現在の名称 :龍門山高安寺
所在地 :東京都府中市片町
宗派 :曹洞宗
「全国足利氏ゆかりの会」会員
京王線府中駅のすぐ南西に、「武蔵国総社」であった、また「六所宮」ともいわれる「大国魂神社」がある。この前の道路が「旧甲州街道」であり、それに沿い200m程西に「武蔵安国寺」がある。旧甲州街道を車で走っていても現寺名「高安寺」の看板があるだけで、良く見ると案内は書いてあるが「武蔵安国寺」とはわからない。寺の構えが道路から全く隠れているからである。
しかし、寺の境内に入って驚いた、大きな寺である。府中居住歴10年以上の私がこの寺が「安国寺」であることを今初めて知り、驚きつつ喜びが出たというのが第一印象である。
山門
この寺の最初は平安時代中期に東国の豪族、武将の藤原秀郷が武蔵国守となって府中の現在地に館を構え、任務終了帰郷後、館跡に建てた寺である。市川山見性寺とよばれたが、宗派などその詳細は不明。
このころ兄頼朝の怒りをかって鎌倉入りを許されなかった義経が京都に向かう途中ここに滞在し弁慶らと共に、赦免祈願の大般若経を写したという。「弁慶硯の井」の古跡が残る。
その後この周辺は新田義貞と鎌倉幕府の「分倍河原の戦い」などで焼失した。
足利尊氏が全国に「安国寺」を創建するにあたり、ここが「武蔵国安国寺」として再興されることとなり、その寺名も「龍門山高安護国禅寺」とよばれたという。臨済宗建長寺末として、大伽藍を整え、塔頭十院末寺七十有余寺を擁した。
こうして「高安寺」はその後しばしば将軍家の陣所ともなったが、足利氏の勢力の衰えと共に衰退していった。
本堂
再中興は関州徳光禅師により安土桃山時代(1600年前後)でこの時曹洞の禅林に改め、海禅寺を本山とした。その後、1624年本堂が火災で焼失、およそ10年後に再建され、1697年に山門が建立されている。1770年に従来の本堂を庫裏とし翌年新本堂を落成した。さらに、江戸時代(1801)また火災焼失したが翌々年に再建落成現在にいたっている。
(高安寺ものがたりの栞より)
「安国寺」設立の条件としての「権力の誇示」、及び「軍事拠点」として「高安寺」は良く当てはまるようである。
現在府中市は「甲州街道」にある町であるが、鎌倉時代は「鎌倉街道」の要衝であり(現在も鎌倉街道が残る)軍事拠点でもあったのだろう。
また、栞にも記載があるが寺の「紋」は足利の「丸に二引両」であり、この寺が代表的な様子を残していると思った。
山門には入るときに見るほう左右に「仁王像」が、出るときに見る左右に「地蔵尊」と「奪衣婆」の像が置かれている。特に「奪衣婆」というのはどういうものか始めて見るものである。
(2001/05)
上 : 山門正面
右 : 山門内面
1978年建設の客殿「利生閣」
2002/09
「江戸名所図会」より。中段左端に「高安寺」がみられる。1803年再建の高安寺であろう。中段横に走る道は「甲州街道」であり、下段右が「六所宮」(大国魂神社、武蔵総社)である。