新潟県佐渡市下相川   佐渡金山(さどきんざん)  撮影:2007年8月  (1/4)  
 佐渡の金山は1601年(”関ケ原の戦”の翌年で徳川家康が天下をとった頃)に発見された金鉱山である。最盛期は江戸時代の初期の頃で江戸幕府の台所を支えた金山だった。この頃の金山奉行が後に石見銀山でも力を発揮した大久保長安である。1601年に発見され1989年に閉山される約390年間の間に掘った金は累計で78トン、銀2330トンあったという。(三菱マテリアルの資料より) 製錬方法だが他鉱山では使っていた水銀でのアマルガム法はここでは採用せずに写真にもあるように鉛でのアマルガム法を採用していたという。そのせいかどうか当地では水銀中毒問題の話を全然聞かない。閉山されてから18年が経過しているが今後も観光鉱山としてますますの整備をしていくことだろう。テーマが銅や亜鉛ではなく垂涎物の「金」だけに人々の注目を集めやすいのだろう。
上の地図をクリックすると拡大地図が出ます。

道遊の割戸道遊抗第三駐車場・大立竪抗・宗太夫抗・無宿人墓地・南沢疎水
旧選鉱所跡・相川郷土博物館・旧佐渡奉行所


西三川の砂金採りだ。最初の予定にはなかったがちょっと寄り道をすることに。700円払ってバンニング皿を受け取る。ウ〜ン、なかなかうまくいかない。係りのおばさんが業を煮やして”はい、これ”とどこかから一粒くれた。う〜ん、これで700円分あるかな〜?・・・(笑)


観光用ではなくその昔は結構、本格的に採取していたらしい。


これが佐渡金山の殆どの本に載っている写真の”道遊の割戸”だ。観光客が多いせいか韓国語と中国語(”ここから道遊の割戸が見えます、見てください”という意味が書いてあるようです。)でも小さく書いていた。ただし後から張ったものだが。


このトンネルは道遊線の三叉路から金山跡に向かう途中、右側にあったものです。最初は坑道かと思ったのですがどうやら道遊抗から北沢選鉱所に鉱石を運ぶトロッコの軌道用トンネルでした(後に写真あり)。レールは全部はがしていますね。


このトンネルも上と同様、トロッコ用トンネルです。場所はさっきの写真のものより西側。R写真の道路標識が”道遊線の三叉路”です。


第三駐車場から”〜割戸”(上部右手)を望む。正面上部の斜めの建物が破砕所。その左手が貯鉱所。分析所は破砕所のすぐ下だがこの写真では木の陰になって見えない。ついでに言うと破砕所の裏手に道遊坑がありそれが割戸の山の地下に入っており、地下で観光坑道の宗太夫坑と繋がっている。もちろん観光坑道から道遊坑には入れない。


第三駐車場にある金鉱石と石碑。食堂の前にある。


道遊坑の正面。明治時代に活躍した大島高任(おおしま たかとう)鉱山長が開発したといわれる坑道。ここから割戸の下までいっている。ここの地区を”高任地区”という。「道遊坑」の道遊という名前の由来はよくわかっていない。江戸時代の絵図には”青柳の割戸”と書かれておりその下に「道遊間歩」と書かれているらしい。”青柳”というのは地元に青柳姓の人がいたらしいが、道遊という名字はなかったらしい。ただ”道伝(どうでん)”という名字があったのでそれとの関係があるいはあったのかもしれない。
 これは小生の根拠の無い勝手な想像だが、なんとなく”道遊”というのはお坊さんの名前らしくないだろうか。もっと昔には京都の丹波地方にマンガンを発見したといわれる”道鏡”(この僧が弓削道鏡のことだろうか?)という僧がいたらしいが。日本の古代史はあまり詳しくはないが、行基など僧が土木工事をやった事実は結構あるみたいである。(こんな想像、間違ってますよね、スンマセン。)


道遊坑の入り口です。ご覧のように板壁で一応塞いでます。中から”冷た〜い”風が吹いてきてます。行った日が8月だったのでそれも”すっご〜く暑い日”だったのでなんとキモチヨカッタか・・・。ず〜っとここにいたいぐらいだった。R写真の白っぽいモヤモヤは写真のせいではなく外気の湿った空気が中からの冷気に冷やされてこんな風になっている。M写真の右わきの道路は割戸の方に向かっている。トロッコのレールが中のほうまで続いていた。  ちなみにこの坑道も明治時代の一時期には観光用に開放されていたらしい。  


R写真は機械工場。この日も脚立に乗って大工仕事をしている方がいました。トロッコと軌道はまだ”現役”だった。後の写真にある大きな竪坑は今はもうない。この小さな竪坑はサブで何かに使われていたのだろう。坑口は当然、コンクリート・・・である。L写真の赤いは下の写真の坑口から”角行坑”方向に行っている坑道である。


この2枚が”角行坑”方向に行っている坑道。


Lが貯坑場、Mが鉱石の破砕工場、Rは青い文字が読めるだろうか?「佐渡鉱山」と書かれている。ホッパーらしき工場の壁に書かれていた。ツタでほとんど読めない・・・。


Lが分析所、Rが貯鉱所に向かうベルトコンベア(ちょっと斜めの建物)。その右は変電所か?破砕場はすぐ後ろ側。


ここは破砕場。道遊抗から採掘した鉱石をここから北沢地区の製錬所へ運ぶのにある程度まで砕くための工場。砕いた鉱石をここからバッテリーロコで北沢地区まで運ぶ。


破砕場内部。日立製の10トン天井走行クレーンがあった。三菱製ではない。


Lは変電所跡。Rはトロッコ用のホッパー。


ここは選鉱所だと思っていたがどうやら違うようだ。揚鉱場?と案内図にはあるが???だ。鉱石をどこかに移動するためのものか?よく分からない。

     (1/4)    TOP   NEXT