130. パキスタン出国
 2月28日 帰国の経路は3月1日に国内線でラーホールを発ち、同日中にカラチで乗り換え、バンコク・マニラ経由で成田に向かう予定になっていました。チケットを予約・購入した時点(1月17日)では、気がかりになることはありませんでした。ところが、2月前半の旅行の際に立て続けにフライトキャンセルを喰らったこと(125-127に記述)で、不安定な運行が気になってきました。ラーホール発の便がキャンセルされたら、「バスで」というわけにはいきません。カラチまでは遠いので、当日の成田行には間に合わないのです。出発予定の日が近づいてくると、不安感が増してきました。それで、ラーホール出発を前倒しして28日に空港に向かいました。学生寮の部屋(下の画像)整理は済んでいて、鍵を管理人に返せばいつでも出られる状態でした。ラーホール空港でのカラチ行の搭乗便変更はうまくいきましたが、手荷物が多くてオーバーチャージを取られました。42 kg もあったのです。荷物は事前に郵送するなどしてできる限り減らしたつもりでしたが、十分ではありませんでした。仕方がないので、440ルピーを支払って荷物を預けて搭乗しました。




 カラチ空港には夕方の暗くなる直前くらいに到着しました。手荷物を回収したら、成田行の搭乗手続き開始まで空港のどこかで時間を潰すつもりでした。手荷物が回ってくる台のそばで荷物を待っていると、男性が台車を押して近づいてきました。彼はカラチ空港のマーク入のジャケットを着ているし、空港施設の内部に居るので、タクシーの客引きや、勝手に荷物を移動させてチップを要求する手合いではなくて、正規のポーターのようです。その彼が「チケットを見せろ。」というので、見せると「このチケットなら空港ホテルに泊まれるから付いてこい。」と促されます。私の荷物は彼が押してきた台車に積まれました。

 空港施設の中を数分歩きます。カラチ空港はアジアからヨーロッパ方面への中継地になっているらしくて、空港内では東南アジア系の人が目立っていました。イスラマ、ピンディ、ラーホールでは東南アジア系の人を見かけることはほとんどありませんでした。乗継客はイスラム教徒ではない人も多いので、スカートやタンクトップ姿の女性が普通に歩いています。イスラマバードやラーホールの空港とは全く違う雰囲気です。やがて、白塗りの平家の建物が並ぶ一郭に至り、その中の一つに入ると、Karachi Air Port Hotel の受付でした。受付の男性に私のチケットを見せると、「当日乗り継ぎの予定になっているのに何故前日に来たのか?」と聞かれました。当然の疑問です。私がゴニョゴニョ言い訳をしていると、荷物運びの男が割って入って喋りだし、結果的に無料で泊まれることになりました(本来の料金は450ルピー)。彼は部屋まで荷物を運んできて、別れ際にチップを要求します。これも当然の要求です。ところが、その時の私は帰国後の生活費が気になっていてドケチにでした。5ルピーを渡し、不満そうな表情を示す彼を追い返してしまったのです。今にして思うと、彼がやってくれたことは少なめに見ても30ルピーくらいの価値があったはずです。大変申し訳ないことをしてしまったと思いますが、もはやどうにもなりません。

 3月1日 国際線に搭乗するには、まず税関を通過します。何か質問されたのですが、どのようなやりとりだったかは覚えていません。荷物を調べられることはなくて、あっさり通れました。次は搭乗手続きです。パキスタン航空の受付カウンターにチケットとパスポートを提示し、預ける手荷物をX線検査に通した後で重さが量られます。私のチケットはエコノミーなので、42 kg の荷物にはオーバーチャージがかかります。20 kg オーバーで、6200ルピーを要求されました。これはチケットの本体価格の半分に近い金額です。これなら「最初からビジネスクラスを買っておけばよかったのでは?」という気がします。とにかく、「その額は払えない。そんな金は持ち合わせていない。」とカウンターでゴネたあと、最寄りの両替所に重い足取りで歩いて行き、 100ドル分のトラベラーズチェックを両替します。その2200ルピーを手にカウンターに戻って「なけなしの100ドルを両替してきた。これと財布に残っているルピー紙幣の合計が今払える金額だ。」と言ってみました。オーバーチャージを値切れるとは思えないので、ダメ元での演技です。パキスタン航空の受付担当者は、哀れに思ったのか、臭い演技にうんざりしたのか、「半額の 3100 でいい。」と言ってきたので、財布を探って渋々取り出した900ルピーに、両替してきた 2200 を合わせて差し出し、搭乗できることになりました。

 最後に出国審査のゲートで係官にパスポートと出国許可書(Travel Permit)を提示すると、パスポートに「バシ!」と出国スタンプが押されて全ての手続きが完了しました。搭乗待合室の売店で手元に残った数百ルピーを使ってチョコレートだったかキャラメルだったか、何かのお菓子を買ったのですが、何だったか思い出せません。搭乗してからのフライト中と、経由地での待ち時間をどのように過ごしたか、そして成田に着いた直後のことは全く記憶になくて、メモもありません。11か月間のパキスタン留学は、このようにあっけなく幕切れとなりました。

 この留学と地質調査はたくさんの方々による有形・無形の協力があって実現しました。私が意識していないところで助けていただいことがあったかもしれません。この場でみなさんのお名前を上げることは致しませんが、大変感謝しています。



131. 帰国後
 大学の研究室には、イスラマバードから発送した岩石試料が届いていました。その岩石試料と地質調査データを突合して整理し、岩石の組織観察を行い、変成鉱物の元素分析の第一段階をほぼ終えたところで 1 年が経過していました。その間の生活費については、日本育英会(当時)の奨学金貸与が再開(留学中は停止)されたことと、授業料免除が認められたので、家庭教師のアルバイト程度でなんとか普通の生活を維持できました。その年度末に大学院博士課程の2年目を終えるところで、幸運にも大学教員(当時は「教官」)の職に就くことができたので、大学院は退学しました。就職後もコーヒスタンの研究を続けて、いくつかの成果を論文として出版することができました(下のリンク)。さらに、コーヒスタンでの経験を応用して、他の地域や分野の研究にも手を出していき、贔屓目には「多彩」と言えなくもない「雑多」な研究活動を展開しています。それもあと数年で終わりです。

 パキスタン留学は、私にとって独立した研究者になる道筋の出発点でした。その恩返しというわけではありませんが、これまでにパキスタンから二人の大学院留学生を迎えて、各々が「博士」を取得するまで導くことができました。内一人は日本に残って大学の教員になって活躍しています。

 この留学の記録を綴りはじめた当初は、数年以内に完結させるつもりでした。しかし、メモから当時の体験を引き出して文章化することは想像よりもずっと難しく、メモの欠落部分や記憶がボヤけているところの確認にもかなり手間がかかりました。途中でコンテンツを置くサーバが変わったので、公開を始めたのがいつからなのかわからなくなっています。おそらく30年くらいかかって、ようやく最後に辿り着けました。今後は、誤字・誤記などを見つけたら訂正しますが、内容自体を更新することはありません。

おわり

内容を動画(スライドショー)にして順次公開していく予定です。

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コーヒスタンに関する研究成果