小塚原の刑場跡  こづかっぱらけいじょうあと
         区記念物(史跡)
           住所:荒川区南千住5 回向院
鈴が森刑場跡  すずがもりけいじょうあと
         都指定旧跡
           住所:品川区南大井2 大経寺
江戸幕府の刑法では武士の死刑は切腹、死罪、斬罪、庶民の死刑には磔(はりつけ)、火罪、獄門、死罪、下手人があった。
死罪、下手人、斬罪はいずれも斬首の刑で、前2者は牢内の切場で、後者の斬罪は小塚原の刑場で施行されるのが通例であった。獄門は牢内で切った首を小塚原の刑場に運んで3日2夜晒し、罪状を記した捨札(すてふだ)を30日間たてた。
江戸東京学事典

刑を執行する場所を刑場と呼んでおり、これは死罪以上の刑のものを処刑し、また処刑した後を晒した。
牢屋敷の切り場、千住小塚原(普通浅草の刑場と呼んでいる)品川の鈴が森が刑場として有名で、他に板橋にもあった。牢屋敷内では斬首のみを行い、小塚原と鈴が森は磔、火焙り、獄門の場所であった。なぜ小塚原と鈴が森が刑場に選ばれたかというと、江戸に入る東西の入口で、宿場があり、往還が激しかったから、江戸幕府の警告・威嚇主義から人目につく場所を選んだのである。処刑人の捨札はこのほかに、両国、板橋、新宿という江戸に入る街道の入口にも立てられた。
江戸の司法警察事典
左イラストも同上
刑場
磔刑場の配置
「徳川刑罰図譜」に描かれた獄門首
小塚原刑場(仕置場)
切絵図にみる仕置場 (1853)
仕置場は初め本町4丁目(現中央区)付近にあり、後に2箇所に別れ、一方は浅草鳥越橋(現台東区)の橋詰へ、さらに浅草聖天(しょうでん)町の西方寺に移り、その後小塚原に移転したという。寛文7年(1667)本所の回向院(現墨田区)持ちとなる。本所回向院は万治年間(1658-61)町奉行渡辺大隈守・村越長門守により牢死者。行き倒れ人の埋葬を命じられるが、わずか2年で寺地に余裕がなくなったことにより、寛文2年小塚原縄手の刑場の地を持ち地として与えられ別寮(現浄土宗回向院)を建て、阿弥陀仏を置き、無縁物の回向を行なった。
回向院には毎年町奉行所・寄場役所から回向料が与えられた。寛保元年(1741)には刑死者を弔うため高さ一丈余の地蔵菩薩が建立された。これは俗に首切り地蔵とよばれ、傍らには題目を刻んだ石碑がある。明和8年(1771)には杉田玄白らが刑死者の腑分けを実見し、「ターヘルアナトミア」の信憑性を確認、翻訳書「解体新書」を刊行している。演劇で名高い片岡直次郎や鼠小僧らもこの地で処刑された。回向院では刑死者のほか安政の大地震による羅災者らの菩提も弔われ、幕末には多くの勤皇の志士が葬られた。同寺には首切り役人であった山田浅右衛門が奉納した斬首刀が残されている。
日本歴史地名大系
東京都の地名
回向院と跡碑
首切地蔵を祀っている寺は延命寺と言い、回向院が建立した寺と説明に書いてあった。
線路により回向院が分断されたのである。
寛保元年(1741)に刑死者のために建立された、高さ一丈二尺の地蔵は首切り地蔵と呼ばれ、台座には発願者7人の名があります。
「新編武蔵風土記稿」によると、高さ一丈の坐身の地蔵、元禄11年(1698)建立の高さ一丈余の題目塔などが記されています。
もとは南千住貨物線の南にありましたが、鉄道工事により、現在地に移されました。また、現在側にある題目塔は慶応3年(1867)に再興されたものです。
「荒川区の文化財」
荒川区教育委員会
首切地蔵  区指定有形文化財(歴史資料)
刑場跡
新鳥越町一丁目西方寺の向。日本堤上り口、八間斗の明地をいふ。「江戸志」に「事蹟合考」を引て云、(普通の事蹟合考此條なし)、此処に刑罰場あり、かの浅草旅籠町より此処に移されしなり。此西方寺の門前すこしき所明地にて、十間ばかりの長さ、巾は弐間斗もあらん所にうつされたり。此時道哲という浄土宗の道心者、かの罪人仏果得達のため昼夜念仏してありしが、滅後この寺に葬れり。されば土手の道哲と唱へたり。
御府内備考 巻之13 浅草之一
鈴が森刑場
2004/02
鈴が森刑場跡
旧浜川町南方の海岸近くにあった江戸時代の品川御仕置場跡。江戸の北の刑場である小塚原刑場に対して、南の刑場として慶安4年(1651)に浜川町の南の一本松と呼ばれるところに設置された。東海道の西側すぐ脇に当たる場所で、一本松の獄門場ともいい、鈴が森というようになったのは隣接する不入斗(いりやまず)村(現大田区)に鈴森八幡(現岩井神社)があったことによる。ここで処刑された人は明治4年に廃止されるまで、数万人-20万人ともいわれるが数字は確定できない。著名な人物では、疑義はあるが慶安の変(由比正雪の乱)に関係した丸橋忠弥の一味(首塚が品川妙蓮寺にある)、平井権八(芝居では白井権八)、放火未遂を起こした八百屋お七、盗賊日本左衛門として知られる浜島庄兵衛らがいる。
日本歴史地名大系
東京都の地名
鈴ヶ森刑場は元禄8年(1695)の検地によると、間口40間(74m)、奥行8間(16.2m)の規模があった。現在は文久2年(1862)に開かれた日蓮宗大経寺の境内である。処刑に使用したといわれる台石、首洗いの井戸などが残されているほか、近代以降のさまざまな供養塔も建てられている。
品川の史跡めぐり
品川区教育委員会
刑場跡碑
火炙(ひあぶり)台石
磔(はりつけ)台石
鈴が森刑場跡付近
司法警察関連施設跡
江戸時代の人は現在よりも簡単に人を殺し、また簡単に、見物人のいる前で処刑されていった。どのような感覚であったのだろうか、想像も出来ない。
もっとも、現在でも公開処刑をしている国があるが。