*えいぷりるふぅる*
(絳攸・楸瑛・劉輝・邵可・黎深)
【2】
すぅ、と大きく息を吸い込んでから、絳攸は吏部尚書室の扉を叩いた。
「失礼します、紅尚書」
絳攸が室に入ると、上司はいつものようにぱたぱたと扇をはためかせつつ、ぼぅっと窓の外を眺めていた。
「仕事してください!!」などと怒るのもばかばかしくなるほどのやる気のなさ具合に、絳攸ははぁと溜息をこぼす。
「黎深様」
「………………」
話し掛けても振り向いてもくれない上司にも、絳攸はへこたれなかった。いつものことだ。
聞いていないふりをしていても、こちらの話したことはちゃんと聞いて理解しているのが紅黎深という男だった。大抵のことには反応もせず、説明もなく切って棄て、それでいて重要な点だけはきちんと掬い上げる。
上司であり養い親でもある黎深のそんな性格を熟知している絳攸は、その背中に言葉を投げる。
「折り入って話があるのですが」
「………………」
無言は彼の肯定でもある。
絳攸はそのまま話を続けた。
「俺…、いえ、私は官吏を辞めようと思います」
その言葉に、黎深は今日初めてこちらを向いた。
「どういうことだ?」
「そのままの意味です。朝廷を辞します」
ついと黎深の瞳が細められる。と、黎深はパシンと扇を閉じた。
「訳を言いなさい」
その苛烈な瞳と強い語気にいささかひるみながらも、絳攸は口を開いた。
「っ、私の上司殿があまりに仕事をなさらない方ですので、さすがの私も嫌気が差しました。書翰だけに追われる日々はもうたくさんです」
「それはお前の本心か?」
「…………ええ」
「官吏を辞めてどうするつもりだ?」
じぃっと黎深に見据えられて、絳攸は一瞬言葉に詰まる。
楸瑛から今日は「えいぷりるふぅる」だと教えられ、とりあえず何か養い親にウソをつこう、と思い立ったのはいいが、ついた後のことなど何も考えていなかった。
「……ええと……、あ、ま、饅頭屋でもやろうと思います」
「お前が饅頭屋だと? やめておきなさい。あんなマズい饅頭、売れるはずがない」
黎深にあっさりとそう言われて、さすがの絳攸も少々カチンときた。
その「マズい饅頭」をいつも所望して自分に作らせているのは、一体誰だと思っているのだ。
「そんなのやってみなきゃ分かりません! これから寝食削って饅頭修行すれば絶対にモノになります!! ではそういうことで失礼致します!」
「待ちなさい絳攸」
くるりと踵を返した絳攸は、上司の静止を振り切って室を出た。
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