長登銅山  山口県美祢郡美東町長登   1/3     
                    ながのぼり どうざん          撮影日:2008、6月  



 今回の”鉱山めぐり”の最大の成果かも・・・?  
 ヘデン輝石です。筆者はあまりよく知りませんでしたが何でもこんなに大きな固まりの結晶は珍しいらしいです。手に持っておられる学芸員の方は”資料館に展示します”と大変に喜んでおられました。ハンマーで叩いた跡のように光って見える放射状の部分がヘデン輝石の結晶らしいです。  




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 今回、山口県は長登(ながのぼり)銅山に行ってきました。ここの銅山は前からあることがきっかけで奈良の大仏っさん建立にたくさんの銅と人足を提供したというのを知り何となく、一度行ってみたいな〜、と思っていたところタイムリーにも地元の研究会で地質めぐりという名のセミナーをやるとのこと。オォッ!こりゃいい、是非行かなければ、と思い申し込んで行ってきました。
 いざ当日行ってみると”こんなマイナーな趣味の持ち主なんて少数だろうな・・・”と思っていたのがなんとなんと40数名も。(へ〜っ、いるもんだな〜、と感心しきり) でも、ほとんど敬老会状態じゃないの?(もっとも自分もその予備軍ですが)とはじめは思っていましたがなかなか、先生に引率されて来たらしい学生が男女数名やそこそこの年齢?の女性方も数名、そして小さな子供連れの若いお母さんも参加でした。(へ〜、地質めぐりって最近、流行ってんの? 知らなかった・・・)
 
 さてここでいつものように鉱山の歴史について簡単に触れておきます。
ここも8世紀はじめの奈良時代、あるいはそれ以前飛鳥時代(7世紀後半)の発見とも言われ歴史は非常に古く詳細は定かではない。その意味では写真の標識にもあるように”日本最古の銅山”も過言ではないかもしれない。発見者は諸説あるが一応、地理的、時代的要因その他から当時大陸から渡ってきた朝鮮人or中国人による発見、と言うのが一般的に言われている説である。いわゆる渡来人説である。西暦700年頃から1960年閉山まで実に1260年という長い歴史を持った銅・鉛鉱山であった。当日いただいた資料から抜粋すると、
 
 ・8世紀中頃に奈良の大仏用の銅を大量に採掘・製錬して奈良に送る。
  (一回の船便で約18トン、それを何回も繰り返した。当然海がシケて転覆する場合もあったり瀬戸内海は海賊多発地帯で略奪されたりもあったと思う。)
 ・平安時代 9世紀頃から銅の生産が減少し鉛の方が多くなる。
 ・室町時代 14世紀〜15世紀にかけて小規模な銅製錬が行われる。(大内氏関連)
 ・同   上 大内盛見の菩提寺山口国清寺が銅山経営にのりだす。
 ・江戸時代 1600年初頭に毛利藩の直山として瀧ノ下、大切山を採掘。
 ・同   上 1600年〜1700年にかけて盛んに銅や鉛の増産に励む。
 ・明治時代 AC1900年前後頃に山陰の鉱山王、堀藤十郎・礼造等が大田鉱山、北平鉱山、烏帽子坑などを開発。 
 ・1905年 花の山精錬所開設。(最新式の蒸気・ガス発動機など近代化を図る)
 ・1908年 烏帽子坑から日本初のコバルト鉱が発見される。 
 ・1960年 野上鉱業が採掘を中止。(これで長登銅山は全て閉山。)
 ということになる。

 ちょっと分かりにくいが全体として品位の高い有望な銅鉱山ではなかったために明治以降も大企業が入ってこなかったようである。昭和に入って一部、住友鉱山が動いたらしいがすぐに退散したという。
 ’60年に閉山以降は’88年から10年間大規模な発掘調査をし貴重な木簡や製錬時の炉片などその他たくさんの出土品が発見された。それが現在の「長登銅山跡資料館」をはじめとするもろもろの銅山跡遺跡の保存運動につながっている。

 最後になったがここで銅山の鉱石と成因について若干言及したい。
長登銅山は約1億年前の火山活動によりマグマが上昇、現在の花崗斑岩の”花の山”が出現、石灰岩との接触部に接触交代鉱床、いわゆるスカルン鉱床が形成されたものである。鉱床は花の山、大切、烏帽子、大田(水溜)、箔舗、などがあり(これら全てを含めて長登銅山という)鉱物の種類は黄銅鉱、斑銅鉱、黒幼銅鉱、輝コバルト鉱、磁鉄鉱、褐鉄鉱、硫砒鉄鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、銀、ヒ素、孔雀石などなど多彩にわたる。  




・R写真:国道490から左折するところ信号脇の案内板。日本最古の銅山・・・と書いてますね?

・L写真:左折してちょっと行ったところの「左ですよ〜」との標識。ターゲットはもう目の前。この道をまっすぐに行くと秋吉台に行く。



 さあ、着きました。長登銅山跡資料館です。今回の「地質めぐり」の集合場所がここです。まだ誰も来てませんね。小生がちょっと早すぎた?かな。誰もいないので周りを探
検?してきます。なんか子供時分に戻ったような気分です。まるで”Stand By Me”の主人公のように・・・(ちょっと大袈裟かな?)





