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福島県いわき市湯本 石炭・化石館(常磐炭田) photo:2009.12 (1/1) |
常磐炭田(”常磐”とは常陸<ひたち>の国と磐城<いわき>の国の旧国名)と言うのは北限を福島県富岡町(東電の福島第二原発近く)〜南限を茨城県北茨城市中郷周辺までの広範囲にわたるエリアの炭鉱の総称である。 採炭種は褐炭、亜瀝青炭の類であまり良い石炭ではなかった。炭化度が低く水分や不純物の多い熱量の低い石炭であった(夕張や三池炭鉱は上質の瀝青炭)が地理的に首都圏に近いことが戦時中の九州、北海道からの石炭が需要地に届きにくかった事情から重宝されたようである。戦後もまた戦後復興需要と”近い”ということで採炭は途切れなかったようだ。ここでその歴史を時系列で記載することにする。 ・1855年(江戸幕末):片寄平蔵、加納作次郎等により内郷の弥勒沢周辺で常磐地方にて最初に石炭を掘り出す。これが常磐炭田 の始まりといわれている。当然ながら当初は手堀り、いわゆる狸堀りであった。狸が穴から出てくる様に似てい たことからそう呼ばれるようになっと言う。 ・1884年(明治17):浅野財閥(安田財閥系)が磐城炭鉱を創設。同社が同地に創設した最初の大資本炭鉱(後に入山採炭と合併 し常磐炭鉱となる)。同時に石炭輸送のため常磐鉄道(常磐線)の建設を進める。 ・1895年(明治28):入山採炭が設立され川平や高倉で竪坑を掘削。 ・1897年(明治30):水戸から平(いわき市)までの鉄道が開通、これで常磐炭田は鉄道で首都圏と繋がる。と同時に同地に進出す る炭鉱会社と坑夫の数が急増。明治末期にはその数1万人を超え大正時代には4万人近くになったという。(企 業数も130社以上にも及んだ)。産炭量も増えたがこの頃からストライキなど労働争議も出はじめる。 ・1906年(明治39):好間炭鉱が設立される(後に古河資本<足尾銅山など>に吸収され古河好間炭鉱となる)。 ・1927年(昭和2) :これまでにも磐城炭鉱などでストライキがあったが当時の日本は軍備拡張一色で産炭量も増加しその分作業 内容もきつくなり当然ながら事故や不満も多発する。1925年には治安維持法も発令され取り締まりもより厳し くなる反面、組織化された労働争議も過激になり遂にこの年、岩城炭鉱内郷町田坑で坑内火災発生。134人 の死者がでたこともあり各地の炭鉱でストライキなど大規模な労働争議が発生。 ・1941年12月 :太平洋戦争勃発。全国の炭鉱や金属鉱山同様に常磐炭田にも軍からの増産命令。戦況悪化に伴い働いてい た坑夫達にも徴用命令下るようになり炭坑労働者が不足する事態になる。欠員補充と増産のため植民地であ った朝鮮半島や中国大陸から続々朝鮮人、中国人を甘言等により強制連行。’45年敗戦まで続き敗戦時には その数100万人以上とも言われ殆ど奴隷労働による夥しい数の犠牲者も出た。敵だった連合軍捕虜も数百人 単位で炭坑労働に投入された。これについては戦後、横浜での米軍事法廷で数人が戦犯に問われ有罪判決を 受けている。 ・1944年(昭和19):磐城炭坑と入山採炭及びその支山が合併。常磐炭坑となる。常磐炭坑は湯本地区に湯本坑、磐崎抗、鹿島坑 など内郷地区には住吉坑、綴坑、川平坑、そして茨城県側には中郷坑、神の山坑などを持つ常磐炭田では年 産100万トン規模の最大手の炭鉱会社になる。 ・1945年8月15日:戦争終結。しばらくは戦後の混乱により採炭も不安定にしか稼動しなかったがまもなく戦後復興により石炭需 要が発生。戦災で何もなくなった当時すぐに使える手軽な燃料と言えば木材の薪か石炭(練炭や豆炭なども石 炭が原料)ぐらいしかなかった。 ・1947〜48年頃:この頃には外地から戻ってきた人々も次第に増え国内も産業が本来の姿に戻りつつ、且つ復興もはずみがつ き出し全国の炭坑で戦時中とは違った意味での増産が叫ばれ始める。これ以後’55年頃までが日本の石炭事 業の最盛期と言える。 ・1964年(昭和39):’50年代からの政府のエネルギー政策転換により全国の炭坑が次々と閉山。ここ常磐炭田でも中小の炭鉱に 続きこの年大手の古河好間炭鉱が閉山。続いて’71年には最大手の常磐炭鉱 磐城鉱業所が閉山(一旦再開 したが’76年再度閉山)。 ・1966年(昭和41):閉山が続く中で炭鉱会社もなんとか再雇用に結びつけようと努力し結果、温泉を利用したレジャー施設「スパリ ゾートハワイアンズ」(旧常磐ハワイアンセンター)を開設。ただ石炭しか知らない炭鉱マンに接客業が出来るの かと不安がいっぱいだったと言う。(スパーリゾ−ト〜については映画「フラガール」(李相日監督、松雪泰子、豊 川悦司等出演)がよく分って面白い。) ・1984年(昭和59):常磐炭坑 磐城鉱業所跡地にいわき市が「いわき市石炭・化石館」(JR「湯本駅」下車)を建設。常磐炭田と言う 産業遺産の保存・継承に尽力。 ・1985年(昭和60):常磐炭鉱 茨城鉱業所(茨城県側の中郷坑、神の山坑など)も閉山。これで常磐炭田はすべて閉山となり明治 以降130年間の石炭の火は消えた。 |
JR常磐線「湯本駅」から北へ500mぐらい行った所に常磐炭田の歴史を保存している”石炭・化石館”がある。元は常磐炭鉱磐城鉱業所のあった場所である。閉山後いわき市が買い取り博物館を開設した。ただ小生が行った日は”休館日”!(またや、またや・・・ショック!もうなれたけど。) |
●L写真:館内には入れなかったが外の敷地内を見てみると”坑夫の像”というのがあった。子供の手をつないだ若い抗夫とそ の妻、という像はよく見かけるがこういうのは珍しいのではなかろうか。 ●R写真:1855年(安政2年)いわき市弥勒沢地区にて初めて石炭を発見したという片寄平蔵氏の石像(銅像かも?)が資料 館の玄関口にあった。 |
●L写真:外に出て周りから敷地内を見る。観光用立抗やぐらが見える。白いのが資料館。 ●R写真:合掌造りのような屋根の建物はなんだろうか? |
●L・M写真:資料館の北側に行くとこんな坑口らしきものを確認。立派!やはり坑口というのは鉱山の顔だからだろうか。 ●R写真:坑口のUP。内部には結構土砂が入っていた。 シャッターまで設置されている。 |
湯本第六抗人車坑。これは資料館の山側の道を行くと見える。 |
●L写真:資料館側から湯本第六抗人車坑方向に繋がった通路ではないか。位置的にはそのようだが。 ●M・R写真:アングルやら配管パイプやら遺構の類がまだまだたくさん見受けられかつてここが”男の戦場”だったことがうかがえる。 |
山側の道をそのまま北上すると右手に常磐開発〜という会社がありその左手に湯本川調整池という工事中(だと思う)の場所がある。その法面に「湯本第二小学校」との石柱記念碑みたいなものがあったが素直に解釈するとかつてここに小学校があったということか。そんな風には見えないが。閉山で廃校になった為にその跡を調整池にしたということなのか? |
これがその湯本川調整池。資料館の北どなり。こんな石炭坑口のすぐ隣に小学校を作るものだろうか?上の石柱記念碑はよくある他所の場所のものを何かの事情でここに移したのではなかろうか。でないと万が一坑内事故でもあったら最悪、子供にも被害が及ぶだろう。ここが貯炭場と考えれば納得なのだが。 |
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