丹生水銀鉱山  三重県多気郡多気町丹生   (1/2)       
               にゅうすいぎん  こうざん      訪ねた日:2008.02

いきなりですが 
クイズ、その@

さて、下の写真の物は何でしょう?
ただの錆びて朽ちた鉄屑なんて言わないでくださいね。


正解者には水銀をペットボトルに一杯プレゼント。
                     (なんでやねん・・・Σ(゜Д゜;))
  アァッ、!答え言うてしもた。 
(全部冗談ですよ。念のため)



 しばらく鉱山めぐりを我慢していると何かアタマの中がムズムズしてくる。しばらく・・・と言ってもそれほど長くではないが。今回は全行程を高速を使わずにシタで行くことに。ターゲットポイントは伊勢自動車道の「勢和多気IC」の近くなので高速で行けば楽なんだが財布の中身が・・・トホホッ。 (;_;) 状態なので。
 と言うことでムズムズ頭を直しに(ほんまかいな?)行ってきました。


 水銀(元素記号:Hg、原子番号:80、比重:約13.5)の歴史は古いしまた使用範囲も広い。。一般には縄文時代にはすでに顔料として使われていたと言う。顔料とは簡単に言うと塗料だ。その各種の色の元になる物質だ。水銀はその原鉱石である辰砂(朱砂)の赤っぽい色を利用して赤の顔料として使われていた。水銀と言えば私などは水銀温度計ぐらいしか思いつかないがあの銀色の光沢のある液状のものが元は赤い石ころだったなんて自然て実に不思議だと思いませんか?と同時に古代人って直感力や観察力、洞察力がすごいんですね。他にも用途としてはたくさんありますが特に古代中国では”不老長寿”の薬としてもつかわれていたことはもう常識ですね。当時、埋葬された古墳などの骨から高濃度の水銀が検出されている。ちなみに誰もが知っている「秦の始皇帝」も水銀を服用していたと言う。日本でも時の朝廷周辺の人々は愛飲していたらしい。
 話は変わるが小さな切り傷などケガをした時に最近はバンドエイドを貼ったりスプレー式の物で傷口を保護したりするが昔は赤チン(正式にはマーキュロクロム液)を塗っていた。(私は今でも持っているが) この赤チンに今は入っていないがかつては水銀が入っていた。子供心に赤いのは何となく納得したがキラキラ光る物があり”何かな?”と思ったことがある。たぶんそれが水銀だったのだろう。

 金属鉱物の製錬でこれほど便利なものはほかにあまりない。ただし毒性を除いてはだが。第一に入手が比較的に簡単。そして多くの金属と溶けやすい性質がありアマルガムを造りやすい。沸点が低く(約350度ぐらい)分離(精錬)がたやすいなど考えようによっては精錬にうってつけの金属である。(ただし日本では現在は水銀は使われていない) 東大寺の大仏さん建立時の金メッキで大量の(丹生鉱山)の水銀が使われたことはあまりに有名だ。大仏にメッキ(鍍金)の金を定着させるために人足たちは手に持っている松明を近づけてその火で水銀を蒸発させた。当然顔は松明より下に離さないと蒸気を吸い込んでしまう。そういう注意はされたとは思うが(この時代には水銀蒸気の有害性はわかっていたのだろうか?)何せ時代が時代だけにどの程度のものだったか。察するに相当の水銀中毒犠牲者が出たことだと思う。

 話がながくなってしまったが歴史を簡単に記しておこう。
・縄文時代か旧石器時代にはこの辺りで辰砂を採掘してそれを元に土器を造っていたらしい。周辺の遺跡から当時の土器の破片がみつかっている。ただ辰砂を土器の材料として使っていたのは分かるが水銀としてではないと思う。
・丹生鉱山で辰砂から水銀を取り出しのはいつからなのかよく分からないがこのページのテーマにもあるとうり奈良時代にはすでに始まっていたし最も出鉱量が多かったのもこの時代だ。後に江戸時代に入って採掘を試みたが失敗。1930年代半ば頃に入って北村覚蔵氏らによる写真の製錬装置が出来、生産も一旦は順調に進みそうに見えたがその後しばらくして没後の北村氏を継いだ中世古亮平氏も1956年に採掘をやめてしまった。
・1968年に大和金属鉱業(現、野村鉱産)が事業を継承し機械化もして本格操業を始めようとしたがまもなく1973年、閉山した。閉山理由は周辺の川の汚染とか鉱量の枯渇とかいろいろ言われたが真実はよく分からない。この後再開したという話は聞かない。







