日暮の里(日暮里) ひぐらしのさと
都指定有形文化財他
住所:荒川区西日暮里1・3・4・5・6丁目
文京区千駄木3丁目
最寄り駅:JR西日暮里・日暮里駅
新堀村(にっぽりむら)
谷中本村の西方にある。西は下駒込村(現文京区)、南は谷中町在方分と谷中感応寺古門前(現台東区)、北は田端村(現北区)と下尾久村。村名は入堀とも書き、享保(1716-36)頃から「日暮里」と書かれるようになる。
村の西側の谷中から続く日暮里台地上には寺社が集中し、台地を挟んで下駒込村寄りとその東側を流れる石神井用水(音無川)沿いに百姓地が点在する。高札は諏訪神社の境内から道灌山の下に出る地蔵坂の突き当たりに立っている。代々新堀村の名主を勤めた冠権四郎の屋敷は高札場の少し北側にあった。抱屋敷として道灌山の西側に出羽秋田藩佐竹氏抱え屋敷がある。主な道として日暮里台地と道灌山の切り通しを通って三河島村に抜ける三河島道、田端村から佐竹氏屋敷の脇を通り下谷三崎(さんさき)に出る田端村道、高札場から地蔵坂を上がり寺社地の間を通って谷中の寺町へと続く谷中道、石神井用水沿いに田端村から東に進む王子道などがある。(下に続く)
日暮の里(新堀村) 江戸切絵図(1856)
本行寺(月見寺)
日暮里総図(ひぐらしのさとそうず) 江戸名所図会
右・南から左・北へ。左端が下段の右端に繋がる。
浄光寺(雪見寺)
赤丸が地蔵坂の降り口
妙隆寺・修性院・青雲寺(花見寺) 諏訪神社 舟繋ぎ松
道灌山
(上より)
農産物としては米のほかに菘(すずな)・葱(ねぎ)・漬菜(つけな 三河島菜)、生姜があげられる。農間余業として植木屋が何軒かあり、加賀金沢藩前田家出入りの沢野茂左衛門という植木屋がいたという。また、「江戸名所図会」中の日暮里総図には養福寺(現真言宗豊山派)の門前茶屋前に多くの植木鉢が見える。近代になっても植木業が盛んで、松本新右衛門・福島正太郎・野口元治郎・植木屋源四郎などが知られていた。明治10年(1877)日暮里村と改称。
日本歴史地名大系
東京都の地名
以上江戸時代の「日暮の里(ひぐらしのさと)」総論であるが続けて各論で江戸と現在を見よう。江戸名所図会のとおり南から北へ辿る。
本行寺(月見寺)
月見寺の名称でも知られた本行寺の開基は太田道灌の嫡孫資高、開山は日玄。資高は父資康の菩提を弔うために江戸城平河口(現千代田区)に一寺を建立して長久山本行寺と号し、日玄を迎えて開山とした。慶長10年(1605)神田に移り、さらに慶安2年(1649)に谷中へ、宝永6年(1709)現在地に移転した。例年2月28日には寺内に安置された30番神の大祭が行なわれる。30番神は寺宝の鰐口とともに太田道灌の所蔵と伝えられ、開眼は日蓮という。江戸後期の儒者市川寛斎・米斎父子の墓や、幕臣永井尚志の墓がある(いずれも都指定記念物・史跡)。
日本歴史地名大系
山門
向かって左柱に「月見寺」の看板がかかっている
史跡の説明板と石碑
道灌丘碑と説明の標柱
(碑は木の後)
道灌丘碑
区指定有形文化財
(歴史資料)
「道灌丘碑」は自然石で、高さ147cm、下部160cm。太田道灌は長禄元年(1457)に江戸城を築いたとき、道灌山周辺にいくつかあった塚の上に斥候台を設けたと伝えます。遠望に最適な高台の上にあったので「物見塚」と呼ばれるようになりました。
宝永6年(1709)谷中から本行寺がここへ移り、「物見塚」は同寺域に属すようになり、寛延3年(1750)同寺住職日忠と、太田氏にゆかりの古屋孝長、四宮成煙によってこの道灌丘碑が建立されました。碑には道灌を中心とする太田氏の事蹟、斥候台や建碑について刻まれています。「江戸名所図会」に描かれる「日暮里総図」には、本行寺の裏手に「物見塚」があり、その右下に「碑」とみえます。鉄道敷設に際して「物見塚」は削られ、碑の場所も寺院裏側から表川の山門を入った正面の現在地に移されました。
荒川区の文化財(一)
荒川区教育委員会
句碑
諏訪の台 諏訪神社と浄光寺(雪見寺)
日暮里諏訪の台
名所江戸百景 広重
諏訪神社は日暮里・谷中の総鎮守。元亨(げんきょう)2年(1322)豊島左衛門尉経泰が信州諏訪から勧進し、社殿を造営したと伝え、文安年間太田道灌が諏訪神社を含む諏訪台の一帯に江戸城の出城を築いた際に郭内の鎮守としたという。慶安2年(1649)には社領5石を与えられ、同社には別当浄光寺に宛てた朱印状と目録が残る。また町火消し9番組「れ組」の崇拝を受け、狛犬・鳥居などが寄進されている。
日本歴史地名大系
諏訪神社鳥居
句登録有形文化財
諏訪神社の鳥居は石造りで、柱の裏には天明2年(1782)に造られたと書いてある。江戸時代までは神社に別当寺が附属していることが多く、別当寺は神社の祭祀に深く関わっていました。しかし明治維新の頃に仏教と神道の分離政策が行なわれると、別当寺と神社がそれぞれ独立した存在となったり、別当寺が廃されることがありました。この鳥居には別当寺である浄光寺の名が見えており、同寺は現在も諏訪神社の隣にあってかっての両者の関係がしのばれます。
