雑録


都市はセミラティスではない

 定本柄谷行人集(岩波書店、2004)の第二巻『隠喩としての建築』を遅れ馳せに手にした。この論考は、1983年に講談社から出た同名の本に収められていた同名の論考とは別物だが、「自然都市」の節などは、かつての文章がほぼそのまま使われている。で、昔は読み流してしまっていたそのクリストファー・アレグザンダーの都市論についての解説をあらためてちゃんと読んでみると、これがどうも腑に落ちないのだった。また、市川浩の『<中間者>の哲学』(岩波書店、1990)に問題のアレグザンダーの論文「都市はツリーではない」のもう少し精しい解説があるのをみつけて読んでみたのだが、これにも同様に腑に落ちないところがある。あるいは原論文に何か不備でもあるのだろうか。ともあれ、市川の解説をもとに暫し考えてみたところ、もっともらしい筋が見えてきたので、以下に、そのあたりを廻って、『隠喩としての建築』の「自然都市」の節にやはり躓いたひとの手助けになることを期しつつ、原論文にあたるのはとりあえずサボったまま、一席ぶってみたい。

 まず解せないのはセミラティスの定義だ。柄谷によればそれは次の通り。
集合の集まりは、つぎの場合、そしてその場合にのみ、セミ・ラティスを形成する。すなわち二つのオーヴァラップする集合か〔この「か」は原文のまま〕全体に属し、また両者に共通の諸要素もまた全体に属しているときである。
ところが、市川が挙げているのは、これとは違って、次の通り。
セットの集まりは、つぎの場合、そしてその場合にのみ<セミ・ラティス>を形成する。すなわち二つの重なり合うセットがこの集まりに属するとき、両者に共通なエレメントのセットもこの集まりに属している。
しかし、どちらの定義も通常の数学における半束(semi-lattice)を規定するものではない。
 半束は、代数的に規定することもできるが、ここでは、いわゆる順序集合に即して、次のように定義しておこう。 このような半束は特に上半束(upper semi-lattice)と呼ばれる。一方、上の文で「上限」を「下限」に置き換えれば下半束(lower semi-lattice)の定義が得られる。上半束であり下半束でもある順序集合は(lattice)と呼ばれる。また、ツリーは、グラフ理論では、サイクルをもたない連結なグラフとして定義されるが、ここでは、有限な順序集合(つまり有限箇の要素から成る順序集合)に即して、次のように定義しておこう。 この意味でのツリーは上半束の一種だ。(≦ をツリー M に伴う順序として、abM の要素とすれば、ax かつ bx となるような x 全体の集合は少なくとも M の最大要素を要素としてもつ有限な線形順序集合だから最小要素をもつが、これはその最小要素が {a, b } の上限であることを意味する。したがって、M は上半束だ。)有限な上半束は最大要素をもち、重畳する有限箇のツリーへと分解され得る。また、適当な有限箇のツリーを適宜組み合わせれば有限な上半束が得られる。
 アレグザンダーは、セミラティスを有限箇の有限集合間の包含関係 ⊆ の順序に関するものに限っているものと思われる。ここではそうしたセミラティスを特に「有限集合半束」と呼ぶことにして、あらためて有限集合上半束の定義を挙げておけば次の通り。 (この文で「有限集合上半束」を「有限集合下半束」に置き換え、「⊆」を「⊇」に置き換えれば、有限集合下半束の定義が得られる。)
 ところで、n を 2 以上の自然数として、Mn 箇の要素から成る集合とすれば、M の部分集合は全部で 2n 箇あり、それらの全体は包含関係の順序に関して束を成すから、M をもとにして得られる有限集合上半束は最大で 2n 箇の集合から成ることになる。一方、M から得られるツリーはたかだか 2n -1 箇の集合から成るに過ぎない。市川は次のように書いている。
・ ・ ・ ツリー型の思考は思考法としては、きわめてすっきりしていて美しく、かつ複雑なものをユニットに分割する単純で明晰な方法を提供してくれる。
 そこで自然の構造はつねにセミ・ラティスであるにもかかわらず、われわれは、錯綜したセミ・ラティス構造をツリーとして見ることができるときには、いつもツリーに還元する傾向がある。というのもツリーは心に思い浮べやすく、扱いやすいが、セミ・ラティスを思い浮べることはむずかしいからである。・ ・ ・
 都市のような構造は、その内部でセットが重なり合うことを要求する。ところが都市計画家はそのような構造をさけ、あくまで都市をツリー構造として考えようとする。アレグザンダーはその理由を二つ上げる。第一は、われわれの心の機能は、本来混沌とした状況のうちにあるあいまいさや重なり合いを減らすことにあり、あいまいさにたいして基本的に非寛容だからである。第二には、ツリーは一回の心のはたらきで視覚化することができるが、セミ・ラティスは一度の操作では、目に見える形にすることができないという理由による。
 それにしても自然都市がセミラティス構造をもつとはいったいどのようにして示し得ることなのか? それを見るためには、アレグザンダーの用いている術語をチェックしておく必要がある。市川によれば、アレグザンダーは、「セット」、「エレメント」、「システム」、「ユニット」といった語を次のような意味で用いているという。
