現在の名称 :不動院(新山安国寺)
所在地 :広島市東区牛田新町
宗派 :広島県真言宗教団
太田川を隔てて武田山を望み、山を背にした地にある。「新山雑記」には空窓の開基ということ以外、創建年代や宗派さえ不明であると記す。金堂本尊薬師如来像は藤原期のもので、遅くとも平安時代には存在していたと考えられる。
南北朝時代足利尊氏が国ごとに安国寺を置いたとき、この寺が安芸安国寺に当てられ、臨済宗になった。「東福寺甲刹記」によると安芸安国寺は康暦2年(1380)当時、景陽山安国寺と称していて、京都五山東福寺の屈指の末寺であった。その後大永年間(1521-28)に兵火にあって荒廃したが、これを中興したのが安国寺恵瓊である。恵瓊は武田氏最後の当主信実の遺児と伝える。武田氏滅亡の時まだ武若丸と称し、安芸安国寺に身を寄せていたが、竺雲恵心の弟子となって東福寺で修行、永禄12年(1569)までに安芸安国寺住持となっている。やがて恵瓊は毛利輝元の外交僧として活躍、さらには豊臣秀吉の信望も得たため寺運は隆盛を極め、天正19年(1569)には秀吉から1万1500石の寺領が与えられた(「豊臣秀吉朱印状」不動院文書)。恵瓊は関ヶ原の合戦で西軍に組して斬首され、慶長6年(1601)福島正則の広島入城に伴って、正則の祈祷師宥珍が安国寺に入った。宥珍は不動明王を信奉したので当寺は不動院と呼ばれるようになり、宗派も真言宗となった。
金堂は周防山口にあった大内義弘建立の仏殿(寺名不詳)を恵瓊が移したと伝え、宥珍の時金堂となった。国宝。禅宗様式で入母屋造・柿葺、桁行三間・梁間四間で裳層がつき、前面一間が吹放になった珍しい構造である。本尊の木造薬師如来像(国指定重要文化財)は藤原期の作で高さ1.4メートルの寄木造。その左右に近世の12神像がある。
楼門、鐘楼、銅製梵鐘、は国指定重要文化財。木造仁王立像二体、不動院文書は県指定重要文化財である。
2002/03