み終わっていた。潮のかぶらない前部甲板ハッチ内か、コンテナに入るはずなのに話が違う。昨日の原付のおじさんと話すと、呼びに行こうかといったんだがいいよという事になったらしい。(それはないよ!)それがわかっていたなら最初から港で待っていたのに。
 これから明日の朝まで、甲板に裸で積まれるという事はバイクが潮だらけになるという事を意味する。時化ると海水すら入ってくるのに。。。作業的にはすでに手遅れでシートをかぶせてもらうように要請。それでも大丈夫か。とにかく潮はやばい。整備しづらいところが錆びてしまうと厄介だ。


空飛ぶRMX

 南大東では再び渡嘉敷さんの荷物をおろすのを手伝った。気を付けて!1週間ぶりに寄港した(南大東の)西港は懐かしささえ感じた。おばぁは、藤さんは、そして伊佐さんは畑仕事をしているのだろうか。お世話になりました。ありがとう!
 その荷役でかぼちゃがたくさん積まれてきた。もしかしたら・・・。北大東へ渡るとき積荷にかぼちゃはなかった。今乗っているのが次の便。という事はこのかぼちゃの中に伊佐さん宅で、藤さんと磨いたかぼちゃが入っている可能性が高い!いやもうそれが真実かどうかはどうでもいい。あれがおれが磨いたかぼちゃなんだ!
 小さくなっていく大東の二つの島を眺めながら、夢のような日々を振り返っていた。。。


磨いたかぼちゃ(たぶん)

Day 35
 4/14 大東島は再び、400キロ近く離れた「うふあがり島」となっていた。同時に携帯の電波が復活し何通かのメール。その中の一通がうれしいサプライズをつづっていた。
 泊港到着が朝8:00前にもかかわらずのどかさんが出迎えてくれるという。実際に会うのは博多で会って以来6年ぶり。その間お互い色々なことがあった。一番の変化は彼女が奥さんになった事。それでも今日一日付き合ってくれるという。
 船は泊大橋をくぐり、ゆっくりと港に入っていく。すべての出来事に旅の終わりを意識させる思いがよぎる。さて気分を変えていこう。
 例によって、バイクが降ろされるのは時間がかかる。一足先に下船し辺りを見回した。すぐにこの埠頭には不釣合いなゴス系の小悪魔が目に入った。

「久しぶり!」

 彼女との出会いは、やはり沖縄の友人であるあゆさんを通じて。数少ないネットを介したものであると同時に濃い出会いだった。何より、広島から遠く離れた沖縄で出迎えてくれる人がいるという幸せ。
 クルマで案内してくれると言うので、荷物やバイクを置きに照美荘へ。2週間ぶりの照美荘には、退院してきたおばぁが帰ってきていた。入院生活で車椅子とはなっていたが、しゃきっとしていて以前と変わりない。のどかさんを待たせているため、簡単に挨拶をすましクルマに戻った。
 とりあえずモーニングという事で、牧港のエンダーに入った。彼女の持ってきてくれた写真を見ながら、お互い6年間を報告しあう。
 安良波ビーチ。外人の家族がたくさんいて内地にはない光景だ。北上し北谷へ。この街は一人で徘徊するような感じではなく、やはり誰かと寄り道しながら歩くデート向きな街。観覧車に乗った。彼女は以前ここで働いていて心強い。数年ぶりにプリクラなんぞも。最近のはスゴイ。完全にやり方のわからないただのおじさんと化した。さらに彼女小さな袋をくれた。なんだろうと開けてみると、美ら海水族館のチケット。(コラコラ、好きになるぞ。)おっと新婚さんだった。(笑)近くのブルーシールにもよった。エンダーとブルーシールは沖縄にしかないので出来るだけ食べておかないと。
 象のオリ。2000年にも一人で訪れている。近く解体されるらしく、すでに機能はしていない。なくなる前に見れて良かった。場所と違い建造物は見れる時に見ておかないとなくなってしまう。かつて海洋博公園にあったアクアポリス。また来ればいいと見送った翌年、解体されるため韓国へ旅立ってしまった。


