現在の名称  :太平山安国寺

所在地   :山形県東村山郡山辺町大寺
宗派    :曹洞宗
白鷹丘陵の東縁、山形盆地を東に望む高台の上に位置する。本尊は釈迦如来であるが、同像は様式からいえば結跏趺坐の阿弥陀如来。

安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が夢窓疎石の勧めにより、戦死者の菩提を弔うために全国六十六箇国二島に一寺づつ建立したもので、各国守護の菩提所である五山派の有力禅院が指定された。また、安国寺建立のねらいには、北朝の勢力範囲を拡張し、兵を置き、城郭の機能を備えることで軍略上の拠点にすることがあったといわれる。

延文元年(1356)奥州探題斯波家兼の次男兼頼(最上氏の祖)が山形に入部する。兼頼は山形に軍政府を置き大曽禰庄(現山形市)を基盤として出羽国一円の北朝勢力の増大を図ろうとした。しかし当時、寒河江大江氏を中心として南朝方の勢力が強く、特に須賀川河口から寒河江川河口にいたる最上川の両岸地帯は両朝の勢力均衡地帯であったので、南西方面から大江氏の本拠をうかがう意味でも、当地に安国寺を置くことは意味を持つものであったとされる。このとき当寺の周囲には、武家一族が配置され、土着させられている。また、当寺の東北部には塁砦跡が分布する。
当地にはもともと天台系の大寺院があったが、安国寺として改宗されたとされ、永仁4年(1296)8月24日付けの大乗大方等日蔵経写経奥書(陸前新宮寺文殊堂文書)にみえる「羽州最上郡小鶴郷安養寺」をその天台系寺院に比定する説もある。

室町幕府の崩壊と共に、当寺も衰退の一途を辿り、遅くとも明応年間(1492-1501)には向川寺(現大石田町)石菴良aによって曹洞宗に改宗され長松山の山号が現山号に変わったのもこの時といわれる。一国一ヵ寺の資格を失ってからは、最上氏との関係も薄らぎ、慶長6年(1601)最上義光の四男山野辺義忠が山野辺城主となったときは、他寺院との勢力均衡の意味もあり一時優遇されたが、最上氏改易後は大寺・山野辺地区に多くの檀信徒を持つ名刹として存続する。堂宇は寛延2年(1749)、宝暦元年(1751)の二度にわたり全伽藍焼失したがその後再建された。寺宝というべきものに仏舎利・伝沢庵屏風などがあり、夢窓式庭園、山岡鉄舟筆の太平山の扁額も著名である。


                   日本歴史地名大系  山形県の地名  より