長登銅山    2/3      






 千人間歩製錬跡から大切四号坑へ行く途中。分かりやすい。





こ れ よ り  大 切 竪 坑 跡



 L写真の藪の中(中央黒っぽい部分)が明治から大正にかけて稼動していた大切竪坑跡だ。今は見たとうりなにやらさっぱり分からない。
 R写真の柵の左部分が跡だ。


 右の窯の焚口のような穴は大切竪坑でゴンドラを上下さすための何かだったと思う。ちょっと忘れました。
 L写真には、明治40年〜大正8年、と書かれている。





こ れ よ り   大 切 製 錬 跡


 発掘調査でこんなカラミが出てきました。すごいですね。なんかつい最近のそれのようですがやはり1200年も昔のものと聞くとなんとなく後光がさしているような・・・・・。


 ここは大切精錬所跡だがこの長登は銅鉱脈が有望だったせいかあちこちに精錬所跡がある。当時の製錬装置の規模が技術的にどうしても小さかったためなのかもしれないが、そして奈良からの”銅を送れ”指令が頻繁だったのかもしれない。



 ここが大切製錬遺跡です。広さはそうですね・・・(四畳半以上は分からない小生ですが<笑>)平地だけで1000坪ぐらい?でしょうか・・・。もっとかな?、スイマセン、ヨクワカリマセン。
 学芸員の方が立っている足元に無造作にカラミが埋まってました。


 ここは製錬の体験場ですがたぶん;古代の”古山製錬跡”だと思います。出来ればちょっと製錬の真似事だけでもやってみたかったが今回のメニューにはなかったですね。ザンネン。


 ちょっと分かりにくいが一輪車の下に古タイヤで囲った工作物がありますがこれが製錬時に窯に空気を送る「たたら」(エアポンプ)です。その上に鳥居型に丸太で組んだものがありますがそれにつかみながら片足をたたらの上に載せてギッコンバッコンと対面同士二人で交互に空気を窯に送るわけです。(下に写真あり)


 L写真:製錬炉のカット模型。赤いのは銅鉱石、茶色は褐鉄鉱、黒いのは木炭、白っぽいのはなんだっけ?
 褐鉄鉱は何でも溶媒として使うとのこと。手前の穴から溶融銅が出てくる。




 亀山坑坑口。
Lは外見。Rは近づいてUPで撮ったもの。斜坑になっている。





こ れ よ り   長登銅山跡資料館


 資料館の中にあった各種の石。まだ未整理なのか置き場所がないのか?


 一度自分でも実験してみたいですね。どんな風になるのか?出来れば寒〜い冬に。ダメ?
怒られそう・・・


               長登の鉱物
 ここ長登は秋吉台の東端にあります。秋吉台は約3億年前(古生代石炭紀)に出来たサンゴ礁ですがこれが日本列島をか形づくる頃、約1億年前(中世代白亜紀)に地下のマグマが噴出して長登に花の山が誕生しました。この時に石灰岩とマグマ(花崗斑岩)の接触部分が熱で変化を起こし金、銀、銅、鉛、コバルト、鉄、など多くの鉱物が出来ました。長登鉱山は典型的なスカルン(接触)鉱床として有名です。長登は銅山としてよく知られていますが山(さん)神社の南では平安時代に遡る日本最古の鉛の製錬跡も見つかっています。また花の山の南の烏帽子坑は明治41年に日本で始めてコバルト鉱を産出したことで全国的に有名です。その他、北平坑では褐鉄鉱をたくさん産出しその付近は江戸初期頃銀も産出していました。
                長登の緑青
 緑青は鉱石から作られる絵の具(顔料)として古代より珍重されて高い値で取り引きされていました。緑青の製造地は全国でも数少なく奈良・平安時代には長門の特産品にもなっていました。長門では匪(木ヘン・かや)ケ葉山の山腹の大切、滝ノ下に古代から銅鉱石を採掘するために坑道が縦横に掘られていますが、その坑道は一部鍾乳洞となって石灰華((せっかいか)や緑青が付着しています。江戸時代にここで採取された孔雀石から、全国的に有名な「滝ノ下緑青」が製造され岩絵の具(顔料)として売られていました。江戸時代末には年間売上げ5000両を記録した年もあり明治時代には緑青製品が手の平に一杯で呉服反物4〜5本になったともいわれています。また狩野芳崖をはじめ森寛斎や松林圭月など山口県出身の画家が好んで使い優れた作品の背景には滝ノ下緑青の存在があったとも言われたいます。尚地元では昭和25年頃まで製造されこの道具は全国的に貴重な民具となっています。


