現在の名称  :長柄山眼藏寺

所在地   :千葉県長生郡長柄町長柄山
宗派    :臨済宗
京葉道路蘇我インターを降り、側道を木更津方面に向かう。側道が高速道路と離れて間もなく交差点があり、これを左折すると県道14号千葉茂原線、通称茂原街道に出る。
この道が長柄町に入って間もなくの交差点「皿木」で右折すると県道147長柄大多喜線に入るが、交差点から少し先右に「眼藏寺」がある。

どうも無住の様子に見える。山門の前に「眼蔵寺の梵鐘」と題した説明板があり「眼蔵寺は、長和2年(1013)の開基。はじめ鳴滝寺と称したが、建久3年(1192)源頼朝が胎蔵界曼荼羅を奉納したので、胎蔵寺と改めたという。境内には上杉朝宗の墓がある。近世中期から眼蔵時と改名した。弘長4年(1264)銘の梵鐘は、針ヶ谷の広階(ひろしな)重永の作で、乳無鐘として名高く、本県最古のものである。」と書いてあった。
この鐘は国の重要文化財であるのでその案内板のようである。

山門を入ると左手にその梵鐘があった。フェンスで囲まれ厳重に保護されている。
その前に更に詳しい説明板があった。これによると、「源頼朝創建の後上総権介千葉秀胤が再興した。始めは真言律宗であった、室町初期足利尊氏、直義兄弟によって建立された利生塔もこの境内にあった。寺伝によれば正応2年象外禅鑑禅師によって中興せられ七堂伽藍を配し諸山(寺格)に列していた。
禅秀の乱(1417)以降衰えたが上総屈指の名刹であり近世には幕府より御朱印20石を与えられていた。」とある。
更に奥には赤い釈迦堂がありその前に「県有形文化財、木造釈迦如来および阿難(あなん)、迦葉(かしょう)像」と書いた木ぐいが建っていた。この像は鎌倉時代の作である。

この寺にはお坊さんは住んでいない。見て廻っていたらたまたま隣の家の方が出てきた。話を伺うと檀家さんで、寺の管理をされている方であった。来訪の趣旨を説明したら釈迦堂の内部を見せていただけるという。早速扉を開けていただき釈迦座像を見、写真を取らせていただいた。
利生塔の跡についてお尋ねすると道路の向かい側を指差し「その場所は昔から『塔根』とよばれており、おそらく塔のあった所をそう呼んでいるのではないかと思っている」ということであった。
さらに「眼藏寺の変遷」というパンフレットをいただいた。このパンフの出だしにはこう書いてある。「この長柄には現在30ヵ寺、近世までさかのぼるとおよそ80ほどの寺がありましたが、その中で、日本の歴史の上に名の見える、しかも歴史上の人物のお墓がはっきりと残っているのはこの長柄山の眼蔵寺のみです。この世の中のあらゆるものに栄枯盛衰の姿は見られるのですが、特にこのお寺の歴史を辿るとその感を深くします。しかもこの寺は古い歴史を持ちながら、現在このお寺には一枚の古文書も、一冊の記録も伝存しておりません。」

歴史に大きく存在した寺で、無住とはいえ「眼蔵寺」のように檀家さんが保護して残っているのは立派と思う。「廃寺」でも「国分寺跡」のように発掘し整備されているのならそこに「歴史を想像させてくれる」が、今まで「安国寺」及び「利生塔建立寺院」を歩き感じるのは「当初寺院跡を発掘する」ことは殆ど無いだろうということである。だから、現存する寺が無ければ全て無くなってしまう。聖武天皇創建と足利将軍創建ではやはり現在の取り組みも違うと感じている。
現「安国寺」及び「利生塔建立寺院」が先ず横断的な取り組みを持ち、次に市町村を巻き込み「歴史保存」につなぐという取り組みが取れないものであろうか。
(2001/06)

山門
梵鐘
釈迦堂
釈迦如来坐像
利生塔跡推定地