鹿児島県霧島市横川町山ケ野   山ケ野金山  Photo : 2010.04 (1/1)   
一般的に山ケ野金山と永野金山とは国見岳(649m)の斜面を挟んで両側にあるだけで約2キロぐらいしか離れていない。実際に坑道は繋がっているので同一視されることが多いので写真のページは別々ですが説明は永野金山のものをそのまま使うことにする。

西暦1650年頃、山ケ野金山(永野金山もほぼ同時期)が発見されたが発見に至る逸話は例のごとく夢にお告げがあった云々・・・のその手の話である。初期の頃は金鉱石の露頭がありそれに沿って掘り進んだと言う。掘っても掘っても鉱脈が尽きずかなりの部分薩摩藩の財政に寄与したと言う。一時は金山人口が1万人ぐらいにも達したと言うから江戸時代初期の人口から考えると一箇所にこれだけの人口が集まると言うのはものすごいことだと思う。当然ながら幕府の目がある(幕府のお庭番(忍び)が全国に散らばっている)。一大名があまり力を持ち過ぎると幕府としては困る。ゆえに永野金山は幕府命令で閉鎖となるがまもなく再開。その後も産金量は減らず18世紀中頃〜19世紀にかけては当時の最大金山と言われた佐渡金山に匹敵する産金量があったという。
1868年明治維新と同時に薩摩藩はフランス人技師を鉱山近代化のために招請。採掘方法では斜坑をやめ立抗方式にしたり動力に蒸気機関や電力(水天淵発電所)を使ったり、また精錬方法では水銀を混ぜて蒸発させるアマルガム法、青酸カリを使う青化法やその他道路整備などあらゆる近代化・機械化を進めた結果、精錬での歩留まりも上がり1940年頃までこの状態が続いたようである。1943年になると軍部から金山に関する整備令が発令され全国の金鉱山は一旦休止。と言うのも戦争中のため貴金属としての金はとりあえず不要、もっと銅や鉄や亜鉛、鉛など武器生産に必要な金属を採掘せよ、と鉱山機械類をそっちの方に移動させられる。
戦後数年して一度金山を再開したが有望鉱床が見つからず1953年休山、その後もぱっとせず遂に1965年、300年以上も続いた山ケ野金山は閉山となる。 


L写真:県道50号線を南下、永野金山側から山ケ野金山側に入るとまもなく県道にこんな看板が。
R写真:
まもなく左に入る小道がありそこを行くと山ケ野郵便局に着く。そこには写真のように二枚の金山の案内板が親切にも立って
     いた。下の写真はその拡大図。


ほとんど町内会のような地図だがこの地図をもって散策できればもっといろんな所に行けたと思う。ただ車だったので道が細すぎて思うように走れなかったのも事実。時間があれば手前に車を置いて歩きならばいいだろう。ただし帰りに車の駐車場に迷子にならぬよう。


金山エリアに入ってすぐこれが目に入った。読みにくいので下に記載します。
  金山口屋(関所)跡
金山萬党に長野より二里七丁(8キロ60m)柵を結ぶとあるので開発と同時に設けられたものと思われる。山ケ野東西二箇所、長野一箇所とある。東の方は番所と言って今も地名で残っている。無手形の者の入山、金の密売、キリシタン等厳しく取り締まった。現県道に通ずる道はこれが本道で下の道は明治期谷頭に精錬所が出来るとき機械を運ぶために造られたのでシンミチと言う。下に続く道を口屋道と言った。   山ケ野区会


L・M写真:牢屋、つまり刑務所。江戸時代のことだから、おまけに江戸じゃなく僻地だと相当ひどい境遇だったにちがいない。牢名主なん
       かもいたんでしょうね。

R写真:
フランス人鉱山技師、ポール・オジェの当時の住居跡。彼は金鉱石採掘の近代化を唱える藩から招請され1877年(M10)、フラ
     ンスから来日。数々の近代化、機械化を実施したがそのやり方に周辺の抗夫たちが反発、なかなかスムーズにはいかなかった
     と言う。結局2〜3年しか滞在しなかった。  


L写真:これは恵比須堂。何を祀っているのかよく分からない。
R写真:
金山には全然関係ないですが大きな筍が道の真ん中にデ〜と鎮座?。いえいえ地面から生えていました。縁にちょっと遠慮
     がちに生えていれば
”おお〜うまそうやな〜”程度に思えるんですがこんなに自信満々にデン!と真ん中にあるとこんちくしょうっ生
     意気なやつ、てなもんですネ。付近を見ると当然ながら竹が一杯。筍も結構ありました。


