聖武天皇の詔以前から国分寺の完成まで

国分寺の建立


国分寺の建立は、仏教の興隆によって国家の安寧を願う護国の思想に基づいている。天武紀14年3月に、諸国の家毎に仏舎を作り仏像、経を置き礼拝供養すべきことが詔せられており、この「諸国の家毎」を諸国国庁と解し国分寺の先蹤と見る説もあるが、豪族の私宅を意味し、彼らへの仏教の流通をはかったものと解するのが自然であろう(家永三郎「上代仏教思想史研究」。ついで持統紀8年5月に諸国に金光明経を送り置き、毎年正月に読むべきことが命ぜられた。これにより、諸国において護国の法会が営まれることとなり、天平6年度薩摩国正税帳に、金光明経や金光明最勝王経の購読のことが見える。国分寺の建立は、天平9年3月の詔で国毎に釈迦仏像の造置が命ぜられたときに始まり、天平13年2月に僧寺、尼寺からなる体系的な国分寺建立の詔の発布にいたったが、直接の契機として藤原広嗣の乱も挙げられる(田村円澄「国分寺創建考」南都仏教46)。

国分寺の制に影響を与えた唐制としては、則天武后が載初元年(690)に天下に大雲寺経を頒ち諸州に設置した大雲寺(旧唐書6)、中宗が神竜元年(705)に諸州に一観一寺の設置を令した竜興寺観(唐会要48)、玄宗が開元26年(738)に州毎に設置を命じた開元寺(唐開要50)等が指摘されている(井上薫「奈良朝仏教史の研究」)。

天平13年2月の詔によって、諸国国分寺の造営が開始された後、天平19年11月には国司の怠慢を戒め、七道に使いを遣わして進捗状況を観察させるとともに、向こう3年のうちに造営を終えるよう督励するなど、造営の進捗は必ずしも順調ではなかったが、天平神護2年8月と、神護景雲元年11月に、国分寺のうちですでに造営を終え朽損しているものは修理すべきことを命じていること(三代格)、また、宝亀元年4月美濃国方県郡少領の国分寺への寄進を最後に続紀に同種の記事が見えないことなどから、宝亀年間ころには国分寺の多くが完成していたと見られる(角田文衛「国分寺の研究」)。武蔵の国分寺跡から発掘された漆紙文書の具注暦が天平勝宝9歳のものと判明し、堂国分寺の造営時期をうかがう手懸りとなっている。
(以下略)

2001/2

               新日本古典文学大系13 続日本紀二 補注14一  岩波書店