象のオリ

 残波岬。泡盛残波のメロディーが浮かんでくる。こちらも一度来たことがあるが、今回は灯台に登った。遠くまで見渡せる。観光客が多い。
 夜ライブに行くというのどかさん。遅めの昼を食べて宿まで送ってくれた。今日一日ありがとう。あゆさんと3人でもう一度会えるといいんだが。。。
 照美荘に戻り、おばぁとまつひろさん、宿泊者の神奈川のみやぎさんと談笑。先にも書いたが、おばぁは心臓を悪くして入院、こちらが大東へ行った後退院。年齢が年齢だけに入院生活で足を悪くしていたが、頭は依然ちゃきちゃき。元看護婦であの戦争を生き延びた人だ。
 同宿のみやぎさんが面白い。毎月神奈川から1-2週間沖縄に来るという意味不明(笑)な人で、はっきり言ってうちなんちゅーのまつひろさんより沖縄に詳しい。道路からお店まで聞くとすぐに答えが出てくる。実家が寺らしく、本人は坊さんではないのだろうが、スキンヘッド。といっても怖い感じはない。常に酔っていて赤い顔をしている。笑
 明日しーみーに行くので来るかという話になった。しーみー?はじめて聞く言葉。旧暦3月(4月中)に先祖供養に行くというもの。いわば墓参りで、こちらのお盆のようなもの?
「はぁ?」それはそうだろう。通常、盆正月、お彼岸といえど、血縁関係のない他人の墓に行くことはない。するとまつひろさん「沖縄じゃ関係ないからさー。」みやぎさんも行くというし、なにやらただの墓参りではなさそうだ。

Day 36
 4/15 残念ながら雨。決行と言うことで車椅子のおばぁ、まつひろさん、みやぎさん、自分と計4人で出発した。現地で甥のまさや君と合流することになっている。どうでもいいがこの雨は?まさにスコールで、ワイパーフル回転でも前が見づらいほど。現地でこれじゃ墓参りどころではない。
 途中買出しの時点で若干雨は弱まっていた。現地に着くとほぼ小降り。何とかいけそうだ。甥のまさや君とも合流。名護の役所に勤める彼はハーレー乗りでもあるそうだ。
 さて墓参りが始まったがこれは・・・。玉寄家の墓は沖縄で有名な亀甲墓ではないが、巨大な墓石の前の広場は6畳以上あり、同じく隣の墓ではそこで宴会となっている。墓参り?宴会?たくさんの食べ物とお酒。みやぎさんはもう始めている。(笑)
 墓前には例の黒線香。お供え、そしてお金。お金?!お札くらいの大きさの黄色いティッシュのような素材で、火をつけると良く燃える。「あっちでもお金がないと何も買えないからさー。」とまつひろさん。確かに・・・。ある意味納得は出来るが。あの世でも経済感覚が必要とは良いような悪いような。(笑)一通り終わった所で再び雨が強くなってきて早めのお開きとなった。なんとも面白い体験。玉寄家ご先祖様安らかに。
 みやぎさん、大学の大先輩でもあるという事が発覚。

 夕方、国際通りの一本裏手にある大東そばに行った。割とこじんまりとしたお店には2人のお兄さんが働いていた。おそらく伊佐さんの長男と次男さん。注文してから伊佐さんに電話をした。息子にかわれるかと言うので、いきなりカウンターの長男さんに話しかけた。
「幸二さんですか?お父さんです。」こういうイタズラは大好きだ。あっけに取られる幸二さんは言われるままに携帯電話を取った。
 カウンター越しに話をした。那覇に出て大東そばを開いているが、もともと弟さんが始めた?そうで、以前は潜水士の仕事をしていて、トカラにも言ったことがあると。大東ではちょうど幸二さんの部屋を使わせてもらっていた事もあり、その事を話すと懐かしがってくれた。何かサービスをしてくれそうだったので断る。伊佐さんの親心を忘れられないからだ。それでも幸二さん、「じゃあこれだけでも。」と、ビールを一杯差し出してくれた。

Day 37
 4/16 11:00海洋博公園着。ここも実は初めてではない。瀬底にテントを張っていた時、旅人にイルカのオキちゃんショーをすすめられて来た事があった。しかし当時はイルカよりアクアポリスの廃墟の方に興味があり、軽く散策しただけで立ち去った。現在にいたっては、敷地内の美ら海水族館の知名度はご存知の通り。この日もかなりの人出だ。
 のどかさんに頂いたチケットを使い入場。お目当てはもちろんあの巨大水槽。これを見て感動しない人間はいないだろう。1時間半近く見とれていた。ポイントは、近くで見る迫力もさることながら、高いところから見る事が出来る点ではないだろうか。奥行きのある少し離れた所から俯瞰で見る光景は、優雅に泳ぐ魚たちと現れては消える見物客を含めた観察。面白い。