昔の鉱山で岩盤が固くタガネの歯が立たないので坑道内部で火を焚いたり消したりして岩盤をもろくして採掘したという例はたくさんある。これも当時の知恵だろう。ただしこの方法には煙の出口が必要でもう一箇所排煙口があるはずだが。伊豆の天正金山などはそのための煙道がある。それともうひとつ、いきなり岩盤が崩れる危険性も大である。ただ当時としてはそんな危険性などは完全に無視だろう。


上の火入れ坑の内部奥側。どこの坑道も水だ。


L・M写真:自稼掘坑(じかせぎぼりこう)跡。自稼掘坑と言うのは近代の企業がやる鉱山採掘とは違い古く江戸時代などの鉱山経営
      形態のひとつである。つまり江戸時代などは金や銀が出ると佐渡金山や石見銀山などのように幕府直轄経営や各藩経営
      鉱山でも探鉱・採掘技術がまだ未発達なので当初はどの程度金銀が取れるか分からない。そんな鉱山に最初からいきなり
      多額の投資をするのはリスクが大きすぎる。そのため当初は小規模に経営をしながら並行して主に山師や金・銀堀師など
      個人に鉱石を掘らせる権限を与え掘った鉱石を藩が買い上げる、と言う仕組みを作っていた。後に有望鉱脈だと分かれば
      そこで自稼堀を減らしていき藩や幕府が大規模に投資して採掘する、というやり方である。
R写真:それのUP。穴の大きさはそれはそれは小さい。とても現代の成人男性が入れるものではない。  


谷頭精錬所跡。説明を下に記載します。
島津忠義は鉱業の振興をはかるには文明の学術を応用するに限ると明治10年、フランスより鉱山技師ポール・オジェを招きここに精錬所を設立、蒸気をもって杵を動かし昼夜作業せしめていたがいろいろ困難な問題が起こり思わしく行かず同23年フランス人を解雇した。そして従来の方法により島津直営の作業が行われていたが明治40年永野に電力による一大精錬所が完成、運転開始とともにこの精錬所は操業を停止した。なおこの精錬所のシンボルとして高く聳えていた大煙突は大正15年2月11日朝10時爆破されたが倒れると同時に永野に黒煙が上がり82戸焼失、今度は翌々日永野精錬所が原因不明の火で全焼。この出来事に山ケ野・永野は大いに流言飛語が飛び交った。  山ケ野区会  


時の薩摩藩主、島津光久の家臣島津久通が光久の命により金山を探している時とある山中で金鉱石の夢を見たと言ういわれのある台々鼻(ででんばな)。ここが(山ケ野)金山発見の地、と言われている。実際に金が発見された夢想谷はこのすぐ近くにある。


鳥居のアーチに”金山発見の地、夢想谷”とある。ちょうどヤフーMAPでは県道50号線のさつま町と霧島市との境界付近にある「十三谷公民館」の北東側になる。  


L写真:想谷坑口。下の写真の竪工を見ても分かるが当時としてはここの金山は結構大規模だったようだ。
M写真:
料理屋跡とある。
R写真:どこの坑口内部だったか忘れてしまった。夢想谷坑口か下の写真の竪工周辺のものだったかと思うが。江戸時代はこんな坑道内に粗末な着物を着てわらじを履いて腰にはサザエの貝殻に入れた菜種油を燃やし明かりをとる、と言ういでたちで岩肌にたがねを打っていたようだ。たしかに坑夫の寿命は30歳ぐらいでOUTだったようだ。


この竪工がフランス人鉱山技師、ポール・オジェが近代化のため進めた竪工だろうか。右の写真の坑口はフェンスの下の方に見える坑口をUPで撮った。  


夢想谷坑からもう少し奥へ行くと左側に写真の徳源社に着く。徳源社の「徳源」と言うのは金山を発見した島津久通の法名(戒名)。


L写真:6500万年昔の金鉱石、とのこと。
R写真:
ボロボロノキ?まさか”ぼろぼろの木”?そんな・・・青々してたけど・・・(笑)。でもボロボロノキ科って「科」があるの?
     初耳!
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Osimai