現在の名称  :一乗山家原寺(えばらでら)

所在地   :大阪府堺市家原寺町一丁
宗派    :真言宗
石津川にかかる家原橋の東詰北東方にある。本尊は文殊菩薩。当寺は文殊菩薩垂迹の地といわれる(行基菩薩縁起図絵詞)。「行基年譜」によると、慶雲元年(704)行基37歳の時、自らの生家を仏閣に改めて創建したという。当寺の寺観はつまびらかでないが、鎌倉時代の成立とされる寺蔵の行基菩薩行状絵伝(国指定重要文化財)によると、現在当寺の背後にある山を一乗菩提峯とし、その前面に入母屋造りの堂一宇、三重の塔一基、またその前面に池沢が描かれている。また、和漢三才図会」によると本尊文殊菩薩像は行基作で、胎内には天平8年(736)来朝した菩提僊那に授かった黄金仏を納めたという。その後の様子はつまびらかでないが「粉河寺縁起」によると、紀州粉河寺の大卒塔婆建立を勧進した仁範が、長元2年ー永承6年(1029-51)の間に当寺を改修したと伝えている。なおこの間の天平2年、聖武天皇が堂宇を改築、32院の支房を建立、鎮護国家の勅願所としたとの伝承もある(大阪府全志)。
寛元3年(1245)奈良西大寺叡尊当寺塔頭清涼院の住職を兼ね諸堂を新改築した。その背景には「日本霊異記」「今昔物語集」「日本往生極楽記」などに語られるように、行基を文殊菩薩の化身とする信仰が生じたこと、加えて文暦2年(1235)竹林寺(現奈良生駒市)から行基の舎利瓶が発見された(行基菩薩御遺骨出現事)ことなど、行基に対する信仰の高揚があったと考えられる。当寺はこうした行基に対する信仰の上にその後発展したが、その一役を果たしたものに前掲行基菩薩行状絵伝および行基菩薩縁起図絵詞がある。
文安2年(1445)の京都教王護国寺の堂塔修理の際、大鳥郡家原にある安国寺が最大額の5貫900文を奉加している(「和泉国寺社東寺修理奉加人交名」教王護国寺文書)。同地にある寺院で当寺をおいて他に考えられず、安国寺は当寺であった可能性が強い。
同寺領は明治初年上知し、同時に寺中五支房も廃絶し中室院のみを残した(大阪府全志)。昭和41年(1966)高野山真言宗の別格本山となった。寺宝は前掲絵伝のほかに天文20年(1551)銘のある板碑(府指定文化財)、五色の仏舎利を蔵する。境内は府の顕彰史跡。
        
日本歴史地名大系  大阪府の地名  より


なお、ご住職のお話によれば明治の廃仏毀釈により古文書は失われ、「安国寺」を示す物は何も残っておらず、口伝でも伝わっていないとのことであった。
訪問記
家原寺の最寄り駅はJR阪和線「堺駅」の2つ南の「津久野駅」である。
駅前の道を約15分ほど歩くと道は三叉路となりその左側に「家原寺」があった。
非常に大きな寺である。門前には「史跡」(大阪府)を示す石碑が建っている。中にはいると左手に「行基菩薩の立像」が建っており、またその先の「行基菩薩誕生塚」が寺の由緒を特徴づけている。

2001/12