最近の発掘調査で、紫香楽宮の中心建物やメインストリートの「朱雀路」が相次いで発見され幻の宮といわれてきた紫香楽宮の実情が徐々に解き明かされています。平成12年度の「宮町遺跡」の発掘調査でみつかった建物跡は、東西22間以上(91.5m)×南北4間(11.8m)の庇付建物で、当時の都であった平城宮や難波宮の中心区画の建物規模に匹敵することから、「続日本紀」に記されている紫香楽宮で重要な国家儀式に使われた「朝堂」の建てもの跡と考えられます。 さらに、宮町遺跡と史跡紫香楽宮跡の中間地点に位置する「新宮神社遺跡」では、役所跡とともに「朱雀路」と推定される幅12mの道路や幅員8.6mの橋跡の遺構が発見されました。 このことから、今まで想定されていた以上に紫香楽宮の造営計画が大規模で、宮都としての機能が整えられていたことが明らかになりました。 信楽町発掘調査速報 |
天平12年12月に恭仁京に遷都した聖武天皇は天平14年8月初めて紫香楽宮に行幸する。その後、同年12月、15年4月のいずれも短期滞在を経て同年7月からは12月初までの長期滞在となる。そして紫香楽宮滞在中の10月に大仏建立の詔を発する。 天平16年2月には都を紫香楽と宣言し紫香楽で政務を執り行うこととなる。しかし、1年3ヶ月後、17年5月に恭仁京に行幸して以降戻ることがなかった。3年弱の都である。聖武天皇が紫香楽宮滞在中、さらに恭仁宮へ移動後も紫香楽宮近くで発生した山火事は宮移転の反対勢力によるものと考えられている。 天平の事件表参照 |
「国史跡紫香楽宮跡」は江戸時代より瓦や礎石が出ることから大正15年に国史跡に指定され、昭和5年に滋賀県保勝会の発掘により伽藍配置が発見された。しかし、「宮」としての構造ではないためここは「甲賀寺跡」または「近江国分寺跡」ではないかという疑いが残されていた。昨年(平成12年)までの信楽町教育委員会の宮町発掘により「現紫香楽宮跡」は「甲賀寺跡」と考えるようになった。従って、ここは最もホットニュースの「宮」である。 |