セットは、われわれがなんらかの理由で相互に帰属し合っていると考える要素[エレメント](都市のデザインに即していえば、人びと、芝生、自動車、レンガ、家、水道管、そのなかを流れる水の分子など)の集まりである。セットのもろもろのエレメントが共同で作用し、あるいはたがいにはたらきかけ合うことによって、相互に帰属し合うとき、エレメントから成るセットをアレグザンダーは、系[システム]と名づける。
 システムには変化する部分(人びと、売られる新聞、金、電気的信号、流れる水など)と変化しない固定した容器の部分(新聞スタンド、交通信号、道路、建物、電線や電話回線、水道管など)がある。この固定された部分を都市の構成単位[ユニット]という。ユニットとしてのまとまりは、そのエレメントをたがいに結びつける力と、ユニットを固定した変化しない部分として含む、より大きなリビング・システムがもつ動的なまとまりから生まれる。つまりエレメントは、なんらかの内的な結合力によってまとまりをもち、共同で作用して、セットを構成する。おのおののセットは、都市のユニットである物理的に固定した部分を含んでいるというわけだ。都市にある無数の固定した具体的なサブ・セットはシステムの容器であり、意味のある物的ユニットとみなすことができる。
(市川は、身体や自然言語、社会組織等を「リビング・システム」と呼んでいる。)これは柄谷の解説よりは精しいものの、システムやユニットといった概念は、やはり模糊として捉えがたい。結局、それはアレグザンダーの思考そのものに由るようで、自然都市はセミラティス構造をもつというテーゼは、ユニットというあいまいな概念を都合よく操ることによってひねりだされた疑いが濃い。
 ユニット概念について、市川の解説には次のようなくだりがある。
都市に関していえば、二つのユニットが重なり合う場合は、いつでも重なり合った領域がそれ自身認知できる実在であり、それゆえユニットでもある。
柄谷の方にもほとんど同じ文が見られるから、これはアレグザンダーの考えだとしていいだろう。そこで、これを認めて、ユニットは通常の数学的な意味での集合であり、ふたつのユニットの重なり合った領域とは、それらの共通部分集合のことだ、としてみよう。すると、或るひとつの都市のユニット全体の集合 U が特定できたとすれば、U に空集合を付け加えて得られる集合は、有限集合下半束となる。(重なり合うふたつのユニット UV の共通部分 UV は、包含関係の順序に関する {U, V } の下限であり、また、重なり合わないふたつのユニットから成る集合の下限は空集合だ。)市川は、こうした意味での有限集合下半束を、アレグザンダーの云うセミラティスだと解していたようだが、しかし、それではアレグザンダーの云う――そしてここでの意味における――ツリーと整合的でない。ところで、U は包含関係の順序に関して最大のユニットをもつだろうか? もしもてば、U は有限集合上半束であることになる。(M をその最大ユニットとして、UV をユニットとすれば、UX かつ VX となる X 全体の集合 B は少なくとも M を要素としてもつから空でない。そこで、B に属すユニット総ての共通部分 ∩B をとれば、∩B もまたユニットであり、U ⊆ ∩B かつ V ⊆ ∩B。これは U が有限集合上半束であることを意味する。)最大ユニットの第一の候補は件の都市の「固定された部分」全体だろう。市川の本に転載されている東京計画に関する図(図1)を見る限り、アレグザンダーはそうした全体もまたひとつのユニットだと考えていたように思われる。
 自然都市だけに話を限るのならば、市川のように、アレグザンダーの云うセミラティスは有限集合下半束であるとして済ませてもいいかも知れない。しかし、人工都市との関連においては、アレグザンダーの興味は、ツリーを組み合わせることによって錯綜した上半束が得られる、という点にこそあったのだろうから、彼が考えていたのは有限集合上半束だとする方がやはり整合的だろう。
 要点をまとめておこう。ユニットは集合であり、ふたつのユニットの共通部分もまたユニットである、ということを前提として、ひとつの都市のユニット全体の集合 U が特定できたとすれば、U に空集合を付け加えて得られる集合は有限集合下半束であり、また、U が包含関係の順序に関して最大のユニットをもてば、U は有限集合上半束である。(なお、U が有限集合上半束で、少なくとも一対の重なり合うが包含関係にはないユニットを含む場合、U はツリーではない。)アレグザンダーがどちらの有限集合半束を考えていたにしても、自然都市はセミラティス構造をもつというテーゼの内実は、形式的には、これ以上のことではあり得ない。
