現在の名称 :霊応山法観寺
所在地 :京都市東山区八坂上町
宗派 :臨済宗
八坂塔と通称する。高さ約46m、周囲約4.6m四方の本瓦葺五重塔(本堂、国指定重要文化財)と薬師堂・大師堂が現存する。本尊として五智如来五体(釈迦・大日・阿弥陀・阿しゅく・宝生)を安置、他に聖徳太子三歳像を併置。
寺伝によれば聖徳太子が如意輪観音の教示により五重塔を建て、仏舎利を納め法観寺と号したという。塔の周囲より出土した古瓦の様式が飛鳥期と推定されるので、当寺の創建時期については肯定される。この創建には古くから八坂郷を拠点としていた渡来系豪族、狛人八坂造が関わるものと推測される。「延喜式」大膳職によると盂蘭盆供養料七寺の一つとされ、官寺として隆盛した。治承3年(1179)清水寺衆徒と祇園神人の闘争の際類焼したが、建久2年(1191)に至り住持証阿の請を受けて源頼朝が再建した。正応4年(1291)焼亡したが、延慶2年(1309)後宇多天皇の援助を受けて山内円成禅尼が復興した。暦応元年(1338)以来、足利尊氏・直義は全国に安国寺・利生塔を建てたが、山城国利生塔には当寺五重塔をあて、仏舎利を奉納した。あわせて播磨国印南荘の地頭職を寄進して同寺塔婆興隆のための供養所とし、この間の事情を京都南禅寺僧清拙に「法観寺仏舎利塔記」として記させている。塔は康永元年(1342)住持高山栄元の尽力で補修され、夢窓疎石を大導師に迎えて盛大な供養が行なわれた。しかし、永享8年(1436)炎上、同12年足利義教によって再建され、今日にいたっている。
塔は飛鳥時代の礎石の上に建ち、塔の内部四方柱戸には、この時描かれた仏画が残る。
なお五重塔内部の二つの階段は相当摩滅しており、元和修復以降、江戸期を通じて観光客に開放されていたことを推測される。
京都山城寺院神社大事典 旺文社
かくて塔だけは今に伝わったが他の建物は失われ、今は他に二小堂を残すのみで境内は非常に狭くあわれな状態になってしまった。しかし塔は当初の位置に立ち他の講堂跡も知られ、当初は四天王寺式伽藍だったようだ。塔は古式に則り今も石壇上に立ち、縁をめぐらさない。内部は中央に心柱が通りその基壇に今も巨大な当初の礎石を残している。心柱をかこんで四天王柱があって、その間が須弥壇になって大日・釈迦・阿しゅく・宝生・弥陀等を安置する。二層以上も大体同じだが、珍しいのは四層以下には勾欄がなく、五層にのみ勾欄があるのは展望の為であろうか。屋根は本瓦葺で、上には型の通りの堂々たる相輪をのせるが一部は後補のようである。
日本塔総鑑 中西亨 同朋舎
私は1990年から通算で5年ほど京都に住んでいたが、当時は八坂塔が利生塔であるとはまるで知らなかった。この八坂塔から2年坂、産寧坂を通って清水寺へ行く道は大勢の観光客が昔の京都をしのんで通る京都を代表する道である。当然のこと私も数回通ったのであるが、残念ながら住居から近すぎて写真に残すということはしなかった。改めて機会を見つけて再訪したい。
2003/07
天龍寺と八坂の塔