美ら海水族館

 ゆっくりと時間をかけ、すべての水槽を見てまわった。妙においしいソフトクリーム。カメ、マナティ。なぜかプラネタリウム。そしてオキちゃんショー。テレビで全国ニュースにもなった人口尾びれを付けたイルカもいた。
 なかなか来れる所ではない。十分に堪能して帰路に着いたのは16:30。実に5時間以上居た事になる。
 帰りは名護のA&Wに寄った。自分にとって沖縄の象徴の一つであると同時に、本土に帰るとないという限定感が好きだ。もちろんルートビアも。

Day 38
 4/17 今日は久高島に向かう。みやぎさんに事前情報を貰う。ほんとにこの人沖縄を知りつくしている。
 本島南部を横切り、島の東海岸へ。峠から海辺に出る途中に大胆なループが連続するニライカナイ橋があった。高いところからみる南の島の海は、サンゴ礁のエメラルドグリーンが透け、まるで別世界。あまり景色に見とれているとハンドル操作を誤り、ほんとにニライカナイへ行ってしまいそうだ。
 船が出る安座間港に到着。高速船とフェリーがあるが、この日は整備の関係かフェリーのみだった。バイクを持っていくことも出来るが、神聖な島という事と、歩いてそこそこ回れる点から人だけで行くことにした。
 出港したフェリーのあまりの速さに驚く。「これでフェリー?」それこそ高速船並み。後ろの海面を盛り上げながら疾走。あっという間に島に到着した。


フェリーくだか

 久高島は本島知念から5キロほど沖合いに浮かぶ小さな島で、琉球の始祖「アマミキヨ」が降り立ったとされる神聖な島。7年前、今は世界遺産の斎場御嶽のあの割れ目からのぞんだ時以来、いつか訪れたいと思っていた。しかし神聖な…という点が先行して一見さん立ち入り禁止と錯覚し、普通に渡れるの知ったのは後になってからだった。そうして降り立った港は、他の島と変わらないのどかな時間が流れていた。


久高小学校

 さて周囲4キロ、貸し自転車という手もあるがここは気合で徒歩ダー。島の中心部を抜け、最初に交流館にはいる。ここで写真や展示物を見て、島内マップを入手。職員の人に男子禁制のクボー御嶽について聞いてみた。
「写真もいけないんですよね?」
「あれだったら撮ってみれば?なんか写るかもよ。。。」
ナイスな脅し。こういう返しは嫌いではない。(笑)
 島の真ん中を突っ切る中道を歩いていく。ほどなくクボー御嶽の分岐へ。さらに奥へ進むと男子禁制の看板が立っていた。ここから先はやめておこう。


クボー御嶽前の看板

 中道まで戻り、ロマンスロードといわれる島の北西海岸へ出た。なるほど、ロマンス・・・とネーミングされると、なんとなく一人で歩いているのが寂しくなる。(笑)
 貯水池を経由して再び中道に合流。ここから島の最北端まで一本道の未舗装路が続く。行き着いた先がまさにアマミキヨが降り立ったとされるカベール岬だった。神聖かどうかをさておき、沖縄の小さな小島の最北端、キレイでない訳がない。身近な古事記や日本書紀とは違ったいにしえの神々に思いをはせる。


おいしそうなアダン


カベール岬への道

 折り返し、今度は東海岸を南下していく。今度は左側を林で覆われているが、所々ある小道を抜けると、すぐに浜に出る。うぱーま浜やしまーし浜では、ここで一日ボーっとしていたい衝動にかられる。
 さらに歩いていると道端に一台の軽が止まっていた。何気なく見えた後部座席に見たような包装紙が。なんともみじ饅頭ではないか!そばには島の人らしきおばぁが2人の観光客にガイドしている。思わず話しかけた。
「広島からですか?」
「はい。」(笑)
 まさか遠く離れた南の神々の島で、もみじ饅頭と出会うとは。その後ニヤニヤしながら歩いているさまは、はたから見ると不気味だっただろう。といっても誰ともすれ違うことはないのだが…。
 集落に戻り、御嶽を全部回ってみた。面白い集落だった。細い路地が曲がりくねって交差し、まるで迷路のよう。あちこち迷いながら手を合わせる。道端の花といい、もみじ饅頭といい、歩きは正しい選択だった。バイク、いや自転車ですら見逃していただろう。4時間程度という短い滞在時間の中で、それ以上の何かを見せてもらったような気がした。

