17世紀頃までの国分寺

9世紀の国分寺


9世紀の国分寺を考察する際には承和期(840年前後)が一つの画期であった。講師(国分寺僧の資格)には社会土木事業の遂行が要請され、国分寺も慈善救済の役割をそれなりに果たしていたことを予想した。しかし、9世紀に入ると概して郡司を始めとする地方豪族層の国分寺への依存度が希薄になり、財源確保は困難な用であった。講師を廃止(削減)したのはもっぱら布施供養料をうかせ、国分寺の用途にあてるためのものであった。

平安中後期の国分寺

(1) 考古学、文献的にみても、少なくとも3分の2強の国分寺は10世紀以降12世紀に至るまで存続していたことが確認できる。
(2) 国分寺の修理料や法会の布施供養料は原則として正税でまかなうようになっており、国分寺僧・購読師の任命手続きも律令制の枠内で行なわれていた。しかし、一方では東寺、法勝寺、成勝寺、観世音寺などの中央、地方の有力寺院の末寺あるいは強い影響下におかれる国分寺も目立ってきており、10世紀以降の一定の変化といえる。
(3) 国分寺に対する旧豪族の支持の様子は10世紀始めまで確認できるが意向は見られない。

中世前期(13.14世紀)国分寺の大勢


鎌倉初期の国分寺は表面的には前代同様であるが、講師の名誉職化と役割の交代、有力寺院の末寺化、国分寺量の狭少などにより次第に諸寺化していった。さらに武士特に地頭・守護による国分寺領などの掌握が促進されていった。そのことは一方では寺領に対する違乱・濫妨と表現されてはいても、他方では国分寺の宗教活動が地域住民と密接な関係を有していたことを示していた。
蒙古襲来期から建武の親政並びに南北朝の内乱期には国分寺の役割が見直され西大寺流による再興が進み、守護領国制の形成とも相俟って国分寺の地位の回復が図られるに至る。
西大寺が国分寺にかかわりをもった早い例は1310年西大寺上人御坊(信空)宛の長門国分寺興行の院宣である。続いて周防国分寺再興、伊予国分寺興行、丹後国分寺再興などである。1330年代には諸国の国分寺の19カ寺は西大寺の末寺になっていたことが資料より判る。平安末期から鎌倉初期にかけて国分寺に対する行基信仰や勧進聖のかかわりがあったからこそ西大寺系の僧侶が国分寺再興にかかわりやすかったことは疑いない。その点で西大寺流と国分寺との関係は国分寺史の中でも一つの画期であり、中世のあり方をよく示している。

中世後期国分寺の存続形態

(1) 全国国分寺の3分の2以上が存続機能している。
(2) 戦国期を通じて衰退焼失する国分寺が多く、時期的には天正年間に集中している。ただ、それまでの大名による保護政策があったためか焼失したまま放置されることはまれで、17世紀後半までにほぼ再興修理がなされている。
(3) 国分寺で行われた祈祷は、大名などの個別の要請にこたえたものであったが、奈良時代以来の伝統をひく鎮護国家の祈祷を年中行事として行っている。
(4) 国分寺の教学や信仰面などを見ても、いわゆる鎌倉新仏教の影響は顕著でなく、天台、真言といった密教にかかわるものが目立つ。

創立期の伽藍を維持していた国分寺は皆無に近かったであろうし、焼失のたびに規模を小さくしていったことは想像に難くない。しかし、現世利益の願いを満たす地方における中規模の一山寺院として、中世以降にも一定の役割を果たしつつ近世にも行き続けていくのである。
2001/2


        
                       「国分寺の中世的展開」  追塩千尋  吉川弘文館