国分寺創建は、あらゆる災厄をなくし所願を成就させるために、行なわれた事業だと表現されている。では災厄とは何か?

聖武天皇の治世である天平時代は「凶作、飢饉、地震、疫病」とあらゆる災害が頻発した大変な時代だった。しかも疫病(天然痘)の猛威は、政治の最高権力者である藤原4兄弟を全滅させた(737年)のである。4兄弟は言うjまでもなく、光明皇后の兄たちである。

こうした災厄を、古代の日本人は何の仕業と考えたか。あらためて言うまでもないだろう。それは「怨霊のたたり」である。誰の怨霊かということも既に言った。無実の罪によって死に追いやられた長屋王である。
つまり「国家鎮護」のために「経典を広める」ということは、実は「怨霊を鎮魂すること」なのである。

                  逆説の日本史 2古代怨霊編    井沢元彦   小学館

薬師如来:薬師とはサンスクリット語でバイジャジャグルといい、医者の中の首長という意味です。したがって医王如来ともよばれ、東方浄瑠璃世界の教主ですから、薬師瑠璃光如来ともよばれています。

薬師信仰の現われは薬師像の造立によってみることができます。その造立はすでに607年(推古天皇15)に行なわれています。そしてこの薬師像が日本における制作年代の明らかな仏像では現存最古の仏像です。そしてまた、この像の銘文によりますと、用明天皇の病気平癒を祈って造立していますから、薬師が12の大願に示した病気平癒をもたらす仏としてその像が作られたことが知られます。、、、、、聖武天皇は母元正上皇の病気平癒を祈って興福寺東金堂を建立、ここに薬師像を安置しています。

741年聖武天皇は諸国に国分寺(僧寺、尼寺)建立の詔を発しました。この諸国の国分寺が仏教の諸国伝播の拠点になったことはいうまでもありません。、、、、、ところでこの国分寺に薬師像が本尊として安置されていたことが指摘されています。

 
(1)現在の多くの国分寺が薬師像を本尊としている。
 (2)越中、石見、肥前(尼寺)、薩摩、相模、佐渡は古い文献で薬師像が本尊とある。


薬師を本尊とした国分寺の行なったことに、薬師悔過(やくしけか)があります。
悔過とは仏前において罪科を懺悔して罪過の報を免れることであり、、、、日本書紀によれば642年あるのが早く、、、、はっきり薬師悔過と見えますのは741年(天平16年)「天下の諸国をして薬師悔過せしむること7日」とある続日本紀の記事です。

密教の教主が大日如来であることはよく知られていますが、、、、 この大日如来が広大金剛法界宮(こうだいこんごうほつかいぐう)によって三密(身密、口密、意密)平等を説き、一切の諸仏・菩薩の本体であるとしています。

                
  如来 −信仰と造形ー   高木豊/坂輪宜敬  東京美術

延暦23年(804)7月、藤原葛野麻呂(かどのまろ)を大使とする遣唐使の「四つの船」が、肥前国松浦(まつら)を出版した。大使の第一船には空海が、第二船には最澄が同乗する。

華厳宗が日本でさかんになったころ、唐ではインドから伝えられた「大日経」、「金剛頂経」などの新しい密教の経典が次々に翻訳され、密教が急速に広まりつつあった。留学僧の空海が求めたのはこの新しい仏教―密教であった。

空海は長安の高僧恵果から密教の大法をことごとく授かる。

空海は帰国した後、しばらくは入京もゆるされなかったが、平城天皇のあと即位した嵯峨天皇に重んぜられ、多彩な活動をはじめる。

空海は南都の教団に対して協調的な態度を取り、その教義を真言密教の中に包摂しながら、密教を広めていった。空海は平安京の東寺を委ねられ、これを長安の青竜寺にならって密教の根本道場とした。また瞑想の場として高野山を賜り、高野山にて62歳で没する。

                 大系日本の歴史3 古代国家の歩み    吉田孝  小学館

現在真言宗は「大日如来が一切の諸仏、菩薩の本体である」という考えに立脚し本尊は「大日如来」に限らない。他に本尊は不動明王(成田山) 弘法大師(川崎大師) 薬師如来 他。もちろん曼荼羅には弘法大師が入る。

他に薬師如来を本尊とするところは天台密教の流れを汲む宗派がある。それ以外はない。

                
                          真言宗 某寺住職
 
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今まで「護国の古代国分寺がなぜ現在ほとんど真言宗なのか」判らず調べてみた。このページを資料集と位置付けたのであえて文章にしなかった。
以上の資料から国分寺の仏教の流れは古代から現在までつながっていることをなるほどと思う。