現在の名称 :天長山国清寺
所在地 :静岡県田方郡韮山町
宗派 :臨済宗
関東分国伊豆
足利尊氏はそれまでの武士の府鎌倉に嫡子義詮を置き、一族・有力被官を配して関東一帯を治めさせることにした。義詮を主とする政庁は鎌倉府と呼ばれる。伊豆国は関東分国に含まれ、以降東国文化圏の地域として発展する。
南北朝初期に全国に安国寺・利生塔を設置するという幕府の宗教政策は、一方で幕府の威信を高揚し、また各国守護とかかわりの深い寺院を安国寺によって、間接的に守護を統制するという政治的意味も大きかったとされる。伊豆国の場合、利生塔が貞和元年(1345)に修善寺に設置されたことはわかるが、安国寺は確認できない。しかし守護上杉憲顕(山内家の祖)が建てたと思われる奈古谷(現韮山町)の国清寺の可能性が推測される(静岡県史)。
国清寺
韮山小学校奈古谷分校の東にある。本尊は釈迦堂にある釈迦如来と伝える。「本朝高僧伝」によれば、上杉憲顕の建立という。大永8年(1528)成立の天長山国清寺万年禅寺諸塔頭目録(国清寺蔵)には、当寺は暦応期(1338-42)に興り、貞治期(1362-68)に隆盛で、明応期(1492-1501)には衰えたと記される。上杉憲顕による暦応期創建の可能性の傍証は証羊集(林際寺蔵)でも得られ、「鎌倉大草紙」が伝えるように父憲房の追善供養のため建武3年(1336)の死から遠くない時期に憲顕が当寺を建立したと考えられる。「空華集」によると、上杉憲顕は以前に存在していた律宗寺院を禅宗に改め、無上礙妙謙(仏光派)を開山として国清寺を創建したという。その礙妙が貞和4年(1348)7月に造立した石塔が当寺にある。康暦2年(1380)准十刹となり(扶桑五山記)山内上杉氏総領が保護すべき寺院とされ(上杉家文書)、著名な禅僧を住持に迎え、伊豆における中心的な存在として盛時には寺内に院や庵が7、80あったとの伝承もある(増訂豆州志稿)。
現在当寺は無住となっている。なお、当寺の南東の山間にある毘沙門堂の山門には県指定文化財の木造金剛力士立像2躯が安置されており、現在は当寺の所有。文治2年(1186)源頼朝の発願によって運慶・湛慶父子が造立したという。
日本歴史地名大系 静岡県の地名 より
訪問記
2002年2月中旬修善寺温泉に泊り、次の日の昼韮山を歩く。韮山は苺狩が真っ盛りである。
「国清寺」は韮山の北東部にあり、道路標識で案内されるので有名な寺である。寺の入り口は学校、住宅の中にあり、住宅街の中の寺のように思えるが後背は山になっており、広大な敷地を現在でも保っている。
正面に「天長山国清寺」と書いた石柱がありその奥が「仏殿」(釈迦堂)。本堂はその右側を通って奥にある。「国清寺」自体は「本堂」、「庫裏」、「鐘楼」であり、他に、塔頭として「高岩院」、「徳隣院」、「龍泉院」、「松月院」があり、離れたところに「毘沙門堂」がある。
盛時には7,80の「院」や「庵」があったというのであるから、現在の本堂の場所を中心として付近の住宅や学校の場所までを含む巨大寺院であったのだろう。
正面のすぐ左手が塔頭「華頂峰高岩院」であるが、それを示す石柱に「国清寺塔頭奉行」と書いてある。「塔頭奉行」というのは初めて目にするものである。
「国清寺」は現在塔頭「龍泉院」の住職が兼務している。
帰宅後そのご住職に電話しいろいろと話を伺ったが、「安国寺と推定される」という「静岡県史」の件については知らされていないとのことであった。
韮山は他に「頼朝配流先」、「北条氏関連寺院」、「韮山代官所」、「反射炉」等史跡が多く、歴史ファンが楽しめるところである。「韮山代官所」には「歴史ガイド」としてボランティアの方々が駐在しており、歴史案内に力が入っているが、残念なことに「国清寺」についてはそれほど詳しい説明は聞かれなかった。
2002/02
「国清寺」の石柱と仏殿
左より「本堂」、「庫裏」、「鐘楼」
左より「鐘楼」、「本堂」、「庫裏」
塔頭奉行「高岩院」
五山十刹一覧 延徳4年(1492)