『変な窓』

 イタリアのシエナとフィレンツエのほぼ中間に位置する、サン・ジミニャーノという町の

裏道を歩いていたら、変な建物に出くわした。『変』というのは、住宅と思われるその建物の

窓がなにか『変』なのである。窓の大きさ、形は同じのだがなんとなくおかしい。

近づいてよくよく眺めてみると、4階建であるその建物の窓の幾つかがフェイクであった。

なんと3階の窓ほとんど一列分がペンキで描かれた窓であった。

 考えてみれば、ローマにあるバチカン美術館の天井のレリーフも実は見事な

陰影をつけた絵であったし、ミケランジェロが設計した同じくローマにある

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会のドームも、パンテオンのドームを模しているが

実はだまし絵であった。とはいえここまですれば ほんまようやるわ と言う他ない。

 本来、窓というものは内部と外部をつなぐもの、しかも、住人が室内にいながら

外部を感じるための装置だといえる。太陽の日差し、青く差し込む月光、さわやかな風、

そういう自然を感じさせてくれるのが窓である。一方、出入口は外部と内部の交差点、

もしくはその中間点だといえるが、窓は基本的に内側にその重心をおいていると考えられる。

 この意味からすれば、僕がサン・ジミニャーノで見たあのまがい物の窓はいったい何だろう。

少なくとも内部で生活を営む住人にとっては何の約にも立たないのは明白である。つまり、

この描かれた窓は完璧に外部のみを意識して、建物の外にその重心をおいているのである。

 人間が始めて自分達の住む家に窓をつけたのは、きっと、必要に迫られてのことで

あったに違いない。つまり、採光とか換気・排気とかいったことであろう。

その当時は、誰もその窓が外から見てかっこいいかどうかなんて考えなかったに違いない。

 大げさな言い方をするならば、外部を意識した窓のあり方にはバランスとか、

美意識といった文化がそこに含まれていると考えることができる。

 フェイクとはある意味では文化である。偽物が生まれるのは、

本物にあこがれるという意識があり、そのことに何らかの価値を見出すからに他ならない。

つまりそこには、明らかに他人の目が意識されている。

言い換えれば、そういったものがなければ偽物がうまれるすべもないと言える。

 この窓の絵を描いた、もしくは描かせた人物は、遊び心をもった文化人といえるかもしれない。

彼は、そこに窓が欲しかったのだろう。なぜなら、その方がきっとかっこいいと思ったからである。

そして、それを見る人をまんまとだましたり、びっくりさせたりしてきっと楽しんだに違いない。

 そういえば、ユーモアもまた人間のみが持つ文化なのである。

 <サン・ジミニャーノの町並み>

       

『美しき塔の町』として知られている。

イタリア山岳都市のなかでも特異な形態をもった町である。

この林立する塔は、それぞれの家の位と財力を誇示するために作られたという。

トスカーナ州のフィレンツェからシエナの間は赤ワインの産地で有名。

キャンティ・クラシコという名前はこの地方の由緒ある農園で作られた

ワインのみに与えられる呼称。黒い鶏のシールが貼られているのでご存知の方も多いはず。

 しかし、サン・ジミニャーノは白ワインの産地として知られており、

特に『Vernaccia di San Gimignano』はローマ法王、ロレンツォ・メディチも

こよなく愛飲したとのこと。味は、あっさり辛口。

 サン・ジミニャーノへは、フィレンツェもしくはシエナからバスで行き、

ポッジボンシでサン・ジミニャーノ行きに乗り換える。

シエナからポッジボンシまで約50分、そこからサン・ジミニャーノまでは約20分。

で、友人の長谷川氏と待ち合わせ。

以前彼が働いていたレストランで食事をしたのだが、

そこのオーナーのミケーレが気前良く我々にご馳走してくれた。

味は地元でも評判の店らしく美味。

二人とも、もうこれ以上食べられないというぐらい食べた。

美味いのと、せっかく出してくれた物は全部食べるのが礼儀だと、

日伊友好のためにせっせと食べ続けた。でも、いくら美味しいものでも限度を越えると

食べることがいかに苦痛になるかということを充分思い知らされた。

 

●アンティパスタ  イノシシのハムとプロシュート、ガチョウのハム、

          サラミ盛り合わせ、鳥の内臓のクロスティーニ他。

●プリモ      ウサギ肉のパスタ他1種類。魚介類のリゾット。

●セコンド     あばら骨付き肉の特大。(さすがに食べきれなかった)

●デザート     3

 

 <食後に、ミケーレと友人の長谷川氏らと>