中世の国分寺

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亀山院(1287〜1298)が叡尊在世時代に19カ国の国分寺を西大寺に寄附する。
               「長門長府史料」長府史編纂会編

A後宇多院(1301〜1308)が信空(第2代長老)からの受戒に感激し60余州の国分寺を西大寺の子院とした。
               「本朝高僧伝」第59(大日本仏教全書103巻)

B1391年9月28日付「西大寺諸国末寺帳」によると、周防、長門、丹後、因幡、讃岐、伊予、伯耆、但馬の8ヶ国が見える。
               「西大寺関係資料(一)」奈良国立文化財研究所編

C年記不明「西大寺諸国末寺帳」によるとBに加え、尾張、加賀、越中、武蔵、陸奥。
               「西大寺関係資料(一)」奈良国立文化財研究所編


西大寺は叡尊により暦仁元年(1238)から本格的に再興がはじめられる。西大寺は聖武天皇の子称徳天皇(孝謙天皇重祚)が創建した大寺院であるが、当時は四王堂、食堂、東塔などを残すのみとなっており、一応はまがりなりにも奈良時代以来の鎮護国家寺院として機能し、南都七大寺の一つとして認識されていた。叡尊は再興にあたって鎮護国家寺院としての性格を損なうことなくその機能を継承した。
蒙古襲来期に叡尊は異国降伏の祈祷を盛んに行い効果をあげ、その名声を不動のものとする。こうした機能を発揮した西大寺に対し為政者が、当時再認識さてきた国分寺を掌握させるのが適当と考えたのであろう。

上記史料中
Aの伝承は60余州全ての国分寺となっている点で信用を置きかねるが西大寺と国分寺がいつころ結び付けられたのかをうかがう際の一つの参考にはなるであろう。西大寺は叡尊、忍性時代から国分寺と関係を持ち始め、13世紀末から14世紀のごく始めには形の上だけにはせよ国分寺を管掌するようになったと見てよいと思う。

(以降国分寺と西大寺の結びつきが希薄になりつつも中世後期まで)西大寺との本末関係を維持していた国分寺の代表は、周防、長門であった。その関係は、本寺の重要法会への参加、本寺による住持職の補任といった近世の本末制さながらの、概して静的な関係であったといえる。

何故かこの時期(蒙古襲来期)に東大寺が「総国分寺」であることが強調されるのである(東大寺文書に5回見られる(1272〜1292))。東大寺が総国分寺として各国国分寺とどのような関係を有していたかは明らかでない。東大寺が特定の国分寺と本末関係を結んだり、国分寺再興に東大寺の僧が関わった形跡もない。実質的な関係はともかく、東大寺が国分寺のシンボルとして意識されれば充分だったのかもしれない。
この時期には第3者ではなく東大寺側が自ら総国分寺であると主張している点が興味深い。そのことは東大寺が異国降伏の祈祷を行う第一の寺院であるという自覚の表れとみることもできよう。しかし、当時異国降伏祈祷に最も活躍したのは西大寺であった。祈祷寺院としての西大寺は蒙古襲来を契機に再認識され西国国分寺進出の足がかりをつかむわけであるが、そうした西大寺勢力への牽制でもあったと思われる。東大寺が総国分寺として各国国分寺を実質的に把握しておれば西大寺の進出はさほど脅威ではなかったろう。総国分寺であることの強調が西大寺流進出の牽制であるという想定が正しいなら、東大寺=総国分寺説は実質を伴わない虚構であったことが改めて確認されよう。

     
「国分寺の中世的展開」   追塩千尋著  吉川弘文館


参考:
現在西大寺は 真言宗律宗
    上記B、Cにあげられた国分寺中、現在真言宗律宗は「伊予国分寺」のみである。


2001/2



関連リンク
西大寺(奈良ネット)  
 http://www.naranet.co.jp/saidaiji/