*季節を纏う、白*
(キリリク3553)
【3】
絳攸の沓を磨く手が止まる。
この声は。
ドキン、ドキン、と心臓が高鳴るのが分かる。
「これは、紅……黎深、殿……」
誰かがそう呟いて、絳攸は、やはり、と確信した。
「おやおや、これまたずいぶんと並んでいますね。この分では私の番になる頃には日が暮れそうだ。ふむ、先に仕事を終わらせてまた夕方に来ることにしましょうか。――今吏部では、役に立たない暇持て余し官吏をどう処分しようか検討中でしてね。ろくに仕事もせずふらついている官には退官して頂こうかとも思っているのですよ」
ふふふ、と笑った黎深に、室中の官吏が凍りつく。
吏部の紅黎深といえば、容赦ない査定でバサバサと首を切りまくる怜悧冷徹冷酷非情な切れ者として有名だった。
「そういえば私は書翰を届ける途中でした」
「まろは資料を探していたのじゃった」
「あ、も、もう磨かずともよいぞ、うむうむ、とても綺麗になった。礼を言う」
そう口々に言って、官吏たちは慌てて各部署へと戻っていった。
残されたのは、ただ二人のみ。
あまりの静けさに、絳攸は、ドキン、ドキン、と自分の心臓が脈打つ音が相手に聞こえるのではないかとすら思った。
沈黙を破ったのはやはり若い男の声だった。
「ふん、今更取り繕ったとて遅いわ。一人残らず処分してやる」
先ほどとは打って変わった低い声音に、絳攸はそろりと顔を上げた。
と、いつの間にかすぐ側に来ていた養い親と目が合ってしまって、絳攸は慌てて俯いた。
「――せっかくだ。絳攸、私の沓も磨け」
「はい」
台に置かれた汚れ一つない沓を、絳攸は丁寧に磨いていく。
きゅ、きゅ、と沓を磨く音が室に響く。
「絳攸」
「はい」
「顔を上げろ」
「………………できません」
「私の命令に逆らうつもりか?」
「…………………………っ、」
ぐい、と強引に視界が開けて、絳攸は瞠目する。
閉じた扇の先で頤を捕らえ顔を上げさせられたのだと気づいて、絳攸は目の前にある黎深の瞳を睨みつけた。そうでもせねば涙が零れそうだったからだ。
睨まれた黎深は、怒るどころか薄く笑った。
「なかなかイイ顔をするようになったな。その表情ならば、あやつらの言うように閨に連れ込んでも楽しめるかもしれん」
「っ、お戯れを……!」
歯をぎりりと噛みしめつつ顔を背けた絳攸に、黎深は微笑む。
「そう、戯れだ。――お前は私が拾って育てた、それは事実だ。その事実と違うことを言われようが、それは単に奴らの妄想に過ぎん。私はお前を、下らない者どもの言に惑わされるような愚か者に育てた覚えはないのだが?」
違うのか、と笑った黎深に、そのときの絳攸は返せる言葉を持っていなかった。
黙ったままの絳攸の前から沓を取り上げると、黎深はさっさとそれを履いて室を出て行く。
「うるさい奴らが消えた隙に、早いところ昼飯でも食べて、さっさと府庫に行け。……たまには邸に帰ってこい。百合が淋しがる」
一人になった室で、絳攸は泣かないように堪えるのがやっとだった。
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