前期難波宮(651〜686) 皇極4年(645)6月飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が惨殺され、翌日蝦夷が自殺蘇我大臣家は崩壊する。 さらに翌日皇極女帝は退位し、弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となる。中大兄皇子は皇太子として実験を握る。年号を「大化」とする。 新政権はこの大化元年の暮に都を飛鳥から「難波」に移した。難波は大和朝廷の外港であり、朝廷の離宮や外国使節の迎賓館をはじめ、外交・交易などの施設があったのでそれらの施設を利用していたが、その間に「難波長柄豊碕宮」の造営を進めてきた。そして白雉と改元した年の12月天皇は新しい宮に移る。それから1年半ほど造営工事が進められ、白雉3年(652)9月に完成した。 難波宮跡の発掘が進むにつれて前期難波宮は、孝徳朝に創建された難波長柄豊碕宮を、天武朝に改修した宮の跡である可能性が濃厚となった。 (大系日本の歴史3吉田孝 小学館) |
八角殿院 大化元年に即位した孝徳天皇は、[日本書紀」に「仏法を尊び、神道を軽んず」と表記されるように崇仏家の天皇であった。そして、これ以降宮廷の行事に仏教の要素が色濃く見受けられるようになる。(略) 発掘調査で八角形の建造物であることが判明した難波宮の遺構について、薗田香融氏はこれを内道場(宮中に設けられた仏堂)の起源としての性格を有するものと推定されている。 (古代寺院 狩野久編 吉川弘文館) 遺構説明板の下部赤い回廊で囲まれたところが「朝堂院」で上の「内裏前殿」に続くところ中央に「内裏南門」がある。その両脇が「八角堂院」。現在藤棚で位置,形を示している。 これは「前期難波宮」にあるだけの設備である。 |
後期難波宮(726〜793) 前期難波宮の上層にあるものは奈良時代の瓦を出土し、天平尺で設計され、平城宮の建物の配置、規模に類似しており、奈良時代の副都としての難波宮であることは明白である。 (大系日本の歴史3吉田孝 小学館) 聖武天皇即位後焼け跡であった宮を再建する。天平年間4度ほど行幸の記録がある。 |