 ところで、アレグザンダーがひとつの都市の「固定された部分」全体 C をひとつのユニットだと考えていたとすれば、C は包含関係の順序に関して最大のユニットだから、件の都市のユニット全体の集合 U に空集合 Ø を付け加えて得られる集合 U + { Ø } は有限集合下半束でもあれば有限集合上半束でもあり、つまりは束であることになる。しかし、C をユニットと認めるのならば、ひとつのユニット UC に関する補集合 C - U もまたユニットであるとしてもいいように思われる。そうすると、別のユニット V について、C - UC - V の共通部分 (C - U )∩(C - V ) もまたユニットであり、さらには C - ((C - U )∩(C - V )) もユニットであることになるが、これは UV の合併集合 UV もまたユニットであることを意味する。ところが、UV は包含関係の順序に関する {U, V } の上限だから、この場合も U は有限集合上半束であり、したがって、U + { Ø } は束であり、しかも C に関する補集合をとる演算に関してブール束であることになる。つまり、アレグザンダーに倣って云えば、都市はブール代数の構造をもつ。ユニット概念を適当に操れば、こういうことも云えてしまう訳だ。
 そこで気になるのは、アレグザンダーはブラジリア計画や東京計画などの九つの都市計画が何れもツリー構造をもつことを明らかにしたというが、その際、個々のユニットはどのように特定されたのか、ということだ。先に触れた東京計画に関する図(図1)やこれも市川の本に転載されているブラジリア計画に関する図(図2)を見る限り、ユニットは幹線道路や交通機関と街区の配置に沿ってざっくりと切り分けられているようだ。しかし、何故そのようにグルーピングしなければならないのか? アレグザンダーが示したのは、それらの計画の大枠からはツリー構造を見てとることもできる、ということに過ぎないのではなかろうか。
 それはさておき、ふたたびユニット概念に話を戻して、仮にそのあいまいさには目を瞑ることにしよう。すると、アレグザンダーは複数のユニットの重なり合いの部分が、まさにその重なり合いの故に多義的であると考え、そこに自然都市の複雑微妙さの種を見ていたようだが、それならばユニット間の重なり合いを包含関係を介さずに直接扱ってもいいだろう、ということに想い到る。包含関係はユニット全体の集合を有限集合半束にまとめあげるのに欠かせないが、その目的を達するには、重なり合うふたつのユニットの共通部分はまたユニットであるとし、さらに、空集合を採り入れるなり、最大ユニットの存在を仮定するなりしなければならなかった。ところが、ユニット間の重なり合いを直接扱えば、それらは無しで済む。一方、重なり合いの関係は順序関係ではないものの、それをグラフ化して表わせば、有限集合半束の場合と同程度の複雑さをもった図が得られるはずだ。実際に都市の構造を分析するには、この方がきっと有用であり、その先にはネットワーク理論が望見されることだろう。

 最後に、本筋には関わらないが、気になった点をひとつ。アレグザンダーは友人関係にまでグルーピングを考えて上半束まがいの図を描いてみせているようだが、そうしたミスリーディングな振舞はえてしてエスカレートするものだ。市川は、アレグザンダーの言葉を二箇所にわたって引きつつ、次のように書いている。

 アレグザンダーは、論旨を明快にするために、単純化したモデルをもちいてセミ・ラティスを説明しているが、その真意は、複雑で、微妙な現実の構造の抽象的な特性をあきらかにしようとする点にあったことを想起すべきであろう。「セミ・ラティスは、ツリーと比較すれば、複雑な織物の構造であり、生けるもの――偉大な絵画や交響曲の構造である。」ツリー型に明確に分節化され、カテゴリー化されないものを避けるべきではない。重なり合いとか、あいまいさとか、多様な様相といった観念を含むセミ・ラティスは、厳格なツリーより秩序が少ないわけはでなく、むしろより以上に秩序立っている。
 ヴァレリーが指摘するように、人間が作るものにおいては、全体は部分より単純である。これは部分(自然物)は、セミ・ラティス的構造をもつのにたいして、全体は、ツリー状の構造をあたえられるからである。・ ・ ・ セミ・ラティスの多義性は、「構造についての、より厚みのある、より強靭な、一層微妙で複雑な見方を反映している」のである。
こうなればもはや「セミ・ラティス」は魔法の言葉だ。そして、実際、この語はドゥルーズ&ガタリの「リゾーム」と一緒くたにされ、濫用されて来た。(ただし、市川は、セミラティスはドゥルーズ&ガタリの云うラディセルに当たるだろうという柄谷の見立てに随って、それらの相違を律儀に論じている。)ありがちなことだが、紛糾の種はやはり提唱者自身が蒔いていた訳だ。


2005年秋(2007年3月改訂)  大熊康彦


追記

 その後、「A CITY IS NOT A TREE」のHTML版(www.patternlanguage.com/archives/alexander1.htm, www.patternlanguage.com/archives/alexander2.htm, www.rudi.net/pages/8755)が在るのを知って、読んでみた。それで初めて見えて来た点も幾つか在るので、以下に、そのあたりを中心に、原論文の展開に沿って、あらためて批判を試みたい。

 アレグザンダーは、まず、基本的タームを説明することからはじめている。大事なところだから、まるごと訳出しておこう。