 奈良県を東西に走っている大和高田バイパスからR166(このあたりは伊勢街道)をドンドコドンドコ伊勢方面に。雪で通行を危ぶまれていた高見トンネルもその前後は雪が結構あったがなんとか無事通過。出発前には雪がなんとか行けそうだったら旧高見峠に行ってそこから大断層の”月出の路頭”方面を見たかった。ネット情報によると天気さえよければ断層の様子がわかるらしい。でもいざ行ってみると”あぁ、こらあかん!無理や”とあきらめを即決。でもそのとき見たが雪の中にまだ新しいRV車らしきタイヤのわだちがあった。”ムムっ、やるな!!”と思い多少悔しい思いを残しながらトンネルを通過。長いトンネルだった。ちなみにこの高見トンネルの真ん中が奈良県と三重県の県境。旧峠はまた次回のチャンスに。R166をそのまま東進。しばらく行くと右に波瀬小学校がありもうちょっと行くと「桑原交差点」がある。そこを左折すると(あるいは行き過ぎてもすぐに「月出口」という交差点がありそこを左折してもOK。先で合流する)”月出の大露頭”だが中央構造線の方は次のページに委ねる。
 R166(このあたりは和歌山街道)をまだまだ東進。しばらく行くと”粥見”でR368と合流する。ちなみにここが次ページの”中央構造線粥見観測地”である。ここからR368に乗り換えて伊勢方面に進む。しばらく行くと櫛田川にかかっている”勢和大橋”に着くが橋の手前(朝柄交差)を右折してそのままR368を進み伊勢自動車道の”勢和多気IC”方面に。するとすぐに「古江」交差点があり左折。そのまま直進してしばらく行くと丹生大師(神社)と上の写真のふれあいの館の前に出る。
 後になったが場所は伊勢自動車道”勢和多気IC”北西約3キロの地点。Or、JR紀勢線”佐奈”駅西方約5キロの地点。


 L写真の道がR368から分岐してきた道路だ。目印の丹生大師とふれあいの館は郵便局のすぐとなり、撮影者の後ろ側だ。
 道路に出てこようとする白い車のバックにある白い看板がR写真の看板だ.ここに”丹生水銀鉱山へ、左へ700M”とある。さて私はふれあいの館に車を駐車してそこからあるいていく。実際にはもうちょっとむこうまで車でいけるんだが健康のため?歩きましょう。


 どんどん行きます。ところどころにLのような標識があります。なんとなく粗末と言えば粗末だがでも私にはこれで充分。これがあるために迷わずに行ける。15分ぐらい行くとM写真まで来る。写真真ん中の看板がRのものだ。ここまで来ればもう大丈夫。あともうちょいだ。


 看板の矢印どおり入っていきます。Lが看板から奥側を見たところ。Rは木々の中に入っていったところ。それほど大きな山ではないですね。すぐに二又に分かれます。写真の標識どうり左方向に行きます。帰りに試しに右にも行ってみましたが途中、かなり古い坑口らしきものが藪に隠れてほぼ垂直(パッと見ただけなので斜坑かも?)にありましたが詳しいことは分かりません。
 今回の本丸の精錬施設と坑道は左の道の先、もうすぐです。


 左、「水銀製錬装置」。
 右、「水銀鉱跡」。
(そのまんまやないですか?!)



