日本3戒壇のひとつ 天平勝宝6年(754)来日したばかりの鑑真和上が「東大寺」大仏殿の前において「戒壇」をもうけ聖武天皇などに戒を授けた。これが授戒のはじめで、以降僧侶となるには授戒が不可欠の条件となった。 天平宝字5年(761)に「東大寺」に加え地方にある関東の「下野薬師寺」と九州の「筑紫観世音寺」を「戒壇院」とした。そしてこれらが「日本3戒壇」と呼ばれている。 |
下野 「下野薬師寺」は「筑紫観世音寺」と共に「官大寺」として指定され、墾田の限度は500町で法隆寺等中央の「官大寺」と同額であり、地方一般の官寺「定額寺」100町よりもはるかに重要視されており、寺の規模も中央と同等のものであった。 そこで、何故東では「下野」なのかということを疑問に感じるのであるが、それはこの寺はもともと下毛野氏の氏寺として創建されたことにあると推定されている。 下毛野朝臣古麻呂が中央に進出し、大宝律令の選定に参画、式部卿大将軍正四位下で卒した。従って古麻呂は中央豪族に並ぶ位置にあり彼の存在が指定に影響したと考えられるからである。 |
現状 「下野薬師寺」は「中門」と「金堂」を回廊で結び、その中に「戒壇堂」があり、回廊の外、東に「塔」が、また、金堂の北に「講堂」が配置されていた。 現在「戒壇堂」の跡には「六角堂」(町指定文化財)が建ち、その中の「厨子」に「鑑真和上」の画像が納められている。 |
現在の名称:下野薬師寺跡 |