東海道終着の「常陸国府」から「畿内」に向かう
常陸国府(東海道−1)
所在地 :茨城県石岡市
交通 : JR常磐線石岡駅
人口 : 5万人(’85住民基本台帳人口)
東海道で結ばれた国の最東端に位置する。「国衙」と想定される場所は石岡市府中。城跡でもある。国分寺、国分尼寺も知られている。国分寺近くの地名は石岡市国分町。
江戸幕末期(安政4年の地図による)は「府中」松平二万石
*かつて私はここに3年ほど住んでいました。何もない小さな街ですが、歴史に残る街に住んだのは初めてであり、府中、国分寺、という場所とともに、水戸街道にあり、鹿島神宮への道の分岐点の街という歴史との触れ合いが、私に「歴史と旅」の興味を持たせたのであります。
常陸一宮は「鹿島神宮」(茨城県鹿島郡鹿島町)。神武天皇により創建され、防人が「鹿島立ち」をし、中臣鎌子(藤原鎌足)が出身した、武神、鹿島神道流、等々超?古代より有名な神社。
下総国府(東海道−2)
所在地 :千葉県市川市
交通 : JR総武線市川駅
人口 : 39万人
石岡から国道6号線を南下、土浦、取手、柏、と過ぎ80Km弱で松戸市に着く。市街地を過ぎたところから6号線を左折し市川市に通じる県道に入り暫く行くと「国府台」という町名が現れてくる。ここが「下総国府」のあったところである。
このやや東側に「下総国分寺」跡があり、南北に「北国分」、「中国分」、「国分」、「東国分」などの地名が見受けられる。
「国府」の場所は考古学的には推定にしか過ぎないところもあるが、そこは気にせず、地名を基に「昔を思い浮かべる旅」にしたいと思う。
江戸時代には市川は安房への最初の宿場町であった。
県道をさらに進み市川市街地を抜けたところで、現在は国道14号線にぶつかる。現代の道ではこれを右折すると「古代の国」の「武蔵」、「相模」と続き京に至るのであり、左折すると「東海道」から枝道に入り「上総」、「安房」に至る。ただ、「古代東海道」は「上総」に向かうのみ。
下総一宮は「香取神宮」(佐原市香取町)。佐原市近辺はずっと農村で特に何も無い町(失礼)。その中で「香取神宮」だけが超有名。
上総国府(東海道−3)
所在地:千葉県市原市
交通: JR五井駅
人口: 24万人
市川市から国道14号線を南下する。千葉市からこの道は国道16号線にかわる。千葉市からおよそ10Km「五井入口」で左折、市原市役所のすこし手前に「上総国分寺跡」があるが、ここが、国府跡であり、「国府小」、「国分台小」などその由来からきた学校名が見られる.
江戸安政時ここは「吹上」有馬兵庫頭一万石.
上総一宮は「玉前神社」(千葉県長生郡一ノ宮町)。
安房国府(東海道−4)
所在地 :千葉県館山市
交通 : JR内房線 館山駅
人口 : 5万6千
市原市から国道16号線を南下する。しばらくの間、右手は石油コンビナ−ト地帯。木更津を過ぎたところから国道は127号線となる。東京湾フェリ−(久里浜−金谷間)の出る港、金谷港を過ぎると左手に断崖絶壁が眺められる。ここは鋸山。山上の展望台まではロ−プウエ−で登ることができる。
さらに南下すると「館山市」、ここが「安房国府」である。館山市役所から三芳村役場に通じる道の途中に「府中」という場所がある。そのやや南に「国分」という地名があるが、地図には「国分寺跡」は見られない。
江戸時代は「館山」一万石。
国道はここから東上し128号線となる。国道の「内房」「外房」は館山で替るが、JR「内房線」「外房線」の終点は館山から北東約26Kmの「鴨川市」。大海フラワ−センタ−、鴨川シ−ワ−ルド、鯛の浦など見るところは多い。鴨川市から鹿野山のマザ−牧場を見て東京に戻るのが現代の安房旅行になるだろう。
安房一宮は「安房神社」(千葉県館山市大神宮)。
