天平勝宝6年1月16日 入唐副使従四位上大伴宿禰古麻呂来帰(もうけ)り。唐僧鑑真・法進等八人随(したがい)て帰朝す。 天平宝字7年5月6日 大和上鑑真物化す。和上は楊州龍興寺の大徳なり。広く経論に渉り、尤も戒律に精(くわ)し。江淮の間に独り化主(けしゅ)と為(あ)り。天宝二歳、留学の僧栄叡・業行(普照)ら、和上に白(もう)して曰(いわ)く、「仏法東流して、本国(わがくに)に至れり。その教え有りと雖も、人の伝授する無し。望み願わくは、和上東遊して化(け)を興されむことを」とまうす。辞旨懇(ねむご)ろに至りて諮請(しせい)息(や)まず。乃(すなわ)ち楊州に船を買いて海に入る。而(しか)るに中途にして風に漂いて、船打ち破られぬ。和上一心に念仏す。人皆これに頼りて死ぬることを免る。七載(年)に至りて更に復、渡海す。亦(また)、風浪に遭ひて日南に漂着しき。時に栄叡物故す。和上悲しみなきて明を失う。勝宝四年、本国の使適(また)唐に聘(まみえ)しとき、業行乃ち説くに宿心を以ってせり。ついに弟子二十四人と、副使大伴宿禰古麻呂が船に寄り乗りて帰朝せり。東大寺に安置(お)き、供養(つかえまつ)る。時に、詔有りて、一切の経論を校正さしめたまふ。往々に誤れる字あり。諸々の本皆同じくして、能く正すこと莫(な)し。和上譜(そら)に踊(ず)して多くの雌黄(しおう、訂正)を下す。また、諸の薬物を以て真偽を名(わ)かしむ。和上一つ一つ鼻を以ちて別つ。一つも錯失ること无(な)し。聖武皇帝、これを師として戒を受けたまふ。皇太后の不よに及びて、進(たてまつ)れる、験有り。位大僧正を授く。俄に綱務煩雑なるを以て、改めて大和上の号を授け、施すに備前国の水田一百町を以ってす。また、新田部親王の旧宅を施して戒院とせしむ。今の招提寺是なり。和上、預(あらかじ)め終わる日を記し、期に至りて端座して、怡然(いぜん)として遷化す。時に年七十有七。 以上続紀本文 鑑真 唐の垂拱2年(持統2年)、揚州江陽県に生まれる。俗姓は淳于。揚州大雲寺で出家、景竜2年(和銅元年)長安の実際寺で具足戒を受ける。その後、長安・洛陽で律・天台などを兼学し、揚州に帰ったあと大明寺などで律を講じ、江淮の化主と仰がれた。 (略)天平勝宝6年4月、東大寺の大仏殿の前に、臨時の戒壇を築き、聖武・光明・孝謙らに菩薩戒を授け、また僧にもあらためて三師七証の具足戒を授けた。翌天平勝宝7載10月、大仏殿西方に常設の戒壇院をつくり、日本の授戒制度を確立する。(略) 続紀補注19八 新日本古典文学大系14 続日本紀 三 岩波書店 2001/2 関連リンク ●鑑真和上 http://www1.sphere.ne.jp/kakinoha/naranara/toushoudaiji/gannjinn.html 鑑真和上像と年表 ●大明寺(だいめいじ)と鑑真和上 http://homepage1.nifty.com/hint-yf/Wao_Taimeiji.htm 鑑真和上が唐で住職をしていた寺。ここから日本のために渡来。 ●唐招提寺 http://www.kt70.com/~r-s/area/04-nishinokyo/tosho/00index-tosho.html 四季の唐招提寺。写真はプロ。 |