 私は、長い長いあいだにわたって多かれ少なかれ自生的に〔spontaneously〕出来てきたような都市を自然都市と呼びたい。そして、デザイナーやプランナーによって意図的に〔deliberately〕造られたような都市および都市の一部を人工都市と呼ぶ。シエナやリヴァプール、京都、マンハッタンは自然都市の実例であり、レヴィットタウンやチャンディーガル、ブリティッシュ・ニュー・タウンズは人工都市の実例だ。
 人工都市が何か本質的成分を欠いていることは、今日いよいよ広汎に認められている。蒼然とした古来の都市と較べた場合、人工的に都市を造るという我々の近代的な企ては、ヒューマンな観点からすれば、全然うまくいっていない。
 ツリーもセミラティスも、多くの小さなシステムの大規模な集まりが如何にひとつの大規模で複雑なシステムを形成するに到るかを考える方法だ。もっと一般的には、それらはどちらも諸集合が成す構造の名称だ。
 そうした構造を規定するために、まず、集合の概念を規定しよう。集合は、我々が何らかの理由からひとまとまりになっている〔belonging together〕と考えるような諸要素の集まりだ。我々は、デザイナーとして、物理的な、活動する都市〔the physical living city〕およびその物理的バックボーンに関心がある訳だから、人々や草の葉、自動車、分子〔molecules〕、家屋、庭、水道管、その中の水分子等々といった物質的要素の集まりに当然考えを限るべきだ。
 ひとつの集合の諸要素がひとまとまりになっているのが、それらが何らかの仕方で協同するなり一緒になって作動するなりする〔co-operate or work together〕からであるとき、我々は諸要素から成るその集合をシステムと呼ぶ。
 例えば、バークリーのハーストとユークリッドの角にドラッグストアが在って、その傍に交通信号機が在る。ドラッグストアの入口にはニューズラックが在り、その日その日の新聞がディスプレーされている。信号が赤のとき、通りを渡るために待っている人々は、信号灯のもとにただ佇み、他にすることもないので、そこから見えるニューズラックにディスプレーされている新聞を眺める。見出しを読むだけのひともいれば、待っているあいだに実際に新聞を買うひともいる。
 この効果はニューズラックと信号機をインタラクティヴにする。ニューズラックとその上の新聞、人々のポケットから投入口へと移動する硬貨、赤信号で立ち止まり新聞を読む人々、信号機、信号灯を切り替える電気的インパルス、歩道はひとつのシステムを形成する――それらの総てが一緒になって作動する。
 デザイナーの観点から特に興味があるのは、このシステムの物理的に不変の部分だ。そうして関連づけられたニューズラックと信号機とそれらのあいだの歩道は、当のシステムの固定された部分を形成している。それは、当のシステムの変化する部分――人々や新聞、お金、電気的インパルス――がそこにおいて一緒になって作動する不変の容器〔receptacle〕だ。私はこの固定された部分を当の都市のユニットとして規定する。それは、ユニットとしての一貫性〔coherence〕を、それ自体の諸要素を統べる力およびそれを固定された不変の部分として包含するもっと大きなシステムのダイナミックな一貫性から引き出している。
システムおよびユニットという概念について、ここで実質的に云われているのは、システムとは、その諸要素がひとまとまりになっているのが、それらが何らかの仕方で協同するなり一緒になって作動するなりするからであるような集合のことだということ、そして、ユニットとはシステムの物理的に不変な部分のことである(故にユニット自体もまた集合であることになる)ということに尽きる。これでは、市川の解説で翻訳のまずさによって曇らされていた部分がはっきりしただけで、全容はやはり模糊としたままだ。アレグザンダーは、少し後で、「都市に関する限り ・ ・ ・ ふたつのユニットがオーヴァラップする場合、そのオーヴァラップの範囲自体もまた認識可能な実在物〔a recognizable entity〕であり、したがってユニットである ・ ・ ・。先のドラッグストアの例では、ひとつのユニットはニューズラックと歩道と信号機から成り、もうひとつのユニットは入口とニューズラック込みのドラッグストアそのものから成る。このふたつのユニットはニューズラックでオーヴァラップする。明らかに、このオーヴァラップの範囲は、それ自体、認識可能なユニットである」と述べているが、入口とニューズラック込みのドラッグストアそのものを容器として作動しているのはいったいどのようなシステムなのか? あるいは、それは人々に認識されることでユニットたり得ているということなのだろうか?
 ところで、アレグザンダーは上の説明に続けて次のように書いている。
 システムの容器であり、故に意味のある〔significant〕物理的ユニットと考えられる、都市の数多の固定された具体的な部分集合のうちから、我々は、普通、いくらかを特別の考察のために選び出す。実際、ひとがひとつの都市についてどんな像を懐こうと、それは彼がユニットと看做す諸部分集合によって正確に規定される、と私は云いたい。
だが、例えば東京という都市を考えるとき、私は何をユニットと看做せばいいのだろうか? もちろん、そんなことになどかまわず、まずは俯瞰的に、ランドマークとなる建造物や街区や幹線道路や鉄道線路をイメージすることはできるが、それらはユニットなのだろうか?