 安座間港に戻り、再びバイクで走り出した。南下し、奥武島を一周して橋のたもとにあるモズクそばやに寄った。みやぎさんお勧めの店だ。客は自分以外に4人。スキューバライセンス取得のグループらしく、インストラクターらしき人物が生徒らしき3人と反省会のようなものを開いていた。
 店を出て古城めぐりを開始。最初に玉城(たまぐすく)城址へ。入り口は、かつて訪れた知念城のように誰もおらず、ひっそりとしていた。かなり高いところにあり、登っていくとサンゴ岩のアーチ。振り返ると目の前にあるゴルフ場を見下ろす感じとなる。景色はいいが、ゴルフ場ではいささかさえない。ここを含め城址や他の小さな御嶽にも、祈りの形跡が常にあり、信仰の深さがうかがわれる。
 次に糸数城。ここも誰もいない。敷地は玉城より広く。だだっ広い更地にはかつての栄華の面影はない。「荒城の月」やら「盛者必衰の理」やら、なにかごちゃ混ぜに浮かんでくる。


糸数城址

 突然、F15の2機編隊が、手が届くようなすぐ上空を爆音と共に飛んでいった。これが2007年の糸数城なのだろう。
 もう一つ行きたい城があった。アマミキヨが住んだというミントン城。みやぎさんによると普通の家の敷地内にあり、許可を得て入れてもらったらしい。日も暮れてきたし、これはまたいつかのお楽しみということで取っておこう。
 帰りの道すがら、改めて「わ」ナンバーが多いことに感心する。昔、車の持込を考えた事もあった。鹿児島-沖縄間、軽で往復12万円。即却下。レンタカーは当然の選択だろう。沖縄本島は意外とデカイ上に交通機関が発達していない。
 夜は丸安食堂でもやしチャンプルーだった。。。

Day 39
 4/18 朝から大雨の為洗濯へ。おそらくこれが最後の洗濯になるかもしれない。いよいよ、一つ一つの行動が旅の終わりを感じさせ寂しい。
 雨が上がり、歩いておもろまちまで出た。サンキューというディスカウントショップで2ストオイル購入。これも帰り支度の一つ。。。
 帰りのゆいレールでは、旭川からやってきた同宿のもりたかさんが見かけたという。声掛けてよ。(笑)このもりたかさん、遅れてくる奥さんとの合流まで一人で数日間、やたらと「やる事がない。」を連発する。「暇つぶし」という言葉があるが無縁だ。世の中の暇な人、その時間を全部おれにくれ。やりたい事がまだたくさんある。
 先ほど買ったオイルを補充した。わずかに残ったが、ほぼ全部。残りは邪魔になるのでまつひろさんに処分してくれるよう頼んだ。照美荘の玄関がオイルくさい。(笑)

 夜はあゆさんとのどかさんと食事できることになっていた。沖縄料理か、なぜか名古屋料理かという選択肢に、名古屋を選び盛り上がった。それにしても2人、よく写真を撮る。
 帰りはあゆさんの旦那さんに送ってもらった。彼とは7年前面識があるが、その後に生まれた長男ゆっきーとは初対面。彼女のブログでは写真を見ていたが、生ゆっきーが見れて良かった。

Day 40
 4/19 照美荘を離れる朝。しーみーや色々な情報、そしてみやぎさんも。お世話になりました。そしてあばぁ。またいつか来る時まで、いやずっと!元気で。

 旧日本軍海軍壕を探した。珍しく適当に走っていたのでなかなか見つからない。ちょうど交番を発見し、何を思ったか入ってみた。道を聞くのに交番に入ったのは初めてだ。
 中には駐在はおらず、ポツンと電話が一つ。用件があればこれを使えという事らしい。場所はあっさりとわかった。ふーん…。
 海軍壕。言わずと知れた戦争史跡の一つ。中には沖縄玉砕の際、自決した軍人の手榴弾の痕なども残るが、恐ろしい数の民間人を死に追いやった軍人の行動は歴史が示しているとおり。どこの立場で考えるかで捉え方が違ってくる。ニュースで報道される教科書問題もひとごとではなく、もっと勉強が必要だと感じた。
 名護へ。R58ではなく、R330と329を使い北上した。基地とリゾートのR58とはまた違った景色に選択の間違いはなかった。名護でラストエンダー。再びジョッキでルートビアを飲めるのはいつの日か。