やはりこういうものもないとね〜
涼しげですね〜





 説明板がなかったが奈良時代の銅製錬の坩堝を再現したものでしょう。実験したような跡が随所にあった。


 下のミーティング場所の案内板。〜奈良の都に銅を送ったので奈良登りの地名を賜りいつしか訛って長登になった云々〜とある。


 写真右手の赤い「案内所」が上の写真の「長登銅山跡資料館」です。この地図ではなんとなく左上の「大切四号坑」まで相当の距離がありそうですがたいしたことなかったですよ。普通に歩いて約30〜40分ぐらいでしょうか。高低差もさほどなく道もよく整備された道でした。ちなみに鍾乳洞で有名な秋芳洞(現在は”秋芳台<あきよしだい>”と呼ぶらしい)はここのすぐ西側(地図の左側)に位置する。ほとんどくっついている。と言うことはここも考えようによっては秋芳台の一部だ。そのせいだろうと思うが最下段の写真のように石灰岩が地下水で溶けつつある様子を見ることが出来る。ヘデン輝石のズリ場は花の山の南側、烏帽子坑辺りだったと思うが単にぞろぞろと付いて行っただけなのでよくは分からない。


 奈良時代に採掘しそのほとんどを大仏建立に送ったと言われる最大の坑口、「大切四号坑」はR写真の正面の山(匪<木偏>ケ葉山)の中腹にある。




さあ、いよいよ出発で〜す。
先ずは”大切四号坑”に向かって


 最初の大切四号坑へ行く前のミーティング。これがこの日の全ての始まり。みんなヘルメットにリュックに長靴姿。結構な重武装?だ。ヘルメットだけは貸してくれる。


 いざ出発。L写真は千人間歩跡付近の製錬所跡。足元に若干のカラミの残存物があった。なんでも長登銅山発掘調査区域内のモノは持ち出し禁止!とのこと。カラミも含めて。ザンネン。



 緑色の岩絵の具の顔料として多用されていた孔雀石の採石地である。孔雀石(マラカイト)は今でも一部で宝石として珍重されている。最もモース硬度が3〜4と柔らかいので正式には「宝石」としての認定はされないが。
 ところで緑青(小生等が学生時代は「ロクショウ」と習ったが最近は「リョクショウ」とふりがなをうっている。ここでは小生の習慣として「ロクショウ」と呼びます)の毒性だが、実はいまだによく分からない。いろんな資料を読んではみるがどれもいまいち歯切れが悪い。ついでなのでちょっとこのことに言及する。
 小生等が学生時代は誰もが”銅のサビである緑青は有毒である”と習った筈だ。このことについては当時は誰も否定しなかった。ところがいつからか”緑青は本当に有毒なの?”と誰かが疑問を呈したようである。科学の発達にともない何事につけそれまでの定説を”はてな?”と疑問を呈すること自体は悪いことではない。むしろだからこそ科学の発達がある。それはいいのだが、有毒なの?、と疑問を呈してから随分時間が経過しているようだが今だにはっきりしないのは何故だろう。この程度のチェックが難しいとは思えないが。一説には昔は銅を初め金属の精錬技術が未熟だったため特に銅の場合、ヒ素がわずかだが残留しそれが「有毒説」の根拠だったと言う説やはたまた製錬時に発生する亜硫酸ガスを吸って中毒になったのをどこでどう間違ったのか緑青を口にして中毒になった、と言う話や挙句には見た目が毒っぽいという説までまさに”玉石混合”状態になっているようである。小生が考えるに、無毒(今は一応、無毒説が定説になっているようだ。)と考えて一番最もらしい理由はやはり「〜製錬技術が未発達故にヒ素が残留〜」説だと思うが。と言うのもこれだと昔はヒ素が残留していて有毒だったが最近になっては技術が発達して製錬もきちんとでき残留ヒ素が安全レベルまで下がった、との解釈である。まあ何となく無理やりという感じがしないこともないが。 しかしこれにしても当時”緑青が有毒”と言われるほどの残留ヒ素が果たして本当にあったのだろうか?ただ緑青を好んで口にするかと言うとそれもちょっと考えにくい。食材でもないし。むろん誤って口に入る場合いやまた何かの拍子に鼻から吸い込んで肺に入る場合もあるのでいちがいには言えないが。いずれにしろ何故こんな簡単なことがいつまでも”消化不良”状態なのかが分からない。ひょっとしてはっきり答えを出してしまうと「困る」人や企業が出てくるから?そこまでは考えすぎだろうか・・・。


 さあもうすぐ頂上、じゃなかった大切四号坑の坑口です。この階段を登った所です。この日はなんでも人数が多すぎて坑口に一度には入れないので何度かに分けて入坑だった。



 ここが長登銅山最大の坑口、大切四号坑。奈良時代に東大寺大仏建立時に使われたといわれる銅はここから大量に採掘された。作家、箒木蓬生氏著の小説「国銅」にその時の様子が描かれている。入り口は見たとうり若干、下っているがすぐにほぼ水平になる。観光用の坑道ではない(現在はまだ発掘調査の段階)ので枠組みその他は何もない。そのため足元は悪い。入ってから分かるが足元は平らな部分は何処にもない。


 内部の様子だ。奥行きは写真の奥の方に白いヘルメットをかぶって立っている方が一般者が行ける最奥部辺りになる。そんなに奥まで行けるわけではない。ほんの20〜30mぐらいか。


 Lは上にも書いたが地下水で石灰岩が溶けてきている様子。Rはグリーンの線が横に三本あるがそれが緑青である。ほとんど真上だった。



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