「山城国府」(畿内−1)

所在地:京都府相楽郡加茂町
交通 :JR関西本線 かも駅


古代の国を5畿7道と称した。これは畿内の5国と7つの道でつながった国々という意味である。
これから畿内の5国を回ってみよう。最初は現在の京都府、山城国である。

山城国府は現在確認されていない。勿論地図にも載っていない。しかし、山城国分寺跡だけは発掘されている。京都駅からJR奈良線に乗り南下、終点の木津駅で関西本線に乗り換え東に行き加茂駅で降り、北に向かい木津川を越えたところに国分寺跡がある。
古代の名前を追いかける「旅」だから、ここを山城国府として旅を始める。

古代の京都府は南を「山背(やましろ)」と言った。そして、「山背国府」がこの近くにあり、同時期、北の「山城国府」は現在の京都市西京極近くにあったものとの説がある。その後「山城」1国の国府として長岡京市または大山崎町に移ったと考えられているが、なんせ京都府は「帝都」が移動して歩いたところであり、その関係からも推定が複雑になっているようである。

さらに、今参考にしている書籍が昭和45年初版ものであり、その前後から遺跡発掘調査が組織的に行われてきたものであるから、現在では明確になっているのかも知れないが、このページを読まれる人は「旅」レベルの学術的ではないものとして読んでいただきたい。
また、新しい情報があれば是非教えていただきたい。

一宮は京都市洛北の「賀茂別雷神社(かものわけいかづちじんじゃ、上賀茂神社)」と「賀茂御祖神社(かものみおやじんじゃ、下鴨神社)」の2社。2社とはいえ、いずれも古代氏族「鴨県主」の祭る神社である。

「大和国府」(畿内−2)

所在地:大和郡山市
交通 :JR関西本線大和小泉駅
人口 :8万9千


「山城国府」加茂町(推定)からJR関西本線で南西に向かう。現在の大和の中心地「奈良」の駅から2つ目に「大和小泉」駅があり、駅前の国道25号線を横断したところが「今国府」、ここが「旅」としての「大和国府」である。(どこに行けばよいのか解らないので決めつけ)

大和は「国造本紀」によれば「大倭国」と「葛城国」にわかれていたという。さらに、帝都があちこちにあったところであり、学術的な「国府」は現在でも確定されていない。推定されているところとしては、「国分寺」があるというところから「橿原市八木」、「国府神社」があるところから「高取町土佐」とも推定され、「今国府」は帝都が「平安京」になった時の「国府」ではないかと考えられているが、「今国府」にしても大和郡山市の「市史」には記載が無いという。

一宮は桜井市三輪の「大神神社(おおみわじんじゃ)」で三輪山を神体とする神社である。

「河内国府」(畿内−3)

所在地     :大阪市藤井寺市国府
交通      :近鉄長野線道明寺駅
人口      :6万5千


井上靖の「天平のいらか」は次のような書き出しで始まる。
「朝廷で第9次遣唐使派遣のことが議せられたのは聖武天皇の天平4年
(西暦732年)で、・・・」
ちょうどこの時代が「旅」する「国府」、「国分寺」の時代である。そして続く。
「4月(733年)2日早暁、広成らは億良の歌にある難波津へ向けて奈良の都を発った。・・・・この日奈良から発ったものは広成ら騎馬の一団30名ばかりであった。・・・道は大和平野を突っ切って、真っ直ぐに北西へ伸びている。一行は王寺を経て竜田山を越え、この日は国府で泊ま
り、翌日国府を発って、昼少し前に難波の旧都へはいった。」

これは、僧普照が遣唐使(第10次)の一員として唐に渡り、唐の高僧「鑑真(がんじん)和上」を日本に招請した時(753年、第12次)の物語であり、そして、ここにある「国府」が「河内国府」、今の「藤井寺市国府」である。

ちょっとここで疑問を感じるのは、井上靖の文章でいけば、王寺に行くのに北西に向かったというのは、出発時以前の都である「藤原宮」(橿原市)から発ったように取れることである。出発時には都は既に「平城宮」(奈良市)にあるので、そうだとすれば「大和路」を通ったはずであるが。

僧普照が日本に帰ってきたときには新たに「国分寺」が建っており、摂津、河内国分寺を見て、おそらくその姿に驚きを感じたものではなかろうか。

「大和国府」の奈良県大和郡山市「今国府」から国道25号線(奈良街道)で西に向かう。「法隆寺」がある斑鳩町を過ぎると道は「大和川」沿いに走る。王寺町までが奈良県、柏原市から大阪府に入る。柏原市の国分東条には「河内国分寺」がある。国道25号線は「国分西交差点」から北に向かうが、そこから国道を外れ、近鉄河内国分駅を越え更に西に進む。「石川」を渡ったところから藤井寺市となり、川沿いに「国府」、「総社」町がありここが「河内国府」のあったところである。
この地は大和川水運の河口位置を兼ねると共に、平城京や藤原京のあった奈良盆地への入口としてはもちろん、都が平安京に移ってから後も南海道にも通じる陸上交通の要衝をも形成していたといわれる。

「河内国府」のそばには「允恭天皇陵」があり、南に「応仁天皇陵」、他前方後円墳が多く古文化地域でもある。

河内一宮は東大阪市にある「枚岡神社」。近鉄奈良線枚岡駅で降りるが、そこはもう神社参道である。


「摂津国府」(畿内−4)

所在地    :大阪市東区(推定)
交通     :JR大阪駅 車
人口     :(中心部)63万5千


「河内国府」の「藤井寺市国府」から北に「大和川」を渡り国道25号線に出る。25号線を「八尾市」、「平野区」、「生野区」と進むとJR環状線を越え天王寺区」に入る。環状線を過ぎた所の近くに「国分町」「摂津国分寺」があり、そこから真北に向い、大阪城のすぐ南に「難波宮跡」がある。ここが「摂津国府」と考えられている。

「摂津国府」は現在のところ学術的には確定されていない。その他の推定地としていくつか上げられているが、「旅」としては、「摂津国府」に「難波宮」が造られたものとしておこう。

「難波宮」は645年孝徳天皇が蘇我氏を滅ぼした直後、渡来人の勢力を避けるために飛鳥から移した都であり、その後聖武天皇が一時的に都としていたところである。

6世紀には現在の大阪城から国道170号線までの低地は「河内湖」があり、「難波宮」は「河内湖」と「難波の海」を結ぶところにあった。また、「大和川」は「河内湖」につながっていた。と推測されている。とすれば、「都」から「摂津国府」への旅は「大和川」に沿って行われていた
のであろう。

摂津一宮は大阪市住吉区住吉にある「住吉大社」。ここは伝神功皇后摂政11年創建(神功皇后は架空の皇后という説もある)、源氏物語、謡曲、商売繁盛、全国2000社の住吉神社の総本宮等話題の多い神社である。

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