 おそらくアレグザンダーはその通りだと云うことだろう。後で八つの都市構想を採りあげて、それらが何れもツリーだと云うとき、彼がしているのは、それらの俯瞰的なイメージを提示し、そこにはオーヴァラップが無い、と断定することでしかないのだから。
 その点を論じるために、次に、アレグザンダーはセミラティスとツリーの説明に入る。「・ ・ ・ そうした像を形成するに到る諸部分集合の集まりは、単なるアモルファスな集まりではない。ひとたび諸部分集合が選び出されれば、それらのあいだには或る種の関連が確立されるから、ただそれだけで、当の集まりは自ずとひとつの明確な構造をもつ」と彼は云い、簡単な例として、六つの要素からなる集合 { 1, 2, 3, 4, 5, 6 } とその部分集合 { 3, 4 }、{ 4, 5 }、{ 1, 2, 3 }、{ 2, 3, 4 }、{ 3, 4, 5 }、{ 3, 4, 5, 6 }、{ 1, 2, 3, 4, 5 } を採りあげている。一般に、諸集合の集まりにおいては、そのどんなふたつの集合のあいだにも、一方が他方に包含されるか、包含関係にはないが少なくともひとつの要素を共有しているか、互いに素である――つまり、ひとつの要素も共有していない――か、何れかひとつの関係が成り立つ。そこで、彼は「・ ・ ・ 諸部分集合の選択は、それだけで、それらの部分集合全体の集まりに包括的構造を付与する。これが我々がここで扱う構造だ。この構造が或る条件を充たすとき、それはセミラティスと呼ばれ、別のもっときつい条件を充たすとき、ツリーと呼ばれる」と云い、まず、セミラティスを次のように定義している。
 セミラティス公理はこのようになる。諸集合の集まりがセミラティスを形成するのは、ふたつのオーヴァラップする集合が当の集まりに属せばそれらに共通の諸要素から成る集合も当の集まりに属す場合であり、その場合に限る。
そうして、件の六つの要素から成る集合とその七つの部分集合の集まりについて、アレグザンダーは云うのだ。「例えば、{ 2, 3, 4 } と { 3, 4, 5 } は共に当の集まりに属しており、それらの共通部分 { 3, 4 } もそれに属しているのだから、この構造は上の公理を充たしている」と。しかし、{ 1, 2, 3 } と { 2, 3, 4 } の共通部分 { 2, 3 } はこの集まりには属さないのだから、もちろん、この構造は上の公理を充たしてなどいない。これはいったいどうしたことなのだろうか? (なお、アレグザンダーは、柄谷の解説でも使われている六つの要素から成る集合をもとにした順序集合の一例のダイアグラム(図3)を、この構造を表わすものとしているが、それには当の集まりにさらに単要素集合 { 1 }、{ 2 }、{ 3 }、{ 4 }、{ 5 }、{ 6 } を付け加える必要がある。ちなみに、それらを付け加えなければ、当の集まりは前に定義した意味での有限集合上半束を成すが(図4)、付け加えてしまうと、その新たな集まりは、{ { 2 }, { 3 } } の上限をもたないから、上半束を成さない。さらにそこに { 2, 3 } を付け加えれば、上半束が得られる(図5)。)また、彼はツリーを次のように定義する。
ツリー公理はこう言明する。諸集合の集まりがツリーを形成するのは、当の集まりに属すどんなふたつの集合も一方が他方にすっかり包含されるかあるいは全く互いに素である場合であり、その場合に限る。
(そして、「この公理はオーヴァラップする諸集合の可能性を排除するから、セミラティス公理が侵されることはあり得ず、どんなツリーもトリヴィアルに単純なセミラティスだ」と付け加えている。)しかし、この公理を充たすような集まりが通常の意味でのツリー(つまり前に述べたような包含関係の順序に関するツリー)を成すのは、それが包含関係に関して最大の集合をもつ場合に限る。また、諸集合の集まりは、包含関係にはないが共通の要素をもつようなふたつの集合をもっていても、通常の意味でのツリーを成すことがある。(例えば、{ 1 }、{ 2 }、{ 5 }、{ 6 }、{ 1, 2, 3 }、{ 3, 4, 5, 6 }、{ 1, 2, 3, 4, 5, 6 } の全体はツリーを成す(図6)。)
 さて、この怪しげなふたつの「公理」をどう見るべきか? 一番もっともらしいのは、図3の例が「セミラティス公理」を充たしていない点は度外視して、アレグザンダーが諸集合の集まりということで考えていたのはひとつの有限集合 M の幾つかの部分集合の集まりで M そのものと M の要素 x だけから成る単要素集合 {x } の総てをもっているようなものだ、とする解釈だと思われる。その場合に限れば、彼の云うセミラティスは有限集合上半束に一致するし、ツリーについても同様だ。ともあれ、アレグザンダーは「我々は、ツリーがセミラティスでもあるという事実よりも、ツリーと、オーヴァラップする諸ユニットをもっているためにツリーではないようなもっと一般的なセミラティスとの違いに関心がある。オーヴァラップが生じない構造と生じる構造の違いに関心がある」と云い、以後は、もっぱらオーヴァラップに焦点を当て、包含関係の成す順序構造を顧みることはほとんどないので、この点にはこれ以上係らないことにして、先へ進もう。
