天平12年(740)10月、藤原広嗣の乱が起きた直後聖武天皇は伊勢へ行幸。伊勢から美濃、近江国を廻り、途中「恭仁に幸す」といい現加茂町に「恭仁京」を造営した。この場所は従来から京の立地としてきた「広い平地」とは異なり平地はずいぶんと狭いところである。そのため「京域」も変則であり現在の加茂町地区を「左京」、小山をはさみ木津町地区を「右京」とし、しかも「京」の真ん中を木津川が流れる、また「宮」は左京に偏っているという造りであった。 宮の造営は天平12年12月からで、さらにこの宮が造営中である天平14年8月には近江甲賀郡紫香楽に「紫香楽宮」を造営すると発表した。 そのため、2箇所の「宮」を造営することとなったが経費増大等の理由によるものであろうか天平15年12月「恭仁京」の造営は停止された。ちょうど3年間であった。 その後聖武天皇は天平16年1月よりここを離れ同17年に5日ほど滞在したに過ぎない。 「宮」の建物群はその後「山城国分寺」に転用された。「大極殿」は「国分寺金堂」となり、現在その跡が「国分寺七重塔跡」などと共に「史跡」となっている。 「宮跡」の発掘は京都府教育委員会により昭和48年から行なわれており平成8年の発掘で「宮城」が確定されたとなっている。 |