 水銀の製錬装置です。何年か前までは屋根も何もなかったようです。
 ここの保存状態はまあまあですが上の案内板など紙に印刷した上からビニールを貼っているだけなのでもうすぐ文字も読めなくなるかも。それほど予算が削られているんでしょうか。、こういうあまり観光収入の見込めない産業遺跡はやはりこれでも精一杯なんでしょうね。


 上の説明板によると3本の鉄管様(手前向きに口が向いていて石灰らしき白いものが残っているパイプ)のものに辰砂と石灰を10:1ぐらいの割合で入れてその下にあるかま(上の説明では”左の炉につめたおがくず云々・・・”とあるがそれが下の写真のことだと思う)で火を燃やす。すると熱せられ気化(ガス化)した水銀が最上段のクイズの写真の縦長の鉄パイプに入っていき次第に冷やされてその下の漏斗のような部分に集まる、という理屈ではないのだろうか。尚、ここで液化しきれない分が左の斜めのちょっと細いパイプを伝わり左下に流れていきそこで収穫する、という理屈なんだろうがその辺がちょっと私には???だ。


 これが上の写真の三本の鉄管のすぐ下に設置されていたかま。ここでおがくずを燃やしていたのだろう。



 左側のちょっと写っている屋根が精錬施設。説明板奥の左手が下の写真の”昭和〜坑道”と”古代〜坑道”だ。この日も誰〜も居なかった。途中、ちょっと人の声がしたのだが振り返っても・・・・誰もいない。ウン?幻聴か?マ・サ・カ・ネ。にぎやかな子供たちの声だったけど。(オイオイ、ここは心霊スポットじゃないよ。そんな話聞いてないよ。もちろん昔の鉱山だから今じゃあ考えられないようなひどい労働環境でおびただしい犠牲者もあっただろうけどね。)
 上が拡大写真。



 昭和坑道と古代坑道の前の広場にあった案内板。


画面中央より・古代水銀坑道←:→ 画面中央より・「昭和水銀坑道」
 何故か古代坑道と昭和坑道が隣り合わせに。江戸時代にも採掘はしていたが今回、その頃の坑口はうっかりして探すのを忘れていた。帰ってから思い出した次第だ。ハズカシイ〜・・・
 なぜ古代と昭和が隣同士なのかは分かりませんが古代の方は斜坑状態らしいが中でどこかでドッキングしているのかも分からない。
 山の地表面と坑道とはそれほど離れていない。ものの数メーターか。


 昭和坑道の鉄パイプにぶら下がっていた坑道の案内図。案内図といってもご覧のとうり入れないけど。写真左手に”坑口”とある。ここが現在地だろう。
 
 丹生水銀鉱山は昭和時代にはあまり水銀は採れなかった。精錬装置を考案したという北村覚蔵氏等も、またその後の経営権を獲得した大和水銀鉱業もたいして水銀を生産したという話は聞かない。最も大和〜の方は途中で公害問題その他で操業中止したのだが。そのせいかどうか写真の案内図も思ったよりは坑道の延長距離が長くない。
 ここの採掘が最も盛んだったのはやはり”古代”の奈良時代だろう。東大寺の大仏建立で日本全国の銅山から銅をかき集めて(一説によると山口県の長登銅山の銅が砒素の含有量が多く当時の精錬技術ではかなりの砒素による犠牲者が出たと思うが逆に大仏建立では銅の溶解温度が低くてすむため長登銅山の銅を多く使ったという。 《箒(竹かんむりがない)木蓬生氏著の小説「国銅」で長登銅山のことが書かれておりその中で砒素のことも書かれている》 理由としてもうひとつは瀬戸内海を利用した大量海上運輸送があると思う。)その量約500トンとも言うが最後に金メッキの段階で金と水銀のアマルガムをつくりそれを大仏に塗って後で高温で熱して水銀だけを蒸発させる。そのための水銀の大部分をここ、丹生水銀鉱山から供給したという。地理的にも奈良と伊勢という比較的至近距離だったこともある。水銀は何故か中央構造線と言う大断層の周辺からよく採れる。


 二枚とも奥へ上がった所で見つけた古い坑口らしきものです。R写真は坑口かどうか自信はあまりありませんがL写真は九分九厘そうだと思います。他もさがしましたがこれぐらいですね。あまり奥まで行って迷子になってしまっては洒落にもならないのでほどほどで戻りました。


    丹生水銀鉱山の巻はここで終わりです。次は”月出露頭”のページです。  
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