 本部で明日のフェリーの手配をして今帰仁城(なきじんぐすく)へ向かった。世界遺産。たくさんの人で賑わっている。それにふさわしい大きな城だが、どちらかというと玉城や糸数のように、ひっそりとたたずむ城の方が好きだ。
 橋でつながっている屋我地島と古宇利島へ。すでに強引な島コレクションの感は否めず、新たな感動を得られなかった。旅の終わりは必然となりつつある。。。
 日も暮れ、本部の海岸通りにある東屋で休憩していた。さてどうしようか…。フェリーターミナルは夜間閉鎖される。今からキャンプ場を探すというのも辛いし、空き地を探してゲリラキャンプ。いやテント自体張るのがめんどくさい。良い考えが浮かばずボーっとしていると、近くでイカを釣っていたおじさんを世間話になった。
 おじさんは北関東で橋梁工事に携わり、そこで稼いだ金で子供を大学に行かせ、今は悠々自適の生活を送っている。橋梁工事というと何年も飯場生活し、危険な仕事というイメージが強い。、やはりおじさんも何度か落下事故にあい、死んでいてもおかしくなかったと笑いながら話す。昨日釣ったイカのフライをいただきながらけっこうな時間話した。さて、どうしよう。。。

 とりあえず本部港に戻った。付近を徘徊していると、旧ターミナルを発見。そこでしのぐ事にしたのだがここが寒い。沖縄といえどまだ4月。とてもじゃないが外で寝るのは無理だ。おまけにこの旧ターミナル、取り壊しが近いのか窓枠、扉枠一切なし。吹きさらしで海風が入ってくる。しばらく粘っていたが新たな寝場所を求めて真っ暗な港を徘徊する。(笑)
 すると船積み用コンテナを発見。中を覗いてみると、どうやら倉庫代わりに使われているものらしい。中には椅子もありさながらオアシスのようだった。(といっても風を避けれるだけで寒いことは寒い。)


一晩過ごしたコンテナ

Day 41
 4/20 寝たのか寝てないのかわからない状態で長い夜が明けた。まあこういう夜も面白い。丸一日かかるフェリーでいくらでも寝れるのも計算済みだった。
 反対の埠頭では伊江島行きのフェリーが出港を持っていた。伊江島は行ってみたい島のひとつだが今回は見送ろう。いや…、行ってみたい気もする。
 帰りのマリックスラインが入港。ついに沖縄を離れる。一ヶ月以上旅してきたトカラ、大東島。いつの日かまた訪れることを信じて、心の中で手を振った。お世話になった人たちへの感謝も込めて。

 天気は快晴。はるか遠くに残波岬灯台らしきものが見える。ふと右を見ると波しぶきを上げて高速船が横切っていく。左の海上には水納(みんな)島。「失敗した!」やはり伊江島と水納島は行っておけばよかった。船から飛び込んだら泳いでいけそうな距離。しかしそれももう手遅れ。次の寄港地ははるか奄美は名瀬港だ。


新たな目標伊江島

 気を取り直してお風呂に入った。このフェリーのお風呂。すごく楽しい。行きのAラインではシャワーしかやってなくがっかりだった。なぜ楽しいかというと、揺れる船だけに湯船がまるで波のプールがごとく揺れるのだ。普通に浸かっているだけでまるで波間に漂っているよう。調子に乗って長時間入っていると変に船酔いしそうですらある。(笑)
 窓はあるが残念ながら開かない。外側は潮でベトベトに汚れていて展望が良くないのが惜しい。これで窓が開けば最高なのだが。という事でおやすみなさい。まともに寝てないので。。。

Day 42
 4/21 目が覚めると、船はちょうど屋久島と口之永良部の間を航行していた。そして徐々に硫黄島と竹島。海上から見る硫黄島は、相変わらず圧倒的な存在感を誇っていた。さらに開聞岳。均整の取れた三角錐は何度見ても美しい。
 鹿児島も近くなってきた頃、近くのおじさんにキャンプ場のことを聞かれた。こちらも今日テントを張る国分海岸を教えた。北海道は滝川から来たというおじさん、佐々木さんといった。そして驚くことに放浪チャリダーだった。
 60前の佐々木さんは退職と同時に自転車で自宅を出、下りは船を乗り継ぎ、そして沖縄から自転車で北上しているという。下段君もそれは同じだが、やはり年齢が違う。その上、佐々木さんはこういう放浪旅が初めて。言葉の端々にその行程のきつさがにじみ出ていた。今晩国分までたどり着けるだろうか?