武蔵国府(東海道−5)
所在地 :東京都府中市
交通 : 京王帝都電鉄府中駅
人口 : 19万
武蔵国府と甲斐国府は現在甲州街道(国道20号線)で繋がっているが、古代はこの道は整備されておらず、武蔵へは相模から、甲斐へは駿河から枝道が通じていたようである。
「府中」は甲州街道を最初の宿場「高井戸」から西へ、現在は環状8号線との交差点「高井戸」からおよそ12Kmのところにあり、多摩川の河岸段丘に展開されている。武蔵総社「大国魂神社」から武蔵国分寺にかけてが国府であろう。
府中市は鎌倉幕府が崩壊しだした戦闘といわれている、新田義定と北条氏の「分倍河原の戦」で国府は荒れたが、江戸時代には宿場町として栄え、京王線が開通し大きく発展したと市史にかかれている。
国分寺のある場所は現在「東京都国分寺市」(JR中央線国分寺駅)である。
武蔵一宮は「氷川神社」(埼玉県大宮市高町、大宮駅から歩いていける)。古代武蔵国造「武蔵氏」の祭る神社。まっすぐの参道が2Kmも続く。「大国魂神社」では武蔵国の一宮から六宮までを集め一挙に祭り「六所宮」ともいわれているが、その中で「氷川神社」は「三宮」として位置付けられている。「武蔵氏」の勢力増大に伴い格が上がってきたといわれる。
甲斐国府(東海道−6)
所在地 :山梨県春日居町
交通 :JR中央本線別田(べつでん)駅
人口 :
府中から高速道路を使ってみよう。甲州街道大国魂神社からおよそ3Kmで「国立府中インタ−入口」に着く。ここから八王子までは別料金600円が必要。八王子からは距離制運賃になる。
八王子インタ−を通り最初のトンネルが小仏トンネルでここまでが東京都である。ここから一旦神奈川県にはいるが、それも、およそ10Kmで通り抜け山梨県に入る。
大月インタ−、笹子トンネル、勝沼を通り抜け「一宮御坂」インタ−で高速道路を降りる。このインタ−を一宮に出たところに「甲斐国分寺跡」があり、そのすぐ北東に「国分尼寺跡」がある。
「国府」という地名はここより北西の春日居町にある。隣の町は石和町、いづれの町も温泉地で名高い。
江戸時代の地図に「春日居」は見られず、石和には代官所があり、関八州取締出役の舞台となるところ。石和の河向かい八代町、江戸時代の地名では八代郡竹居村で生まれた親分「竹居のども安」が石和の代官所で牢死し、石和の寺に墓があるという。
甲斐一宮は「一宮浅間神社」(山梨県東八代郡一宮町)。富士山信仰の「富士山本宮浅間大社」を総本宮に富士を取り囲む「浅間神社」の一つ。但し、ここからは富士山を拝むことができない。おそらく国司奉幣のために立てられた神社だからだろうといわれている。
相模国府(東海道−7)
所在地 1 :神奈川県海老名市
交通 :JR相模線えびな駅
人口 :9万1千
所在地 2 :神奈川県大磯町
交通 :JR東海道線二宮駅
東京からは国道246号線を利用する。国道246号線は都心部から渋谷までは「青山通り」、渋谷から多摩川まで「玉川通り」、神奈川県においては「厚木街道」と呼ばれている。「厚木街道」は神奈川県「川崎市」にはじまり、「横浜市」、「東京都町田市」、「横浜市」、「大和市」、「座間市」を通り抜け「海老名市」に入る。この「海老名市」に「国分」、「国分寺台」、「国分坂下」などの地名があり、ここが最初の「相模国府」といわれる。
さらに国道246号線を西に走る。伊勢原から大磯に出る県道にはいり海岸線にむかう。この県道と国道1号線が出会うとこに「大磯ロングビ−チ」があり「国府新宿」、「国府本郷」という地名がとなりあっている。ここが第3の「相模国府」である。
第2の国府は途中の伊勢原市にあり、順番に国府が移転されたと言われている。国分寺跡は道路地図では見つけられない。