         ならのぼり(奈良登
 奈良の正倉院にある丹裏(たんか)文書(丹の包紙に再利用)に長門から奈良まで18トン弱の銅が20日かかって運ばれた記録があります。その記録には舎人とねり(役人)2人、狭しょう(かじとり)4人、水手(こぎて)16人の合計22人が記録されているので船2艘で運ばれたことが分かります。船はたぶん小郡から厚東川河口付近の間の港から出航したと考えられ瀬戸内海を東上して大阪湾に至りそこから淀川、木津川を遡って木津から陸路で奈良坂を越えて奈良盆地に入ったと思われます。この運送に駆り出された人々は行きの賃金、食料は支給されたのですが帰りは自費でそれも歩いて帰らなければならなかったのです。大変な宅急便だったと言えます。
             奈良の大仏
 今から約1.250年前の国内は天変地異相次ぎ飢饉や伝染病(天然痘)、盗賊が多く発生していました。天平15年(743)に聖武天皇は世の中が安定し国が平和になるようにと願い大仏(虜遮那仏・るしゃなぶつ)を造ることを発表しました。そして国中の銅を掘りつくし一枝の草、一握りの土を運ぶことを国民に要請したのでした。745年に工事が開始され747年には大仏の鋳造もはじまりました。大仏は11年の歳月をかけて757年に大仏殿とともに完成しました。用材運搬から大仏鋳造、大仏殿の建立までに動員された人は延べ2.603.638人にも達しこれは当時の人口の約半分に相当します。奈良時代の大仏は高さ16mで現在よりも1m高く大仏殿も正面間口が今よりも四間(23m)も広く壮大なものでした。まさに国家の平和と繁栄、そして権力をかけた一大事業であり技術の粋を結集した世界一の鋳造仏となったのです。



 たたらを使った当時の製錬実験ですね。暑そう・・・



 Lは製錬実験で出来た粗銅?
まあ粗銅というにはちょっとムリがあるがまあいいでしょう。
 Rはカラミです。溶岩のように見えるものが銅ですよ。



 奈良時代当時の製錬の様子を描いたイラストである。この図では整然とやっているように見えるが実際にはこんなものではないだろう。たたらにしても一度、火入れすると銅の場合は約1100度ぐらいまでは上げないと融点までいかない。現在なら1100度ぐらいなら難しくはないだろうが足踏み式のたたらだけの当時では温度を上げるだけでも相当に大変だったと思う。おまけに上げるだけではダメでその温度を一定時間、維持しなければ鉱石内の銅分だけを取り出すことはかなり難しいだろう。資料によると当時の木炭で早朝から交代で休みなくたたらを踏み続けてその日の夜までかかるらしい。と言うのも火入れは現在の製鉄所でも同じで一度、炉に火を入れて一定の温度まで上げるのにだいたい3日〜1週間ぐらいかかる。そのための費用も相当かかる。だから盆も正月もなしで例え人は休んでも炉は消さない。だから普段のメンテナンスも火を消さないで出来るように設計されている。ではいつ消すのかと言うと聞いた話では何年かに一度は耐火煉瓦の交換などどうしても消さないと出来ない修理などがあるらしい。それと長期間の不景気(短期間だと消さない場合もあるらしい)などで売れずに在庫過剰(バブルの時のように)などの場合。 だから製鉄所や製鋼所が炉の火を落とす、と言うのは大変なことなんです。話を元に戻します。
 
 ですので当時の製錬は朝から夜までやって火を一旦消してその日は終わり。そしてまた翌日同じことをやる。その:繰り返しであった。これは長登銅山内で製錬するときももそうだったしまた奈良で大仏を鋳造の時も銅を溶かすのに同じことをやった。何でも人足たちはたたら踏みをあまりやりたがらなかったらしい。一日中単純運動で疲労も半端じゃなかったという。そして疲れると必ず事故をやる。想像だが当時も相当の犠牲者があったことと思うが。



     酸化銅鉱石(孔雀石)
 銅分の含有量の多い鉱石。サビが緑色を呈し光沢もあり孔雀の羽に似ることから、孔雀石とも呼ばれる。銅や緑青(岩絵の具)の原料。




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