 こちらはというと、本土帰還の余韻もそこそこにえびの高原に向かっていた。連絡を取っていたむっちゃんからハイキングの誘いを受けていたからだ。
 むっちゃんは去年硫黄島で知り合った三人娘の一人。「一足先に池めぐりをしているのでおにぎり用意して待っていますよ。」との事。賽の河原地獄の近くにバイクを止めた。そこで声を掛けてくる人。新潟から仕事の関係で宮崎に来ているという。今日は休みだそうでレンタカーを借りて遊びに来たが、地元新潟ではバハ(オフロードバイク)に乗っているらしい。そういえば、硫黄島の帰りにも、佐渡出身という女の子に出会った事があった。次回も新潟の誰かと出会うことになるだろうか。
 さて、御池方面に向かって歩き出した。予定では向こうからむっちゃんとぶち当たるはず。誰もすれ違わず、少し不安になりながら歩くことしばらく、「きたー!!!」面白い再会の仕方。職場の同僚のさめしまさんと3人でハイキングとなった。おにぎりもごちそうになり幸せ!
 次に霧島ハイツの温泉に立ち寄った。どこかで見た風景に聞いてみると、以前泊まった事のあるペンション「異人館」の近くだった。異人館はおすすめ!おいしいフランス料理を出すオーベルジュ風のペンションで、目玉は趣の違った三種類の貸切露天風呂。一緒に入れるので家族やカップルには最適だろう。霧島ハイツの泉質も良かった。スゴイ量の硫黄の湯の華が浮き、硫黄臭が強い。大好きな泉質だ。
 むっちゃんたちとは、最後に道の駅でお茶をして別れた。旅先で知り合いを尋ねる事は本当に楽しい。

 国分キャンプ場につくと、佐々木さんが無事到着していた。下段君は今、阿久根の辺りを走っているらしい。

Day 43
 4/22 午前中、佐々木さんとたっぷり話した。キャンプ場でのこの朝のフワフワした時間が好きだという。同感だ。今現在は所有していないが、ずっとバイクに乗り続けているとも。ライダーの大先輩だった。
 昼前よりかずよ先生のお迎え。ゆりかさんを拾ってリクエストしたトンカツへ。先生とゆりかさんは、例の鹿児島三人娘。二人とも学校の先生だ。美山で窯元や、剥製の工房、木製品の工房などを見てまわった。ゆりかさんは勤務地に帰らないといけないため、彼女宅でお別れ。その際焼酎の差し入れ。感謝します。また会う時まで元気で。
 先生と二人で城山に上がった。山頂には有名な城山ホテルがあり、ちょうど結婚式をやっていた。かつての仕事を思い出し懐かしい気分に浸る。
 さらに去年千野さんたちが行ってすごいと言っていた蒲生の大クスへ。本当に凄い。単なる植物であるにもかかわらず、何かが宿っていると言われたら否定できない。どうでもいいが土砂降り。
 今夜は先生宅で鍋パーチーだ。二人でスーパーでのお買い物。なんか不思議な気分。そして先生の部屋に戻って、先生が下ごしらえしている間、居間の掃除機かけ。さらに不思議な気分に(笑) 先生の同僚と、むっちゃんも合流して盛り上がった。こんなに楽しくていいんだろうか?
 むっちゃんにテントまで送ってもらって深夜帰宅。佐々木さんはもう寝ているようだ。雨。

Day 44
 4/23 朝も雨。佐々木さん、昨日から晴れたら出ると言っているが、今日も迷っている。
「もう一日いいじゃないですか?」
「だって山本さん、帰ってこないんだもん…。寂しいですよ。」(爆笑)
ごめんなさい。(笑)
 佐々木さんとは馬が合った。お互いが知らない世界の話を持っているので面白い。話しているうちに天気も回復してきて、沖縄で最後と思っていた洗濯をする。キャンプ場での洗濯方法について佐々木さん、感心すると同時に爆笑だった。夜も一杯やりながら話す。どこにも行かないが、また違った意味で有意義な、キャンプ場での一日だった。
 夕方、日当山温泉に行った。ネーミングがインパクトのある西郷どんの温泉は休み。近くに何件もあるので事欠かない。入った所はすごく鄙びていい感じ。日当山温泉。また来る必要あり。