江戸時代の大磯は宿場町となっている。
相模一宮は「寒川神社」(神奈川県高座郡寒川町)。えびな駅から南に約9Kmのところにある。
JR相模線寒川駅から北に2Km以上の参道が続く。場所柄から「源」、「北条」、「武田」、「徳川」氏などの崇敬(寄進)を受けた。
伊豆国府(東海道−8)
所在地 :静岡県三島市
交通 :JR東海道線三島駅
人口 :10万人
大磯町から国道1号線を西に向かうと小田原市に入る。小田原から上り坂となり元箱根、芦ノ湖、箱根関所跡、箱根峠となるが、江戸時代には箱根の関を避ける人達も居た。この道を通ってみよう。
国道135号線を南下する。早川を過ぎると根府川に着く、ここには関所があったが男は特にチェックされなかったという。さらに、門川、鳴沢、熱海と続く。熱海温泉から右折し山道に入ると江戸時代には「熱海入湯道」とよばれた「熱海街道」となる。この街道を登り、熱海峠を越え、平井を過ぎると国道135号線(下田街道)に出る。この道は現在でも狭く曲りくねった道であるが、土地の人達は特に下り坂など旅行者の車を猛烈な勢いで追越していく。下田街道を北上ししばらく走ると三島駅に着く。これで箱根の関をさけたのである。
三島駅から伊豆箱根鉄道が出ており、一つ目の駅が「三島広小路駅」、この駅のそばに「国分寺」があり、またこの東に「三島大社」がある。この付近が「伊豆国府」といわれている。
江戸時代には、ここは「三島宿」で「三島代官所」がおかれていた。
伊豆一宮は「三嶋大社」(静岡県三島市大宮町)。伊豆国造矢田部氏が神主を世襲した。三島の地名はこの神社に発祥する。8月例祭はすごい。参詣人はどこに泊っているのだろうかと思う。
駿河国府(東海道−9)
所在地:静岡県静岡市
交通: JR東海道線静岡駅
人口: 46万人
三島から国道1号線を西へ走る。江戸時代の東海道をたどってみる。三島宿から沼津・水野出羽守5万石、原、吉原、蒲原、由比、の宿場を通り抜けると興津の宿にでる。平安時代の甲斐国府への道はここから分かれ身延を通り甲斐に入っていたようである(国道52号線)。
興津の次の宿場が江尻で、その次が「府中」、駿河国府となる。江戸より44里、10里を歩くのが余程旅なれた人といわれた江戸時代ここまでは1週間かそれ以上の旅であったのだろう。
現在は沼津インタ−から高速道路で静岡インタ−まで約60Km、伊豆国府を出てから駿河国府迄は1時間前後である。
「駿河国府」は駿河城のすぐ北にあると推定されている。静岡高校周辺である。ただここには国府跡を示す地名も国分寺の跡も地図の上では見いだせない。
ところで、静岡の名物は「安倍川餅」。静岡駅から西へ行くと「安倍川」に出る。ここにかかる橋のすぐ手前左側に古くからある安倍川餅の店を見つけることが出来る。残念なことに名前は忘れたがいくらでも食べられる旨い餅を出してくれる。
駿河一宮は「富士山本宮浅間大社」(富士宮市宮町)。全国「浅間神社」の総本宮。祭神は「いざなぎ、いざなみ」の孫で「このはなさくやひめ」(名前がいい)、神武天皇のひおじいさん「ににぎのみこと」の奥さんになった方である。(縄文時代の人々の話です)
遠江国府(東海道−10)
所在地:静岡県磐田市
交通: JR東海道線磐田駅
人口: 8万1千
静岡から西へ岡部、藤枝、島田市、いずれも現在の市と同名の宿場を過ぎると大井川に出る。ここまでが駿河であり、大井川を渡れば「遠江」になる。「遠江国府」は磐田市の東海道線沿い北側、国道1号線と県道44号線(磐田天竜線)の交差点のやや東、中川沿いにあたったものと言われている。国分寺跡は現在の磐田市役所のそばにある。
江戸時代ここは「三つけ宿」とよばれていた。現在「三ヶ野」という地名があるが、、、、?