 前にも述べたように、n 箇の要素から成る集合の部分集合は全部で 2n 箇あるから、ひとつの有限集合の幾つかの部分集合の集まりは、オーヴァラップが生じるものの方が生じないものより遥かに大規模であり得る。そこでアレグザンダーはこう云う。
 この比較的に極めて大きな多様性は、ツリーの構造的単純性と較べた場合にセミラティスがもち得る大きな構造的複雑性の一指標だ。我々の都市構想を損なっているのは、ツリーに特徴的な、この構造的複雑性の欠如だ。
そして、「デモンストレートのために幾つかの近代的な都市構想を見てみよう。それらが何れも本質的にツリーであることを私は示すつもりだ」と彼は云い、八つのケースを挙げている。例えば、丹下健三の東京計画(図1)については、こう述べられている。
これはみごとな例だ。この計画は東京湾を横切って拡がるループの系列から成る。四つの大ループが在り、それぞれが三つの中ループを含んでいる。第二の大ループでは、ひとつの中ループは鉄道の駅で、もうひとつは港だ。それを別にすれば、それぞれの中ループは、住宅区である三つの小ループを含んでいる。ただし、第三の大ループでは、中ループは官庁およびその他の産業オフィスを含んでいる。
(アレグザンダーは「ループ」によってループ状の道路に囲まれた区域のことを云っているようだが、ループ状の道路の系列はジャンクションを必要とするはずだ。そうすると、だが、そこでオーヴァラップが生じる。諸ループがツリーを成すと云えるのは、ジャンクションを無視する限りにおいてだ。)また、ルシオ・コスタのブラジリア(図2)についてはこうだ。
全体の形は中心軸の周りに転回しており、両半分はそれぞれにただひとつの主幹線道路〔大動脈、main artery〕に仕えられている。この主幹線がまたそれに並行する諸副幹線の供給を受けており、そして、結局、それらは諸スーパーブロックを取り巻く諸道路の供給を受けている。この構造はツリーだ。
(ちなみに、ここでの「ツリー」は、軍隊や官庁の組織図がツリー状を成すと云われる場合のツリーのことであって、有限集合上半束の一種としてのツリーではない。他にもこの意味で「ツリー」が用いられている箇所が在る。)そして彼はこう続ける。
 これらの構造は、そんな訳で、それぞれにツリーだ。しかも、私が記述したそれぞれのツリーのそれぞれのユニットは、当の活動する都市〔living city〕における何らかのシステムの、固定された不変の残余だ ・ ・ ・。
 しかし、何れの都市においても、それらの物理的残余が当のツリー構造にユニットとしては現われないような、そんな幾千倍もの、いや、幾百万倍ものシステムが作動している。最悪のケースでは、そこに現われている諸ユニットは活動するどんな現実にも対応しておらず、それらの存在が当の都市を実際に活動させている現実の諸システムは、何の物理的容器も与えられていない。
 例えば、コロンビア計画もスタインの計画も、社会的現実に対応してはいない。それらの計画の物理的レイアウトとその機能の仕方は、都市全体から家族にまでわたる、それぞれに異なる強度の絆によって形成された、いよいよ強く閉じていく社会的グループのハイアラーキーを示唆している。
 伝統的社会では、或るひとに彼の一番の友人たちの名を挙げてもらい、そして、それらの人々のそれぞれに彼の一番の友人たちの名を挙げてもらえば、彼らは皆、互いの名を挙げあい、ひとつの閉じたグループを形成するだろう。ひとつの村は、その種の、分離し閉じたいくつかのグループから成っている。
 しかし、今日の社会的構造は全く異なっている。或るひとに彼の友人たちの名を挙げてもらい、そして、それらの人々にまた彼らの友人たちの名を挙げてもらえば、彼らは皆、大抵は最初のひとが知らない、別々の人々の名を挙げるだろう。そして、それらの人々もまた別の人々の名を挙げることだろうし、以下同様だ。近代社会には人々の閉じたグループなど実質的に無い。今日の社会的構造の現実はオーヴァラップであふれている――友人知人のシステムはセミラティスを形成する。ツリーをではない。
この最後に云われているようなグルーピングにおいては、ふたつのグループの共通部分そのものがひとつのグループを成すことなどありそうになく、包含関係に関する最大のグループも存在しそうにないことは明らかだろう。(ここでは「セミラティス」が極めてミスリーディングに用いられている。濫用の種のひとつがここに在る。)そうしてアレグザンダーはセミラティスが適切な道具でないことを図らずも自ら示してしまっている訳だが、ともあれ、ここでの要点は、基本的にはツリーの都市構想であっても、それが何程か実現してひとつの都市が活動しだせば、そこには無数のシステムの作動の残余として無数のオーヴァラップするユニットが出現する、ということだろう。そこで、そうした現実との齟齬がどうして生じるのかが問われなければならないという訳で、後半ではそれが主題のひとつとなり、心理学的な考察がなされることになる。
