浄土宗 霞関山 太宗寺
たいそうじ
第2番地蔵尊像
内藤新宿 江戸名所図会
甲州道中と内藤新宿
甲州道中(甲州街道)は、徳川家康が慶長・元和年間に整備を行なった五街道の一つで、江戸から甲府を経て下諏訪で中山道に合流します。この街道の最初の宿場は高井戸でしたが、日本橋を出発して四里八丁(16.6Km)もあったため、人馬共に不便でした。そこで浅草阿部川町に住む名主喜兵衛は元禄10年(1697)に同志4名と共に、太宗寺の南東に宿場を開設するよう幕府に願いを出しました。こうして内藤新宿は元禄12年に業務を開始しました。
太宗寺 パンフレット
太宗寺
本尊は阿弥陀如来。徳川家康の関東入部直後に内藤清成(信濃高遠藩内藤氏の祖)が四谷屋敷を拝領したころ、すでに太宗という僧侶が小さな庵を結んでいたという。清成の子内藤家四代正勝がここに葬られ、五代重頼は境内地7396坪を寄進、寺院として体裁が整えられた。以降内藤家代々の菩提所と定められた。境内には江戸時代から知られる閻魔像がある。また正徳2年(1712)頃に造られた大金銅地蔵(銅造地蔵菩薩坐像、都指定文化財)は正元建立の江戸六地蔵の一つとして知られる。
日本歴史地名大系 東京都の地名
閻魔像
木造で、総高は550cm文化11年(1814)に安置されたもので製作もその頃と推定されます。(関東大震災で大破し、体は昭和8年に造り直したもの)。江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた像で、かっては薮入りに縁日が出てにぎわいました。
太宗寺パンフ
落語「道具屋」にも出てくる閻魔さま
与太郎がおじさんの世話で道具屋を開く。道具屋とは露天の古物商である。さっそく与太郎がお客さんと商売の駆け引きを始める。
「さあいらっしゃいさあいらっしゃい。ただいま出し立ての道具屋でござい。」
「なんだ変な道具屋が出やがったな。道具屋!」
「へいいらっしゃい、そこへお掛けなさいまし。」
「お掛けなさい?掛けるところも無いようだな。」
「じゃまぁ、そこへおしゃがみなさい。」
「なにを言ってやがる。・・・・・そこの閻魔見せろ。」
「へぇ?」
「閻魔」
「お閻魔さまですか?じゃ新宿の太宗寺へいらっしゃい。」
「なにを言ってやがる。そのくぎ抜きだよ。」
と会話されているのです。
落語百選 筑摩書房
2003/02
都指定文化財(彫刻)
閻魔像・奪衣婆像
共に閻魔堂内に安置されており、閻魔像は文化11年(1814)の造立(体は昭和8年に補作)で、木及び漆喰造りの坐像で高さ4.82mあり、都内最大のものである。幕末の弘化4年(1847)にその眼球が水晶であると聞いたものが、片目を抜き取り御用になる事件があり、それ以降さらに有名になったという。
奪衣婆像の方は漆喰造りの坐像で約2.4mあり、明治3年の作という(昭和8年に補作)。内藤新宿の遊女たちから「しょうずかのばあさん」とよばれて、信仰を集めていた。
新宿の文化財・史跡ガイドブック