現在の名称  :巨鼇山清見寺
                    こごうさんせいけんじ
所在地   :清水市興津清見寺町
宗派    :臨済宗
国道1号線(東海道)バイバスを「興津インターで」ではずれ「旧1号線」に出る。ここから清水市街地に向かい間もなくのところ右側に「清見寺」がある。
本尊は観音菩薩。三保半島を望む山裾に位置し古くから東海道筋の名刹として知られ、当寺から眺める清見潟は絶景といわれた。
現在境内はJR東海道本線により南北に二分される。
旧唐街道に南面した総門をくぐり、二分された境内をつなぐ橋を渡ると山門(銘慶安4年、明治24年改築)に至る。
山門の正面に仏殿(銘慶長4年、天保15年再建)、右手に大玄関(銘元和2年)・本堂(銘慶長4年、文政11年再建)・書院(元治元年再建)・庫裏、左手の坂の両側には五百羅漢の石造群(天明2年以降)が並ぶ。本道の裏には国指定名勝の庭園があり、境内は朝鮮通信使の遺跡として国指定史跡。

寺蔵の旧記に寄れば天武天皇の代に設けられた清見関を守護する寺として創建されたという。初めは天台寺院であったと推定され、鎌倉建長寺の建立とほぼ同じ頃に禅院となったと考えられる(寺蔵鐘銘)。鎌倉時代の当寺は、幕府の後刻のための禅林政策にに組み入れられた寺院であったと推定される。
室町時代の五山十刹制度の中で当寺は十刹の寺格を与えられた。歴応4年(1341)五山位次改定に伴って十刹10ヵ寺が定められ、翌5年に十刹の第9位とされた(扶桑五山記)。

足利尊氏・直義は歴応元年より全国に一寺一塔の建立を進め(または既存寺塔の改号)、同4年光厳上皇の院宣を受け、寺を安国寺、塔を利生塔と呼ぶようになった。駿河国では当寺の塔が利生塔となった。
延徳年間には足利幕府は十刹46ヵ寺、諸山200ヵ寺近くに増やし、(売官による)官銭収入を得ようとしたが、当寺は十刹11位の地位にあった。

その後住職職の任免が大名今川氏の手に移っている。天文18年から人質として駿府で暮らしていた松平竹千代(徳川家康)は、師の崇孚に伴われ当寺で手習いをしたと伝えられ、手習いの間の遺構が保存されている。戦国時代にいたり、戦乱のたびに兵火で寺宝が失われることを恐れた住持大輝は、天正12年家康に願い出て西河内(にしごうち)に宝蔵を設けて寺宝を守った。
     日本歴史地名大系
      静岡県の地名 より
総門 後ろをJR東海道線が走る
山門
本堂・書院・庫裏・鐘楼
仏殿
五百羅漢
利生塔跡とそれを示す石碑
清見寺は、東海道の要衝にあった、宝物が守られた、現代につながる時代の徳川氏の庇護下にあった等々の好条件によるのであろうが現在に残る歴史遺産が非常に多くすばらしい。庭、庭園等もさすが「禅寺院」といえる。庫裏の天井を走る梁は幅が1m弱もある太いものであった。ただ、残念なことはこの寺域に宝物館を作り見学者に公開するという場所がないことである。

「安国寺」、「利生塔寺院」を廻り始めて知ったことは「地方にもすばらしい寺院が残されている」ということである。しかし、京都や奈良と違い「寺が点在している上に、知らない」というところが見学者を少なくしているのであろう。
また逆に、地方だけに旧寺院跡の発掘余地も残されている。国分寺跡のように整備して欲しい。
「安国寺」「利生塔寺院」ということで一括PRしてほしいものである。
2001/06

江戸時代の清見寺
清見寺、きよ見寺といへる、これなり。恵日山東福寺の璽(じ)長老、聖一国師の弟子、開聖という法師、この寺を開き侍り。巨鼇山清見寺と名づけられたり。近頃は妙心寺の末寺足るように聞き侍り。街道よりは右の方にあり。寺の客殿は、雪舟の書ける絵なり。端近く出でて東の方を見れば、ふじ、あしたか、三保の松原、田子のうら、のこらずみゆ。まことにぶ双の絶景なり。庭にむめの古木あり。そのたけ十七間にあまれりという。


東海道名所記  叢書江戸文庫50
清見寺の景
東海道分間絵図  興津
    叢書江戸文庫50
東海道名所記は万治3年(1660)、東海道分間絵図は元禄3年(1690)に作成されたものであり、図書刊行会より一冊にまとめて2002年に出版された。これにより名所記と地図を同時に確認することが出来、便利なものになった。
この中で、安国寺、利生塔の寺で街道沿いにあり、記録されているものはここにある「清見寺」だけである。


2003/03
五山十刹一覧  延徳4年(1492)