僧尼は全て国家認定。勝手な出家には罰則


得度者の実情


天平6年11月二日太政官奏 (意訳)仏教が広まるか否かは、僧尼の資質いかんにかかっている。得度する人の才能や修行は相当する官司によって選ばれるものである。この頃出家は学業を審らかにせず、多く僧綱に個人的に出家を頼み込んでなっている。はなはだ法意と違ってきている。今後得度人として推挙されるものは、法華経一部、もしくは最勝王経一部を暗誦し、兼ねて仏前での行事作法を理解し、浄業3年以上のものとせよ。

                            
古典文学大系13 続日本紀二 岩波書店

得度の沿革


得度は在俗の仏教信者(優婆塞(男)、優婆夷(女))が仏門に入るための儀式で、得度の儀を経たものは沙弥、沙弥尼と称され、後受戒の儀を経て正式に僧、尼となる。得度すると度縁が授けられ、一般の戸籍からは名を削られ、課役を免除される。
僧尼の資格を証する公験の制は、養老年間からその整備がはかられた。しかし神亀元年10月丁亥朔条に見られるように、当時の僧尼の名籍には粗漏が多く、実態の把握が困難であった。他方では宮廷を中心に仏教行事が盛行し、行事を執行する僧尼の資質の向上も急務とされた。上記太政官奏は得度について、初めて最低限の基準を設けたものである。
毎年一定数のものを得度させる年分度者の制は、正月の金光明経の読踊に備え、毎年10名を得度させる制としては持統10年から行なわれた。しかし8世紀には、天皇、上皇の病や法会などにあたり、一度に百人、千人もの大量得度が行なわれたため、僧尼の資質は低下し、形式的な経典の読踊や仏事の執行はこなすものの、教養の理解能力や内面的な修行において劣るものが増え、教団の沈滞をまねいた。仏教界の刷新を企図した桓武天皇は(略)
さらに延暦25年正月には、年分度者の数を華厳業2、天台業2、律業2、三論業3、法相業3とさだめ、新たに開立された天台宗を含め、諸宗の学統の維持がはかられた。

                   
古典文学大系13 続日本紀二 補注11五六  岩波書店

続紀にある大量の得度 いずれも詔
天平9年8月    400人      天平13年10月  705人
天平16年12月   100人      天平17年9月  3800人
天平20年12月  1000人     天平勝宝元年2月   400人
天平勝宝4年1月 1000人


日本の仏教は、仏教本来の宗教的立場から見ると、おかしな点がいくつかある。まず、そもそも伝来の時から極めて顕著な特徴がある。それは「公伝(こうでん)」ということだ。(略)日本の仏教は、欽明天皇の時代に、百済王からの「贈物」という形で伝来したのである。これを「公伝」という。(略)一言で言えば、国家仏教、国家権力によって管理される仏教ということだ。この国家仏教が、本来の宗教としての仏教とはいかにかけ離れたものかを語る、端的な言葉がある。「私度僧」というものだ。私度僧というのは、「国家の許可を得ずに勝手に出家して僧になったもの」のことだ。つまり違法な存在である。(略)
釈迦は自分の意思で出家し僧(修行者)になったのである。信仰はあくまでも個人の問題であり、国も社会も本来は関係ない。当然、国家権力も個人の「出家」には口を出せないはずなのである。ところが「私度僧」という言葉は「お上の許可を得ないで出家することは違法だ」と言っているのである。こんな馬鹿な話はない。そんなことを言ったら、釈迦ですら「私度僧」になってしまうではないか。
つまり日本の僧というのは、もともとは官僧すなわち国家公務員であったのだ。それは皇族と一部の貴族のためにのみ奉仕する仏教であり、だからこそそれに従事するものは国家公務員でありエリートでなければならなかったのだ。

     
              逆説の日本史(2) 古代怨霊編   井沢元彦  小学館

注:古代天皇家の「得度」に対するこだわりを際立たせるために敢えて井沢氏の文章を加えました。僧寺の僧は20人、尼寺の尼僧は10人と決められ、民衆から離れたところからスタートした官寺「古代国分寺」がどのように生き残ったのか、あるいはなぜ一部が消滅したのかを考える一つのポイントかと思われます。


2001/2