128. 帰国の準備
2月16日 奨学金を受け取っていた銀行(Grindlays Bank)に出向いて口座を閉めて精算します。口座には 3533.04 USドルありました。外貨は現金では引き出せない決まりになっているとのことで、残高で作れる最大限である3490 ドルのトラベラーズチェックを発行してもらいます。3533.04 ドルからチェックの額面と発行手数料 1%を差し引いた端数の 8.14 ドルは、当日の為替レートで 181 ルピーに換算されて現金で渡されます。これで口座が消滅しました。 3490 ドル(当時のレートで約 45万円)は帰国後の当座の生活費です。これで部屋を借りて住所を確定させ、停止している育英会(現在は学生支援機構)の奨学金支給が再開されるまでの間を凌ぐことになります。
2月17日-22日 この間は何をしていたかの記録がありません。おそらく、学生寮を退去する手続き等の、ラーホールを引き払うための雑用をこなしていたはずです。日付は不明ですが、私を客員研究員として受け入れて、研究室まで提供してくれたパンジャーブ大学地質学教室に、自分が購入して使っていた中古のタイプライターを寄付しました。停電が多かったラーホールではパソコンやプリンタはあまり使い物にならないことは前に述べたとおりです。事務書類の作成は機械式(電動ではない)のタイプライターが活躍していたので、無駄にはならないはずです。地質学教室の事務室にタイプライターを渡して自室に戻って掃除をしていると、事務担当のイクバールさんが何かの書類を作って持ってきました。「山本はタイプライター一台を地学教室に寄付する。」ということが、普段は使わないような格調高い雰囲気の英文で書かれています。タイプライターは高価なものなので、出所が不明であると後々困ることがあるのでしょう。その書類に日付と自分の署名を書き込んで渡すと、寄付の手続きは完了です。
2月23日-27日 23日にラーホールの地方裁判所(Disstrict Court)に」出向いて旅行許可証(Travel Permit)を取得しました。パキスタンに「外国人登録」し、滞在許可証 (Residential Permit) を取得して居住している人が出国するときは地裁の許可が必要でした。「外国人登録 (Foreigner's Registration)」を行ったのはラーホールの警察署内にあった外国人登録事務所でしたが、出国の許可は裁判所です。あちこちたらい回しにされることもなくて、あっさり許可されました。
129. ラーホール旧市街
私はパンジャーブ州の州都であるラーホールをパキスタン留学の根拠地にしていました。ラーホールは16世紀末にムガール帝国第三代皇帝アクバルが帝国の首都に定めたことで発展した都市です。ムガール帝国時代の市街地は城壁で囲まれていて、その規模は南北に 1.5 km、東西に 2 km 程度です。市街地に出入りするための城門が 13箇所ありました。北西のラビ川に面する位置には城塞(ラーホールフォート)が築かれています。現在のラーホールの街(Google マップへのリンク)は、この旧市街を内包してラビ川の南東に大きく広がっていて、人口は 1 千万人を超えているそうです。もっと知りたい方は、たとえばこのサイトを足がかりにして、さらに詳しく調べてみてください。
私が滞在していた当時(1990-1991年)は、旧市街の再開発はあまり進んでいなくて、旧市街を囲む壁と城門の一部もムガール時代の様相を彷彿とさせる姿を残していました。私はラーホール滞在中に、何度か旧市街を訪れて観光していたのですが、記録が雑で日付と移動経路がわからなくなっています。以下では、数回分の行動を統合して記述しています。1日でこれだけ見て回ったということではありませんし、記憶違いで間違ったことを書いているかもしれません。
郊外のニューキャンパスにある学生寮から旧市街に至る方法は簡単でした。定時運行のスクールバスでオールドキャンパスに出向き、オールドキャンパス東側の通り(アナルカリロード)を徒歩で北上します。いつも人で賑っている「アナルカリバザール」を抜けると旧市街の外側を一周している「サーキュラーロード」に至ります。サーキュラーロードを渡ってさらに進むと結婚式で使う飾りと花を売る店が並んでいます。下の画像で U の字型の盾のようなやつは、花婿が首にかけて胸を飾るものです。小額の紙幣を細い木か竹の骨組みに並べて貼り付けて、金モールなどを飾りつけています。花は、薔薇などの花弁をばらして籠に盛ったものと、花弁に紐を通して纏めているものがあります。「盛り」は結婚式の参列者が新郎新婦の頭から浴びせます。紐で纏めたものは新郎新婦が首や肩にかけます。
飾り物の店の先にロハリゲート(Lohari Gate)があります。「門」というよりは、城壁の一部に穴を開けたような構造で、両側に防御用の砦を擁しています。この辺りに鍛冶屋(ロハール)が多かったからロハリゲートと呼ばれているらしいのですが、鍛冶屋が並んでいるのを見た記憶はありません。サーキュラーロードに戻って東に進むと、人、馬車、自転車、バイクなどが入り乱れてごった返している交差点があります(下の画像)。おそらく、Shah Alam Market の入り口だと思いますが、現在では道路が拡幅されて交差点の様子が全く違っているので確認できません。別の場所だったかもしれません。