磐田には申し訳ない話であるが、ここまで来たら天竜川を越えて館山寺温泉に宿泊してみたくなる。
遠江一宮は「小国神社」(静岡県周智郡森町)
三河国府(東海道−11)
所在地 :愛知県豊川市
交通 :名鉄名古屋本線こう(国府)駅
人口 :10万7千
磐田市から国道1号線を西へ約5Km程いくと天竜川に出る、新天竜川橋を渡り国道1号線が左折南下する北島交差点を1号線とは逆に右折北上すると東名高速道路「浜松インター」にぶつかる。ここから東名高速で三河国府に向かう。
「浜松インター」から約20Kmで浜名湖を通過、さらに20Km程いくと「豊川インター」である。このインターを降り、豊川市内に入る。豊川市内には有名な「豊川稲荷」があり、ここの少し先の交差点を右折、名鉄豊川線に平行して走る道(姫街道)を進み国道1号線と出会うところの地名が「国府」、「三河国府」のあったところである。この、やや東に「三河国分寺跡」「三河国文尼寺跡」がある。
国府には、国家鎮護の為に八幡神(応神天皇)を祭った「八幡神社」と、国の神を祭る「総社」が置かれていた。そのために、国府付近の地名、神社名として「八幡」、「国府八幡」、「総社」、「国府総社」、「国府宮」等が見られる。ここ豊川市でも国府の東に「八幡町」があり、「総社」がある。
江戸時代は宿場町「豊川」であった。また、三河は「参河」と書かれていた。
三河一宮は「砥鹿(とが)神社」(愛知県宝飯郡一宮町)
尾張国府(東海道−12)
所在地 :愛知県稲沢市
交通 :JR東海道本線いなざわ駅
名鉄名古屋本線こうのみや(国府宮)駅
人口 : 9万4千
三河国府から国道1号線(東海道線)を北西に進む。知立市を過ぎ、名古屋市に入る。熱田神宮の手前から北上する国道19号線、さらに、中区栄から国道22号線に入り西春町から稲沢
駅に向かう。駅を過ぎたところの地名が「国府宮(こうのみや)」、「尾張総社」の「尾張大国魂神社」があり、ここが「尾張国府」のあった場所である。
「道」をたどった場合、時代の変化により、その「道」も大きく変わっていった。
典型的な例がここにある。
JR東海道線は今、「熱田」から「名古屋」、「岐阜」、「大垣」、「垂井」、「草津」をへて「京都」に着く。しかし、江戸時代の「東海道」は「宮(熱田)」から「長島」、「桑名」、「四日市」、「亀山」、「草津」をへて「京都」へというルートであり、また、国道1号線もこのルートを通っている。
「草津」から「垂井」迄は江戸時代は「中仙道」、古くは「東山道」といわれ、「熱田」から「垂井」は「中仙道」と「東海道」をつなぐ道であった。
さらに古い時代の「東海道」は、「熱田」、「四日市」、「伊賀上野」、「山城」、「京都」(又は「奈良」、「大阪」)となっており、このルートはほとんどがJR関西本線のルートである。
なお、国道1号線(東海道線)は三重県関町から滋賀県甲西町まで並行して走る電車は無い。
尾張一宮は「真清田(ますみだ)神社」(愛知県一宮市真清田)
伊勢国府(東海道−13)
所在地 :三重県鈴鹿市
交通 :JR関西本線亀山駅
人口 :16万2千
鈴鹿市では鈴鹿サーキットが有名であるが、その西に「国府」がある。そのすぐ南には王塚古墳がある。
名古屋から桑名を通り、四日市に入る。四日市市街地を抜けると、近鉄内部線と交差するところに「追分」の交差点があるが、ここから左側に分かれていくのが伊勢街道である。
さらに東海道を進み、鈴鹿市を通り過ぎ亀山市にはいり間もなく左折し再び鈴鹿市街地に向う。そして、鈴鹿川にかかる橋を渡り切ったところが「国府」である。「国分寺跡」、「国分町」はさらに鈴鹿川の下流、木田橋の北側にある。
江戸時代の地図にこの場所に該当する地名は見られない。ところで、「追分」という地名は街道の分岐するところからきた地名であるが、安政時の地図には5箇所の「追分宿」が見られる。