Day 45
 4/24 曇り。都城方面に向かうという佐々木さんを見送る。はるか北海道まで気を付けて。事故のないように。
 こちらも出発準備に入った。右のリヤサイドフェンダー。思いサイドバッグがサンレンサーと干渉して熔けている。辺りを見回した。良いもの発見。松ぼっくりを拾って紐でつりスペーサーとした。(帰宅まで無事機能。)
 9:00スタート。今日はもう一泊、下段君と再会合流予定だ。オフ車が本土帰還後初めてサインを送ってきた。いつも面白いと思うことがある。
 バイクにはいくつかのカテゴリーがある。ハーレーなどのアメリカン、カウルのついているツアラーやスーパースポーツ(いかにもスピードが出そうなヤツ)、ネイキッド(カウルがついてないヤツ)、オフ車(オフロードバイク)、4ストミニなど。
 これらのカテゴリーを超越した北海道は例外として、通常、同じカテゴリーに属するバイク同士の仲間意識が強い。つまりアメリカンに乗るライダーがツアラーにサインを送るというケースは少ない。ツアラーとオフ車と4ストミニに乗る立場として、同じ人間なのに相手の見方が違うのが面白いところだ。この時はオフ車RMXに乗っていたからで、ツアラーZZ-Rだったらおそらくサインはしてこなかっただろう。実際、自分自身も乗り方からスタイルまで無意識に使い分けている。コンビニ「ポプラ」が現れた。確実に家に近づいている。
 昨年も来たことがある有名ラーメン店「黒亭」に立ち寄る。この時点ですでに下段君を追い越していた。食べ終わって走り出す準備をしていると雨。予想より早い降り出しだ。そこへナンバーを見たおばちゃんが話しかけてきた。またなにやら熊本へ足止めしようとする術でもかけてくるのかと思いきや、デコポン2個をくれた。柑橘系はそれほどでもないので1個でいいというのに。(笑)

 先行して玉名へ向かった。下段君曰く、テントの張れそうな公園があると聞き、行ってみるとけっこう大規模な桃田運動公園でとても張れそうな雰囲気ではない。この雨だ。出来れば屋根のあるところがいい。地図を開く。永年の勘が、瞬時に近くのポイントを探し出した。菊池川にかかる高瀬大橋の下。
 橋の下には先客がいた。北九州から週2回、親戚の見舞いのために来ているというおじさんとその息子。その話を聞いただけでも怪しいのに、犬を11匹も連れている。河川敷ではこの雨の中、ちびっ子ラグビーチームが元気に練習をしている。
 暗くなり、かなり待った末に下段君が到着した。夜はジャスコで買出しをして最後の晩餐だ。貰ったデコポンを一個分けてあげた。

Day 46
 4/25 大した川幅の川ではないのに、対岸が見えないほどの霧。幻想的ですらある。せっかく玉名温泉に来ているので金峯閣という温泉に立ち寄った。。そしてラーメン。道行く人に聞いて人気が高かった博竜へ。狭い店内にはテレビでレポートに来た芸能人のサインも多く、なるほどうまい。道路拡幅で近々移転だそう。
 今度は下段君の見送りだ。旅先での見送りはいつであろうと誰であろうと胸が締め付けられる。彼の後ろ姿を見ながら、無事宗谷岬までたどり着けることを祈る。

 ついに最終行程。無事帰るが旅。R3久留米、鳥栖、このあたりからは走りなれた光景だ。飯塚、直方。小倉の信号待ちで、小気味良いエンジン音を響かせたハーレーが横に並んだ。横を向くと、渋い髭を蓄えたかっこいいオヤジ。「広島から?」「はい。」すぐに信号が変わり、そのエンジン音と共にハーレーは走り去っていった。そうだ。トカラ、沖縄、大東と、広島ナンバーははるか遠くの珍しい存在だった。ここでは単なる隣の隣の県に過ぎない。オヤジもまさか1ヵ月半旅した沖縄からの帰りとは想像もつくまい。広島ナンバーが徐々に周りに同化していく。。。
 山口のコンビニの駐車場で、あのデコポンを食べた。「うまい!」おばちゃんごめん。こんなにおいしかったとは。下段君にあげるんじゃなかった。(笑)
 徳山から広島まで、大森運送のトラックに付いた。2車線になっても抜かずに。程よい疲れと、旅を振り返るのにちょうど良かった。そして…、無事帰宅することで旅は完結した。

