現在の名称  :雲富山大慈恩寺

所在地   :千葉県香取郡大栄町吉岡
宗派    :真言宗智山派
東関東自動車道で潮来方面へ、成田空港への分岐を通り過ぎ次の「大栄インター」で降りると国道51号線に出る。51号線を左折、成田方面に向かい暫く行くと大栄町役場がある。そこを更に進むと右側に「大慈恩寺」の立て看板が目に入る。
付近は農村地帯で、古寺があるとは想像できないところである。
寺の駐車場に車を入れるとその前に山門があった。
天平宝字5年鑑真和上の創建と伝えられている。

地元の豪族大須賀氏(千葉六党の一つ)の厚い保護を受け、同氏胤氏の招きにより奈良、西大寺の長老叡尊の直弟子、真源が中興した。
真源は当寺の復興に努め、今に残る延慶3年(1310)3月29日在銘の梵鐘(県有形文化財)には、直筆の銘文が残されている。真源は、叡尊の13回忌を慈恩寺で行い、この13回忌の記録と慈恩寺に関する文献は現在、金沢文庫に保存されている。

歴応4年(1341)4月20日、足利義直(尊氏の弟)は当寺を足利将軍家の祈願所とし安国寺利生塔の建立による寺領の寄進を伝え、6月15日には仏舎利2粒を塔内に安置するよう奉納した。
この時に建てられた利生塔は明治35年(1902)ころまで存在したと言われ、現在境内にはその礎石が14個残されている。

このように足利氏の庇護を受けるとともに関東管領上杉憲方、朝宗や公方足利氏満、満兼、持氏などからも保護を受け寺領の寄進を受けた。また、この時代当寺の長老は、お供8人と乗馬2頭で旅が許され諸所の関所や渡船場を自由に通過できる特権が与えられていた。

明徳2年(1391)後小松天皇から『大』の一字を賜り以来、慈恩寺から『大慈恩寺』となった。
徳川家康から寺領として朱印地20石を与えられ、代々将軍もこれにならったが、中世の寺領には及ぶべくも無い。

山門
本堂
利生塔跡(中央奥の草地)
梵鐘
訪問当日は非常にタイミングよく「宝物館」内をご住職に見せていただいた。湿気が多いので除湿中だから、今は見せてあげると言うことである。そして写真撮影も快諾していただいた。
とにかく保存されているものが多い。しかも良く保存されている。だから由緒を正しく語れるのだと感心した。特に利生塔はここの場合二重塔であり、このようなものとは想像も出来なかったものである。
足利直義書状
絵画
利生塔模型
利生塔建立寺院とはどのようなものかということが、最も正しく理解できる、まさにモデル寺院と言えるだろう。
宝物
2001/06
当寺には多くの絵画、古文書、工芸品等が所蔵されている。これらは鎌倉から室町時代にかけての優秀なものが多い。絵画については、おそらく中興開山真源が大和の西大寺から将来されたものであろうといわれている。
    「
大慈恩寺の歴史と文化財」より