現在の名称    :鎌倉宮
足利時代の名称
 医王山東光寺

所在地   :神奈川県鎌倉市二階堂
開山未詳。吾妻鏡建久2年(1191)2月15日条によれば、頼朝が大倉山辺を歴覧して伽藍を建てようとし、同じく建久4年11月8日の条によると、永福寺傍の梵宇に薬師像を安置した。これは薬師堂であるから東光寺が医王山の名を負っている点と、その位置から見て東光寺の前身かともみられる。これは風土記稿の憶説である。
この堂は永福寺の伽藍の一環として建てられたものであるらしい。(吾妻鏡建久4年11月27日条)
鎌倉大日記等によって後醍醐天皇の皇子護良親王が、当寺において足利直義のために生害されたことが知られている。(鎌倉大日記・桜雲記。太平記に「二階堂の谷に土の牢を塗りてぞ置進らせける」とあるが、風土記稿がいうように、これは「土もて塗籠たる、獄舎」のことであって、山腹の土穴のことでない。)
南北朝時代には関東十刹の一となり、承和3年(1347)7月23日、当寺住持月山友桂が利生塔を造立した。この塔は他国の利生塔の例から見て五重塔であった公算が大きい。

                                   「鎌倉の廃寺」より
鎌倉宮の由緒によれば、明治2年、明治天皇が護良親王の追悼のために親王ゆかりのこの場所に「宮」を建てたということである。そのためにここの別名を「大塔宮」といっている。
この「宮」には明治天皇の勅額、護良親王の木像などがあり、「安在所」に宝物として保存されている。

つまり、東光寺跡は「利生塔建設の寺」として復興されるのではなく、明治の王政復古により護良親王の追悼の神社に変わってしまったということである。
東光寺跡に建つ「鎌倉宮」(大塔宮)
鶴岡八幡宮「三の鳥居」から、横浜横須賀道「朝比奈インター」へ向かう県道204号線、金沢鎌倉線でインター方面に向かう。信号二つ目ほどで三叉路「岐れ道」交差点に出、左へ入ると突き当たりが「鎌倉宮」である
たまたま宮司さんが出てきたので「東光寺の跡に建っているのですか?」と聞いてみた。宮司さんの話では「東光寺跡」ということは確かであるが、東光寺にまつわるものは一切無く、「跡」を示すものも無いということであった。

2001/05