 ところで、このあたりの記述を読んでいると、そもそもこれらの都市構想は基本的にはCIAM(近代建築国際会議)のアテネ憲章流のゾーニング――機能別の区域分割――というアイディアに則っているのだろうから、このように俯瞰的イメージから大雑把な構造を取り出せば、そこに何らかのツリーが見出されるのは当然のことではないか、という感想が自ずと湧いてくる。
 その当然のことを趣向をこらして指摘してみせることによって、アレグザンダーが主張しようとしていたのは、人工都市はツリーだから駄目なのだ、などというようなことではなくて、「我々の都市構想を損なっている」のはCIAM流のゾーニングやアーバン・コアといったアイディアに他ならないのだ、ということだろう。実際、後半に入ると彼は、或る都市の実際の社会的構造に見られるオーヴァラップの在り様を少しつっこんで説明した後、CIAM流のアイディアの不都合さを次々と指摘していく。
 はじめに俎上に載せられるのは「ル・コルビュジエやルイス・カーンその他大勢によって提唱されたツリー・コンセプト、歩行者の乗り物からの分離」だ。都会のタクシーは歩行者と乗り物が厳密には分離されていないからこそ機能し得るのであって、例えば、マンハッタンでは、歩行者と乗り物は当の都市の或る部分を確かに分け合っており、必要なオーヴァラップが保証されている云々。次は「レクリエーションのその他一切からの分離」という「CIAMの理論家たちその他のお気に入りのもうひとつのコンセプト」だ。それは現実の都市において遊び場〔playgrounds〕の形に結晶している。アスファルトに覆われフェンスに囲まれた遊び場は、「遊び」が我々の精神に孤立した概念として存在するという事実のピクトリアルな証拠以外の何ものでもなく、遊びの実態とは何の関わりも無い。子供らの遊びは日々違った場所で進行し、それぞれの行動とそれが要する諸物はひとつのシステムを形成する。そうしたシステムが、当の都市の他のシステムから切り離され孤立して存在するというのは実情ではない。それらのシステムは互いにオーヴァラップしており、しかも他の多くのシステムにオーヴァラップしている。遊びの場処として認識された物理的な場処、ユニットについても同様のはずだ云々。さらに、「様々なパフォーミング・アートが集められてひとつのコアを形成しているマンハッタン・リンカーン・センター」に具現されているような「アーバン・コアのハイアラーキー」が俎上に載せられる。何故コンサート・ホールがオペラ・ハウスの隣になければならないのか? 一晩に両方を訪れることはおろか、一方からの帰りに他方でチケットを買ったりするようなひとさえいはしないだろう。アーバン・コアの単一のハイアラーキーというアイディアが、アートと都市生活の関係を明らかにすることはない。それは、同じ名称をもつものは同じ籠に入れるという、単純な人物につきものの偏執の産物に過ぎない云々。そして、「いまやあらゆる人工都市に見出され、ゾーニングが実施されているところなら何処でも容認されている」ような「労働と住いの完全な分離」には、「それは健全な原理なのか?」とストレートな問いが投げつけられる。二十世紀のはじめの酷い状況が、汚い工場を住宅エリアから追い出す試みへとプランナーたちを促がした経緯はよく判るが、この分離は、それらが持続するためには両方の部分をささやかながら必要とするような、そんな様々なシステムを捉え損なっている云々。
 ここでもまた当然のことがらが指摘されているように見えるが、忘れてならないのは、こうした批判がシステム論的な思考によって開けた地平においてなされていることだ。(「CIAMの理論家たち」には、おそらく、これは予期せぬ事態だったことだろう。)1965年に出たこの論文の意義は、ツリーとセミラティスによる構造分析などにではなく、人々と諸事物から成る無数のシステムの重畳としての都市という観点から、CIAM流のアイディアに正面きって異を唱えた点にこそ在ると云うべきだろう。
 そうしてCIAM批判を一通り済ました後、アレグザンダーは次のように述べ、心理学的考察に向かっていく。
 ところで、こうも多くのデザイナーたちが、何れのケースでもその自然的構造はセミラティスなのに、都市をツリーと考えて来たのは何故なのか? 彼らは、ツリー構造の方が当の都市の人々のために役立つだろうという信念のもとに、意図的にそうして来たのか? あるいは、彼らは、或る心的習性に、いや、ことによると精神がはたらくその仕方に捕えられているために――精神が何処にでもツリーを見て取る圧倒的傾向をもちツリー概念から逃れられないせいで、都合のいいどんな心的形式によってもセミラティスの複雑さを把握することができないために――他に仕様がなくて、そうして来たのか?