荒川区の文化財
諏訪神社
左の広重が描いた「日暮里諏訪の台」は上の「江戸名所図会」2番目「浄光寺」の左に赤丸で囲った部分である。
人々が縁台に腰を掛け景色を楽しんでいる場所は諏訪神社の境内であり、また中央下段の崖下から上ってくる人が見えるところは境内にある「地蔵坂」である。
この諏訪神社の境内は断崖の上で、この図のさらに右に別当寺「浄光院」がある。この浄光院も同じ高さにあるのでそこからの眺めも非常に良いものだったのであろう。遠くに見えるのは筑波山と日光山であろうか、江戸名所図会と同様の構図である。
現在では断崖よりも高いビルが立ち並び遠くを見通すことは出来なくなった。
諏訪神社境内 地蔵坂降り口
この左側で眺望を楽しんでいた
下はJRの線路
諏訪神社 手前石段は地蔵坂の始まりである
浄光寺(雪見寺)
真言宗浄光寺の本尊は薬師如来。一説には太田道灌の建立といい、また、元亨年間(1321-24)豊島左衛門尉経泰の創建とも伝える。諏訪台の好所を寺域としていたことから眺望が良く、特に雪見に適していたので雪見寺と呼ばれた(江戸名所図会)。境内に無空が勧化して建立した江戸六地蔵のうち三番に当たる一体がある。
日本歴史地名大系
東京都の地名
日暮里寺院の林泉
名所江戸百景 広重
妙隆寺・修性院・青雲寺(花見寺)
日暮里台地では、寛延元年(1748)法華宗妙隆寺が境内東側の崖を利用して庭園を造り、桜・ツツジを植えて以来花見寺と呼ばれた。続いて隣接する同宗修性院(現日蓮宗)・臨済宗青雲寺(現臨済宗妙心寺派)が庭園つくりを行い、茶屋の経営もはじめた。
日本歴史地名大系
諏訪台の一番高いところに「諏訪神社」、「浄光寺」がある。東は断崖になり、地蔵坂を下り石神井川にぶつかる。反対の西はやや急な下りで、浄光寺から「富士見坂」という坂を下ると江戸時代には妙隆寺といわれた寺があっが、現在は隣の修性院に合併されて存在しない。左の絵の上に登る坂道が富士見坂に見える。この絵の手前のほうに妙隆寺、修性院、青雲寺が並んでいたのだろう。
修性院(花見寺)
修性院は純光寺とも号する。初め谷中天王寺(旧感応寺、現台東区)の修性院日運により天正元年(1573)田中(現板橋区)の地に創建されて運啓山修性院と称し、寛文3年(1663)に当地に移転したという。修性院から諏訪台にかけての台地は同院の持地で、宝暦6年に庭造りの名人岡扇計が見事な庭園を造成すると、遊客が絶えることなく来訪するようになり、妙隆寺と並んで花見寺と称された。
日本歴史地名大系
青雲寺(花見寺)
青雲寺は宝暦年中(1751-64)下総佐倉藩主堀田正亮により、荒廃していた入間郡浄居寺(じょうごじ)という寺を引移して再興された。山号は浄居山、寺号は性亮の法号青雲院にちなむ。青雲寺の恵比寿は谷中七福神の一つ。
日本歴史地名大系
木像布袋尊像は区指定有形民俗文化財で、もと青雲寺にあったもの
滝沢馬琴筆塚の碑(区指定有形文化財(歴史資料))
作家が使い古した筆を供養の目的で土中に埋めることがあり、そこを筆塚と称します。滝沢馬琴(1767-1848)は「南総里見八犬伝」などを著した有名な劇作家で、この碑の前面には亀田鵬斎による筆塚の由来が記され、裏面には馬琴の人物紹介の文が刻まれています。
荒川区の文化財
江戸時代に「泉林」と言われた場所も現代では坂を造成しビルが立っている。
道灌山
西日暮里公園
道灌山の風情のごく一部を残す
西日暮里公園にある道灌山と日暮里の説明板
道灌山聴虫(どうかんやまむしきき) 江戸名所図会
日暮の里
日暮里広域図
2004/02
北西端の道灌山は上野から派生する丘陵の最も高地にある。名称の由来は太田道灌が江戸城の出城として斥候台を置いたからとも、関道閑の屋敷があったからとも伝えるが詳細は不明。南西方は文化9年(1812)秋田藩佐竹氏の抱え屋敷となるが、眺望の良い台地の端は江戸時代を通じて庶民の行楽の地として残されていた。虫聴きの名所として知られ、秋の夜長に涼を求めて集まる江戸庶民でにぎわったといい、酔客による土器投げも名物の一つであった。また道灌山は薬草が豊富で多くの採取者が訪れ、「武江産物誌」には道灌山産の薬草90種が紹介されている。佐竹氏抱え屋敷の地はもと水戸藩の抱え屋敷であったものを相対替で取得し、さらに文化9年に道灌山に沿って百姓地を取得、山荘衆楽園を造営した。広さは17000坪といわれる。明治中期まで佐竹氏の屋敷として管理されていたが、明治30年頃から荒廃し佐竹っ原とよばれるようになる。関東大震災後は開成学園がこの地に移った。
日本歴史地名大系
江戸時代の道灌山は西日暮里公園にあるのではなく、公園の北、JR西日暮里駅の脇を走る道「道灌山通り」のさらに北側にあった。現在そこは開成高校、中学と住宅団地になっている。当時を残すものは何もない。西日暮里公園から当時を想像してもらおうというのである。