新長谷寺跡 文京区関口2丁目 目白坂の坂上、神田上水北側の崖上にあった真義真言宗の寺院で、東豊山浄滝院と号した。御府内八十八箇所の第五十四番札所。境内不動堂に安置されていた不動明王は目白不動と呼ばれ、江戸五色不動の筆頭とされた。元和四年(1618)の創立で、開山は大和長谷寺(現奈良県桜井市)小池坊の秀算。目白不動縁起によると、同不動は空海が湯殿山で刻んだ秘仏で、のち下野(現栃木県足利市)に住む廻国行者が奉持。行者が当地で霊感を感得したことから、里民の松村某と図って一宇を建立、安置したという。秀算は新長谷寺を開くとともに不動堂を再開。 目白不動の名は三代将軍家光が目黒不動に対しその名を名乗るように命じたといい、目白の地名はこれに由来するとされる。また、五代将軍綱吉の母桂昌院が深く帰依、諸堂を修復したと伝える。境内は高台に位置する景勝の地で、江戸の庶衆が参詣し、境内には間口二間半・奥行四間の茶屋や水茶屋が建ち並んでいた。当寺の鐘撞堂は二間に四間で高さは二丈余、鐘は江戸の時の鐘の一つで、八丁四方の武家方・町方から志を集め維持していた。。昭和24年(1949)廃寺になり、不動像は金乗院(現豊島区)に移された。 日本歴史地名大系 東京都の地名 なお、現在跡地には公園や小学校になっている。 |