Photo:2007.11   多田銀山   2/2    


 ”多田銀山に明治時代の精錬所がまだ残っている”と聞いて二回目の鉱山めぐりをしてきました。Webでだいたいの場所を見当つけて現地に行ってから土地の人に聞いてみよう、と思いました。銀山通りからかすかにでも見えるかな?と思い見当をつけた通りの北側、つまり「悠久の館」の反対側の方をズ〜ッと歩いて見ましたがどこにもありません。こりゃあかんと思い悠久の館の人に聞きました。すると”となりです”とのこと。ウン〜・・・。となりって・・・??? そういわれてもネエ・・・。すると”藪に隠れて見えないよ。ちょっと入らないと”とのこと。で、言われたヤブの中に入りました、ガサゴソ・・・  
 と言うことで見つけたのが上の写真です。確かにレンガ造りの基礎がそこかしこにありました。L写真はよく見ないと分かりにくいですが手前の木立のむこうに写真一面にレンガが写っています。R写真はそのうちの一つにがんばって近づいてみたものです。これ以上は向こう側には行けません。行けば何か見つかるだろうけど。危ないですね。レンガの上には年月を感じさせるようにすでにかなりの背丈の植物が生えています。ちなみにここは銀山通りから距離にして数十mぐらいしかありません。でも藪のために通りからは全然見えません。  




L・M写真:県道12号線から左折する交差点「広根大水口」。右手の方は全部ベッドタウンだ。この道、県道と云っても全4車線の立派なものだ。
R写真:左折するとすぐにこんな標識が目に入る。


 銀山案内図  銀山総合案内
 この銀山地区は多田銀銅山の中心地として栄え奈良・東大寺の大仏鋳造に使われたと言う古い歴史を持ち豊臣秀吉の埋蔵金が眠るとも言われています。特に江戸時代には代官所が置かれ戸数は約3000戸を数える賑わいを見せていたが現在は20戸の静かな集落となりその周辺には多くの間歩(坑道)や代官所の門、明治の精練所跡などが往時を偲ばせます。町立ふるさと館にはふいごや採掘に使った道具類も多く展示、保存されています。またこの自然地の中を東西へ山陽自然歩道が縦走し年間をとうして多くのハイカーに喜ばれています。
             昭和63年3月  
 多田銀銅山は我国鉱山史上有名な鉱山の一つである。この鉱山は現在の猪名川町、川西市、大阪府諸地域にわたり東西南北10数キロにも及ぶ広範囲でおびただしい大小間歩が掘られた。1716年〜35年の記録によれば、猪名川町1696個、能勢町195個、川西市78個、その他832個、計2760個となっている。
      〓以下読みにくいので省略〓  
(ちょっと計算が合いませんが・・・まあいいでしょう)   


@ B A
 @:藪に隠れて見えないが道路と精練所跡の間に流れている野尻川。平炉跡の川の下流だ。川底が赤いが鉄分のせいだろうか。
 A:ハイカーのむこうに腰高ぐらいの壁があるがそのむこうに畑がありそれを越えたあたりに精練所跡がある。
 B:これがその精練所跡の一角だ。この基礎がH=約3〜4mぐらいあっただろうか。こういう煉瓦の基礎が見えただけで5〜6個あった。  


 悠久の館。ここで精練所の場所を聞いた。  


L・M写真:「多田銀山史跡保存顕彰会」というのがあるんですね。全然知りませんでした。横にはたくさんの石が展示されています。
R写真:これが銀山橋。このむこうを左折すると代官所跡、16人間歩、金懸間歩に。


L写真:橋を越えて左折するとすぐにこの標識が目に入る。 M・R写真:江戸時代の代官所跡だ。


 竪穴の坑口のようだが名前などは分からない。代官所跡の一角にあった。初め井戸か何かかと思ったがどうやら坑口だったらしい。16人間歩と金懸間歩は奥の斜面を登らないといけない。かなりの藪の中らしい。  


 江戸時代の平炉跡だ。ここでいう平炉というのは今で言う製錬のことだろうか?下の川にはからみが結構あるらしい。


 ・下L写真:”天正度・豊臣公 瓢箪鉱山”の石柱。これってやはり豊臣秀吉の時代からここに鎮座?していたのでしょうか?だとすると400年以上ですね。
 ・下R写真:金山彦神社の入り口。石柱はこの橋の左側手前にあった。  