旧市街の中に入ると、下の画像のような雰囲気です。撮影場所はわからなくなってしまいました。城門から市街に入っていく道は、たいていが商店街(バザール)になっています。このバザールから横丁に入ると迷路のようになっていて、奥に進むと行き止まりの袋小路になっていたりします。こうした横丁は一般の方の居住区域なので、観光目的でカメラを向けるのは躊躇われて写真を撮っていません。旧市街を地図や航空写真で眺めると、内部の町割はとても複雑で秩序があるようには見えません。当時は Google マップのような便利なものはなくて、旧市街の内部で迷わない(迷っても抜け出せる)ようにするにはちょっとしたコツが必要でした。旧市街の中には基準となる街路が二つあります。東の Delhi Gate から西の Taxali Gate(城門は現存していない)までを繋ぐ街路と、南の Shah Alam Gate (城門は現存していない)から、先の東西の街路に達する広い通りです。これらの幹線とも言える街路の配置は東西に長い丁字型になっています。「丁」の接続点付近は分岐が多くてやや入り組んでいるのですが、丁字型と理解していれば実用上は差し支えありません。これらの主要街路の配置と、これから述べるモスクなどのランドマークになるものの位置関係を頭に入れておけば、自分の現在位置を把握できます。
「迷路のような路地を彷徨いたい」という変わった趣味の人は別として、一般的な意味での観光資源は丁字の「一」にあたる東西方向の街路に沿って配置しています。そこで、東側の Delhi Gate から旧市街に入って西に抜けるルートを案内してみます。Delhi Gate は、下の画像のように「門」というよりは城塞の一部のような立派なものです。門前には広場があって露店が並び、いつも人だらけです。門自体が大きい建造物になっていて、中に入ると直径 10 m くらいのドーム型の広間があります。ただし、現在のDelhi Gate は19世紀のイギリス統治時代のものとのこと。そこを通過すると旧市街です。
ゲートを通過して商店街を 200 m 程北西に進むと Chitta Gate (下の画像)が現れます。Delhi Gate に比べればかなり小振りで、外装が剥がれてかなり傷んでいます。 Chitta Gate は旧市街の内部にあり、商店街の途中に突然現れます。当時はこんなところに門がある理由を知らなかったのですが、これが元の Delhi Gate なのだそうです。ラーホールの街は、歴史的に西側が先に造られて、東に拡大していったようです。市街が拡張された結果として、内部に「門」が取り残されたのです。 Chitta Gate は和訳すると「白い門」です。漆喰で白塗りになっていたらしいのですが、白いところは痕跡程度しかありません。
Chitta Gate ゲートをくぐり抜けると広場があり、その左前方にワジールハーンモスク(Wazir Khan Masjid または Wazir Khan Mosque)があります。モスクの敷地は 100 × 50 m 程度あって、市街地の中にしては大きく感じます。このモスクは外壁に施されたタイルによるモザイク装飾と内壁から天井までのほぼ全面に描かれたフレスコ画で有名です。下の画像は入口付近のモザイク装飾です。カラータイルを貼りつけて構成されています。画像中央部の白地の部分は、植物とアラビア文字をちりばめたデザインになっています。私には読めませんが、コーランの一節にある文章がモザイクで描き出されているようです。一歩中に入ると、壁面から天井まで植物と幾何学模様が入念に描き込まれています。建物の内部も全面的に精緻なフレスコ画で埋めつくされていて、その徹底ぶりには圧倒されます。イスラム教は偶像崇拝を禁じているので、「神」や「天使」の絵はありません。
ワジールハーンモスクの壁の北側を通過して西に進むとブラスバザール(Brass Bazar)と呼ばれる通りになります。ここに並んでいるお店は、真鍮製の什器やアルミの鍋などを店先に大量に積み上げています。サーモワール(お茶を煮出す道具)やフッカー(水タバコを嗜むためのパイプ)のような日本で見かけないものもありますが、手土産にするには大きすぎます。ブラスバザールの途中から前方に金色の「玉葱」が見えてきます。通称「ゴールデンモスク」と呼ばれる Sunehri Masjid です。礼拝を行う人が頭を向ける方向(メッカのカーバ神殿)に白壁の建物があり、その上に3つの金ピカの「玉葱ドーム」が乗っています。建物の内部は三つのドームに分かれていて、壁から天井一面にフレスコ画が施されています。
さらに西へと進むと、南の Shah Alam Gate から続く大通りとの交差点に至ります。ここが前述の「丁」の接続点ですが、実際はもう少し複雑で、「井」の字のようになっています。その先の一郭には、女性向けの晴着や装身具(下の画像)を並べた店が集まっています。Google マップへのリンク
服飾店の街区を抜けて、食料品店、飲食店、雑貨屋などが並ぶ通りを 500 m ほど進むと右(北)に広い通りが分岐しています。そちらの道を進むとラーホール城塞(Lahore Fort)とバードシャーヒモスク(Badshahi Masjid または Badshahi Mosque)に至ります。これらは超有名な観光スポットなので、このサイトで紹介する必要もないでしょう。城塞とモスクに向かわずに西に進むと人通りが少なくなり、店が閉まっていてひっそりしている商店街に差し掛かります。この通りは、おそらく当時のパキスタンで唯一残っていた「花街」に類する場所でした。この商店街について説明すべきか悩みましたが、失われた文化の一端として「番外編」(末尾のリンクから移動)に述べておくことにします。ただし、この種の情報を不快に思われる方は「つづく」に進んでください。この通りを過ぎると、周囲が開けた感じになり、Taxali Gate を通過して旧市街から出ることになります。Taxali Gate の城門は現存していません。
...つづく
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