始めの六地蔵第六番
      聖観音宗       正智院
  
                 しょうちいん
   
最寄り駅:地下鉄銀座線浅草駅
正智院の東都六地蔵
聖観音宗正智院は、浅草寺の東隣にある。ここに空無上人が寄進したという鋳造の立姿地蔵を安置してあったが、寺が象潟(きさかた)方面にあった際に炎上してこれを失った。
寺がその後現在の地に移ったについて、往時の東都六地蔵の身代わり木彫地蔵を得て仏間に安置した。

  武蔵野の地蔵尊

正智院はこの造営で江戸切絵図に見られる位置に建立されている。その後元禄3年(1690)に正智院に空無の六地蔵の6番目が建立された。
明治に入り、4年(1871)の社寺上知令で浅草寺境内と寺所有地は明治新政府に没収され6年には周辺の多くが浅草公園に指定された。この時正智院も移転したのであろう。「武蔵野の地蔵尊」の記録によれば「象潟」方面、現浅草4丁目あたりにあったと思われる。
浅草寺は明治34年から寺地の回復と寺の利用権回復を求めてきた。
昭和20年(1945)大空襲によって、関東大震災でも生き残った堂宇が全焼してしまった。戦後になってようやく、昭和22年、26年の2回に分けて公園が廃止返還され現在の地割りとなり、昭和33年には観音堂を再建、次いで雷門・仁王門・五重塔なども復興された。
正智院の江戸第6番地蔵尊も空襲で無くなったのであろう。浅草寺再建にともなってかっての子院は浅草神社(三社様)の裏手にまとめられて復興したようであるが、地蔵尊は再建されなかった。
浅草寺の前身は奈良時代には存在していたことが確認されている。正応3年(1290)年後深草院二条は「浅草と申す堂あり、11面観音おわします、(中略)観音堂はちとひき上がりて、それも木などはなき原の中におわします。」と記録し、一面野原の中のお堂をうかがわせている。その後幕府、公方の期願所として発展を続けた。江戸幕府が開かれてから、門前町も出来上がった。そして寛永8年(1631)から12年にかけて本堂など諸堂が更新建立された。しかしこの諸堂も寛永19年に焼失する。そして慶安年間(1648-52)に幕府による大規模な造営が行なわれた。
現正智院
かっての子院群が再建されている
正智院周辺
2003/11
江戸切絵図(1853) 浅草