後記
 帰宅後、連絡の付かなくなっていた佐々木さん。やはり携帯を壊したらしく、6月に帰宅したと葉書が来た。本州ではテントをあきらめ宿泊施設利用したということだが、やはり自転車は凄い。
 下段君は、途中でも書いてある通り、広島で家に寄り、各地の旨い物を食べつくすグルメな旅を続け、9月に無事宗谷岬に到達した。現在、自宅のある大阪から一転、東京で就職したらしい。
 給油データを見ると、この時飛びぬけていた大東のリッター価格。いまや普通の値段というのに驚く。という事は今大東ではいくらするのだろう?考えただけでも恐ろしい。

 幸せな旅だった。今まで幸せな人生を送れてきた。しかしこれからもそうであるとは限らない。ガソリン高騰、温暖化、今の社会情勢を見ていると、近い将来、自分で車やバイクを運転してどこかへ行くという行為が出来なくなる可能性すらある。厳しい現実と旅。どこでその折り合いを付けていくかが今後の目標だ。生涯旅人でありたい。そしてもう一度お世話になった方々へ。ありがとうございました。2007.11.14

2007年3月11日〜4月25日 46日間
14回船に乗り、15の島を訪ねる。総走行距離 2,338キロ

給油データ
  日付 時間 単価 給油 距離 金額 /L 給油地
1 3/12 0:38 122 5.20 86.5 634 16.6 下松
2 3/12 2:26 119 4.21 82.6 501 19.6 埴生
3 3/12 4:00 125 2.72 52.2 340 19.2 黒崎
4 3/12 6:09 119 4.13 80.0 491 19.4 久留米
5 3/12 9:12 123 4.13 82.4 508 20.0 宇土
6 3/12 12:03 119 4.45 88.3 555 19.8 出水
7 3/12 20:56 122 6.69 119.6 857 17.9 鹿児島
8 3/20     約7.00        中之島
9 3/30 9:34 144 6.91    995   名瀬
10 4/2 10:46 125 9.56    1,255   天久
11 4/6 17:06 147 6.03    930   南大東
12 4/10 14:02 145 8.50    1,294   北大東
13 4/16 9:26 120 4.77    586   宜野湾
14 4/16 18:05 125 8.61    1,130   大山
15 4/19 11:54 119 6.30    788   鏡原
16 4/19 17:24 125 8.23    1,079   名護
17 4/21 10:32   4.66    592   隼人
18 4/24 9:10 127 7.62    968   国分
19 4/24 11:02 130 4.21    547   人吉
20 4/24 13:53 127 5.81    737   浄行寺
21 4/25 14:25 125 8.88    1,110   穂波
22 4/25 17:25 122 6.69    816   山口南
23 4/25 20:39 124 6.90   856    観音
  合計     142.21   17,569    

航路データ
  出発港 到着港 2等 車輌 合計
1 鹿児島 口之島 6,010 3,500 9,510
2 口之島 中之島 1,420 1,000 2,420
3 中之島 悪石島 3,060 1,000 4,060
4 悪石島 諏訪之瀬島 1,420 1,000 2,420
5 諏訪之瀬島 宝島 3,060 1,000 4,060
6 宝島 子宝島 1,420 0 1,420
7 子宝島 名瀬 4,610 2,000 6,610
8 名瀬 本部 7,700 4,130 11,830
9 南大東 亀池港 4,620 7,219 11,839
10 南大東 西港 北大東 江崎港 690 2,821 3,511
11 北大東 西港 4,620 7,344 11,964
12 安座真 久高島 620 0 620
13 久高島 安座真 620 0 620
14 本部 鹿児島 13,300 6,930 20,230
    合計 53,170 37,944 91,114

南大東村:http://www.vill.minamidaito.okinawa.jp/
南大東村商工会:http://www.nandai-s.com/
北大東村:http://vill.kitadaito.okinawa.jp/

special thanks to ...
那覇:照美荘・おばぁ、まつひろさん、みやぎさん(神奈川)
あゆさんファミリー、のどかさん 大東そば・こうじさん、じょうじさん
南大東島:島まるごと館 「活け麺」大東そば・伊佐さんご家族、藤城さん、山崎さん
北大東島:ハマユウ荘うふあがり島
鹿児島:かずよさん、むっちゃん、ゆりかさん、さめしまさん
旅人:しみずさん(名古屋)、下段君(兵庫)、佐々木さん(北海道)
定期船だいとう 出会ったすべての人たち。