*案ずるよりも*
(黎深・絳攸)
【5】
ついにきた、と絳攸は内心うめいた。
だが養い親の命令は絶対だ。逆らうことなどできないし、もとよりきちんと従う気でここまできたのだ。
絳攸は決意を新たにし、踵を返した。
ギク、シャク、と音がしそうなほどぎこちない動きで湯殿へと向かおうとした絳攸を、しかし黎深の声が止める。
「どこへ行く。お前はまだ自分の邸でも迷うのか」
呆れ声でそう声を掛けられ、室を退出しようとしていた絳攸は不思議そうな顔で黎深を振り返った。
さすがの絳攸も、長年暮らしたこの邸の中で迷うことはほとんどない。少なくとも居間や自室、厠など、毎日使う場所は迷わずたどりつける、――はずだ(庭院や、普段使わない部屋などはまた別だが)。
湯殿はこちらの方向でよかったはず、と思いつつ黎深を見つめる。
「庖厨はそちらではないぞ」
「…………はい? だいどころ……?」
きょとんとした表情を見せた養い子に、黎深は呆れたような顔を見せた。
「人の話も聞かずに、どこに向かおうとしていたのだ」
「え、湯殿に……」
「湯殿? ほほう、お前は湯殿で菜が作れるのか?」
「……へ。りょうり……?」
思いがけない言葉に、絳攸は瞳をぱちくりとさせた。
「ああ。私はお前に青椒肉絲を作らせるつもりで呼んだのだが」
「…………は?」
言っている意味が分からない、と言わんばかりの表情の絳攸に、黎深は大仰に溜息をついてみせる。
「湯殿へ何をしに行こうとしていたのか知らないが、人の話を最後まで聞きたまえ。私はまだ何も言っていないぞ」
用意をしろとは言ったが、まだ何の、という説明をしていない、と黎深は続けた。それに絳攸は困惑しつつ言葉を返す。
「は……。あの、夜伽を命じられたのでは……」
「は? なぜそうなる」
今度は黎深がきょとんとする番だった。
「だって黎深様が、昼間俺に精力剤を渡されて、定時で上がって邸に来いと仰ったので……」
そういった誘いなのかと、と赤い顔で呟いた養い子に、黎深は深い溜息をついた。
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