現在の名称 :天目山興国寺
所在地 :福岡県田川郡赤池町上野
宗派 :曹洞宗
JR筑豊本線は福岡県中間市から飯塚市までは「遠賀川」に沿って南下する。途中の「直方市」で西南を上流とする「遠賀川」に東南から合流する「彦山川」に沿って走る「平成築豊伊田線」に乗り換え、5つ目の駅が「赤池」で、駅の北東に「興国寺」がある。
「興国寺」は彦山川から2Km程であるが3方を山に囲まれ、「安国寺」の持つ軍事上の要地としての条件が備わっている。
山門前の石垣は城壁であり、階段状の水田は門田と呼ばれているが、昔はその一部は掘られて外濠をなし、山門横の静心池は内濠、鐘楼は物見櫓、白壁で囲まれた竹林は防御地の役目を持っていたと伝えられている。
寺の縁起によれば、「往古は福智寺と号し、天武天皇の白鳳5年に福智権現を祭祀する天台の律院として、釈教順によって創建された」と伝えられている。
開創より数百年を経た南北朝時代の天台宗福智寺はひどく荒廃しきっていた。無隠元晦禅師は、時の豊前、豊後の太守・大友貞宗に諮って協力を得、福智寺の跡に堂宇を建て寺名も、臨済宗天目山・宝覚寺と改め開山になられた。1326年のことである。
寺観も整い地方の巨刹として衆人の信仰の殿堂であったと思われ、1330年後醍醐天皇より「宝覚禅寺は正運廓開、嘉域州単伝の浮場なり(中略)よろしく扶桑第一の上刹に相並ぶべし」として住持は紫衣を許された綸旨を下されている。
1340年豊前の国の「安国寺」として「豊前国天目寺料所事」なる古文書に足利直義の花押のある料所参百貫寄進された記録が保存されており、参百貫は町反に換算すれば41町歩になる。
室町後期には一時寺運も衰退したが、1544年に再興され、寺名も「天目山・興国寺」と改号され臨済宗から曹洞宗に改宗された。
上空より全貌
山門
観音堂
足利義直書状
この文章および写真は天目山興国寺ご住職よりお送りいただいたパンフレットから大部分を転載いたしました。ご住職には厚くお礼申し上げます。
観音堂は足利尊氏が全国に建立した「利生塔」として創建されたものと考えている。
堂内には藤原末期の作といわれている「千手観音」が安置されている。これは尊氏の守り本尊であり京都より勧請され、運慶の作であるとも言い伝えられている。
2001/05
江戸時代には小倉藩主小笠原氏の護持を得、現在も寺の紋は「三階菱」である。
1719年仏殿(観音堂)の改築、1721年寺院の改築が行なわれ、1988年仏殿およ
び山門が改築され現在に至っている。