佐渡金山(さど きんざん)   (3/4)     

道遊の割戸道遊抗・第三駐車場大立竪抗宗太夫抗無宿人墓地南沢疎水
旧北沢選鉱所跡
・相川郷土博物館
旧佐渡奉行所

 旧北沢選鉱所
茶色のレンガの建物が火力発電所。 北沢地区で選鉱場が操業中の写真。


 Lは売店。Rはインクラインだ。草ボウボウで軌道が残っているかどうかわからなかった。ちょうど写真の売店の右側をグルッと回り込むような感じで入るとインクラインの下端になる。そこにもはいったが売店の物置替わりに使われている感じで雑然としていた。しようがないよね。


 Lがかつての火力発電所。今は下にあるように”近代 佐渡金山写真展”会場になっている。この中のワンフロアでかっての往時の白黒写真が展示されている(一部下の写真、参照)。結構見ごたえがあったのでじっくりと見ていると半分あたりで団体さんがドヤドヤと入ってきた。ウワ〜ツ! 子供じゃなく大人なんだけど、どこかの新人研修の様子なんだけど、冷房も効いてなかったので急に暑くなりそそくさと出ました。(ザンネン) Rはかつての浮遊選鉱場の巨大な土台。いくつかのシックナーと手前にベルトコンベアーの土台(下に拡大写真)らしきものが残っていた。


 ここに見えるシックナーはそれほど小さいものではないが結構数が多い。一個一個独立していなくて連続的に建設されている。下の写真にもあるがここの前にもっと大きなシックナーもある。相当に大規模な選鉱場だったみたいだ。


Lは奥の方、ちょっと左に大型シックナーが。こんな位置関係です。Rは多数のシックナーがある旧選鉱場の土台。さっきとは反対側から見る。右側の建物はレンガ造りの火力発電所。前は一面、芝生だ。草野球ぐらいなら十分できる広さだ。


 Lは最上部L側の写真下部の小さな川だが多分カラミの一部ではないだろうか?なんとなくただの土のかたまりとは思いにくい。下まで降りれば、と思ったが近くに降りれる場所がない。段差も結構あるのでやめることにする。(小生、メタボ?なので上がれないと困る・・・((笑))) Rはさきほども書いた巨大なシックナー。広場の端っこまで行ってzoom inで撮ったものだがやはり大きい!多分、神子畑選鉱所のものと同じぐらいかそれより大きいと思う。こんなに大きいものが他にもあるのかと思い目を凝らして探したが残念ながら木がうっそうと生い茂りその奥までは分からなかった。小生、シックナーのことはあまり詳しくないが神子畑も建設後まもなく明延鉱山のスズや銅などの選鉱所に変わってしまったが、元々は神子畑金鉱山のAuの選鉱が目的で建設されたものである。それがいざ掘ってみるとAuがたいしたことなく結局、方向転換を余儀なくされた。だから神子畑のシックナーは元々がAuの選鉱が目的だった。Auの選鉱所のシックナーが何故大型なのか?はよく分からないが勝手な想像で言うとAuは他の金属に比べて圧倒的に単位量あたりの含有量が少ない。そのため効率を考えるとどうしても大型化になる、というのが小生の想像ですがあってますかね〜?


 選鉱所土台をほぼ正面から。上の鉄筋の建物は普通の住宅用マンション。このマンションの反対側の道路を左方向に行くと金山に向かう。ちなみにマンションあたりの三叉路を南にいくと南沢疎水坑にいく。


 最下段に位置しているし勝手な想像ですが多分ベルトコンベアの基礎だと思います。ここで選鉱された鉱石(金銀精鉱というらしい)は瀬戸内海の直島まで運び製錬されたらしい。直島の製錬所は三菱マテリアルの経営で現在も稼動中である。


 先ほど説明した写真展(館)、入館無料。中はあまり広くない、20坪ぐらいか。


 写真の竪抗櫓は1/4ページ目の小さな竪抗櫓とは違います。今はもうありません。


 昭和18年以降は蓄電池の更新が難しい・・・云々とありますがこれはやはり戦時中で物資不足ということなのでしょうね。












 写真左下部分のレール(うすく白く写っているもの)が現在の県道だ。この県道を写真の奥の方へ行くと観光坑道「宗太夫抗」と大立竪抗に行く。


                             上の写真
 学生時代の社会科の教科書に確かあった写真だと思う。見覚えがある。V字型の割戸のちょうど真ん中だ。長い梯子と作業中の鉱夫と向こう側に鉱山事務所らしき建物が写っている。どうもこの建物のあたりが高任地区らしい。


                           下の写真
 この写真も昔、見覚えがある。多分教科書だと思う。こちらはフンドシ姿の男の鉱夫が3名、一人はハンマーとタガネで堀りその後ろに掘った鉱石を拾う人?、左にほっかむりをした抗夫が板の足場を渡ってくる姿、というシチュエーションのようである。明治20.年(1887年)頃はこんな採掘風景だったようである。



 鉱山内を流れている川のトロッコ用トンネルの付近にこんな何かの基礎様の物が。他にそれらしきものはなかった。いったい何だろうか。




 これは金山跡から北沢地区に行く途中の集落にあった鉱山関連施設の跡。北沢選鉱所はM写真の雑草の向こう側に位置する。つまりこの雑草の向こう側は谷(ここからは北側になる)になっており、そこが選鉱所のあった斜面だ。上からのぞきこんで見ようとしたが丈の高い草が一杯で全然見えなかった。この3枚の写真は人家の裏庭で、たまたま道を聞きに入った家の方がご親切に色々と教えてくれた。L写真の青いポリバケツを持った足だけ写っているおじさんとその奥さんらしき方がその方で話によるとこの辺のこういったコンクリート製の土台らしきものは全部かつての鉱山関係のものでこの写真のものは高任地区から電機機関車(直流)で鉱石をここまで運びここからすぐ下の北沢選鉱所に鉱石を落としていく。そのための場所だったらしい。なんでも家を建てる時、鉱山施設の基礎が地中深くあるため家の基礎が作りにくく一部、当時の基礎をそのまま使った箇所があるとか。なるほどね。


・南沢疏水坑


 南沢疎水抗。ちょっと場所は分かりにくい。近くまで来て聞いたほうがいいだろう。写真の坑口は人家の玄関口の前にある。道路からはこの階段を下りてくる。すぐだ。上の案内板が小さな四辻のかどに立っている。


・無宿人の墓


 佐渡金山では罪人の抗夫はいなかった、と言うが。ここで言う”無宿人”がどういった立場の者かははっきりしないが”。・・・失職、流浪の果てに・・・”とあるが嘉永6年といえば1853年、幕末である。確か黒船が浦賀に来た頃ではなかったか?日本全体が混沌としている時代だったと思う。そういう時代に佐渡では坑内の水替え人足が不足し全国から「無宿者」と言われるもの達がつれてこられる。無宿者というと聞こえが悪いがその実態は果たしてどういう人達だったのだろう。必ずしも”罪人”ばかりではなかったろうと思う。幕府直轄の金山なのだからその気になればたいがいのことは出来ただろう。

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