現在の名称 :南明山乗福寺
所在地 :山口県山口市大内御堀
宗派 :臨済宗
本尊は聖観音。寺伝によると正和元年(1312)大内重弘が建立。元応2年開基の大内重弘が没し、乗福寺に葬られ、菩提寺とした。建武元年(1334)勅願寺とする後醍醐天皇の綸旨が下された。同5年には諸山に列せられる。
二世鏡空浄心が周防に臨済の法幢を立ててから宗派は広まり、乗福寺は国初禅林とよばれ、大規模な寺院となった。
貞和元年(1345)足利氏が国ごとに一寺一塔を建て、寺を安国、塔を利生と称した時、乗福寺の塔をもって周防の利生塔に当て、また寺格は甲刹に準じた。その後、足利義持の時十刹に登るなど中国地方の名寺の一つとなった。室町時代には一千余石の寺領であったことが知られる。
大内氏滅亡後は衰退。毛利隆元は、大内氏滅亡の際焼失した山口町の竜福寺の再建に際し、その材として塔頭の同照庵の客殿を寄附した。次いで輝元は、筑前黒田氏の希望により、本堂などを博多崇福寺(現福岡市)建立の材として贈った。後には三重塔のみが残ったが、ここに小宇を建て、わずかに乗福寺の名を残した。
寛文9年(1669)近火のため寺塔ともに類焼。よって塔頭正寿院を乗福寺とした。元禄4年(1691)本堂を再建。これが現在の本堂である。
日本歴史地名大系 山口県の地名 より
寺域には、大内氏の始祖、琳聖(りんしょう)太子の供養塔、大内重弘、山口市開府の恩人大内弘世の墓が祀られている。また、幕末には坂本竜馬が長州藩士と会合し、薩長連合の密議を重ねたことでも有名である。
琳聖太子(大内氏の始祖)
百済国聖明王の第三王子で、推古天皇の19年(611)周防国多々良の浜に着岸し、摂津国荒陵(四天王寺)に上って聖徳太子に謁し、周防国大内県を賜いその地に下向し、ここを本拠とし多々良を氏とし、子孫が合い受け継いだのが大内氏である。
乗福寺パンフレットより
琳聖太子供養塔
一昨年山口市、萩市等2泊3日で廻ったが、当時安国寺関連は何も知らなかったためここを訪ねることはなかった。まことに残念に思う。
今回乗福寺ご住職よりパンフレット、家紋等資料をお送りいただき掲載することが出来ました。ご住職には心からお礼申し上げます。
2001/06