続紀天平13年に疑問あり


国分寺建立の詔


続紀天平13年3月乙巳(24日)所載の詔は、本文と条例(条例の語は三代格所収勅の表記による)から成る。(本文と条例の漢文省略)

詔の要点は(一)前年天下の神宮を増飾し、去歳天下に釈迦牟尼仏を作らしめかつ大般若経を写させたところ、今春より秋稼に至るまで風雨順調、五穀豊穣であった。(二)金光明最勝王経に、この経を流通せしめる王は四天王が擁護し一切の災障を消除せしめるであろうとあるから、天下諸国に七重塔を造らせ、金光明最勝王経と妙法蓮華経を写さしめ、また別に金字金光明最勝王経を塔ごとに置かしめる、(三)塔及び寺は国の華であるから好所を選んで永続するよう、国司は厳飾を加え清浄を尽くすべきである、とのべる。条例は(一)僧寺には封50戸、水田10町、尼寺には水田10町を施す。(二)僧寺には20僧を置いて金光明四天王護国之寺と称し、尼寺には10尼を置いて法華滅罪之寺と称する。僧尼ともに教戒を受け、欠員ある場合は補充する。毎月8日に最勝王経を転読し月半ばに戒羯暦を誦する。(三)六斎日には殺生を禁ずる。国司等は恒に検校を加えよ、とのべる。

この詔の発布の時期については諸説がある。荻野由之(「国分寺建立発願の詔勅について」『史学雑誌』33-6)は、詔本文中の「自今春己来、至干秋稼」の語は天平13年2、3月の詔文としては不適切であり、かつ「頃者、年穀不豊、疫癘頻至」の語は天平9年までの熾烈な疫病と飢饉をさすものと考えられることなどから、この詔本文は天平10年秋冬の交に発せられたものであり、条例は天平13年2月14日に下されたものと推定した。これに対し、角田文衛(「国分寺の設置」『国分寺の研究』)・伊野部重一郎(「国分寺創建の詔について」『続日本紀研究』4-1)は詔本文の中に「宜礼天下諸国各令敬造七重塔一区、并写金光明最勝王経・妙法蓮華経一部」とあるが、続紀天平12年6月甲戌条に「令天下諸国、毎国写法華経十部、并建七重塔焉」とあるので、詔本文が天平10年秋冬の交に発せられたとすると、総括的な詔が出された後でその一部が繰り返されたという不自然を生ずることになるから、詔本文は天平10年ではなく、天平12年に発せられたものと考えるべきであること、かつ続紀天平12年には7月がなく、また8月の上に「秋」の字が落ちていることから、この部分の続紀には錯簡があり、詔本文の発布は天平12年8月のことであろうと推定した。詔本文は天平10年以後12年以前に発せられ、かつ部分的に施行されてきた国分寺造営についての詔、勅を集大成する形でまとめられたものと考えるのが妥当であろう。すなわち、天平10年以後天平12年以前に発布された詔を本文とし、それに新たに三か条の条例と五か条の願文を加え(続紀では五か条の願文は省かれている)、天平13年2月14日に発布されたと考えられる。
(以下略)
2001/2

               
     新日本文学大系13 続日本紀二 補注14二    岩波書店