 銀山通りにあった甘露寺。本堂は坂道を登ったところにある。帰りに偶然、住職に会ったので”ここには銀山で犠牲になった坑夫たちの墓はあるんでしょうか?”と聞いてみたが”それはありませんね”とのこと。それが本当ならここでの犠牲者は何処に葬られているんでしょうか。たいがいどこでも鉱山の犠牲者はその地区の寺に墓があるものだが。あるいは他にも寺があるんでしょうか。  


 ・L写真:銀山鉱区内にこんな工場が。前に来たときは結構作業をしていましたよ。今度行った時は閉鎖工場が多かったみたいです。
 ・R写真:かつての名残ではないでしょうか。川をまたぐようにむこうの藪に入っていってました。  


 上三枚は台所間歩である。台所間歩は露頭のすぐ近くだ。入り口は前回よりも若干大きくなっていた。観光整備のために手を加えているのだろう。坑道の天井に白く光っているものはなんでしょう?カビでしょうか?  


 ・L写真:露頭から瓢箪間歩方向に行ったところ。前はこんな舗装は無かった。やはり整備は進んでいるのだろう。この先に廃工場もある。瓢箪間歩以外にもう一つこの先に間歩があったように思うのだが・・・。思い出せない。
 ・R写真:ちょっと分からないですね。なんとなく写真に撮ったけど。 


 瓢箪間歩の入り口。なんとなく不気味でした。中には入ろうと思えばはいれますがその勇気はないですね。  


 ・L写真:十字の柵の奥をUPで撮ったもの。
 ・R写真:タテヨコの格子の奥をまたUPで撮ったものです。相当奥まで続いているようである。右にも横穴があるような。この坑道が露頭下まで続いている。  


 ・L写真:銀山最奥部の様子。何か廃工場のようだが詳しくは不明。鉱山関係ではなさそう。
 ・R写真:「石散当?」、何でしょう???廃工場の横にあったけど。


@ A
B C
 @:1944年〜1973年(閉山)まで30年間採掘していた旧日本鉱業(現・新日鉱ホールディングス)が竪坑を建設していた場所。A:その看板。道端にある。B:ご覧のとうりです。ジャパンエナジーは新日鉱ホールディングスの小会社。C:付近のそれらしき遺構?。  


L・M写真:瓢箪間歩大露頭。露頭と言うよりも一見ズリ山のようにも見えるが。ところでここのズリ山は何処にあるのでしょうか?あまり聞いたことないですね。?
R写真:上の写真の露頭の奥の方(と言うよりも”上の方”と言ったほうがいいかも)に行った所の資材置き場?の様子。産廃業者かもしれない?


銀山の歴史
 多田銀山は多田鉱山ともいい奈良時代(1200年前)東大寺の大仏鋳造のために銅を献じたと言われる古い銀や銅の産地です。1570年豊臣秀吉により銀山を盛大に開発され最も栄えました。大阪城築城の際、台所をうるおすことが大きかったとみえ台所間歩(坑道)とか瓢箪間歩などの坑口の名前がつけられています。当時は世帯数3000、人口は15000あったと言われ今も尚、本町、新町など山里とは思われない地名が残りかっての銀山町を物語っています。1615年江戸に入り銀山および付近の諸村は天領となり大口間歩を中心に大いに開発され年建上銀(租税)660貫(2475トン)銅70万斤(420トン)、に及んだと伝えられています。貫文2年(1662年)銀山代官所が設置されました。当時の銀山業者には絵具屋吉ベエをはじめ布屋利ヘエ大阪屋や泉屋(現在住友)があり明治になり三菱が稼業し、明治30年堀藤十朗の所有となりました。明治38年、機械選鉱および選鉱所が新設されたのですが明治41年日露戦争の影響で休山となりました。昭和19年日本鉱業が鉱区買収し昭和48年まで粗鉱を月産1.000トン程度採鉱しましたが現在は休山しています。
 ー元京都大学小葉田教授   昭和55年9月調査によるー
               猪名川町役場
               猪名川町観光協会 



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