一つは、四日市の西、現在の四日市市追分で、京に向かい、右:東海道、左:伊勢街道というもの。二つ目は長野県軽井沢町追分の、右:善光寺街道、左:中山道。三つ目は、敦賀市追分の西近江街道と塩津街道の分岐点。四つ目は、現在の地名ではその名は見られないが、滋賀県今津町の若狭街道筋にあったものと思われる(保坂か?)。そして五つ目は、三重県飯南町、ここでは、国道166号線と368号線が一部重なりながら交差しているが、粥見が追分とされている。この街道(現在伊勢街道といわれ、これより北を伊勢本街道が通っている)は伊勢山田から、田丸、にぶ(丹生)、追分(粥見)、宮の前(宮前)、田疋(田引)と西へ向かっている。
伊勢一宮は「椿大社」(三重県鈴鹿市山本町)と「都波岐神社」(三重県鈴鹿市一宮町)。両社はいづれも「猿田彦大神」(稲荷神社の主祭神)を主祭神としており、どちらかを決定付ける資料が無いためといわれてもいる。
志摩国府(東海道−14)
所在地 :三重県阿児町
交通 :近鉄志摩線鵜方駅
四日市から国道23号線(伊勢街道)を南へ下る。ここからは東海道の枝道になる。伊勢から国道167号線に入り志摩半島の付け根阿児町鵜方から東に入った海岸線が「国府白浜」、ここに民宿が多い「国府」がある。「国府」のすこし北に国分寺跡がある。国府のすぐ南には「東海道」という地名があり、東海道の国府という場所を示す地域なのであろう。
この近辺では美味いものが2つある。志摩観光ホテルの洋食と的矢の牡蠣、前者はシェフが有名、後者は民宿がいい(ちょっと歴史から外れたが)。
江戸時代にはこの地の北の方に「鳥羽二万石」の城下町と宿場町「岩倉」が記載されているだけである。
志摩一宮は「伊雑宮」(三重県志摩郡磯部町)と「伊射波神社」(三重県鳥羽市安楽島町)。内容は不明。
伊賀国府(東海道−終)
所在地:三重県伊賀上野市
交通 :JR関西本線伊賀上野駅
人口 :6万
伊勢国府鈴鹿市から東海道最後の国府「伊賀国府」に向かう。国道1号線(東海道線)を西に進み亀山市街地を抜けると東名阪自動車道亀山インターにぶつかる。ここから1号線と分かれ国道25号線にはいる。加太トンネルを越えると伊賀町、その先が伊賀上野市である。伊賀上野市に入り間もなく伊賀一宮交差点になるが、このすぐ西に「伊賀国府」があったものと考えられている。この辺の旧地名が「府中村」であった。この南4Km程のところに伊賀国分寺跡がある。
「府中」という地名は現在の道路地図には載っていない。「府中」又は「国府」という地名を探し中世を思い浮かべながら旅するものにとって、その名が残っているのも驚きであるが、近年になり名が削られてしまったということは非常に残念なことであり、歴史をかたる地名は是非残しておいて欲しいものと思う。
江戸時代、伊賀上野は津藩藤堂氏持ちの城下町であった。
伊賀国府を更に西に向かうと「畿内」に入り、最初の国は「山城」になっている。朝廷から派遣される国司は「山城」から東海道の国々に向かって旅立つ、というのが順当な表現であろう。
これまで東海道の国々15箇所の国府をドライブマップをもとにたずねたが、そのなかで、現在の県庁所在地と同じところは「静岡市」のみであった。地形、気候、生活様式などの変化により変わったものであろうが、時代の変化に伴い都市も変わっていくということがあらためて知らされた「旅」であった。
なお、もう一つ。東海道各地一宮は非常に大きな神社を外している。たとえば熱田神宮、伊勢神宮等である。それは一宮として地方豪族の神社を指定したことのようである。国司が転勤してきて最初に挨拶に行くところが地方最有力豪族のところであり、現在の支配権力構造と同じ事であろうか。
伊賀→伊勢→尾張→三河→遠江→駿河→伊豆→相模→上総→下総→常陸
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志摩 甲斐 武蔵 安房