現在の名称  :霊亀山天龍資聖禅寺
                    (天龍寺)
所在地   :京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町
宗派    :臨済宗天龍寺派
都名所図会
臨済宗天龍寺派大本山。本尊釈迦如来、脇士普賢、文殊の両菩薩。平成6年(1994)世界の文化遺産(古都京都の文化財)に登録された。
寺地は嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が承和年間(834-848)に営んだ壇林寺の跡地で、その後嵯峨法皇が亀山殿を造営した。亀山殿は亀山天皇から孫の後醍醐天皇へ伝領されたが、後醍醐天皇は歴応2年(1339)8月大和吉野で死去した。天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、その頃既に荒廃していた亀山殿の地に勅願寺として建立した。
当時夢窓国師は尊氏からも崇敬され、元弘以来の大乱の戦死者を弔い、天下泰平を祈るため全国に安国寺・利生塔設立を進言しており、新寺建立もその延長としてといた。しかしこれらは同時に初期室町幕府の政治的にも重要な宗教施策であった。
造営の莫大な費用の捻出には、一は荘園の寄進、二は売官による収益の一部、三は天龍寺船による貿易の利益が当てられた。
創建当時五山第二位で出発した天龍寺は、至徳3年(1386)南禅寺が五山の上に置かれると第一位に昇格、応永8年に京都相国寺と入れ替わり第二位となったが、同17年には旧に復し、以降変化は無かった。
天龍寺は応仁の乱、蛤御門の変等の戦災を含め8回焼失し再建されてきた。明治新政府の廃仏毀釈政策によりかつての観月橋を含む広大な寺域が大幅に削られ、昭和27年には現在の境内3万坪と十分の一程度となってしまった。
現在の天龍寺境内は愛宕街道に東面して南門、その奥にもと京都伏見区の伏見城にあったと伝える勅使門がある。正面の法堂(選仏場)天井には鈴木松年筆の雲龍図が描かれる。その奥に庫裏、小方丈、大方丈が並び、多宝塔・僧堂は廊下でつながる。大方丈前の庭園(国指定・特別名勝)は池泉回遊式で、夢窓国師の作庭と伝える。国指定重要文化財も多く奈良国立博物館、京都国立博物館などに寄託されている。
    
京都山城寺院神社大事典

「天龍寺」は嵐山にあるのは知っているが、特に観光で出かけることもなく、あまり意識されない寺という印象をもっていた。しかし、、今回「総安国寺」として意識し調べると改めて見直すところの多い寺であった。
現在の寺域はちょうど上写真の「京都名所絵図」にある場所である。かっては現在我々が通称「嵐山」と呼んでいる場所が「中世天龍寺」であったなんて驚きである。

2001/07
勅使門
池と塔頭
法堂(左端)、庫裏など
庫裏
庫裏玄関

天龍寺周辺
天龍寺と八坂塔の位置