現在の名称  :医王山長安寺

所在地   :京都府福知山市奥野部
宗派    :臨済宗
姫髪山麓にあり、もみじ寺として知られる。寺伝によると、往古は真言宗金剛山善光寺と称し、境内に25の院坊があったが、応永年間(1395-1428)に諸堂ことごとく焼失したと言う。本堂の東方善光寺谷がその跡地といわれる。
その後文明6年(1474)の夏、天龍寺(現京都市)の開山夢窓国師の法嗣悦堂が、諸国巡錫の途次、姫髪山に登り、方一間の総安に薬師如来が安置されているのをみて、同年秋寺域内に移し、諸堂伽藍を再建、瑞鳳山長安寺と改め、以降禅刹となったと記す。
日本歴史地名大系 京都府の地名 より

中世には、真言宗の鎮護国家の道場で、境内外に25ヵ寺の坊を有し、諸堂及び三重の塔等を完備し盛大であったが、応永年間に火災にかかり、諸堂ことごとく焼失した。長安寺の再興は永享12年(1440)に幕府を中心に計画が進められた(蔭涼軒目録)。幕府がどうして長安寺の再興に力を入れているかというと、それは丹波の利生塔が存在していたからと断定できる。「六十六基塔婆」とか「塔婆料段銭」とのべられている(蔭涼軒目録)。
    長安寺史 長安寺発行 より


長安寺訪問には京都から電車を使った。綾部市を過ぎると電車は由良川に沿って走る。山間に少しだけ広がる河岸段丘に水田が作られていたが、それは区画整理のされていない昔ながらの不規則な形の水田である。山には杉の造林も殆ど無く自然の多い風景の中を電車が進んでいった。
福知山に着きタクシーで長安寺に向かうと運転手さんが「もみじの時期はちょっと過ぎましたね」という。「もみじ寺」として有名で、時期には結構多くの観光客や参拝客が来るのだそうである。「利生塔の寺を訪ねている」と目的をいうと「きいた事は無い」という。現在利生塔は存在しないのであるから「利生塔を訪ねる人」などいないのも当然であろうと思った。
寺に着き参道を登り始めて思ったことは、「時期を過ぎたとはいえもみじが綺麗だ」ということ、次に「地方の寺院にしては寺域が広い」ということである。さらに庭を見て「え、さすが禅寺。庭が綺麗だ」ということであった。
史料「長安寺史」によればこの庭園は「薬師三尊四十九燈の庭」といい、中央東部の巨石の三尊石組みは薬師如来、日光菩薩、月光菩薩を表現し、本堂側の庭園を現世とし、中央の畳石から東を彼岸として意匠したもので、昭和54年に竣工したものだそうである。
寺域の一部は「長安寺公園」として解放されている。
さらに長安寺の特徴は「長安寺保勝会」というのが昭和11年に発足し「近くは現在を保証し、遠くは600年の古に復せんとす」として長安寺をバックアップしていることであろう。

本題に戻るが、光厳上皇の院宣で「利生塔」と指定したのが1341年である。この利生塔は「各国の禅院」に置かれた。長安寺の場合は長安寺史の沿革が正しいとすれば随分遅れて「丹波利生塔」が設置されたことになる。

2001/12
全景図
参道
山門、鐘楼
大方丈(本堂)
庭園、右が三尊石組み
   長安寺史より
薬師堂