 ツリーが提案され都市としてつくられるのは、この第二の理由からであること――つまり、直観的に近づき易い構造を形成するという精神の能力に制限されるほかないデザイナーたちが、単一の心的行為ではセミラティスの複雑さに達することができないからだということ――をあなたに納得させることを試みよう。
あいだは総て端折ることにして、結論だけを引いておけば、こうだ。
 今日では、グルーピングとカテゴリー化は最もプリミティヴな心理学的プロセスのうちに入ることが知られている。近代心理学は思考を、新たなシチュエーションを精神内の既存の整理棚に押し込むプロセスとして扱う。・ ・ ・ そうしたプロセスの起源の研究は、それらが、もともとは、遭遇する様々な出来事のあいだにバリアを設けることによって環境の複雑性を縮減するという有機体の必要から生じていることを示唆している。
 都市のような、その中にオーヴァラップする諸集合を確かに要する構造が、それにもかかわらず頑固にツリーと考えられてきたのは、この理由――精神の第一の機能は当惑させるシチュエーションにおける多義性とオーヴァラップを縮減することだから、そしてそのために精神は多義性への根本的不寛容さを賦与されているから――による。
一般的にはそういうことも云えるかも知れないが、しかし、目下のコンテクストにおいては、ことはやはり心理学ではなく思想の問題だろう。
 だが、それがまともに論じられることはない。アレグザンダーは既に後半のはじめのあたりで「構造の単純さの点で、ツリーは、マントルピースの上の蝋燭立てに完璧にまっすぐで中心に対して完璧に対称であることをもとめるような、こぎれいさと秩序への強迫的欲求に比し得る。それにひきかえ、セミラティスは複雑な組織の構造だ。活動する事物〔living things〕の、偉大な絵画や交響曲の構造だ」などとミスリーディングなセミラティス讃をうたっているのだが、最後に、あらためてオーヴァラップとセミラティスを賞揚し、「ツリーによって考えるとき、我々は、ヒューマニティと活動する都市の豊かさを、ただデザイナーや行政官や開発業者にだけ益する概念的単純さと交換している。ひとつの部分がもぎ取られ、そこに在ったセミラティスがツリーに置き換えられるたびに、都市は分離への一歩をさらに進める」とうったえる。過度の区別と分離を齎すツリーを難じることで、彼は論を閉じている。
 ところで、オーヴァラップに関してアレグザンダーはこう云っている。
 あなたはもうきっと、ツリーではないセミラティスである都市はどんなふうになるのか、と訝っていることだろう。私はまだ何のプランもスケッチも示すことができないことを白状しなければならない。単にオーヴァラップのデモンストレーションをつくるだけでは十分ではない――そのオーヴァラップは正しいオーヴァラップである必要がある。これは二重に重要だ。とかくオーヴァラップが生じるプランをつくることそのものがもっぱら目的と化してしまいがちだからだ。近年の高密度の「活気に充ちた」都市計画がおこなっているのは、本質的にはこれだ。しかし、オーヴァラップは、それだけでは構造を齎さない。混沌を齎すこともあり得る。塵箱はオーヴァラップに充ちている。構造を得るには正しいオーヴァラップが必要であり、そして、我々にとって、それは歴史的都市に見られる旧いオーヴァラップとは、ほぼ確実に異なる。
オーヴァラップを直接デザインすることはできず、可能なのは、ただ、諸システムの構成要素となることによってその上にオーヴァラップが齎されるのが予想されるような諸事物の配置をどうにかしてデザインすることだけだろうから、それが何程か実現してひとつの都市が活動しだしたとしても、期待された通りに諸システムが作動し期待されたようなオーヴァラップが生じるとは限らない。混沌としたオーヴァラップが齎されることもあり得る。(ベルクソンを真似て云えば、混沌とは期待された秩序が見出されないことに過ぎない。)ここでアレグザンダーの云う「構造」とは秩序のことなのだろうが、そうすると、「正しいオーヴァラップ」とはそこに望ましい秩序が見出されるようなオーヴァラップのことだと云えるだろう。それをデザインしようとするところに、柄谷の云う「建築への意志」が在る。アレグザンダーのCIAM批判はいかにも皮相だが、それは、ひとつには、彼がこの建築への意志を疑うことがなかったせいだろう。
 なお、前にも述べたように、適当な有限箇のツリーを適宜組み合わせればひとつのセミラティスが得られる訳で、アレグザンダーはそれが「正しいオーヴァラップ」を得る手がかりになるものと考えていたように思われる。CIAM批判にはオーヴァラップ関係一本槍で足りるのに敢えてセミラティスを強調したのは、きっと、そのためだろう。彼は、その後、「正しいオーヴァラップ」を得る手段を探して「パタン・ランゲージ」なるものを開発するに到ったようだが、はたしてそれはよき道具となったのであろうか。



雑録 / 都市はセミラティスではない