新大谷鉱山(京都市右京区京北下中町大谷45)  1/2   
「丹波マンガン記念館」と云った方が分かりやすいかもしれません。
                                          撮影 :  2006.04  1回目
                                                 2007.07  2回目
                                          更新 :  2008.11    
<お知らせ>
一旦は、2009年5月31日に閉館された”丹波マンガン記念館”ですがその後、何とかして続けてほしい
との声があまりに多いとのことでこの度、2011年度の夏までには再開するつもりとのこと。以上、おしらせまで。

<再度のお知らせ>
2012.1.20現在、”丹波マンガン記念館”は再開館しています。
詳細は右記URLをクリック。 
”丹波マンガン記念館”


 もともとこの丹波地方には昔から中小、零細のマンガン鉱山が多々あり一説では300個所以上あったともいわれている。いくら零細とは云え狭いこの地域に300箇所とはあまりにおどろくべき数字である。まさに”そこらじゅうに・・・”と云ったところか。ただ規模が小さい故に採掘に関しては大手の企業が採算が取れない、という理由などで本格進出はしなかったらしい。それでも1930年代頃から武器の製造にマンガンが必要不可欠になり結構、小規模ながら採掘は盛んだったという。
 丹波でマンガン鉱脈が発見されたのは結構古く一説によると8世紀頃に僧侶が発見したという伝説があるが真偽は定かではない。ただ本格採掘に入ったのはやはり19世紀、明治に入ってからのことである。
現在”丹波マンガン記念館(新大谷鉱山)”はこういう鉱山としては非常にめずらしく在日朝鮮人の個人で経営されている(現在はNPO法人)。現在は元ここの鉱山を経営されていた方のご子息だ。長年に渡り経営権がいろいろと変わる中、1969年それまでの「三洋開発鉱業」から経営を譲り受けしばらくは採掘をしていたが1977年、他と同様輸入鉱に押され遂に閉山となる。ちなみにここでは炭酸マンガンと二酸化マンガンを産出していた。閉山後は在日朝鮮人の強制連行の歴史を後世に残さなければ、という他界された元オーナーの強い遺志のもと現在の「丹波マンガン記念館」として当時の過酷な労働環境などを示す資料を展示している。




 手書きで粗末っぽく見えますが個人経営でここまでされるのには大変な苦労だと思います。  入り口をはいったところの駐車場。写真右側が入り口(内側から撮ってます)。


 駐車場の脇にある展示物。・・・8世紀から1950年頃まで・・・ということはここの鉱山でも使われていたということですね。


 飯場の中にあった人形。着ているのはチマ、チョゴリでしょうか?そばにはチャングもありましたね。


 当時の飯場の様子。親方は座ってだが鉱夫は立ったまま食事だ。R写真は当時の飯場の説明。


鉱山資料館の内部。結構まめに収集された跡が伺われます。 赤い枠の部分が鉱山の領域です。


観光坑道の入り口。 2ページ目のトロッコの写真にあったウインチです。


ここが観光坑道入り口です。この入り口、どこかの鉱山の入り口に似てますね。何処だったかな〜?どこも似たようなものかな〜。(失礼!)左の青い看板には”坑道内は年中12℃です”とある。他には”入坑時には必ずヘルメット着用のこと”との注意書きも。


 この説明板のある場所は入り口からそんなに奥じゃなかったけどね。”手掘り”ということでやはり相当の労力を要したんでしょうね。頭が下がります・・・。  よくある人形です。鉱山の人形としてはちょっと何かヘン・・ヘルメットもキャップライトもバッテリーも持たずに・・・。資料によるとここが個人経営ということで大手の鉱山のようにロケーションに合った人形を別注できずにごく普通のマネキンを買ってきて家族だけでそれらしい形に切ったり張ったりして製作されたとか。ウ〜ン、すごいことしますね・・・。


50キロと云えば鉄アレイ10個分。それを担いでほぼ垂直に40m上まで上がるということか。腕に持つのと背中に担ぐのとは体感が違うがそれでもかなりキツイ作業だ。 二酸化マンガンというのは手近なものでは乾電池の中の電極(真ん中の炭素棒の周囲にあるネチャッとしたやつ)です。乾電池の電極と云っても今のものは簡単に中を見れないから若い人は知らないかもね。昔のは外側がボール紙だったので液漏れもよくしたが簡単に分解できた。


 これはカンザシか?。坑道の中間ぐらいだったと思う。奥が深そうだ。  坑道の折り返し地点辺り。ここから下向きに約80m堀り下がっている。


 手掘りのようす。いわゆる”狸掘り”ですね。人一人がやっとの大きさで堀進んでいく。実際には写真の大きさよりももっと小さい。  これは”枠入れ”です。坑道が崩れないように、つまり落盤防止に実にたくさんのこのような「支え」を入れないともたない。これだけしても落盤事故は後を絶たなかった。


 先ほどは堀下がっていたが今度は堀上がっている。と云うことはここにタテ方向に鉱脈があるということか。  放散虫とは数ミクロンから数十ミクロンの非常に小さい海に生息していた動物性プランクトンのこと。


 何か鉱山での作業風景って感じがしないですね〜。やはり人形のせいでしょうか?ま〜それにしても大変な作業です。日も当たらずジメジメして足元は水ばかりですべるし常にホコリだらけで。今ならさしずめ”奴隷労働”でしょうか。ひところ流行語になった3Kどころではないでしょうね。


 穿孔・発破の現場。穿孔は切羽に約1.5mぐらい奥まで穴をあけそこにダイナマイトを詰めて爆発させる。穴は一個だけではなく数十箇所あける。そのため火薬の量も結構大量に消費する。


 坑内は水との戦いだ。どこの鉱山もまさに水との戦いであった。ある意味本業の採掘作業よりも排水作業の方が手間隙がかかるかもしれない。出水のため有望鉱脈を泣き泣き捨てた鉱山も少なからずあった。佐渡金山などでも南沢疎水など莫大な費用と手間をかけて排水工事をしている。それにヤマが閉山してもまた鉱毒処理で半永久的に水対策は止められない。


ダイナマイト用穿孔の穴。


 ここは出口。「川端大切坑」から入って「中瀬坑」からでる。よくはわかりませんが中で二本の坑道が繋がっているのかも? この上は道路でほぼ料金所手前の入り口だ。料金所はこの左手側。右手側が国道162号線側。道路と坑道はほぼ直角に交わっている。


この山のあちこちに旧坑道がある。殆どが狸掘りだ。


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